市川よみうり連載企画

元市川市教育長最首 輝夫

立法の必要性あいまいな教育免許更新制は大計誤る

第三点として、免許更新制による統制強化が教員の自主性、自律性に萎縮効果をもたらす問題を指摘しておきたい。今回の改正法案はこれまでの中教審答申を変更し、更新制と指導不適切教員の指導改善研修や分限制度が連動するものとしているが、このような免許更新制度を設ける必要性、その立法事実が何処に存するかは全く明らかにされていない。
 教員資格の保持と向上は、自己研鑽のゆとりを保障し、自主性、自律性を尊重した下での研修や教員相互間での協力などによって実現されるものと考える。旭川学力テスト最高裁判決でも教員の自主的、自律的に子供との直接的な人格的接触を通じて、その専門性を発揮できる教育条件が保障されることが、教育の本質的な要請に照らして肝心であるということを当然の前提としているのである。
 然るに、任命権者による教育改善研修認定、免許管理者による免許講習免除認定などが実施されれば、教員は教育の本質的要請に応えることをおろそかにし、免許更新に備えての準備に腐心し、任命権者や免許管理者の意向を忖度して自己保身を図ることになりかねない。教員免許更新制度が教員に与える萎縮効果は、教育の本質的な要請を破綻しかねず、その弊害は計り知れない。
 今、教育現場に様々な問題があることは誰しも承知している。しかし、そこで起きている問題は国の教育に関する統制権限を強め、上意下達、指示、是正等をなし、免許を十年の更新制にすることで解決できるか。学校現場の主役は子供たちである。教育は一人一人の子供たちとの直接的接触を通し、それぞれの個性に応じて行われるべきものである。一部の子供だけ伸びれば良いというものではない。一人一人の子供がそれぞれの能力に応じて成長、発達できるようにしなくてはならない。
 今回の法律改正がなされると子供と真剣に向き合い、情熱を傾けて子供の能力を引き出そうとする教師がいなくなってしまうのではないか。そして、子供と向き合わず免許管理者や国の意向ばかり気にする、それこそ子供にとって指導不適切な教員が増えていくことになるのではないかと危惧され、混乱だけをもたらすことになりかねない。
 子供たち、父母たちが何でもがき、教師たちが何で苦しんでいるのか、本改正案が本当にこれらの問題の解決に役立つのかどうか、十分な議論が深められる必要がある。この解明がないまま、法という形だけで問題解決ができるかのように、表面だけを取り繕うことは極めて危険である。せいては百年の大計を誤ることになりかねない。
(2007年10月5日)

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形がい化する教委制度・国の権限強化は趣旨逆行

参院文教科学委・教育三法案公聴会G質疑・応答〈1〉これより質疑。まず自民党神取忍議員から「教育内容、思想、信条の自由を守りつつ、どうやって規範意識や我が国と郷土を愛する態度を養うのか」。「規範は本来、家庭で身につけるもの。家庭を愛する心、それが郷土を愛する心、国家を愛する心、ひいては国際社会を愛する心へと育っていくのが自然な在り方である。是非家庭でやってもらいたい」(佐々木知子・帝京大教授)。
 「何を現在の規範というのか。私は人類が共に生きるための規範だと思う。その基準は基本的人権がお互いに尊重されること。まず規範のとらえ方から出発する必要があるのではないか。その為には幼児からのしつけを含めて系統的な取り組みが求められるが、イギリス・レスター大学フォーゲルマン教授の『民主的な市民性の指導は反民主的な風土においては成り立ち得ない』という言葉が日本にとっても真実であり、社会全体がまさに民主的になるということが基本的な条件ではないか。もう一点、競争の教育は人類共生の規範であるべき共同性を掘り崩していないか。逆に、本来の道徳教育にとって困難な事態を競争の教育がもたらしていないか、慎重に考えてもらいたい」(藤田昌士・元立教大教授)。
 「日本は民主主義を基本的な原理とする憲法の下で成り立っている。かような価値観を前提とした上で子供の個性に応じて、家庭やいろいろな場面に応じて自分で考えさせる、こういう態度を養うことが一番大事であって、特定の思想や信条を教え込むようなことがあってはならない」(氏家和男・日弁連副会長)。
 神取議員「教育の地方自治、私立学校の自主性を尊重しながら、教育委員会の改革をはじめ、それぞれの体制をどのように整えていくかであるが、私が注目している文化、スポーツに関する事務の権限を首長部局に移譲するというものについて意見を伺いたい」。筆者・最首は「文化とかスポーツの事務は、これらが市民全体にかかわる施策であるということから、首長部局に移譲することはよい。私立学校について、地教行法二十七条の改正案は『必要に応じて知事が教育委員会に意見を聞くことができる』とあるが、現実には行われていることであり、あえて条文化する意図がわからない。それより教育の自由化を進めた上で欧米並みに公私の所轄を一本化すべきと考えている」。
 氏家氏は「教育委員会制度は、教育行政の民主化と教育行政の地方分権化、教育の自主性確保のために導入されたものである。それが現在では形骸化されている。しかし、それを国の権限強化によって統制を図ろうというのは制度設置の趣旨に逆行するのではないか」。
(2007年10月19日)

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教員免許更新制必要も方法に多くの問題点

神取忍議員(自民)の質疑「教員免許更新制を導入しながら、どのように教育の自主性、自立性を尊重していくのか」。佐竹勝利・鳴門教育大教授「更新の必要性は認めるが、方法には多くの問題がある。それぞれの教員によって必要度の違うものを、更新講習という形で一律、短期間でやろうとするところには無理がある」。藤田昌士・元立教大教授「十年というのがいかにも形式的。教師は日々の実践の中で、教師同士の学び合いによってリフレッシュするのであって、更新制の導入は、更新されない場合もあると、萎縮効果を強く印象付けるのではないか」。
 次いで民主・水岡俊一議員が学校教育法改正案の副校長など新しい職の設置について。佐竹氏「学校は非常に忙しい。それを緩和する人員増は結構なことである。但し、定数増を伴うことが条件。ただ、管理的なヒエラルキーが入ってくるならば、教師の自主的な教育実践が抑制され、上を見るというようなことになりかねないと思う」。水岡議員「佐竹さんは書物の中で明確に、中教審答申は指導力不足教員排除を目的とするものではないと言っているけれども、教育再生会議の報告では、不適格教員に免許を持たせない仕組みと明記している。どちらの意向が強く働いたのか」。佐竹氏「教育再生会議の意向が強く反映しているのではないか。つまりは安倍内閣の方針だろうと思う」。
 水岡議員「免許更新制は当初、すべての教員がその対象になると思っていたが、話が進むにつれて勤務実績を考慮して一定の人たちには必要性が無いのだ、というような中身が見えてきた。これは大きな問題になってきたなと思う。それは、不適格教員排除の考え方に結びついていないかと考えるのだが…」。佐竹氏「多分そうではないか。教員の質の向上とか職能成長等を高めていくということであれば、基本的には全員が対象ではないかと思う」。水岡議員「現在、教員免許状を持って教職に就いている人たちは全国で約五百万人、臨時採用教員を加えると莫大な数になる。一年間に十万人を超える免許の更新をしていかなくてはならないが、可能性としてはどうか」。
 佐竹氏「それは大変だと思う。運用上の問題も大いにある。大学で三十時間程度の講習を受けることで本当に質の向上に繋がるのか。そちらの面からもかなりの無理がある」。水岡議員「民主党案は、十年経験するごとに一年間の大学院研修を考えているが、一年では少ないか」。佐竹氏「これは非常に経費もかかるし研修者、指導教員の負担になる。いずれにしても夏休みだけでも出来るような短期の更新講習は賛成しかねる」。
(2007年11月2日)

