市川よみうり連載企画

元市川市教育長最首 輝夫

豊かな心を阻む「ゆとり」の不足

『個性の尊重』が日本教育の流行(はや)り言葉のようになった。コリーノ氏もこのことに触れ「この国では個性の尊重ということが強調されるようになってきたがこれが大きな問題をもたらしつつある」という。『高い教育水準の維持』と『結果の平等』とは矛盾するものであるが(ジレンマ)、それに『個性の尊重』という目標を加えることはトリレンマ(三者択一)にする危険性をはらんでいる。なぜならば『個性の尊重』は『結果が平等でなくなること』を意味するからである。
 このことに関連してもう一つの矛盾する考え方に『ゆとり』という問題がある。もし本当に子供たちに『ゆとり』を作るのであれば『結果の平等』という目標を放棄しなければならないはずである。
 更(さら)に、この国では『ゆとり』を持つことが子供の心を豊かに育てることにつながるということにさえ気づいていないようだ。先進国の中では日本だけが『心の教育』というものを正規の学校教育の一環として実践しているのであるが、どうひいき目に見ても、残念ながら現在の日本の子供たちの心が、西欧・北米の子供たちの心よりも格段に豊かに育っているとは思えない。
 多くの日本人もそのことを感じてはいるものの、原因については『学校での心の教育不足』を指摘する。が、そうではない。むしろその原因は、『心以外の部分=知識を詰め込む部分=が大きすぎること』による子供への負担が増える『ゆとりの不足』にあるとコリーノ氏は指摘する。
 西欧・北米では学校教育としての『心の教育』は皆無といえるが習得すべき『知識』の量が少ないため、子供たちは学校で心の教育などしてもらわなくても、時間的な『ゆとり』を活用して学校外のいろいろな活動に参加することにより『豊かな心』を養うことができる。この国の教育の問題の多くは、この『ゆとり』のなさから生じているように思うとコリーノ氏は言い、最後にこの国の教育改革において特に考えるべきこととして、「学校では何を学ばせるべきか」「学校で学んだ成果についてどう評価選抜するのか」(入試制度)という二つの問題を提起している。
 この国の教育が深刻な問題を抱えているといわれる主な原因は、全ての子供たちに高すぎる学力を求めていることを除けば『トランジション』の問題、つまり、進学・就職のための『選抜システム』にあるという。
 いずれにしても、教育改革は日本人の教育についての認識にかかわる問題であるから本質論のない、その場しのぎの対策だけでは真の変革・改革はなしえないのである。日本の子供たちはこうしたもろもろの矛盾の中で教育を受けているということを考えてみたい。
(2004年7月2日)

教育の理想と現実トップへ
作物作りと子供の教育は同じ

「作物を作ることと、子供を育てる(教育)ことは同じだよ」。農業を営む人々がよくいう言葉である。ここに来てわずか一〇eほどの耕作をしているだけであるが、三年経った今この言葉を噛みしめている。「農業は土作り」(子供時代の教育環境)とよく言われるが確かに八〇〜九〇%がこれで決まる。
 水はけ、保水、呼吸などが根張りに強く影響するし、植物によって肥料分の含有量を変える必要もある。後は生育過程で作物にどれほどの愛情を持って係われるかである。日照りが続けば水遣りを、長雨のときは排水に、霜、強風には被害を受けないようにと気を使う。
 最大の強敵は草と病虫害である。草は一週間も見なければ作物を覆い隠すまでに繁茂することもある。農家に伝わるこんな言葉がある。「精農(篤農)は草が生える前に草を取る、惰農は草を見てから取る」。虫に至っては植物にとって最も大切な若芽や若葉をあっという間に荒らしてしまう。その上、葉に産み付けた卵からかえった幼虫がいっせいに葉脈だけにしてしまう。病害は見えないだけにもっと深刻である。
 草も病虫害も毎日の見回りが欠かせない。虫は朝・昼・夕と巡回しても、当然のことながら目こぼしがでる。直径四aにもなって柄を食いちぎられたりんごも数個ある。これらを見ていく間に、作物に対する愛情のようなものが芽生えてくるものである。
 最近、大農家で後継者不足のため都会からの若者に農業を引き継がせるということが全国で見られるようになった。長野県でもいくつかあり、大学を出たばかりの女性の例がテレビで紹介されたことがある。三ヘクタールほどの耕作を任せられ、全てが一からのスタートで苦労の連続であったようであるが、二〜三年もするうちに作物に対する愛情のようなものがわいてきたという。そうなると、作物が元気かどうか、今、何を求めているかがわかるようになり「すごく楽しく、元気になっていく様子に感動さえ覚える。とてもやりがいのある仕事に思えてきた」というのである。
 この辺の感情が教育と重なるのではないかと思う。教育の真髄を表す言葉に『?啄同時』というのがある。本来は仏教用語で「禅宗で師と弟子の心が機を得て相応ずること」からきているといわれる。文語的には「逃してはならない絶好の機会」の意である。この言葉は鳥の卵が孵化するときに内側から雛が殻をつつくのと同時に、親鳥が外側からつついて雛の誕生を助ける行為に例えて言うことが多い。
 作物作りも子供の教育も「必要としていること」を機を逃さず「そのとき」にすることが重要なのではないだろうか。そのためにも感性を磨きたい。
(2004年7月16日)

教育の理想と現実トップへ
少子化や悲惨な事件等の歯止めになるか

先頃、親しくしている大農家の長男の結婚披露宴に招待された。長男は大学卒業後に会社勤め、相手の女性も同じ会社でいわゆる職場結婚である。二人とも豊かな人間性を持ち社内外からのあつい信望がある。六年前に出会い、二人が結婚を決めた理由が「お互いの感性が同じであったから」という。この言葉に祝辞でも触れたがなぜか惹かれるものがあった。
 日本では、教育イコール学校教育との考えが主流となっているが、その考えからすれば教育は「知育」ということになる。しかも昨今では知識の習得だけを「知育」と考えている向きも一部にはある。然し、教育全体の理念からすれば「知育」はその一部を担っているに過ぎない。
 ましてや知識は「知育」の部分でしかない。「知識の習得と知性の練磨によって知的水準を高めるための教育が知育」(学校教育辞典)であるならば、単なる知識だけを詰め込んでも教育とはいえないことは明らかである。本来の教育は、「知性」と「感性」がバランスよく発達するための人間形成作用である。
 しかも「感性」は知的な作業がないと研ぎ澄まされないし、一方で「感性」がないと知性も育まれないものであるから両者のレベルアップは欠かせない。この頃よく聞く言葉に「創造性」を伸ばす教育というものがある。この「創造性とか創造力」の源は感情であり「感性」なのであって理性や「知性」ではない。この「感性」の発達には幼児期において必要な感覚刺激を、五感を通して十分に与えることが不可欠となる。
 中でも自然からの刺激が極めて重要とされる。また、幼児期における情の発達が、環境に対する意欲を高め、社会性を伸ばし、やがて「知性」となるということにも注目したい。情とは<1>物事に感じる心の動き<2>他人を思いやる心<3>真心・誠意C異性を愛する心など(国語大辞典より)である。
 情はいわば人間性の土台となるべきものであるから「思いやる心」に代表される情の発達なくしては「知性」も「感性」も育まれない。このように考えていくと、子供たちの情の発達が遅れているというデータが改めて気になってくる。
 あるデータによれば小学校五年の段階で情の発達を示す前頭葉(脳)の未発達がかなり見られるという。このことは、人間性を育む上で大きな問題であるが、人間形成の基盤となる「知性」や「感性」の発達をも阻むという深刻なものでもある。とりわけ感性豊かでインテリア・コーディネーターとしても優れた存在であった新婦は、子供を生みたいからと会社を辞めた。
 もしかしたら人間の情や感性の豊かな発達が、出生率の低下や低年齢による悲惨な殺傷事件の歯止めになるのかもしれない。
(2004年8月6日)

