折り折りのくらし 85
 永井荷風と水木洋子をめぐる新資料

市川民話の会会員 根岸 英之

市川市文学プラザの「水木洋子と永井荷風」展示コーナー
 今年2010(平成22)年は、市川市八幡から、日本映画やテレビドラマなどの数々の脚本を生み出した脚本家・水木洋子(1910―2003)の生誕100年の年に当たる。

 昨年が生誕130年・没後50年の節目だった永井荷風の原作映画「濹東綺譚( ぼくとうきたん)」(1960=昭和35年 東宝)が、当初は水木のシナリオで計画されたものの、実現しなかったエピソードについては、本シリーズ第63回(2008年6月14日号)で、荷風の元に出入りした毎日新聞記者・小門勝二(おかどかつじ)の『浅草の荷風散人』(1957=同32年 東都書房)をもとに紹介した。

 そのときは、それを裏付ける水木側の資料は、つかんでいなかったのだが、その後、水木洋子市民サポーターの会会員で、市川市文学プラザ非常勤職員の石井敏子さんが、国会図書館などで、当時の新聞記事を読み込む地道な調査をした結果、興味深い新聞記事を探し当てた。

 それは、『毎日新聞』1956(昭和31)年4月30日付の囲み記事で、〈「濹東綺譚」映画に〉の見出しのもと、次のような文章が続く。

〈東宝では秋の大作として永井荷風氏の名作「濹東綺譚」の映画化を決定。藤本製作本部長のプロデュースで監督は成瀬巳喜男、水木洋子が脚色に着手した。〉

 3㌢㍍角程度のごく小さな囲み記事であるが、市川ゆかりの荷風と水木の2人の関わりが示された、私たちにとっては、とても大きな発見といえる。

 実際には4年後に、豊田四郎の監督、水木の師匠でもあった八住利雄の脚本で映画化されたわけだが、水木邸の書斎に遺された『永井荷風作品集』全9巻(1951=昭和26年 創元社)の「濹東綺譚」の部分には、水木によるものと思われる万年筆の傍線の書き入れが見られ、脚本の執筆に取りかかっていたことを想像させる。
昨年の市川・荷風忌であいさつする葉山修平氏
 この記事に先立つ『毎日新聞』1953(昭和28)年4月15日付には、「私の愛読書」として、水木の顔写真入りの記事が掲載される。

〈①ほんの名 『永井荷風全集』
②よんだとき 思いだしてはよみかえしています。
③どこがよいか 肩がこらず最初の一行から一気によめる文体、そして男女の偽りない鋭い観察を通して人生をしみじみ味わえる感銘も得がたいものです。要するに好きなのでしょう。〉

 また、水木の昭和初期からの友人の高田きみえさんは、「蝋梅(ろうばい)の家」(『海丘』第34号 2000=平成12年) というエッセイで、こんなエピソードを書き記している。

〈水木さんとの出会いは、築地小劇場の研究生になった時で、私がまだ二十歳だったから、交友は茫々(ぼうぼう)六十年をとうに過ぎている。その間の懐かしい思い出は、語り尽くせぬほど胸にあふれている。(中略) 仕事の合間に芝居見物に誘われた。ある日、これから浅草へ墓参りに行くからと連絡があって、京成線の駅で待ち合わせていると、彼女のうしろから歩いてくるのが永井荷風。ソフト帽をかぶり、くたびれた洋服に下駄穿(ば)きだったかと思う。墓参りをあとまわしにしてあとをつけると、ロック座の楽屋口へ姿を消した。ことの序(ついで)に表へ廻って座席についたが、エロ・グロ・ナンセンスを絵に描いたようなひどい芝居だった。〉

    ◇

 現在、市川市文学プラザで開催中の企画展「脚本家 水木洋子と日本映画の黄金時代」では、これら水木と荷風との関わりを示す貴重な資料が展示されている。

 5月1日には、「第2回市川・荷風忌」として荷風原作映画『夢の女』の上映と、作家葉山修平氏の講演「荷風作品に見る女性像」が開催される。

 こうした新資料が集まるのも、市川に文学プラザという拠点があればこそであろう。

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