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保護者から教育委員選任画期的だが運用に課題

民主・水岡俊一議員の質疑。「事務局を首長部局に統合して、教育委員会を発展的に解消していこうという民主党案について意見を聞きたい」。筆者・最首「無能化、形骸化している現在の教育委員会ならいらないが、抜本的な制度改革をして、新しい委員会にするのであれば教育委員会はあってよい。事務局を首長部局に移すということは政治的中立性が揺らぐことが経験からも心配されるので、賛成しかねる」。
 次に公明・鰐淵洋子議員。「教育は子供たちや地域住民により近い学校、市町村が主体になって教育活動を展開していくことが重要と考える。最首公述人が本当に日本の教育を再生したいと願うのであれば、教育関連法案を確りと作り直す必要があると主張する具体的な考えを聞きたい」。最首「今の教育制度の土台になっている地教行政法は教育の中央集権化を進めるためのものである。従って教育を変えるにはこの法律を廃案にして、二十一世紀に相応しい教育制度をつくり上げるということが必要である。教育の目的は教育基本法の定める『人格の完成をめざす』ことにあるが、今、教育はそれとはかけ離れた方向に向かっているのではないか。本来の教育を進めるためにはその土台となる地教行法の抜本的改正がどうしても必要である」。
 鰐淵議員「子供の方を見ないで教育委員会ばかり向いている校長が最近多くなっているが、これでは教職員のやる気やモラルは低下するばかり、こうした風潮を変えるため教育委員会制度の抜本的改革が必要だと主張されている。私自身は、教育の問題は学校だけでなく家庭、地域が一体となって取り組んでいくことが重要と考える。その意味で教育委員会の役割は大変重要であり、活性化していくことも重要と考える。改めて教育委員会の本来の役割、そのための改革について聞く」。最首「委員指摘の通りであるが、実態は上下間の一通過点とも首長の施策請負機関ともいわれ、主体的な行政機関としては機能していないし、責任も取らないというのが一般的である。市川市は教委主導による地域・家庭・学校が一体となって子供の教育をするというコミュニティ・スクール事業によって学校再生ができた。こういうことを推進するのが本来の教育委員会の役割といえる」。
 鰐淵議員「今回の改正で教育委員への保護者の選任が義務化されたことについて」。最首「賛成である。今回の地教行法の改正で二十六条二項が新たに条文化されたことは画期的だと思うが、問題はこれらの事務を現教育委員がこなせるかどうかである。教育委員の選任制度についても同時に検討すべきである」。
(2007年11月16日)

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難しい指導力不足認定環境変える方法も必要

鰐淵洋子議員(公明)から「指導が不適切な教員の認定について意見を伺いたい」。佐竹勝利・鳴門教育大教授「ある学校で指導不適切だといわれた教員が別の学校、別の校長の下で力を生かしている例もある。指導力不足を認定するのは非常に難しい」。佐々木知子・帝京大教授「引きこもりになってしまうような場合は認定以前の問題だが、子供や保護者にとってみれば適切な教育を受けるのは正当な権利だから、正しく認定して適切な処置をすべきと思う」。筆者・最首「問題は、保護者や同僚という人間関係の中で孤立し、それが高じて精神疾患になるという教員が増加していること。職場を変えるなどの方法も含めて対応するなど、慎重に見極めていく必要がある」。
 最後に共産党の井上哲士議員が「指導が不適切な教員の人事管理の問題で法律家の意見を聞きたい」。氏家和男・日弁連副会長「何をもって指導不適格教員とするか難しい問題である。人の身分にかかわることであるから慎重にやらなくてはいけない。なぜそうなっているかを十分見極めて、適切な対応をしていくことが大事」。井上議員「学校のいじめ問題解決を体験上お考えか」。佐々木氏「現代のいじめはいじめっ子、いじめられっ子双方に家庭の問題が付いて回っている。先生だけに何とかしろという問題ではない。学校、教育委員会が一致して事にあたれるようにしないといけない。いじめ問題は学校現場のみならず、社会、国家が取り組まなければならない問題だ」。
 井上議員「藤田公述人に徳育の教科化について伺う」。藤田昌士・元立教大教授「戦後の教育が目指すべき人間像として、一九五一年版の学習指導要領によれば判断力と実践力に富んだ自主的、自律的人間の形成を、更に一九五三年の教育課程審議会が基本的人権の尊重を中心とする民主的道徳の育成という目標を掲げた。徳育の教科化は、それらの目標に逆行するものではないか。同時に、戦後の道徳教育改革は道徳教育と科学教育、及び実生活とを切り離してはいけないとして両者を結び付けた新しい道徳教育が追求されてきた。しかし、道徳時間の特設はそれに逆行する。教科化はこれらの問題をそのままに残しながら、忠実な検定教科書を子供にあてがう道徳教育を志向するのではないかと、研究者の一人として深刻な懸念を抱いている。再生会議の議論には、教科にしなければ体系的な指導はできないといった考え方がある。教科にすれば教師がやらざるを得ない。子供に検定教科書をあてがうことができるなど、教師・子供両者に対する強制の論理を感じないではいられない」。
(2007年11月30日)

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抑制感強まり意欲なくす管理は教育の自殺行為

 井上哲士議員(共産)の質問。「あてがい型の道徳教育というものが子供たちにとって民主的道徳を身につけるうえでもプラスになるのだろうかとの疑問がある。現行の道徳教育の評価、それを子供がどう受け止めているか、そのことの関係で教科化をどう考えるか」。
 藤田昌士・元立教大教授「文部科学省が道徳教育推進状況調査を既に四回行っている。この間、多少ポイントが上がってきたと言われているものの、高学年段階で、今の道徳の時間はためになるとは思わないという、否定的評価が増えている。そこには、科学教育や実生活と切り離された道徳教育の欠陥が出ていると思う。しかし、教育再生会議は残念ながら、そういうことをリアルに議論した形跡が無い。私は、道徳教育を創造するという課題を大事に考えなくてはならないと思っていた。学校には見えるカリキュラムと教師と子供・子供同士の人間関係という見えないカリキュラムがある。この見えないカリキュラムを民主的なものに組み替えないで素通りすると、砂上の楼閣になる。更に、今の道徳の時間を生き方探求に方向付け総合学習のようなものに再組織していく必要があるのではないかと考えている」。
 井上議員「教育基本法議論の中でも道徳教育の目標が我が国を愛する態度を要としているという話があったが、態度であって心で無いので内心の自由も侵さないからよいのだという議論についてどう考えるか」。
 藤田氏「面従腹背なんて人間としてほめられたものではない。態度というのは本来、心というか価値観を含んでいる。国を愛する態度にはその価値観が含まれているもので、切り離すことは理解できない」。
 井上議員「最首公述人の話の中に、管理は教育の自殺行為であるとの言葉があったが新しい職の配置が結局、管理化に繋がっていくのではないかと思うが」。筆者・最首「そうでなければいいナと率直に思う。それより子供の成長過程で、できるだけ多くの人間関係を必要とし、その中で豊かな人間性を育み健全な人格を形成していくものであるとの考えから、学校や地域にその場や機会を多く設けることに腐心した。『ゆとろぎ』制度もその一つ。現状では市民の協力を仰ぐしかない」。
 井上議員「地教行法改正で、文科大臣の是正の要求、指示が盛り込まれたが」。最首「現状でも是正、指示はできる。あえて仰々しく法律に盛り込む必要は無い。現場は管理強化と受け止め、抑圧感を感じ結果として、教職員は上を見て行動する雰囲気の中で意欲をなくしていく。賛成できない」。これで参議院中央公聴会報告を終わる。
(2007年12月14日)