教育の理想と現実トップへ
登山マナー・自分本位の大人とさわやかな中学生

しばらく休んでいた登山を今年から再開した。理由は友人の一人が一度登山経験をしてみたいと言い出したことによる。十九歳の時に高山植物と岩石調査を目的に、大学の登山部に連れられて登ったのが西穂高岳。以来、山の魅力に惹かれ毎年、登るようになった。
 ところが、ここに移り住んで毎日のように山を見ていると、不思議なことに登りたいという意欲が薄れてくる。何時でも行けるという安心感かそれとも山の傍にいる満足感なのか。地元の登山愛好家の知り合いも何人かできたが、皆その気持ちは分かるという。そういいながらも新しい山を紹介し、実際に歩いてルートの下調べをしてくれるなど、登山を勧めるのがいともおかしい。
 そんな経過の中で三年目にして実現した登山である。途中、多くの中学生と出会った。いずれも夏休み前の体験学習として計画されたものだという。ただ学校により頂上小屋泊もあれば日帰り、途中折り返しなど様々だ。中には背負われて登る者、ゆっくりペースのグループありで体力に合わせた登山である。今回、強く感じたことは生徒の挨拶を初めとした登山のマナーのよさであった。
 登山道は一本のことが多いから、登り下りともに同一方向に行動していると追いつ追われつで、何回も同じ人に会うことがある。そのたびに挨拶を交わすことになるのだがだんだん親しみを増し、人間的なふれあいが深まってくるものである。同様に中学生ともいろいろと話ができ楽しかった。
 登山のマナーは大別すると自然を大切にすることと、登山者を思いやることの二つになる。後者は声をかけ励ましあう、助け合う、登り優先で道を開ける、疲労や病気の人への気遣いと対処、水場を汚さないなどがある。このほかベテランともなれば後から来る人が歩き易いようにと、石や木片を道横に寄せることなどもする。このようなマナーは先輩から教わるか、現場で登山者から学ぶものであったが、今では学校で学ぶより他はないようである。
 しかし、学ぶ機会の無い人たちの登山マナーはどうなのか。その答えが大人たちの登山言動の中にあった。挨拶なし、下り優先、道中に座り込む、山小屋での消灯後や早朝の大声、足音など全てが自分本位。水場に排泄をする者さえいる。これでは登山者からマナーを学ぶことはできない。社会の秩序はかろうじて学校だけに残っているといわれたのが、今から二十年前のこと。そして今、マレーシアの前首相は「今の日本人から学ぶ(まねる)ものは無い。健全な文化、社会は崩壊し人々の良き価値観は失われてしまった」という。残念ながら今回の登山からはこれらの考え方を否定できないように思う。
(2004年8月20日)

教育の理想と現実トップへ
登山の教育的価値

登山を初体験した友人から便りが届いた。
「未開拓の山登りという体験は人生の大きな礎となりました。この体験は私の中に潜む心情や精神の隅々までも活性化し一人歩きしております」
「金色に輝くご来光にまぶしいほどの神気を感じました。雨や嵐、雲などの自然現象とは違った透明な“純”なもの所謂“絶対善”の存在がありました。今、頭をよぎっているのは私が見たり聞いたりした古今東西の名品や名作のこと。それらの中にも一部純な存在があり、通常『神域に達した』や『神が降りた』と表現されています。スポーツの世界でも聞いたことがあります。一方で子供たちが無邪気に遊んでいる姿や青少年が夢中になっている表情、大人が汗水流して働く生き様。何も意識しない自己を捨てた本来の『ひと』が窺えます。太陽は恒常的に回っています。それだけ。自然の摂理なのです。『自然が自然のままに自然にある』このように行きつきました。人の心のように変わりやすい山の天気、ひたすらに咲く可憐な花々、渋い石群などなど。多くのことを学びました。これらの方方からエネルギーを頂き、私も自分の未熟さを知り純なものに近づけるよう励みたいと思います」
普段から知見豊かな友人と思っていたが、たった一回の登山でこれだけのことを感じ、深く考えられる感性・知性には敬服するものがある。勿論この文章だけからも多くを感じとることができるが、言葉(知性の一部)を支える感性が豊かでなければ人を感動させることはできない。
「ご来光の感動は言葉では言い表せないものがあった」「太陽が神々しく見えるのはその前に漆黒の闇があったからではないか」等々のやり取りからもその感性の豊かさを感じ取れる。彼のこの感性は子供時代に過ごした田舎の自然が育み、その後の生き方によって更に磨かれたようだ。
 その彼は言う。「登山は子供のときに体験させたい」と。同感である。登山のもつ教育力は昔から多くを言われてきたが、暮らしが豊かになり便利で楽で生活に楽しさだけを求めるというような近来の価値観の変化のなかで登山の教育的価値が忘れ去られてきた。
しかし、このような社会の中でも教育計画に登山を取り入れている幼稚園がある。確か、谷川岳登山で何年も継続していると聞く。一つ間違えば命にかかわる登山をあえて幼児教育に取り入れているのは、その価値の大きさを知っているからである。園では、登山を通しての人間的成長には計り知れないものがあるという。きっと子供たちは感性、知性を豊かに育んで大人になっていくことであろう。友人のように。
(2004年9月3日)

教育の理想と現実トップへ
感性を喪失させる「快」だけの追求

日本人の感性喪失が最近問題になっている。その原因は文明化や都市化にあるといわれる。一九七二年、動物行動生理学の研究で同種の動物同士は殺しあうことが無いという「種の保存本能説」や、生まれたばかりの雛が最初に見た動くものを追いかけるという「刷り込み説」などで世界的に知られるコンラート・ローレンツ(一九七三年ノーベル医学生理学賞受賞)は著書「文明化した人間の八つの大罪」(思索社)の中で人間の「感性の衰滅」を予告している。
 「人間の行動様式は相反的作用を持つ快感(報酬)と不快感(罰)という二つの刺激作用の影響を受け、しかもこの相反する二つの刺激作用は同時に作用する。例えば強い不快刺激を受けているとき、突然その刺激が止むと単なる不快の停止をかなりの快として受け止めるわけである」
 「また、いずれか一方の刺激だけを受け続けていると慣れによる感性の衰滅が起こる。従って、その刺激の組み合わせを絶えず変えていれば慣れによる鈍化を防ぐことができ、しかも本当の喜び、感動を得ることができる」
 「ところが、近代技術の発達によって『不快』を避け『快』を求めるということに慣れてしまった人間は『不快』に対する不寛容さを増してきている。そのため、後にならなければ『快』を得られそうも無い仕事などに励めなくなっている。とりわけ哀れな不快回避によって達せられなくなるのは本当の喜びである」
 「今日、絶えず増大している『不快』に対する不寛容性は、人生にいわば死のような倦怠を生み出す。こうした『感性の衰滅』は親子、夫婦、友人などの結びつきから必然的に生じる喜びや悲しみを脅かしているようだ」というのである。
 日本では一九七〇年代を境に、青少年を中心に感性の喪失が始まり、無感動・無気力・無関心といういわゆる三無主義といわれだしたのもその頃である。時代は高度成長期、人々は電化製品にマイカー、マイホームなどと、便利さや楽しさの飽くなき追求を続けていた。その後もパソコン、インターネット、携帯などローレンツのいう『快』刺激を追い続けている。
 では、感性の衰滅を食い止めるにはどうしたらよいのか。いうまでもなく、不快刺激に直面することであるが、『不快』回避に成功し続け『快』刺激に慣れてしまっている人間が、果たして不快に対する寛容さを取り戻せるかどうか。ローレンツも「非常に困難であるが欠けているのは天賦自然の障害であり、その克服が人間を鍛える。障害の存在を広く教えるのは教育の果たすべき課題だ」と断言する。『不快』と『快』二つの刺激が受けられ、最高の喜びを味わえる登山は、感性を取り戻すには最適と思うのだが。
(2004年9月17日)