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相手の立場で判断できる理性的な人間形成を

今の日本社会は人を育てるという機能を失っている。人を育てるとは人間性を育てることを意味する。人間性とは辞書によれば「人間らしさ」とある。では人間らしさとはどういうことか。「愛情豊かで利己的でなく思いやりがあり、常に相手の立場に立って判断し行動できる、しかも理性的な人」(茨城大馬場道夫教授)という。
 しかし、最近の世相をみていると、こういう人が頓に少なくなってきたように思う。むしろ、「自己愛が強く利己的で他人を自分が利益を得る道具としか見ない人、これを非人間性という」(同教授)が、そのような人間が巷にあふれているようにも思う。昨今、多発する殺人事件や現代のいじめ(大人も含めて)という行為は、非人間性の表れでもある。
 これは誕生してから成人するまでの間、十分に愛されることも無く人間教育が十分になされていない結果だといわれる。人間が人間らしく成長するためには、子供時代を愛情いっぱい、腰を据えて人間性豊かに育てることが必要である。その上で知的教育を積み重ねていく、これが教育の基本である。
 情の発達の無いままに知や大人の価値観を子供に押し付けている今の教育は本末転倒といえる。情を育てないままに知を育てようとすることは、社会の秩序を乱す人間や犯罪を行う人間を生み出すことに手を貸しているようなもの。秩序ある社会を目指そうとするならば、発達段階に応じた教育が不可欠である。先人たちが長い年月をかけて解き明かしてきた教育原理、即ち理論や道理などを無視しているのが今の日本社会。心という見えないものを育て豊かにするよりは、見えるもの、学力や形式的な態度だけに目を向け子供や教員の尻を叩くというやり方は行政にとっては容易く、学力さえ上げれば良い評価がもらえるとなれば教員にとっても楽である。
 親も人任せで済む。教育再生会議は授業時間を年間一割程度増やすよう提言した。学力向上のためというが、小中学生の成績を上げることが誰のためになるのだろうか。結果が一部大人のために利用されるだけで、子供のためになるとは思えない。寧(むし)ろ子供たちはこれからも今まで以上に問題を引き起こすことになるであろう。人は人間性が豊かであればいずれ必ずや自発的、自主的に知性を磨こうとするものである。今では死語と化した「苦学生」が何故、見事に夢を実現していったか。それは人間的な成長によって人生観・世界観・宇宙観などを持つことができたからである。
 真の学力は人間性に支えられて向上するものであるということを、忘れてはならない。学力向上は教育の一部で全てではない。教育再生というなら、まずは人間教育から始めたい。
(2008年1月1日)

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教育環境崩壊で問われる親の責任

人を育てる機能の低下は家庭から起こったということを、まず認識しておきたい。ある衝撃的なリポートを目にすることになったのが一九九五年、米国に長く住む日本人大学講師からで概略次のようなものであった。
 『米国の子供たちを取り巻く環境は大変劣悪な状況である。例えば親の離婚を十八歳までには四〇%が経験し、新生児の三人に一人が未婚の母から生まれ、虐待などで家を出て暮らす子供が百万人もいるなど、親が子供を育てる力が異常に弱まっている。この現状はどのようにして起こったかというと義務教育を柱に幼稚園、保育園も含めた教育システムの普及充実が実は、親たちの依存という現象を生み、それが家庭崩壊、学校崩壊へと進む図式であり、これは先進国社会の宿命ともいえる。これを対岸の火事と見過ごすことができるだろうか。日本でも子育てをしたがらない親が増えている。教育の名のもとに三十人、四十人の子育てを一人の保育士や教員に頼ろうとすればそのシステムは崩壊する。つまり学校(園)崩壊である。日本もその方向に進んではいないだろうか。教育の普及と福祉の充実に親の身勝手が相乗りして社会が壊れていく様子を私は米国で見た。日本はまだ良い。しかし、米国のたどった道を今、分析し、二の舞にならないように対策を考えることが必要であろう』というのである。
 このリポートの引用に続けて「一九八四年、米政府は教育問題を『国家の存続にかかわる緊急かつ最重要問題』と定義、大統領選の公約を『伝統的な家庭を社会に取り戻そう』『学校が子供を育てるのではない』とした。日本はまだそこまでいっていないにしろ、最近、子育てが思うようにいかないと悩んでいる件数が急増しているそうで、それもこのままではこの子を殺してしまうかもしれない、そんな悩みを抱えた親が増えていること。核家族化で相談相手もいない、少子化など家庭環境の変化が強く影響していると思うこと」など、教育環境の危機を私が訴えたのが平成七年度の市川私立幼稚園「教育振興の集い」である。
 二年後、崩壊家庭からはみ出していく子供たちを放っておけないこともあって地域社会を一つの家庭と見立てたナーチャリングコミュニティ事業を立ち上げた。あれから十年以上も経った今、日本は当時より深刻な状況になってはいないだろうか。この間、何もしてこなかった国や行政は批判されてしかるべきではあるが、それ以上に親が教育環境を整え子供の人間形成に責任を持ってきたかどうかが問われる。子供の人間形成は親の生き方、考え方、そして行動が決めるのであるから。
(2008年1月18日)

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大人の責任逃れを子供は見抜いている

昨年の世相を表す漢字は『偽』であった。食品偽装から政治資金、そして年金問題、防衛省汚職まで、様々な偽りにだまされてきた一年、政治家や国民全体の奉仕者である官僚までが含まれていたことには恐れ入る。こういう世の中が子供の心に影を落とすのは間違いの無い事実。「誠に恥ずかしく悲憤に堪えない。己の利を望むのではなく、分を知り自分の心を律したい」という清水寺貫主の言葉を大人たちはどう受け止めたのだろうか。
 もう一つ、何でも人のせいにするという風潮。これが世の中に蔓延していることも教育環境の劣化という点でとても気になる。会社のトップは偽装が発覚すると社員が勝手にやったと責任転嫁する。学校で事件が起こると校長は教職員のせいにする。保護者の前で教員に土下座をさせたとの報道には愕然とした。土下座をするのなら校長の方ではないのか。また、学校の不祥事に教育委員会が校長や教職員を呼びつけ、事情聴取はするが教育委員自身は何の責任も取らないなど、トップの責任逃れが目立つ。
 これはトップに立つ者の人間性と責任能力の無さとしか言いようが無いが、そういう人間がトップになれる世の中にも問題が潜んでいるのではないか。驚くことに、国のリーダーでさえ人のせいにして、突然その責任を投げ出す時代でもある。親にしてもそうである。子供にとって親は最初に出会う教育者でありカウンセラーでもあり、一義的な責任者である。しかし、最近マスメデアを賑わしている「モンスターペアレンツ」なるものを始めとして、一部の保護者からの学校や教職員に対する不条理な要求や苦情・非難が多いという。
 そういう親に限って自らの子供に対する責任や義務(例えば躾とか人間性の育成)を十分果たしているとはいえない向きがある。世の中の動きは子供の人間形成に極めて強い影響を与えていることは論を俟たない。これまでも書いてきたように子供は大人より多くの基礎能力を持ち、人や自然の観察力に優れ豊かな感性の持ち主だから、大人や社会がいくら装ったとしても真実を見抜いているものである。だから子供の姿から世の中の動きや大人の生き方・考え方などを知ることができるのである。
 例えば、子供を通して親や家族の姿が見えてくるというのもその一つであり、教員を経験するとそれがよくわかる。これを「子供は親を映す鏡」というのであろう。同様に、子供社会は大人社会を映す鏡でもある。このような社会では子供の健全な成長は望むべくも無い。このことに子供たちは既に直感的に気づき始めているが、大人たちはまだ気づいていない。
(2008年2月1日)

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全ては人を信じることから教育に必要な絶対的信頼

人が育つための最も重要な要素である『信』が世の中から失われていないだろうか。最近、新聞・テレビなどで「不信」や「背信」という言葉を見聞きすることが多くなった。政治不信、制度不信、職場への不信、学校不信、そして親や兄弟への血縁不信、人間不信へと際限なく広がる。また、背信という言葉にもよく出合う。「人はひとりでは生きていけない」というが、「信じることなく人は生きてはいけない」とも言われる。
 そういえば子供時代、人を信じる、人を裏切らない、人を思いやる、人のために尽くすなどは家庭でも学校でも徹底して教えられてきた。少なくとも自分の生きかたの中に「不信」とか「背信」という言葉は無く、人を信じることからすべてが始まるというのが自然であった。「信」の意味は嘘のない、まことであり、人を信頼すること、疑わないことである。つまり「信」とは、人から信頼されることではなく、人を信頼することである。勿論、見返りなど求めるものではないし、「背信」があったとしても仕方のないことと、ひたすら相手を信じていくことである。経験からも自分が信じた人の殆どが信頼できたが、そうでない場合もたまにある。しかし、それは自分の徳のなさを反省することで済む。
 「人間関係が希薄になった」とささやかれ出したのが高度成長の頃から。当時は余り気にも留めない人が多かったが、このままでは大変なことになると危機感を持つ人が次第に増えてきた。遅まきながら、それを学校教育に取り入れたのが表現力重視の教育、会話や討論重視の学習であるが、あくまでも教室内、学校内のことだから子供のコミュニケーション力や人間関係を深めるものになったとはいい難い。それも、現在では学力向上に取って代わられ片隅に追いやられた感がある。
 もともと子供の学習とは、生活という段差の無い同一ステージ上においてなされてはじめて身につくものであるから、学校教育だけで完結したのでは意味が無い。学校、家庭、地域、そして広く社会で学習、実践、検証、更に学習というサイクルが繰り返されながら螺旋状に向上していくものであり、それを支えるのが「信」である。人の付き合いも絆も「信」から始まるもので信頼無しの真の関係はありえない。
 かつては、子供は親や教員を信じ、親は教員を信じ、教員は子供や親を信じ、教員相互、家族同士の信頼感もあったから子供が本来の姿を素直に出せた。教育は絶対的信頼のもとに成り立つものであるから、「信」無き今の時代に真の教育は無いともいえる。まずは子供を信じ、子供が人を信じられる世の中にしたい。
(2008年2月15日)