教育の理想と現実トップへ
連帯・隣人愛が薄れゆく大都会

感性の衰滅は都市化による人口過剰がもたらす弊害や荒廃現象の一つでもあるという。ローレンツによれば「人口稠密な文明国や大都会に住んでいると自分たちが普遍的で温かい真心からの人間愛にどれほど欠乏しているかまるっきり分からなくなる」といい、「絶えず入れ替わる隣人の顔を認めることができないのは大都会に群集が詰め込まれていることに大部分の責任がある。隣人愛は大勢の隣人たちによって薄められ、ついにはその痕跡も認められぬほどになる。人間同士の接触を故意に断ち続けていくと、それが感性の平坦化現象と結びついて無関心という恐ろしい現象が生まれる。このように人口増加は孤立や隣人に対する無関心を生み出すのである」
 「『インヴォルヴ(巻き添え)されない』ことの重要性は人間が増えれば増えるほど個人に差し迫ったものになる。その結果、大都会では昼日中にしかも人でにぎわう大通りで、通りすがりの人には邪魔ひとつされずに泥棒、殺人、暴行がなされるのである。」という。日本でも似たような事件が起きているがこれはまさしく都市化によってもたらされた人間の感性の衰滅に起因しているようだ。
 その影響は子供たちの行動にも顕著に現れた。七〇年代以降次々と起きた家庭内・校内・生徒間の暴力、自殺、いじめ、不登校、そして幼児・友人殺傷事件など社会問題化したものだけでも数多くある。これらがいずれも感性喪失による人間関係の未熟さが根にあるものだとしたら子供たちにとってこんなに不幸なことはない。
 今、大人社会の最大の関心事は学力にある。学力の低下が叫ばれると官・民、国・地方そしてマスコミを問わず侃々諤々たる議論になり教育の本質論とは無関係にその場しのぎの対策で一件落着となる。一方人間形成のバロメーターでもある対人関係能力の低下については議論すら避け原因をテレビ、ポケベル、携帯、ゲームなどに責任転嫁してきた。その付けが子供の行動として現れたと考えるべきではないか。
 子供が産まれ育ち教育を受け成人していく過程における社会環境は子供にとっては掛け替えの無い教育環境となる。「環境が人を育てる」というがその良し悪しはそのまま子供の人間性に反映されていく。感性豊かな大人たちの交流・連帯は子供の感性を育て対人間関係能力を高めていく。身近な大人を見て子供は育つものであるから。幼児からお年寄りまでが分け隔てなく係り合える地域こそ子供が健全に育つ地域社会といえよう。これ以上の感性衰滅を防ぎ人間愛・隣人愛を取り戻すためには連帯ある地域社会の復活以外にはないのであろう。
(2004年10月1日)

教育の理想と現実トップへ
小集団から大集団への過程

子供の対人関係能力が低下し人間関係が表層的になったといわれて久しいが今もって改善の兆しが見えてこない。それも其の筈、発達過程における教育環境に問題があるため健全な発達ができないでいるのである。一般的には一歳に達した頃から他の子供への関心が生まれ、二歳前後からお互いに係わりをもて二人遊びができるようになる。
 四歳ともなれば三人以上でのグループ遊びもできるようになり友人関係が出来上がる。従って、この時期に必要な教育環境を用意できなければ対人関係能力の健全な発達がないまま小学校に入学することになる。つまり対人関係能力未発達の子供がいきなり大集団の中に放り込まれるわけだから戸惑うこと必至である。
 本来、児童期になると仲良しグループやスポーツグループができ、人間関係も一対一の関係から集団としての人間関係に広がりを見せるようになるが対人関係能力が未発達のままではそれもままならない。どのグループにも属さず孤立するようであれば不登校や非行につながることにもなる。この時期、グループに属するか否かは人間形成への影響が大きいといわれる。
 ところで、児童期にはギャングーエイジといわれる発達上の特徴があるが最近では見られなくなったという。数人の同性・同年代の結束の固い閉鎖的な小集団であるが、様々な社会的知識や態度・技能をはじめ対人関係などを学習する、いわゆる初期の子供社会としてガキ大将グループと共に重視されていた。
 子供が人間として成長発達する過程で必ず通過しなければならない自我の発達による反抗期(二〜四歳の第一次、十二〜十五歳の第二次)の消失とあわせて喜ぶべきことではない。子供の成長を依存から自我の確立へと変容していく過程であると見るならばこれら現象の消失は発達の遅れを意味する。ギャングーエイジの時期が遅れたものが暴走族だという説もある。
 もしかすると成人式の暴走行為もギャングーエイジと反抗期が重なったものかもしれない。いずれにしても感性の喪失であり、知識中心の早期教育や学校の成績だけに関心を持ち子供の人間的成長に目を向けてこなかった結果が発達の遅れとなって表われたものである。
 子供が人間形成をしていくためには発達段階に応じた教育環境が備わっていることが重要であり特に幼児期から学童期が大切である。そして、対人関係能力を身に付け豊かな人間関係を持つには親子の関係だけでなく同年代の子供との出会いや心の交流が必要となる。そのためにも、地域の中で異年齢の子供達が自由に遊ぶ時間と空間が保障される必要がある。兄弟姉妹が少なければなおのことである。
(2004年10月15日)

教育の理想と現実トップへ
教育環境の充実・キーワードは「任せる」

町民運動会に参加した。澄み渡った碧空の下、白く薄化粧した北アルプス、近くに見える山々の全山紅葉がまぶしい地元中学校の校庭に多くの老若男女が集結し、競技に応援に時の経つのを忘れる。今年は穂高町誕生合併五十周年という記念運動会となったが町主催としては最後になる。来年からは新しく誕生する市の運動会になるようだ。どちらにしてもこの運動会は地域住民の連帯感をより深める場と機会と捉え、子供の教育環境の充実や地域の発展に資することを主眼にした町政の最重要行事として位置づけていることは町長の言葉から推察される。
 また、それに全力で応えようとする町民の熱意も強く感じられる。今年は準備段階から係ることになったので、かなりのことが分かってきた。まず、企画・運営は全てが町民であること。行政は一切口出しをせず地域に任せる町民主体の行事になっている。これこそ本物の住民主役といえる。従って、参加の仕方は地域によって違い多様で個性的である。各地域が連帯感を深めるために知恵を出し合い、意欲的に取り組んでいる。
 それだけに応援席に見る一体感には目を見張るものがある。教育においての三大要素は先見性、多様性(選択性の前提条件)、創造性であるといわれるが、地域活動や教育活動にこれらが認められているこの地域は教育環境としても優れているといえよう。
 だいぶ前、町の教育委員会を訪ねたときにも同様のことを感じた。学校教育については各校長に全てを任せていて教育委員会は支援に徹しているという。この「任せる」というのがキーワードであり、任せられるかどうかが学校教育や市民活動の活性化、つまり学校や地域社会が元気になるかどうかの分岐になる。
 もう一つはお年寄りと子供の参加が大変多いこと、そして全ての年代層が殆ど均等に参加しているのには驚く。特に子供が会場にあふれている姿を見るのはなぜか嬉しい。関係者の話では大人の数を上回りその数も年々増加していると言う。
 理由を聞いてみると地域の各種行事に幼児の頃から参加し、皆と顔なじみになっているので誰もが抵抗なく参加できるのではないかという。幼児、小学生、中学生、高校生などと区別する考え方は無い。校門を出ればみんな地域の子供だというのだ。競技種目のハイライト、小学生から五十代以上が地域別にバトンリレーする年齢別リレーは圧巻であった。中でも二十歳前後の若者がグラウンドに地響きを立て必死に走る姿には胸を打たれた。町長の言う「やり遂げた満足感」に浸れたすがすがしい気持ちの一日になった。
(2004年11月5日)

教育の理想と現実トップへ
創造的発想を現実化

国の三位一体改革に絡み、義務教育費の一般財源化議論にゆれる中、教育など公共サービスの水準を比較する「行政サービス調査」の結果が公表された。それによると浦安市が教育部門で全国一位、総合で第三位(昨年二十四位)となった。日経新聞によると、昨年二百六十六位の太田市が総合八位に順位を上げたのも教育部門の評価の高さからだという。
 同市は小中高一貫校「ぐんま国際アカデミー」の開校や公立学校の少人数指導などの教育改革を積極的に進めているため、全国から注目を集めている。現在では子供の入学にあわせて太田市民になる人も多いという。浦安市の場合も教育に力をいれていることは、市の施策や教育関係者の話から窺い知ることができたが、こうして高い評価を得たことは、地域教育の向上に連携してきた市だけに、自分のことのように嬉しい。
 勿論、市民にとってはこの上ない喜びであり、子供たちは幸せである。五〜六年ほど前であろうか、浦安市が独自予算による教員増で少人数指導に踏み出したことが、近隣市をあわてさせ、議会等での対応に苦慮したことを思い出す。その時、はっきりと子供の教育を重視している市政であることが裏付けられたように思う。
 それからというもの、いずれは優れた教育都市になるであろうと思っていたが、一気に全国一位まで上り詰めてしまった。最近では昨年度から市立小中学校の学校選択制を導入し、学校公開をしているという。ところで、時代は「改革」ばやり、「改革」と名付ければ何でもできると錯覚しているのではと思うことが良くある。
 教育も同じ。新しいことを始めることが改革ではない。勿論、先を争うものでもない。それは教育の本質に基づいたものでなければならない。教育の根幹をなすものは「自由」である。自由が保障されて初めて教育の多様性、先見性、創造性が生きてくる。自由があるから教育の多様化が進み、選択することができる。自由があるから先見的(先駆ではない)な取り組みができるし、創造的な発想が現実化できる。
 このように教育の本質論から言えば、まずは学校選択の自由を学ぶ側に戻すべきは自明である。そのための制度改革を行政が、そして受け入れる学校側の環境整備と情報開示が同時に行われなければならない。例えば太田市の国際アカデミー、浦安市の特色ある学校づくりなどである。いずれにしても、見せかけの改革であるかないかは子供たちの将来の姿に反映されてくる。だから教育改革には先見と創造が不可欠となる。両市がこれらの要素を満たしているということは今回の評価が物語っている。地方の在るべき姿が近くに見えてきた。
(2004年11月19日)

教育の理想と現実トップへ
知性が育っていない!

人間は五感を通して自分自身の身体や周囲の環境から種々の感覚情報を絶え間なく取り入れている。人間が正確に行動したり学習したりするためには、こうした感覚情報を脳内で受容(認知)し速やかに分類整理しなければならない。このように様々な感覚の統合は高次の知覚や認知機能の発達を支える基盤として重要な役割を持つ。  従って、発達に必要な感覚刺激を十分に与えることが大切であり、それによって子供は学習を容易にする脳の基盤をつくり、環境に対して意欲的、能動的に立ち向かっていく自信を身につけていくのである(学校教育辞典)。モンテッソーリの言葉にもあるように感覚(感性)教育は知性を育てる基となるものである。
 以前にも書いたが感性と知性は相互依存の関係にあるもので、感性がないと知性も育まれない。このことが理解されていれば子供たちにどのような教育環境を用意すべきかが、自ずと分かってくる。しかしいま、子供たちは感性を育てる機会も場も与えられずに幼い時から知的(知性的という意味ではない)教育に追い込まれてはいないか。その結果として確かに多くの知識量を持つことにはなるが、その知識はテスト用であって日常の生活場面で役立つものではない。
 知識といっても、記憶されただけで経験が伴わない単なる情報なので、実際場面ではどうしたらよいかが分からない。つまり知性(思考・判断・認識の能力)が育っていないのである。このことからも分かるように今の教育は、ヒトが人としての人間的成長を遂げることを支えるものではなく極論すればヒトのコンピュータ化を目指しているといっても過言ではない。知識を詰め込みデーターとして積み上げその量を競っているようなものである。
 理論より世論の文科省は「学力低下」の声を静めるべく知識偏重に逆戻りした。それに無自覚に従う主体性の無い教育委員会と学校を見限り、子供の成長を主体的に考える人々が増えている。一例を挙げれば、法律上「学校」として認定されないインターナショナルスクール(国際学校)に入学する子供達が最近増えているという。入学させる理由としては「日本の画一的な教育では好奇心がつぶされかねない」「子供のやる気や思いやりが育たない」「子供の個性を認めない日本の教育システムでは、自分を尊重し友達を大切にする心が育つわけがない」(日経新聞から)などで教育の本質を鋭く突いている。親たちは単に英語教育ブームに影響されて学校を選んではいない。
 いずれも我が子の人間的感性を育てることを重視していると思われるが同時に現行教育制度に対する批判でもある。
(2004年12月3日)

教育の理想と現実トップへ
看過できない感性の衰退

今年もいろいろな出来事があった。その中にはこれまでに述べてきた感性の衰滅によると見られるものが数多く含まれている。このことは看過できない問題である。人間的感性とも呼ばれているように、感性は人間性そのもので「他人のことを考えられる心」ともいえる。人が社会で生きていくうえで最も重要なのは人間関係を築き上げていく能力を持つということであり、対人関係能力、コミュニケーション能力などといわれ、いずれも感性が基盤となる。他にも感性の未発達は人間に様々な影響をもたらす。
 自我の発達の遅れ、相手の立場や心情を思いやる共感性の欠如、身の回りや社会の出来事に対して好奇心や探究心を駆り立てられるということがなく、何事に対しても疑問を持ち自ら解決を図ろうとする意欲の乏しさ、言葉の貧困化、自然の神秘さや不思議さに目を見張ることがないなど多岐に及ぶ。ロ―レンツは都市化―人口過剰がもたらすものは審美的・論理的感受性の萎縮であり本能的行動様式、文化的行動様式も全てが退行しその先には文化の衰退、人類の滅亡までが視野に入ってくるという。
 人類の滅亡については「人間同士の経済的競争」はそれだけでも十分な原因となるが、更に、「現代文明の最大の危険となるものは集団的な攻撃性であり何千、何百万人という人間が集められると攻撃性は深刻な脱線を始める」と警鐘を鳴らす。そして、快を求め不快を避けることに成功し安楽に依存することが当たり前になっている人々にとっては、その危険をも感じられなくなっているのだという。ローレンツは対談の最後で「そのうちに、私の予告したことが、みな、およそ月並みなことになっていきますよ」と言っているが、その何れもが現実となってきていることに驚き畏敬の念さえ抱く。最近ローレンツの学説が再評価されているのはそのことによるのかもしれない。
 ではどうすればよいのか。今のような文明化・都市化された社会の中では、感性を育てる教育環境を社会全体で用意する必要がある。人間は直接自分の体を使い、熱い、冷たい、痛いなどの感覚経験や、喜怒哀楽の感情体験などを通して人や事物の認識を深めていく。そのような経験や体験を伴った認識なしには、他者の心情に共感できる感性は育たない。
 残念ながら子供たちの生活の中にこれらの体験や経験を満たす環境があるようには思えない。子供たちの行動様式は環境の影響を受けながら、経験によって形成されていく。それ故に行政や学校任せではなく、家庭や地域社会が子供の教育環境に強い危機感を持ちたい。
(2004年12月17日)

教育の理想と現実トップへ
望まれる人間性豊かなリーダー

「天災は忘れた頃にやってくる」といわれたのは昔の話、今では毎年のように災禍に見舞われる地域の人々がいる。今年も地震や台風・洪水などで被災した多くの人々が厳寒の中で新しい年を迎えている。各種災害報道はコミュニティーの連帯感の差が被害の状況や、復興へのパワーの差になって現れるということをまざまざと見せ付けている。阪神淡路大震災時にも同様のことがいわれたがその象徴が中越地震では山古志村である。
 あるテレビの取材報道で語った青木企画課長の言葉に山古志という村の全てが凝縮されているようであり、気迫に満ちていた。「もう、これは世界に冠たる山古志村の地域自治ですよ!」そして付け加える。民主主義というのは戦後アメリカから入ってきたというが、少なくとも農村共同体の中では自然発生的に長い歴史と伝統を持っていると思う、と。
 この地域自治が育んだ強い結束力が被害を最小限に食い止め、『帰ろう。大好きな山古志村に帰ろう、時間がどんなにかかっても帰ろう、皆で力を合わせて帰ろう』という村民の心の詩となっている。この村の人々には十六年もかけ手掘りで日本最長のトンネル「中山隧道」を掘ったという精神が今なお生き続けている。「地震が起きてみて皆にまとまりがあるというか、村というのは絆があると感じて、今まで外に出ようと思っていたけれど、自分もその輪の中に入り復旧か山古志のためになることをできればいいと思っています」と語る十九歳の青年の姿に胸を打たれる。
 子供や若者の心はこうした地域の大人たちによって豊かに育つのである。その大人たちの先頭に立つのが地震翌日、村の全戸訪問をした村長をはじめとする地域のリーダーたちだ。農村共同体には輸入民主主義ではない、日本古来の伝統と歴史に根ざした地域自治が生き続けていることに、村民が誇りを持っている。
 「ですから、二千二百人全て、全く情報の途絶えた中で本当に怪我で搬送された方は何人もいないですね。これはすごい実績だと思いますよ」。この言葉から強力な結束力を持つコミュニティーへの自負と、住民に対する強い信頼感が伝わってくる。阪神淡路大震災から今年で十年、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負った子供たちは今でも千三百三十七人が「教育的配慮が必要」(兵庫県教委)と判断されている。中越地震でも多くの子供たちや高齢者の心の傷が深いという。
 重い場合は専門家の援助が必要であるが身近な家族そしてここでもコミュニティーが重要な役割を持っている。何時も思うのだが、絆のある地域には必ず人間性豊かな優れたリーダーがいる。子供たちのためにも、このような地域を愛し住民に信頼されるリーダーのいることが望まれる。
(2005年1月7日)