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発達段階を一歩ずつ進める教育環境が重要

子供、特に乳幼児が可愛いのは、周りの人たちに思い切り可愛がってもらいたいからで、関心を持ってもらいたい、存在を認められたい、いっぱい愛されたいがための本能的な表現だというのだ。言葉が話せない幼児にとっては表情やしぐさが唯一の表現手段で、注目を集めたいという精いっぱいのメッセージなのである。だからこの時期はいっぱい可愛がってやらなければならない。
 この、可愛いから可愛がるという行動は何一つ見返りを求めないという無償の愛である。もしこの時期、大人の都合でそれを怠ると将来、人間性や性格にゆがみの出ることも否めない。では、大人になっても可愛く振る舞うとか、可愛い大人が好まれるという風潮をどう考えたら良いのだろうか。この現象を、子供時代に可愛がられなかった裏返しと見るのは考え過ぎだろうか。自立していて、頼みにできる一人前の人間が大人ではなかったのか。
 また、幼児期、学童期、青年期と成長するに従って自我が芽生え、自己の存在意識が高まるにつれ自己主張が活発になっていく。親に、家族に、友達に、そして社会に対してと、いろいろな場でのいろいろな表現・行動を駆使して自己の存在を強くアピールするようになる。しかし、周りの大人たちに認められず、うるさいとか、今はダメとか、その考えはおかしいなどと、相手にされないことがよく起こる。
 その一方で、大人の価値観を押し付けられることが多くなる。同時にこの時期、子供は旺盛な好奇心や疑問を持つが、これらが解決できず納得できないまま時が過ぎてゆくことにより、フラストレーションが蓄積する。やがて失望感や意欲の減退へとつながり、何事に対しても投げ遣りになっていく。これらは後々の生き方にも響いてくるもので、無気力や無関心に始まり、思春期特有の反抗期の消失にまで及ぶ。
 人間が成長するための重要なステップ(発達段階)を失うということは発達異常を来たす。「うちの子は反抗期が無くて助かる」などと喜んではいられない。もし、そのような子供時代を過ごすならば、成長への負の影響はかなり大きなものになる。日本は今、乳幼児期にはいっぱい愛され、自己主張する時期は思い切り主張でき、思春期には反抗し、成長発達の階段を一歩一歩ゆっくりとのぼって行ける教育環境に家庭、地域、社会がなっているだろうか。人は人として認められながら人となり、人として生きていくものである。なのに子供は子供として認められ、子供の特性を思い切り発揮し、のびのびと子供時代を過ごすことのできる世の中にはなっていない。
(2008年2月29日)

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深く重い意味をもつ「大人」という言葉

子供が大人に成長するためには、大人というモデルが必要である。では、大人の定義とは何か。ウイキペディアなど各種の辞(事)典によれば、『子供に対して成人した人を意味する。具体的には精神構造が熟成していて、目先の感情よりも理性的な判断を優先する人、もしくは自立的に行動し、自身の行動に責任の持てる人をさす場合もある。また、単なる成人という意味ではなく、必要な理性や知識、経験、品格などを備えた人物のことを意味する』とある。
 更には『心身ともに一人前に成長し社会的責任を負うことの出来る人、落ち着いていて思慮分別が十分にある人』など、多様な表現がなされている。それだけに『大人』という言葉のもつ意味の深さ、重さを感じさせられる。「知・情・意」が十分に発達し、理性的で知性や人間愛に富み、思いやりや礼儀など豊かな人間性を持ち、社会的責任を負うことの出来る自立した人間、即ち高いレベルの人間的成長が大人の条件といえよう。
 かつて子供の頃、親を始めとして自分の身の回りは皆、尊敬できる大人であった。学校の先生は当然であるが、全ての年長者に対しても敬愛の念を持ち、厚い信頼を寄せていたものである。いわゆる長幼の序を誰もがわきまえていた。このことは、年齢相応に心身の発達課題を達成し、成人といわれる頃ともなれば大人としての条件をしっかり身に付けていた、ということにほかならない。
 このような大人たちに囲まれ育った自分であるが、大人として子供たちの前に立った時、改めて感じさせられたことは、子供いうものの凄さと自分の人間としての未熟さである。同時に、職場の先輩の偉大さには感服したものである。現在でも先輩や子供たちに対する気持ちは当時と全く変わっていない。こういう人間の関係が前提になってこそ、子供と親、児童・生徒と教員、大人同士が育ち合うことが出来る。まさに「人間は好きで、尊敬できる人からのみ…」というローレンツの言葉そのものである。
 今の社会現象を見る限り、残念ながら日本社会は人が健全に育つ環境条件が揃っているとは言い切れない。子が親に感謝する、先輩を敬うなど人間としての道理さえ失われ、大人化した子供と子供化した大人が混在した社会でそれぞれが利己的な生きかたをしている現代では、それも止むを得ないのかもしれない。ただ此の儘手を拱いていては、日本人は世界からの信頼を失いかねない。子供が大人になるには「あの人のようになりたい」と子供たちが尊敬し、憧れる大人が必要なのである。「子供たちは批判よりも模範を必要とする」(ジューベール)。
(2008年3月14日)

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体験・経験が育む豊かな人間性

 日本人に求められている能力、コミュニケーション力と創造力、会社が採用時に重視するのもこの二つだという。事実、採用に当たってはグループによるディベートを取り入れるとか、材料を与え何かを作らせることによってその発想力を見るとか、新製品の開発会議に参加させるなどいろいろと工夫しているようである。ここでは詰め込んだだけの知識は何の役にも立たない。会社での営業実績は人間性に優れる人ほど高いといわれている。そのことを証明してくれる人が身近にいる。
 ある大企業の営業マンが契約額日本一をとったと聞いたのが三年前。今から八年ほど前この地に家を建てる時、初対面でその人間性にほれ込み、その場で契約を決めた青年である。彼なら日本一を取るだろうとの予感がし、営業実績日本一を何年か続けている自動車メーカー営業マンの話をした。以来、家族ぐるみの付き合いをしているが、彼の日本一も人間性がもたらしたものである。
 私にも、日本一を目指している教え子がいる。当時はやんちゃで勉強より遊ぶことが大好き、悪さもよくしていたが、素直で憎めない子だった。大人になってからも益々人間性に磨きをかけているらしく、皆に好かれ信頼されて、あらゆる場でリーダーシップを発揮している。二人とも人間性の豊かさがもたらした結果だと言っていい。コミュニケーション力もリーダーシップ力も知識の量や学校の成績や学力テストの点数などとは無関係なもので、人間性や人間としての魅力、力量などがものをいうのである。そのいずれもが、体験・経験によって身につくものであり、これが「知識では人間は育たない」といわれる所以である。
 高校、大学の頃、小・中学校の同窓会によく出たが、そこでは何時も、自分が社会的に未熟な人間に見えて仕方がなかった。いち早く社会に出た同級生達が大人に見え、眩しかったことを今でも覚えている。自分よりずっと大人だなぁと感じると共に、大人になることは社会の荒波にもまれることが必須なのだと知る瞬間でもあった。学歴社会となり今は在学期間が極めて長くなった。それだけ社会人となるのが遅い。このことは長い時間をかけて人間形成をしていることになるが、時間をかければ人間性が豊かになるというものでもない。精神科医の斉藤環氏は「社会の成熟度と個人の成熟度は反比例する」という。現在日本で進行しつつある、いじめや引きこもりの高年齢化などからいえることは、社会が成熟すればするほど個人は未熟になっていくことを示しているのだという。大人が少なくなっていく日本社会のこれからが心配である。
(2008年4月4日)