教育の理想と現実トップへ
あこがれの都会に幻滅

大晦日から降り出した雪が元日の朝を白一色に変えていた。初日の出を拝んだ直後、雲の中に入ったような深い霧に一面が覆われた。やがて霧が消えると突然、幻想的な霧氷の森が目の前に広がる。視線を上げると雪晴れの青い空をバックに木々の霧氷が朝日に映える。冬の斜光が雪面にばらまいた無数のダイヤモンドを眩しく輝かせる。  十時、力強い太鼓の音が、凍てるような寒さで張り詰めた空気を突き破る。この地域伝統の「互礼会」の呼び込み太鼓である。二十三『区』の一つ、ここ『豊里区民』が町長を迎えて新年の挨拶をお互いに交わす恒例行事である。
 この時、新しく区民となった人たちの紹介がある。今年は八家族が新区民。リタイヤ組が大半であるが、移住の理由はリターン組と一致する。豊富な自然とその美しさ、それに豊かな文化である。この地で育った人と何ヶ月かをすでに過ごした人からは必ず、人の温かさが付け加えられる。今回は十七年前に二人の若者によって創設されたという『豊里青龍太鼓』の若手メンバーとじっくり話ができた。
 会に参加したのは中高生と青年男女の五名。いろいろと話す中で印象に残ったのは、生きるということに対してしっかりとした自分の考えを持ち自立しているということである。青年たちはいずれも学校卒業後、都会にあこがれて脱県を経験し、故郷に戻っている。
 隣家の三人兄弟の二人もそうであるが、訳を聞くと都会はそれなりに楽しいけれど充実感がないという。その日暮らしには便利で、しがらみもなく気楽な暮らしができるが、夢も希望も持てず、人の関係も薄く、このままではダメになってしまうと二年で戻ってきた。今は日々が充実し生きがいを感じているという。
 他の一人も同じで、専門学校に行っている途中から週三回も穂高に帰っていたと、冷やかされていた。若者たちは都会に出て初めてこの地の良さを再認識するという。中高生に対しても温かいまなざしがあった。「俺はここで一生を過ごすんだ」という後輩に「この年代はあっという間に考え方が変わるから、突然都会に出て茶髪に染め、そりを入れているかもしれないぞ」と理解を示す。後輩から見れば憧れのよき先輩だという。
 中学校の授業の一環ともなっている『青龍太鼓』は、地域の教育力を担う優れた教育環境になっている。少子化の影響もあってか、常識となっていた地方から東京へという人口移動が変化し、地元で夢の実現を考える若者が全国的に増えているという。若者が時代を先取りする存在であることは今の世でも変わらない。
(2005年1月14日)

教育の理想と現実トップへ
薄い将来への意識

「天災・人災の多発、時の流れは何か悪い方向に激流となって地球全体を覆う不気味さを感じる」「教育は暗いニュースばかり、しかも日本の教育はどこへ行こうとしているのか心配だ」というのが今年の年賀状で注目されたメッセージである。
 教育行政学の権威であり、中教審の委員を務めた或る大学院教授からのメッセージには「今こそ国家レベルで教育ビジョンを描き示す必要がある時期なのに、国家の教育責任と教育ビジョンの意義の大切さは余り意識化されていない」とあった。将来を見通せない日本の教育の現状では、人々が不安を感じるのは当然。せめて教育委員会に独自の教育理念なりビジョンがあれば多少は救われるが、文科省依存や首長追従の教育委員会では無理難題であろう。
 教育のリーダーを自任する文科省や教育委員会が、このような有り様では教育への不安を拭い去ることはまずできないであろう。展望が描けないまま学力向上だけを叫べば、子供は勿論家庭や学校の混乱を一層深めるだけである。昨年末、先送りという玉虫色の決着を見た義務教育費国庫負担金問題も結局のところ制度の堅持、つまりは国の権限維持による文科省の生き残りと総務省系列の首長主導による地方自治に名を借りた権限争いである。そのための隠れ蓑が財政論であるから、論議の中身から教育の本質は見えてこず、子供不在の政治的な決着でしかない。
 地方に任せたらどういう教育をされるか分からない旨の発言すら飛び出す始末であり、議論にならない。財政論から発想した教育改革論は何時も危ういものがある。確かに改革は財政抜きにはできないことではあるが、必要な改革も予算に縛られれば一歩を踏み出すことはできない。国庫負担金制度が廃止され、教育政策が地方主導となったとしても、現行制度のままでは同じことが起こる。地方に財源委譲をすれば、教育についての理念や見識を持つリーダーのもとでは急速に改革が進み優れた教育環境が得られるが、財源不足を理由に教育予算を削ることも可能であるから格差の拡大は不可避となる。
 これを防ぐには一般財源化という規制をはずす必要があるが、権限と財源を確保したい首長としては譲れないであろう。経験から言えることは財政論とそれに付随する権限論を切り離し、教育論から出発する改革にしなければ本当の改革とはなり得ない。以前財政逼迫を理由にした公立幼稚園統廃合の施策に対して「教育を財政論で判断すべきではない」と一蹴した教育委員長がいたが、今まさにこのような教育に透徹した認識を持つリーダーを必要としている。そして国.地方ともに行政が教育理念を持ち教育ビジョンを描き示す時期に来ている。
(2005年2月4日)

教育の理想と現実トップへ
学力低下の背景は…

昨年十二月に相次いで公表された学力低下を示す国際調査結果に、日本の教育界が激震に襲われた。とはいっても揺れの激しいのは文科省とその周辺だけという直下型。一部の人達はこれをチャンスと捉え『脱・ゆとり教育路線』を一気に加速させたいようだ。文科省は学校や教育委員会向けに読解力向上のための「指導資料」を作り、「読解力向上プログラム」を立ち上げた。
 更(さら)に二〇〇二年に続いて「全国学力テスト」の早急な実施、学習指導要領の見直し、文科相の学校訪問、国民意識調査の実施などを打ち出した。国の権限維持が目的といわれるが、もしそうだとしたら日本の教育にとってこんな不幸はない。
 問題が起これば何か対策を講じなければならないのが行政、スピードも要請される。だからといって短絡的な政策、拙速な対策であってはならない。「ゆとり」教育なる言葉が独り歩きをしているが、「ゆとり」は本来「生きる力」と一体のものである。これは戦後教育の反省をもとにグローバルな視点と時代の要請を受け、長年かけて構築された二十一世紀日本教育の在り方を示したものであり、その成果を云々(うんぬん)するには三年では余りにも短かすぎる。
 ましてや、その理由が世界のトップレベルの学力を目指すためというのには驚く。順位が下がったと大騒ぎをする大人たちに、当の子供たちは何を思うのであろうか。学力の国際順位がトップレベルかどうかよりも、今回の調査で浮き彫りになった学力低下の背景の方が問題ではないのか。
 それは子供たちの学習に対する意欲や興味の低下と、学習習慣の欠如である。十年ほど前から家庭での学習時間減が問題視されてきたが、今回の調査では中学二年生で一日平均一時間、四十六カ国中最下位となった。この結果は、学習そのものに意義を見出せないでいる子供たちに、学校や塾での与えられる勉強は仕方なくするが、自主学習はしないという学習態度・習慣が定着してしまったのである。なぜ子供の勉強離れが進んでいるのかを、多くの人が分析している。
 社会が子供たちに対して『本当の私』を性急に探すよう、追い立てている病理を指摘。本当の私に出会えという『心のノート』は最悪である(土井隆義)。子供たちの学校離れ・勉強離れは『将来に夢を持てる状況ではなくなってきたから』(山田昌弘)などがある。文科相は学校の授業時間を増やせば学習意欲が戻り、学力が世界一になるとでも考えるのであろうか。それよりも、子供たちの成長に大きな影響を与える教育環境の悪化に、もっと目を向けることが先と思うのだが。
(2005年2月18日)