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人間成長に必要な異年齢集団と遊ぶ

コミュニケーション力は人として成長発達する過程で数々の経験を通して身についていく。特に、幼児期からの人間関係や自然との係わり合いのなかで育つものであるから学校で知識として教えるものではない。子供時代をどう過ごすかが重要でそれに相応しい環境が必要となる。創造力と合わせこの二つの力を育てる要素や条件が揃(っているのは何といっても子供同士の自由遊びであり、自然とも触れ合える外遊び以外には無い。
 それも子供たちだけ、そして群れ遊びが出来る人数で異年齢集団であることが望ましい。年長者のリーダー、所謂ガキ大将がいればまず完璧である。外での集団遊びの重要性については以前も書いたが、社会性、協調性、運動能力、精神的な安定、達成感など人間として成長するために必要な多くの要素が遊びには詰まっている。
 例えば外遊びを経験した子供は集団への適応力を持ち合わせているので学校に上がった時にスムーズに学校生活になじむことが出来る。更に知的能力の発達を促すなど多くの効果もあるとされ、外遊びの減少が学力低下を引き起こしているという研究もある。筆者の子供時代の経験や担任した子供たちから学力と遊びは相関関係があると断言できる。それに、集団外遊びの減少は人と人、人と自然の関係を希薄にすることから、人間性、なかでも他を思いやる心や礼儀、感謝、協調性など心の未発達を招き、社会化や言語能力の発達の遅れの原因にもなる。
 一口にコミュニケーション力といってもこのように多くの人間的要素が含まれていてそのバランスのとれた総合力、言ってみれば人間力ともいえるものであるから学校で教えればコミュニケーション力が身に付くというものではない。また、コミュニケーションとはことばや文字などで意思の伝達を行うことなので、手段としての言語に注目が集まりやすいがアメリカの心理学者A・マレービアンのある実験によれば、相手に与える好・反感情は言語から得られたものは僅かに七%で、三八%は語調、五五%はそれに伴う顔の表情を手がかりに得られるという。
 聞く人の受けとり方は話し手の誠実さや真剣さ聞き手への思いやりなど人間性によって左右されてくるというのである。そういえば、語彙豊かに美辞麗句を随所にちりばめ流れるように話す人がいる。その時は感心して聞くが後には何も残らないという経験を持つ人も多いと思う。言葉は人を表すという。メールなどの文字や口先だけでは相手に心は伝わらない。コミュニケーション力とは人間を磨くことにある。礼儀も思いやりもコミュニケーション力である。
(2008年4月18日)

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好奇心が育む創造力重要な豊かな経験

日本人に求められるもう一つの能力が「創造力」である。これも学校教育に依存してはいないだろうか。学校で教えれば身につくものだと思っているとしたら、それは大きな間違いである。近代日本の発展を支えてきた人々は政治、産業、芸術、教育など、どの分野においても創造力に長じていた。それもそのはず、創造力のある人でなければ新しい時代を切り開くことなど出来ないからである。では当時の人々がどのようにして創造力を身につけて行ったかといえば、それは子供時代に遡ることになる。
 共通するのは、豊かな子供時代を確りと過ごしていることにある。子供としての自由があり、時間(子供専用の時間)、空間(遊びや生活の場)、対象(仲間、自然、遊び道具など)が自らの裁量に任されていたこということが基本にある。ガキ大将グループに代表される子供だけの世界や大自然の中に大人たちに気兼ねすることなくとっぷりとつかるなど、思う存分、本性を発揮できる場や時間があった。そこには大人の目も口も耳も無い。大人に全く干渉されること無く、遊びに自然観察に「夢中になる」という子供本来の姿があった。
 この「夢中になる」という行動を支えているのが子供の本性「好奇心」である。子供は好奇心の塊であるといわれてきたが、その好奇心が創造性を育み「想像力」そして「創造力」を高めるための源になっていた。創造力のある大人は子供時代に得た豊かな経験の記憶を沢山引き出しにしまってあり、必要に応じて引き出すことが出来る。偉業を成し遂げた人たちが「子供のころに自然と戯れたことが自分の原点」と語り、今でも子供の心を持ち続けていてそれが仕事や人生のエネルギーになっているという。
 『人はどんな年齢でも自分にとって意味のある実体験に挑むとき、最もよく学ぶ』(グリーンバーグ)。受験校として有名な神奈川県の栄光学園の教師であった境野勝悟氏によれば、人間が持っている二大基本能力は記憶力(受動能力)と創造力(能動能力)で「記憶力+創造力=10」という式で表される。従って、「記憶力の権化である記憶力10の生徒は想像力が0となるから、教えられたことしか記憶できず、新しいことを工夫することが出来ないのだという。
 社会に出て活躍している人、組織のトップとして信頼され成功している人は記憶型ではなく創造型の人なのだというが、全く同感である。記憶型の人間は,『十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば並の人』という諺そのものだとも。日本の教育は記憶型人間を目指しているように思うが、果たしてそれでいいのだろうか。
(2008年5月2日)

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国主導の意図が明確改正教育基本法16条

人を育てる機能を失っていることは学校についてもいえる。学校は子供に社会生活に必要な知識・技能、社会の維持・存続に必要な諸価値の内面化等を「心身の発達に応じて教育することが目的」(教育基本法・学校教育法)である。ところが現実は国主導によって『心身の発達』は無視され、学力という名の『知識』の詰め込み教育の徹底を図るために教育基本法を変え、法律に基づいた教育を推し進めようとする意図がはっきりしてきた。
 改正教育基本法第十六条は改正前の第十条「教育は、・・国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきもの」が「教育は・・この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と改められた。これは教育の主体が国民にあるという原則から、国・政府が法律に基づいて教育を行うということを意味する。これを裏付けたのが教育再生会議の第一次報告である。戦後教育の混迷から抜け出し二十一世紀の教育ビジョンをどう描くのかという本質的な議論を期待したが、改革の理念も哲学もない、個別問題への場当たり的対策でしかない貧しい報告となった。
 これまでの教育制度を維持し、子供の教育の殆どを学校に依存。そのためには学校の秩序を取り戻す必要があるとの理由から教員免許更新制度を取り入れ、不適格教員を排除する。いじめなど問題行動をする子供には出席停止制度を活用して教室から排除。体罰の一部容認、警察との連携強化などによる制圧によって静かな学習環境を実現する。その上で授業時間を増やし教科書を厚くし、全国学力テストで競争を煽るというものである。この報告通り行われるならば学校はもはや教育の場とはいえない。
 既に学校では子供も教員も心のゆとりがなく追い詰められている。現場を無視したこの改革が実施されれば、学校は今以上に息苦しい所となり、子供も教員も勝ち負けを競う人間関係の中でストレスが増え、信頼関係が崩れることは明らかである。いじめは陰湿化し不登校は増え、教員は自信や意欲をなくし精神的疾患は一層増加する。学校内・学校間格差も広がる一方となる。政府主導の教育改革と呼ばれるものは、学校が人を育てる機能を完全に失い、学校崩壊、教育崩壊に追い討ちをかけるであろう。そうなったときの責任は誰が負うのか。「日本の学校は工場に似ている。創造的な人間を育てるには間違った教育、いまや大量生産の教育は終える時が訪れた。子供は一人一人違うもの、これからは様々な選択ができるような教育システムが必要」というトフラーの指摘をどう考えるのか。
(2008年5月16日)