教育の理想と現実トップへ
生きる力の3要素

今度は『総合的な学習の時間』や『選択教科』の削減を検討すると言い出した。学力低下対策の一環としての基礎教科の時間確保のためで、新任文科相の方針という。文科省の任務は国の教育の理念(教育の目的)遂行に必要な諸条件の整備確立であり(教基法)、具体的には『教育の振興及び生涯学習の推進を中核とした豊かな人間性を備えた創造的な人材の育成、学術、スポーツ及び文化の振興並びに科学技術の総合的な振興を図ると共に、宗教に関する行政事務を適切に行うこと』である(文科省設置法)。
 本来的には教育の目的を実現するための指導・助言・教育費の助成などサービスの任務を負っている。最も大事なことは未来に向かって無限の可能性を有する子供たちが、その資質能力に応じて人間性豊かに創造的な人間へと成長していけるように、あらゆる教育環境を整えることに腐心することである。二十一世紀の日本がめざすのは『ゆとりの中で生きる力を育む』という言葉に代表される教育で、その象徴が『総合的な学習』である。
 『生きる力』とは、変化の激しい社会を生きる子どもたちに身につけさせたい「確かな学力」「豊かな人間性」「健康な体力」の三要素からなる。「確かな学力」とは知識・技能は勿論、学ぶ意欲や自分で課題を見付け、自ら学び主体的に判断し行動し、よりよく問題解決する資質や能力等まで含めたもので、学ぶ意欲、思考力、判断力、表現力など幅広い学力を育てることを必要としている。定義からすれば、いわゆる広義の学力であり、これまでの知識偏重、画一詰め込み教育による狭義の学力ではない。
 このようにいま子供たちが必要としている学力は、生きていくために必要な学力であり『生きる力』であって、知識ではない。それは教科の時間だけでなく、家庭や地域社会での体験・経験によって学び、実際に使うことによって身に付く力である。現在、この広義の学力というものを測定する尺度は無く、『標準学力テスト』では測れない。今回の国際調査で低下したといわれる『読解力』は「論理的に議論し自分の意見を立論する力や表現力」が問われたといわれるが、このような分析がなされたのだろうか。
 単に「本を読んでの理解力」程度と考えているとしたら、大人の読解力の方が問題になる。活字離れの大人が子供の読解力を嘆き、学校でもっと本を読ませろという。一方で国は、国際調査の分析なしに短絡的に政策化してしまおうとする。このような社会に子供たちが夢や希望を見出せるとは思えない。せめて子供たちに身近な家庭・地域や学校だけでも教育の本質を忘れないでいたい。
(2005年3月4日)

教育の理想と現実トップへ
深刻な問題は関心意欲の低さ

教え子の一人から電話があった。四十六年ぶりである。東京理科大学を出て七年後アメリカに渡り、化学系の会社を創業して二十四年になるという。尽きることの無い思い出話の中で、放課後の理科実験の話がでた。そのことがきっかけで理科が好きになり、理系に進んだといわれ、子供時代の教育の大切さと責任の重さを改めて実感させられた。
 実は私自身も小学校の担任の影響を受けている。近頃、国際教育到達度評価学会(IEA)が公表したデ−タによると「子供の理科嫌いが依然、深刻な状況にある」(新聞報道)という。調べてみると意外にも小学四年生では二十五か国中第三位、中学二年生が四十六か国中第六位と堂々のトップクラスではないか。得点の変化も中学二年で一九九五年から五百五十点台の横ばい、小学四年が五百四十三点のマイナス十点ほどで、四百点未満は小中とも殆ど無い。
 この順位と点数をどう解析するかであるが、IEA調査は「子供の算数・数学、理科における計算力や知識量を択一式で問う内容」が中心であることに注意したい。
 日本の教育が目指している学力観は「生きる力」に総称される自分で課題を見付け、自ら学び・考え、主体的に判断、表現し、行動できる資質能力である。身につけたい思考力、創造力、選択力、問題発見能力など目標とする学力は測定されていないこのようなテスト結果が、一位でなければならない理由はどこにあるのか。同時に調査した教科に対する関心意欲では理科の勉強が楽しいと答えた小学生は八一%(国際平均八二%)だが、中学生は五九%と国際平均七七%を大幅に下回る。
 更に希望の職業に就くために理科で良い成績を取るかについては「はい」が三九%(国際平均六十六点)で二十七か国中二十六位。また、理科勉強への積極性は最下位、理科への自信も最下位、小学生でも二十五か国中二十三位である。こちらの方が問題ではないのか。人間の脳は情が知を支配するといわれ、脳が最初に反応するのは『好き、嫌い』や『快不快』など情動部位であるから、嫌い・不快と感じた情報は拒否され、思考脳といわれる大脳皮質が働くまでには至らないという。このことから考えても理科を好きになることが先であり、そのきっかけは早いうちに欲しい。
 そのためには自然の事物や現象との出合いを多くすることである。ノーベル賞学者ら理数科系学者十人の一致した理科離れ対策は「詰め込み教育ではなく夢中になるきっかけが重要」だという。子供が本気になって理科に取り組むようになるには、やはりゆとりが必要のようだ。
(2005年3月18日)

教育の理想と現実トップへ
教育の基本は…人間形成の助長

学校は間もなく新入生を迎え、新年度が始まる。今年はいつもと違い、目指す方向が定まらないままの船出となる。教育の本質を逸脱しつつある日本の教育に、失望と危機感を持つ教員や関係者も多い。このことを教育委員会や学校のリーダー達はどう受け止めているのであろうか。義務教育段階の子供を持つ保護者の戸惑いや、不安も少なからずある。国の教育の舵取りを担うとされてきた文科省が、担当相の代わる度に方針を変更していては国民はたまらない。
 しかも中教審は地方代表枠の対立を残したままの見切り発車、国庫負担法議論をかわそうとする目論見が透けて見える。
 穂高に来て間もなく長野県教育委員会からの原稿依頼があった折、文科省についての考え方を聞いた。幹部の話では「文科省は考えが揺れ動いているので、長野県は独自の教育を推進している」という。付け加えて「学校が元気にならなければ良い教育はできない。学校が元気の出る内容にしてほしい」と言われ、さすがは教育県だけあって教育の本質をしっかりと捉えていると感服した。比べて、文科相の一連の言行には教育についての理念も理論も感じられない。故に教育の本質と行政の役割や責任を認識している教委・学校ならば異常な文科省の動きに動じることは全くない。
 教育の目的(教基法一条)及び教育の方針(第二条)、学校教育法に定められている小・中学校の目的及び目標に従い教育を行うのが、教育行政・学校など教育に関わる大人の務めである。教育は人間形成を助長し、人格の完成を目指すものであって、学力を高めることだけが目的ではない。
 また、学習は学習者が主体的に行う行為であり押し付けて成果が上がるものでもない。大事なのは学習者が学ぶことに意義を感じ、関心と興味を持ち主体的に学習に取り組める学習環境を整備することであり、これが行政や学校、それに地域社会・家庭などに課せられた務めである。
 子供からゆとりを奪い知識を詰め込めば、子供たちの学力が国際調査でトップになると錯覚しているとしたら由々しきことである。学力低下を「ゆとり教育」や「教員の資質」に責任転嫁しようとする文科省や、教育委員会は無用の長物とする声にも耳を傾けたい。日本の教育史上全く新しい「総合学習」に戸惑いながらも、教員は必至に研修してきたし、その導入によって学校教育に広がりと弾力が生まれた。
 特に地域社会との連携が進み、学校が開かれることにより、学校を好きになる子供を着実に増やしてきている。知識偏重教育への逆戻りが再び、学校嫌い勉強嫌いの子供を増やすことにならなければ良いが。
(2005年4月1日)

教育の理想と現実トップへ
責任のなすりあいから脱皮を

隣町の町立池田美術館は安曇野と北アルプスを一望できる中腹にある。その入り口近くに、教え子の肩に手をかけ遠くを見つめる池田学問所の教師杉山巣雲の像がある。碑にはこれが教育の本質と思わせる次のような言葉が刻まれている。
 「この学問所は天明8年(1788)池田町村の長老たちが児童教育の必要性に着目し林泉寺の傍らに設立したもので庶民の学び舎である。中国から伝えられた『小学』という児童教育の本をもとに7歳から14歳の子供たちが午前6時から午後4時まで『人の生き方』を学び、習字・読書を学ぶことを主とした。巣雲の教育は高く評価されその人望は近隣地域に伝わり常時300人を超える子供達が学びその教育を通して大人たちも多く感化され、人情が厚くなり非をなすを恥じる風潮が出てきたと巣雲の『寿碑』にある」
 このような石文を読むにつけ、最近の学力低下論争を初めとした教育論議のレベルの低さが嘆かれる。本来教育は、人間としては非力な子供に多くの発達課題を達成させていく人間形成作用である。その目的は豊かな人間性の育成であり、人格の完成をめざすもので、それはあらゆる機会にあらゆる場所において実現されなければならない(教基法一―二条)。
 つまり教育は社会全体で行うもので、一般的には家庭・地域社会・学校がそれぞれの役割を担いバランスのとれた教育を行わなければ、子供は人間にはなり得ないということである。女児殺傷事件や教師殺傷事件などに代表される兇悪といわれる事件を起こす子供や若者たちは、人間として必要な資質能力を身につける機会も場も与えられなかった子供時代を過ごしている。背景には子供を大事に育てない社会、大人たちの存在がある。
 躾や発達課題を軽視し人間として育てる努力をせず、知識注入型の教育、学歴偏重の価値観に目を奪われてきた結果、人間的感性が育っていない自己中心的なヒトが増えているのである。今、その付けが社会に顕在化してきたのであるから、事件の起こるたびに泥縄式の対策でお茶を濁したとしても、この種の事件は後を絶たないであろう。
 大事なことはまず、子供の問題は大人の問題であるという認識に立ち、子供が悪いのは親が、先生が、友達が、ひいては社会が悪いと責任のなすり合いからの脱皮を図り、自己責任の取れる大人に自立することである。よく「家庭と地域と学校が連携して」というが、連携は三者がそれぞれ自立している場合にのみできる関係であることを忘れてはならない。人情も非を恥じる心もある自立した大人は、非難より連携を選ぶものである。
(2005年4月15日)

教育の理想と現実トップへ
「インディアンの教え」につながる「子は親の鏡」

今年の「こどもの日」は子供達にとってどんな日であったのだろうか。皇太子殿下のお誕生日に際しての記者会見で、敬宮愛子様の今後の養育方針について述べられた中で感銘を受けたという、ある詩が紹介されたことは記憶に新しい。それはアメリカの家庭教育学者ドロシー・ロー・ノルトの『子ども』という詩でスウェーデンの中学校の教科書に収録されているという。皇太子はこの詩を読まれたあと次のように述べられている。「子供を持ってつくづく感じますが、この詩は人と人の結びつきの大切さ、人を愛することの大切さ、人への思いやりなど今の社会でともすれば忘れられがちな、しかし、子供の成長過程でとても大切な要素を見事に表現していると思います」。教育の本質をずばり指摘しているお言葉である。
 更に「家族というコミュニティーの最小単位の中にあってこのようなことを自然に学んでいけると良いと思います」とも付け加えている。今回はこの詩に酷似している『アメリカインディアンの教え』というものがあるので紹介してみたい。
 『○批判ばかり受けて育った子は、非難ばかりします○敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも戦います○ひやかしを受けて育った子は、はにかみ屋になります○ねたみを受けて育った子は、何時も悪いことをしているような気持ちになります○心が寛大な人の中で育った子は、我慢強くなります○励ましを受けて育った子は、自信をもちます○ほめられる中で育った子は、何時も感謝することを知ります○公明正大な中で育った子は、正義心をもちます○思いやりのある中で育った子は、信仰心をもてます○人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大事にします○仲間の愛の中で育った子は、世界に愛を見つけます』(子育て名言・金言集より)。
 詩『子ども』はドロシーさんが一九五四年に書いた『子は親の鏡』という詩で世界中の多くの人たちに親しまれている。『子どもが育つ魔法の言葉』という著書は日本を含め世界二十二カ国で子育てバイブルとして読まれているという。『インディアンの教え』も『子は親の鏡』がそのもとになっているようである。いずれにしてもこのような教育の理念が国・地方の行政をはじめ家庭、地域、学校の教育の底流にあれば子供たちは社会の中で自ら豊かな人間性を育んでいくことができるのではないかと思う。世界の多くの家庭でこの詩が子供の豊かな成長を支えていることも、確かな事実である。子供を育て終わった人たちがこのインディアンの教えにもっと早く出合いたかったといっていたが、同感である。
(2005年5月7日)

教育の理想と現実トップへ
機能不全に陥った学校

双子の姪が揃って遊びに来た。姉は看護師。看護学校の教員を経て福祉医療融合で独立をしようと、大学院で経営学を学んでいる。一方、妹は薬局に嫁ぎ、二人の子育てと教育に専念、PTA会長までやったというから驚く。このような二人だけにどうしても話題の中心は教育になる。
 久しぶりに聞く子育て・教育現役の三十代後半女性のものの考え方から、時代の移り変わりを実感した。「最近の先生は…」という内容からは、彼女たちが学校に過度の依存をしている様子が手に取るように分かる。
 「依存」は「自立」の反対語であるように他律的であり、自分の問題までも他の問題としてしまおうとする行動様式を伴うことが特徴である。自己責任を極力避け、何かにつけて責任転嫁をするのが一般的である。教育問題では、例えばいじめや不登校、非行などを学校だけの責任にしてしまうことなどがその代表例であろう。子供が人間形成をしていく過程において、特に重要な幼児期から学童期の日常的な生活行動がその子の行動様式(性格)を決定付けることに着目するならば、いじめをするとか不登校になるとかは子供個々の問題であることは明らかである。
「もし、学校や担任が原因の全てというならば全児童・生徒あるいはクラス全員がいじめをし、不登校になるはずであるがそういうことは起こらない。多い少ないという差はあるが」と話すと納得した。
 また、話は校長や教員の評価までに及ぶ。一九七〇年代の前半まで、学校は地域社会から全幅の信頼が置かれていたし、教育委員会からも学校教育は校長にまかされていたので、思う存分教職員一人一人の力が発揮できた。しかし、その後次第に学校は管理色が強まり校長や教員の裁量権が極端に狭められていった。
 同時に、高度成長期の生産体制でも、ある同じ製品を大量生産するシステムが学校教育にも取り入れられることになる。文部省(当時)の学習指導要領という一種のマニュアルに従い、全国の学校が同じような子供に仕上げるべく全力を挙げたのである。ところが、その結果が金太郎飴学校と揶揄されることになり、一方で子供の全てを学校の責任とする風潮から、学校は閉鎖的にならざるを得なかった。
つまり、学校の機能を超える役割を負うことで機能不全に陥ったのである。そのため法律が変わった今でも学校は主体性を持てず、自立できないでいる。「子供たちのためには、学校が自立し、教職員が存分に教育活動の出来る環境にすることであり、評価や批判よりも協力の方が大事ではないか」というと、彼女たちは怪訝な顔をしていた。
(2005年5月20日)

教育の理想と現実トップへ
教育に欠かせない先見性と創造性

五月になっての流氷の南下報道には驚かされた。低温情報を出して農作物被害の注意を促すほどであった。新潟県の記録的な大雪を始め、いろいろな形で現れる異常気象の一つなのかもしれない。世界で頻発する地震や火山噴火など、地球そのものの活動期と重なっているのも不気味。日本の沿岸や河川に迷い込んでくるアザラシや鯨、マンボウなどもこれらとあながち無関係ではない。
 以前、「改革というものは既成の価値観の崩壊―混乱―新しい価値観の創造という経緯を経て、十年単位で行われるものである。それには意識改革が伴うので、人々が変化に気が付いたときには改革がかなり進んだ状態である」と話したことがあるが、それから十年以上が経った今、日本社会ではあらゆる分野で改革による格差が生じている。
 トヨタを世界一にしたのは「トヨタ方式」を編み出した生産体制の改革であり、他方で世界ブランドを失うとか赤字経営を余儀なくされた企業は総じて、改革の遅れがその背景となっているという。いずれの場合もトップの意識改革次第であることは明らかである。
 先頃マスコミを賑わせたライブドアとフジテレビ・ニッポン放送問題や郵政民営化論争などはまさしく新旧価値観のぶつかり合いでしかない。これらは意識改革の進んだ者の挑戦に、古い価値観を以って防戦に右往左往する醜態と国民の目には映る。或る新聞コラムにこれを評して「茶番喜劇」とあったが、演出の裏には個人的な利害が見え隠れする。教育界もご多分に漏れずこういうことがよくある。
 つい最近、ある教育長から「お陰様で今年度念願のコミュニティスクール事業を立ち上げました」と電話があった。教育長になったときから、是非実現したいとの強い意志を持っていただけに感激も一入であろう。今、子供たちのコミュニティづくりなど、子供が地域社会に主体的な係わりを持つことを推進する動きが、全国的な広がりを見せている。
 対して、教育の本質を考えずに活動区域を縮小し、子供たちにとっての貴重な出会いや、活動の場を奪い、一方で学力向上推進を叫ぶなど時代に逆行させる施策を、改革と称して強行する旧価値観が同居するのも教育界の現実といえる。いずれにしても結果は子供たちの一生にかかってくることを忘れてはならない。
 このところ立て続けに起こる事件事故は、地球や気象の異変だけでなく人間までもが変質してきているように思えてならない。気が付いた時では遅すぎる。特に教育は何時の世でも先見性と創造性が欠かせない。現在だけに囚われていたら時代からも取り残される。
(2005年6月3日)