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学校は人間が育つ場求められる機能回復

学校の人を育てる機能の低下は教員とそれを取り巻く人々の人間性と人間関係及び価値観が関わっている。愛情や思いやりの情、共感、感謝、反省の心など人間性の本質の欠如、公正、公平、誠意、正義、勇気、謙虚などを大切とする価値観などの低下など様々が考えられる。学校では教職員相互、保護者・地域の人々と教員、先生と子供などの人間関係の希薄さが教育機能低下を助長する。
 いろいろな人間関係は人間形成や生きていく上で極めて重要な要素であり土台となる。その人間関係のもとになるものは人間性であり、人間性が人間関係を左右するといってもよい。更に、リーダーともなればその人の価値観や哲学も大いに影響してくる。「子供は規範よりも模範を求めている」といわれるように子供たちにとって校長・教員は親や家族の次に人間としての模範であり尊敬される存在である。「教師の人格そのものが子供にとっては教材である」とも言われるのはそのためである。
 教員を育てるのは校長の人格と識見であり教員同士の切磋琢磨であるが、忘れてはならないのが子供であり保護者や地域社会の人々の人間力である。昔から「教えることは学ぶこと」といわれるように本来、教員は教えることより学ぶことの方を大事にしているものである。筆者が教員になりたての頃、先輩や保護者・地域の人々から人間観、人生観、世界観、子供観などありとあらゆる見方、考え方を日常、インフォーマルに教えられてきた。それもそのはず、当然のことながら当時は保護者を始めとして全てが人生経験豊かな先輩であるから「吾以外全てが師」であった。その頃、保護者や地域の人たちは自由に学校に出入りしていたし宿直という制度もあり、夜、子供たちや保護者が遊びに来ることも日常的にあった。また校内では校長・教頭、同僚そして保護者が若年教員を時には厳しく諭し導き基本的には温かく見守るという空気があり自分は皆に育てられているという実感があった。現代のような研修制度などは無かったが学校は人を育てる機能に優れていた。
 教員といえども世間一般の人たちと同じ子供時代を過ごし人間性も特に優れているわけではない。教員としても一人前になるまでには最低でも十数年を要する。育てられること無しに一律に評価し批判し排除するのでは教員は萎縮し自信をなくすか要領よく上を目指すかで子供の心を育てる教育などできるはずがない。
 本来学校は子供、大人を問わず学びの場であり人間が育つ場でなければならない。まだまだ未熟であるという教員の自覚と学び、そして学校の人を育てる機能の回復がとりあえず教育再生につながると思うのだが。
(2008年6月6日)

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信頼社会の崩壊で変質する教育観

近頃、『教育者』という言葉を聞かなくなった。教育者とは教育を行う人のことであるが、人間性に優れ立派な人格の持ち主であり特に教育に関して十分な知識や経験を持ち特筆すべき教育実践のある人をさしていう。筆者が教員の頃は、明治の教育者・津田梅子、全人教育の理念を唱えた・小原国芳、ペスタロッチー賞受賞の教育家・大村はま、郷里山形の小学校で綴り方教育をした教育実践家・国分一太郎、昭和を代表する教育者・斎藤喜博などをはじめ多くの教育者が知られていた。教師達はこれらの人々を尊敬しその教育実践に学び、少しでもそれに近づこうと励んでいた。官製研修などというものはない時代であったから書籍で学ぶとか研究会などに自主参加するなどして誰もが教育者を目指していたものである。従って、学校という教育の現場には相互に学びあい人格を磨き合うという雰囲気が満ちていた。先輩教師は若手に尊敬され若手教師を育てるという温かい人間関係があった。このことは子供と教師の関係にも表れていた。両者には文化の伝達という教え―教えられるという関係に止まらず人間性・人格といった関係が強くあった。その基盤となるものは人と人との「信頼」である。この信頼が人格関係を形成し「影響、模倣、感化」といった重要な教育作用を働かせていた。従って師弟関係はその時だけでなく生涯に亘るものであった。
 このように、かつての教師の教育観は各人の個性と人格を重んじその自己実現を志向するものであった。それに対して、今日の教師と子供の関係は出席停止など罰則強化に見られるように指導とか管理・支配の関係を強いられている。教師間の関係にも同じことがいえる。これらの事から今の教育現場が如何に人格の尊厳や個性の価値を軽視し単に社会的文化的再生産や経済成長の人的資源と見るような教育観であるかが分かる。背景に信頼社会の崩壊がある。
 何時の間にか教育観、人間観が変質した現代において教育の本質を見るような映画がこの秋封切られる。96歳新藤兼人監督の「石内尋常高等小学校 花は散れども」である。監督は「自分の人生に影響を与えてくれた小学校教師がモデル、その時に受けた感銘というのは先生が持っておられた知識などによるものじゃない。先生の人格そのものから受けたものなんです」「恩師は人間皆出世して偉くなるわけではない。正しく生きるのが一番だと語ってくれた。先生は平凡に生き平凡に亡くなった。でも、その平凡の中にこそ教育の原点があったと思う」という。我々の年代は、映画「二十四の瞳」や黒澤明監督の遺作「まあだだよ」が憧れの教師像であったのだが。
(2008年6月20日)

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教師に必要な条件「人間性」と「人格」

教師が目指すべき理想とする姿「教師像」は何なのだろうか。戦前は聖職者、戦後は民主的な教師像や労働者としての教師像、更に一九六六年にILO(国際労働機構)・ユネスコ「教師の地位に関する勧告」が採択されてからは専門家としての教師像が主流となっている。このほか時代を反映した実存の教師を象徴的に表した教師像に「でもしか先生(教師)」というのがある。
 一九七〇年代後半に大量採用された教師に対して「先生にでもなるか、先生にしかなれなそうな教師」を嘲笑うときに使ったもので、実際は用務員が「先生はデモしかしないんですねえ」といったのを、ある辞書編集者が「デモしか先生」と名付けたのが始まりといわれている。ほかに勤務時間だけ働くというサラリーマン化した「サラリーマン教師」や「組合型教師」などがある。現在では専門職としての教師像が一般的になっているが果たして実態はどうか。
 教師の専門性といえば教育の理念に対する識見や、人間の成長・発達に関する理解、教科内容に関する専門知識とこれらを総合して実践行動に生かす指導力が挙げられるが、これだけでは教師とはいえない。忘れてはならないのがその前提となる人間性と人格である。
 教育は社会における人間の形成作用であり、学校はその過程の一部分を担い人間の個性、能力を引き出し伸ばすことによって最終的には人格の完成を目指すための制度化された機関である。従って、教師の人間性と人格による教育作用が子供たち一人ひとりの人格の形成に極めて大きく影響してくることは論を待たない。このため単なる教育内容についての専門知識や指導技術がどんなに優れていても殆ど用を成さない。人間を教育する教師に必要な絶対条件といえば豊かな人間性と優れた人格であることは言わずものがなである。
 つまり、教師といわれる人々は少なくても子供たちに好かれ、親や地域の人々そして同僚からも信頼され、尊敬される存在でなければならない。ただ、人間性も人格も大人になった時点ではほぼ完成されている状態であるから教員になってから変えようと思っても難しいことではある。しかし教師を目指すからには人間性の基盤である「思いやること」を日常的に意識し何事においても常に子供の立場に立って判断し行動することに努めることが必要である。
 日本の教育は今、行政によって教育の本質からは程遠く理念・理論なき対処療法に低次元化してしまってはいるがその国の教育の質は教師で決まる。かつては世界で最も優れているといわれた日本の教師たち、希望はまだある。
(2008年7月4日)

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教えるだけでなく育ちを導き助ける

「今、学校に教員はいるが教師はいない。管理職はいるが校長はいない」といわれる。教員も校長も学校教育法に定められた教育職を表す言葉であるから、その職に就けば誰もがそう呼ばれる。管理職は通常、会社や役所で部下を使って仕事を管理する職の人を意味するもので、学校では校長・教頭などがそれに当たる。では教師とは何か。辞書によれば「学問・技芸・技術などを教える人のこと」とある。この意味から「家庭教師」「塾講師」などにも使われる。もう一つ「公認された資格を持って児童・生徒・学生を教育する人」がある。この「教育をする人」というのが実は重要な意味を持っている。
 よく教育とは「教え育てること」だといわれるように、教えるだけでは教育とはいえない。教えることはその道のプロなら誰でも出来るが、育てるとなるとまた違った話になる。育つのは子供自身であるから、その育ちに手を貸し導き助けるのが教育の育である。従って専門知識にどんなに優れていたとしても、知識は教えられるが直ちに育てることに繋がるというわけではない。
 教育とは相手の人間性や人格からの感化・影響を強く受けるもので、その後の人生を決めるきっかけになることも多々ある。この原稿を書いている最中に「ぼくらの町はかわっぷち」の合唱で全国的に有名になった東京・荒川区西六郷少年合唱団を組織した音楽教師・鎌田先生と二千人の教え子の「人間ドキュメント」(一九九九)がNHKテレビで放映されていた。教え子たちから聞かれたのは「先生は厳しかったが、お金では買えないものを残してくれた」「怒られるのは音楽についてより礼儀、根性、一所懸命、思いやり、助け合いなど生きるために必要な、基本的な事柄についてであった。厳しかったが達成感があり人生への自信となっている」などであった。鎌田先生はまさに教え子たちにとっての人生の師であったのだ。
 本来はこういう人を教師というのではなかったのか。私もそういう恩師に出会った経験を持つ一人であり、教員になったのも、教科で理科と体育を選んだのもそれらの先生との出会いからである。そして、教育は知識や技術ではないことも教えてもらった。子供から見た先生は私たちの先生ではなく私の先生である。この子供たち一人ひとりの素質、能力、性格などを見いだす、優れた洞察力とそれらを伸張させ、個性ある人間に育成する力が教師には求められる。一斉に画一的に教えて、一斉に画一的に評定し、成績を競わせる学校は最早教育の場とは言えず、教師もいないというのだろうか。
(2008年7月18日)

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校長は「教育者」管理監督は二の次

「学校に管理職はいるが校長はいない」 とはどういうことか。 確かに学校には 「校長」 と呼ばれる人物はいる。 学校教育法第二十八条に、 「校長は校務をつかさどり、 所属職員を監督する」 と校長の職務を規定している。 校務とは、 教育課程の管理、 所属職員の管理、 物的施設・設備の保全管理、 学校事務の管理など、 学校運営上必要な一切の事務を管理することでありそのすべてにおいて校長は決定権を持つ。 また、 監督とは職員の職務執行に対する指揮命令を含んだ監督とされている。 これではどう見ても教育のプロである教育者 「校長」 ではなく単なる組織の管理者でしかない。 数十年子供の教育に当ってきた教育者とは別物の地位であり教育者として子供たちから親しまれ信頼される本来の校長ではないことは確かである。 現在では法律の改正もあって教職経験がなくても校長になれるようになっているから増々その傾向は強くなってきている。
 本来、 教育についての知識理論と経験実績を積み上げ、 教育観、 人生観、 世界観、 子供観など哲学を持ち教育の本質のわかった者が教育職のリーダーとなり、 教職員の教育活動の自主性を尊重して指導助言に当るのが最も大事な校長の役割である。 学校運営の管理監督は二の次三の次でいい。 事実、 教育者として優れた校長の下では、 教員のモラルは高く生き生きし、 その姿は子供たちにも強い影響をもたらす。 更に、 保護者や地域までもが生き生きとしてくるものである。 こういう学校では不登校やいじめなどの問題や教職員の心疾患なども少ない傾向がある。 結果、 校長の管理監督権を際立たせることもなく自然な形で秩序が保たれていくもので、 これが本来の学校の姿である。 教育の場である学校には管理者よりも人間に対する深い愛情と信頼を前提とした教育理念と教育についての洞察、 人間の成長と発達に関する理解を持つ教育者として尊敬される校長が不可欠なのである。
 日本では教育危機が深刻化し、 いじめや不登校といった問題すら十年以上も経った今でも解決していない。 このような状況の中でゆとり教育は悪で学力向上は善だと急な方針転換をしたり、 携帯電話は悪だから子供から締め出すといった短絡的な政策を打ち出すなど教育の理念も理論もない場当たり行政に振り回される学校では子供たちはその被害者となるだけである。 学校の画一性、 閉鎖性、 硬直性が批判されて既すでに三十年以上が経過した。 しかし、 官僚統制と上の意の先取り競争をする教育委員会と学校という構図は今も全く変わっていない。 結果、 益々画一化、 官僚化する日本の学校、 その片棒を担ぐのが管理職校長である。
(2008年8月1日)

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人間形成困難な時代 必要な「教育者校長」

 教育者校長がなぜ少なくなったのか。それは家庭、社会、文化、自然など人間形成に影響を及ぼす教育環境が崩壊あるいは破壊された結果正常な人間形成が困難になったことよるもので皮肉にも原因は日本教育の衰退にある。つまり、人間社会を維持していくためのもととなる人間性が十分に発達する教育環境にないということであるから例え校長であっても全ての人が人間性豊かとは言い切れないのである。
 学校は、乳幼児期に家庭・地域などで人間性の基礎を身につけられて入学してくる子供たちに、「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われる」(教育基本法)教育機関である。ところが人間が社会で生きていくための土台となる人間性の基礎が欠落したまま一方的、強制的に知識・技能・価値観などを積み上げることは、その後の人格形成に極めて深刻な負の影響を与えることになる。人間性の欠如、人格形成の未熟、思いやり社会の崩壊という悪連鎖は人を蹴落としてまで競争に勝とうとする非人間が跋扈する世の中となり決してよい教育環境とは言えない。
 こうした時代背景を読んで学校経営に当たれるのは人間性豊かで優れた人格を持つ教育者校長である。これがもし単に出世欲を満たすだけの管理校長であるならば、子供や教師の実態を配慮しない独善的或いは放任的経営になりやすく校長への信頼は失われその学校の教育力は急速に低下することは免れない。
 このような校長に共通するのは教職員がダメ、保護者がダメ、地域がダメなどと自分が気に入らなければ批判する、或いは前任者を悪く言うなどして自分の力量のなさを他への責任転嫁で逃れようとする言行が目立つものである。これらの言行はいずれも人間性や人格の表れとみてよい。本来校長は学校及び地域の教育実態を的確に把握しどのような人間に育てるのかそのためにどんな学校を目指すのかを教職員、保護者、地域に示し教職員を一つにまとめ地域の協力を得て一体となって教育を推進する使命を担う実践者のリーダ−であって評論家ではない。
 学校経営とは教育であり教育は人間づくりである。従って、ダメと判断するならそれを良くするのが校長の役割であり責任であり力量である。また、人間性が欠けるということは、好き嫌い、妬み嫉み、恨みなど感情を抑制する力も未発達であるから私意による恣意的な経営になりやすい。子どもたちが最も嫌うのが「えこひいき」、それを校長がやっては子供達には示しが付かない。学校には人間性豊かな教育者が必要である。(以下次回)
(2008年8月16日)

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“国追従”なら機能喪失 教委は根本的取り組みを

 人を育てる機能を失っているのは教育委員会など行政も例外ではない。若(も)しかすると、最も機能不全に陥っているのかもしれない。昨年末、いじめによる自殺、未履修問題など深刻な教育問題が起こり、その対応を廻(めぐ)る文科省や国会、教育再生会議、有識者会議などでの議論とその対策が次々と明らかにされたが、それらには共通性がある。

 第一に、どの会議も同じような議論をしていること、第二に問題別個々ばらばらの対策であること、第三に急場凌ぎの対策でしかないこと、つまり教育の本質に関わる議論が殆ど無く、当面の対策だけに終わったということである。これは14年前のいじめ自殺問題対策となんら変わらない。ということは、何年後かにまた同様なことが繰り返し起こるということが予想できる。それに、今回の対策はいじめる側に起こる問題も孕(はら)んでいる。出席停止・別室指導など厳しい対応をすることが子供の心にどう影響するのか、どんな結果を招くかは、教育者なら想像に難くない。もし、この期に及んで国に追従するだけの教育委員会であるならば、人を育てる機能を失っていることは明白である。問題を根本から解決する唯一の道は、国の対策に従うのではなく、地元教育委員会が教育学(教育哲学と教育科学)などを根拠とした抜本的取組みを学校・家庭・地域に示し、共通認識のもとで家庭、地域社会、学校が一体となって行動することしかない。いじめだけでなく不登校や学級崩壊など児童生徒の問題から、大人になっての引きこもりやパラサイト、ニートに至るまで全て根は同じであるとの認識ができるかどうかが、現代日本教育の大きな課題である。

 ただ、日本の全ての教育委員会が人を育てる機能を喪失しているわけではない。全国都道府県・政令都市、市町村教育委員会の取組みを調べてみたが、例えば京都市の「人間関係づくりワークショップ(冒険体験)」、石川県の「温かい人間関係の中で認められ、のびのびと表現し主体的に行動できる学校づくり」、心の居場所のある学校を目指しての長野県「子どもの心を考える集い(幼児からの心の育ちを考える、いじめ不登校の背景にある子どもの心を考える)や子供サミット」などが注目される。いずれも「温かい家庭、温かいクラスと学校、温かい社会を皆で築いていこう」という基本理念が底流にあり、単なる「いじめ対策」ではない。しかも、これまでに十数年の積み重ねがある。