教育の理想と現実トップへ
都会からの転入増で変容する地域社会

穂高に移り住んで八月で四年になる。今では隣近所だけでなく、結構はなれた所に住む人たちとのお付き合いも広がり、この地の歴史や人々のものの考え方、気風などがかなり分かってきた。住んでいる所は山麓側で最も景観の良い地域、「子どもたちに残す景観地域」(景観条例)に指定されるほどの所だけに都会からの転入者も多い。そのため都市化が急速に進行しているので、都会人とここに古くから住む人との人間的な違いが分かり易い地域である。
 去年、その象徴的な出来事が起こった。町の行政区の一つである私の所属する区の役員の中で確執が生じ、一人が任期途中で辞任するという事態になった。辞めた方は「トップが一方的で、役員の意見に耳を傾けることなく自分の考えを押し通そうとする。会社ならまだしも、俺達はボランテアで役員をしているのだから命令される筋合いはない」というのである。対するトップは嫌ならやめればと言い、相手を理解する努力をしない。しかも、俺もやりたくてやっているのではなくこれまたボランテアだという。両者ともボランテアの趣旨を取り違えてはいないのか。
 もう一つは会議が増えたことである。会議の多い組織はリーダーの力量の無さをあらわすというが、正にその通りで意見を聞くことより町や区の考えの伝達と周知に終始する、いわゆる組織型の会議であることに気付いていない。人間性より地位を重んじる組織の中で身についてしまった一方的な気質は性となり、地域に溶け込むことが出来ないでいるようである。
 一方、元々この地に住む人達の考え方はこれとは対照的で、地域社会は住民相互が信頼し、助け合う人間関係であって、それをより深めていくのが役員の役割であるべきではないかというのである。この地で最初に生まれたという隣人の話ではここは干渉し合わないけど、お互いに助け合いまとまりのある暮らしやすいところだったという。いわゆる本来の地域共同体であったものが、都会から移り住む人が増えるにつれ、徐々に変貌してきているようである。
 また、途中で「区」を抜けるのも、初めから入らないのも都会からの移住者である。入ってもメリットは無く、入らなくても不都合は無いからだという。このように地域社会というものをこの地に生まれ育った人たちは人々の暮らしにとって必要不可欠なものと考えるが、都会で暮らした人たちには煩わしい存在のようである。人間性の豊かさの差であろうか、都会に暮らした一人として反省する。子供たちにもその考えが受け継がれていくことを思えば、心の都会化を恐れる。
(2005年6月17日)

教育の理想と現実トップへ
労働体験を通じてのコミュニケーション

この地に暮らしているうちに、農家の子供や若者たちが素直で人懐っこいということに気が付いた。誰とでも目を合わせ、明るく挨拶を交わし、話し好き。地域の行事、例えば各種スポーツ大会や伝統行事には率先して参加し、初対面であってもたちまちその場に打ち解け、和やかな雰囲気を醸し出す。
今、若者のコミュニケーション能力不足が問題となっているがここの若者たちにその心配は無い。また、学校帰りに道草を食う子供たちや道端で賑やかに戯れる子供たちの姿をよく見かける。畑仕事に立ち寄り、話しかけてくる若者なども珍しいことではない。このような子供や若者を育てているのは家庭と地域社会であることは言うまでも無いが、学校教育においても出来るだけ地域の人々との関係を深めるためのカリキュラムが用意されている。
農家へ行っての農作業体験、お年寄りの希望を受けてするお手伝いなど、多くのコミュニケーションの場と機会がある。いずれも体を使い、汗を流すという労働体験を通して地域の人々とのコミュニケーションを図り、共同体の一員としての自覚を高めていこうとしている。こういう教育環境の中で小さい時から育っていることが、素直で人懐っこいという特性につながっているように思う。「人間は根源的に生活実践過程の中で発達する。生活こそ人間の生存と発達の原基であり源泉である」というペスタロッチの教育理論からしても頷けることである。地域の子供を見ればその地域の大人が分かるというのも、同じことなのかも知れない。
では大人たちはどうかといえば子供たち同様に心安く、優しく親切である。私たちの姿を見れば声をかけてくれるし、採れたものを「食べるかい」と持ってきてくれる。苺を植えれば藁を、山うどやアスパラにはもみ殻を「持っていきな」と言ってくれる。貴重な植物の苗や幼木、種子なども「植えておけ」と言ってくれるなど、新参者に何や彼やと積極的にかかわってくれる。仕事をしていれば「精が出るね」といいながら話に来る。とにかく話し好きであり一時間以上も話し込んでいく時もある。
お蔭であっという間に地域に解け込むことが出来たし、野菜や果物それに山菜などは食べ放題の贅沢三昧である。挨拶を交わす、物を遣り取りすることは共同体における人間関係の大切な文化であったが、都市化の進行とともにこれらが利益関係と結びつき、虚礼となった。従ってその関係が失われると挨拶や遣り取りも無くなる。しかし、農家での利害とは無縁な人間関係は一度信頼関係が出来れば壊れることはまず無い。こういう土地柄が豊かな人間性を育んでいるのであろう。
(2005年7月1日)

教育の理想と現実トップへ
夢をもてない子供たち

最近の農作業はガーとかゴーとかというエンジン音と共に始まり、数分から数十分の単位で終わる。いわゆる機械化農業といわれるもので、何ヘクタールもある広大な農地の耕作を一人でこなしてしまう。従って昔のように、村の住民が総出で田植えをする華やいだ風景などは、イベント以外には今見ることは無い。
 北アルプス・爺が岳に種蒔爺の雪型が現れると安曇野の田園が浅緑の海に変わるまで何日もかからない。牧草地も機械音が作業を知らせる。三月、突然のエンジン音、石灰を撒くこと数分、エンジン音が遠ざかったと思うと、再び近づき肥料を撒いて去っていく。年三回の刈り取りが行われ、まず天日干し、次にかき回してひっくり返すこと五回、その後の牧草玉作りが実に楽しい。いずれも機械でやるから時間もかからないし、汗もかかない。
 畑仕事も耕起や耕転から畝立て、播種、土寄せ、収穫まで全てが機械化されているのには驚く。極端な言い方をすれば、運転免許さえあれば農作業は誰でも出来る。農業はきつい、汚い、暗いと言われたのは昔のこと、なのに農家は後継者難といわれている。
 農家の若者たちと話してその理由が分かってきた。農業は嫌いではない、むしろやりがいがあると思うが、専業の小規模農業では暮らしが立たないというのである。一台数百〜数千万円もする機械を何台も揃えれば、その借金返済に追われるから少ない収穫では対応できない。複数農家で機械を共同使用するとか、農協などが貸し出しするなど工夫すれば、暮らせる農業は可能なのかもしれないともいう。話をしているうちに、この辺が後継者対策のキーポイントのような気がしてきた。
 一度はあこがれる都会の暮らしであるが、近頃では田舎へ引き返す若者が増加している。その多くが都会暮らしは息が詰まる、せわしない、ストレスが溜まるなど自分たちには合わない世界だといい、ここほど暮らし易いところはないと、故郷を見直している。このような若者たちの出現が社会の価値観の転換を示唆することは、過去にも何回となく経験している。学ぶことも働くことも拒否するニートという若者現象もこれに重なる。高度成長期前後から急速な都市化が社会のあらゆる価値観を変えてきた。
 低学歴より高学歴、肉体労働より精神労働、ブルーカラーよりホワイトカラー、とどの詰まりは田舎より都会という一元的価値観が支配するようになった。挙句の果てに落ちこぼれ、勝ち組・負け組み、最近では学力の階層化論までが飛び出してきた。このような社会で子供達に夢を持てといっても無理な話であろう。
(2005年7月15日)

教育の理想と現実トップへ

市川よみうり Top Pageへ