 国の教育政策が教育の本質から離れたものであることがはっきりした今、子供の健全な成長を担保できるのは、地元教育委員会と学校でしかない。教育委員会は人を育てるという教育の原点に立ち返ってこそ、その存在価値がある。

(以下次回へ)
(2008年9月6日)

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減る“本物の教育者” 強まる権力志向

 以前「俺は教育者ではない。行政マンだ」と放言する教育長が現れたと聞いた。教育者に為(な)り切れなかったことへの強がりかプライドが高いかその両方かも知れないが、要するに権力が全てだと言いたいのであろう。

 この言葉の裏には現行制度の深刻な問題が潜んでいる。本来、教育現場というものは、子供と大人の心の触れ合いによって互いに人間として成長し合う場であったから、大人と子供、師弟という信頼・愛敬の人間関係の他には何も無かったはずである。それが法律によって学校が集権化された制度に組み込まれたために、権力による縦の関係が入り込み定着してきた。

 筆者がこのことに気づいたのは、教育委員会に入った1984年のこと。学校とは余りにも勝手が違うことに日々が戸惑いの連続であり、正直違和感に悩まされていた。子供達の居ない職場の虚しさと、決まりきった仕事内容と、はっきりした上下関係には辟易(へきえき)としたものである。

 当時、教育委員会を経験した教師は皆同じような感想の言葉やエピソ−ドを残していた。

 例えば、「起案して上司に判子(はんこ)をもらえば(決裁)責任は上司に移ってしまうんだよ。教師は子供について責任を最後まで持つのにね」。つまり、責任の所在が学校と役所では大きく違うと言うのである。

 もう一つ、ある校長が教育委員会の課長職の辞令をもらったが「俺は教員になるために教員免許を取ったのであって、教育委員会に入るためではない」と上司に直言し、早々に教育委員会を飛び出したと言う話も聞いた。

 この逸話(いつわ)の主は優れた教育者であり、多くの実績を残した大先輩で、教育長時代、折にふれて指導を頂いた一人である。

 この頃(ころ)は、まだ学校は主体性を持ち自立していた。校長ともなれば経験から得た独自の教育論に基づく強い信念を持ち、個性的な学校づくりに情熱を傾けていた。教師とて同じで、教育委員会の指導などを当てにすることは殆ど無く、我が校の子供達は我々教師集団が責任を持って育てるのだとの気概に溢れていた。

 それが時代と共に、次第に役所的な権力志向的風潮が強くなり、教育者としての力量がない人ほど権力を欲しがるという現象が拡がって来た。前述の逸話先輩のような人物とは正反対の教育委員会志向型の教員が多くなってきていると感じたのは教育長の時である。このことは、本物の教育者が減り、官僚や役人的発想をする教員の増加を裏付けている。

 昔から「なりたい人よりならせたい人」というが、誰もが校長になって欲しいと願う人ほど最後まで子供と共に過ごしたいといって固辞するものである。そんな教師に出会うと心が温まる。

 教育委員会が出世へのステップ機関と化しているとすれば、その地域の教育の死を意味する。

(2008年9月20日)

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制度疲労と傲慢化で失われる教育の信頼

 次々と発覚する偽装問題、官僚・政治不信などで揺れる日本社会。人間関係や社会の成立の前提である信用・信頼が今、危うくなってきている。これに追い打ちをかけるようにして起こった教員採用汚職事件。教育成立の基本である信頼までもが失われようとしている。

 大分では教員採用試験で点数の差し替えまであったというから極めて悪質で、教員になろうと一生懸命努力し真剣に選考試験に立ち向かう人々にとってどれほど大きな衝撃を与えたか、想像を絶するものがある。

 それ以上に深刻なのは、子供たちが学校・教師への不信感を増幅させることである。事実、子供たちから「先生は大丈夫なのだろうな」というような言葉を投げつけられた例が多くあったとも報じられている。教員や校長に向ける子供たちや保護者、延(ひ)いては世間の目が、疑心暗鬼になっているようにも思える。失った信頼を取り戻すことは容易ではない。

 では何故(なぜ)このようなことが起こったかは、これまでに本欄で繰り返し述べてきたような教育の制度疲労と、それによる教育関係者の傲慢体質の蔓延がある。

 教育制度は戦後60年もの長きにわたって、時代の変化に対応すらできない状態のまま放置されてきた。その歪(ゆがみ)は教育のあらゆる面に表れている。その制度がもたらしたものは、教育行政の官僚化に伴う関係者の堕落以外、何物でもない。

 以前も書いたように、もともと教育は基本的には自由であり、政治的中立であり、しかも地方の事務とされてきた。従って、本来は官僚組織とは無縁なものでなければならない。

 1950年代まで学校教育は教師同士の切磋琢磨に任されていたし、学校と教委の上下関係はごくあいまいなもので、教委の指導助言は学校・教員が主体的に受け入れるか否かを決めていた。それが、次第に教委の権限が強化され、指示・命令に従う学校の定着が進んでいったのである。それにつれて、校長、教頭までもが教委の顔色を窺(うかが)うようになり、学校から自主・自立、主体的な経営が失われ、教委依存の学校へと変わってきた。このような変化の過程にスライドするように、教委の行政化、権力化が進行し、それに伴って関係者の傲慢化、怠慢化が進んだと思われる。

 人間の陥りやすいこの傲慢性、怠慢性は次第に権力を私物化し、教育組織としての機能を蝕(むしば)んできたのであるが、今、その腐敗した組織の膿(うみ)が出てきたと考えるのが至当である。

 大分の教員汚職とまではいかなくても、教員人事や教育行政人事にまつわる権力の乱用、私物化の例は事欠かない。今回調査した文科省に続いて政府の規制改革会議は、実態調査をもとに年末には改善策を打ち出すというが、制度の抜本改革なしには何も変わらない。


(2008年10月4日)

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優れた教育長へ 有識者複数での選出を

 「お酌が下手だと管理職選考を受けさせてもらえなかった」「イエスマンにならないと選考試験の推薦がもらえない。例え推薦されても下位推薦で到底合格など望めない」「教育長に逆らったり言うことを聞かなかったりすると公私にわたり監視され徹底的にいじめを受ける」「県人事担当者が気に入らない候補者を『市町村の推薦が低いのでダメだった』(実際は上位推薦)と市町村のせいにして不合格にする」など人事にまつわる話は数知れない。いずれも法律に違反するものではないが、人間の心にかかわることだけに、心を育てる教育の場にあってはならない。

 教育における人事とは、教職員の採用、異動、昇任、分限、処分など教育の根本にかかわることであるから、人事を行う側も受ける側も絶対に私情を挟んではならないのは当然。また、教育職人事は教職員一人一人の資質、能力、適正を活(い)かし、優れた教育がなされるようにするために行うという基本理念がある。私が人事にかかわっていたころは、この理念が当時の教育長の口癖であり、代々先輩から後輩に引き継がれ、担当者には徹底していた。

 ところが最近、差別人事、情実人事、縁故人事などといわれるような人事がまかり通るようになってきたようだ。これは極めて由々しいことであり、放置できない問題である。このような人事は、一般的には信頼も尊敬もされない者が、自分の存在感を示す唯一の方法として利用する、といわれている。従って、結果は人事の基本である適正な評価や人事の公正さを欠き、多くの人にとっては非情なものとなる。こういう人事は、誰もが不満に思いながらも、おかしいと言えないのが常である。まるで子供たちのいじめの世界そのものである。大分県の教員採用汚職事件の時、マスコミ報道のなかで盛んに言われた「教育界の閉鎖性、陰湿性」とは、こういうものである。

 ただ、大分には権力の横暴を許さないという正義が教育界にあったことが唯一の救いである。教育は、子供一人一人の自立のために、人間性を育て社会力を身につけるのを助ける作業である。門脇厚司氏によれば、子供の社会力は「人と人がつながる力」「社会を作っていく力」だという。人と人がつながるのも、社会を作っていくのも、その前提のなるのは「信頼」である。教育に携わる者のトップに位置する教育長が、人間性に欠け、信頼されていないというのでは、教員にとっても、子供にとっても、これほど不幸なことはない。

 このように、どういう教育長を選ぶかで、その地域の教育が左右される。その教育長を選ぶのは首長であるが、優れた教育長を誕生させるためには、専門家など有識者複数による選出が不可欠である。


(2008年10月18日)

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center@ichiyomi.co.jp 市川よみうり