市川よみうり & 浦安よみうり online

連載「ホンネで語る 教育の理想と現実」


連載を終えるに当たり

 今回をもって本連載を終わらせていただくことになりました。

 「『教育』という二文字は市川市に置いていく」との言葉を残し、この地穂高で人ではなく植物の『生育』を生き甲斐にしようと準備をしていた矢先、小欄の連載を依頼されたのが17年前。読者からの「これからも真実を書いてほしい」との励ましのお手紙を支えに、以来「真実を本音で語る」ことに全力を傾注してきました。

 しかし、小欄が長期連載によりマンネリズムに陥っているのではないかと考え、ひとまず完結致します。皆様から頂いた多くの忠言と励ましに対し、紙上を借りて心より感謝を申し上げます。

 連載を終えるに当たり読者と考えたいことは、現在の教育が子供の将来を洞見したものになっているかどうかを疑ってみる必要があるということです。

 世はフェイク時代、政治・行政は勿論、メディアまでがフェイク情報だと言われています。こういう時代に人が身に付けたいのは、溢れる情報の中から事実・真実の情報を見分ける洞察力と批判力です。批判の中には真実が、反抗の中には正義が隠れていると筆者の経験からは言えます。

 洞察力を養うには生の体験(実体験)が不可欠です。子供は好奇心に従い実体験を通して感性、創造力(智恵)、洞察力を育てます。そのためには、何をしても良いという「自由」が大事なのです。多様な実体験と自由な発想ができる自由な時間と場所です。

 身近な大人は勉強よりも子供の好奇心を大事にし、子供が夢中になるものを黙って応援するゆとりがほしいものです。社会問題化しているいじめ、不登校、コミュニケーション力不足、思いやりの無さなども、子供時代の「自由」というゆとりの無さがその根源にあります。筆者が地域での遊びの重要性を叫び続けてきたのはそのためで、本来、子供は学びに貪欲で、「遊び(実体験)は学び」なのです。

 AI時代を迎えた今、知識や技術を教える学校はAIに取って代わられ役割を終えるでしょう。フィンランドなどでは1990年半ばに「教えない教育」にいち早く切り替えています。近い将来「教える」という概念は消え去ると思います。それなのに日本では文科省も教委も未だに「教える」ことに力を入れています。これでは子供達の未来が不幸になることは目に見えるのですが、洞見することができないのでしょうか。

 子供の人間的成長も、将来の幸不幸も、大人次第なのです。(完)
 
 (2018年12月15日)  

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市川教育の変質(2)

 市川市教育の変質に対する声で「教育施策の文部科学省化」の次に多かったのは、教育委員会と学校・校長、子供・保護者との関係が大きく変わったというものである。

 市では今、教委と学校・校長が上意下達の硬直的関係にあり、校長は児童生徒・保護者より教委の方を向いているという。教委も校長・教員擁護の姿勢が強いという。事実、公にすれば人権問題にも発展し兼ねないと筆者に相談してきた良識ある保護者の訴えに対し、教委は保護者の声を直接聞くこともなく、一方的な校長擁護の対応で、絶望した生徒は市外に転校している。

 ある校長は、教育長批判や教委とは異なる独自意見が漏れると自分だけではなく教職員の人事にまで影響が及ぶので怖いと言う。実は筆者も同様の相談を数件受けているが、これは明らかに子供の教育に資するという教職員人事の本質逸脱という由々しき問題である。

 最近退職した元校長によると、自分の思い(理念・信念)を実現できないでいる校長が可哀想だというのだ。学校の最高責任者である校長が自ら主体的に判断し、行動できないというのは異常である。

 何時頃からそうなったのだろうか。筆者が現役の頃までは教委と学校・地域はそれぞれが尊重され、自立した存在であった。従って、学校は独自の教育理念を持った校長を中心に教職員と地域の人々が連携し、知恵を出し合い、その地域の子供たちを育てるための特色ある学校づくりに汗を流していた。教委も決して国に依存することなく、地域や子供たちの実態に即し、市川市行政の特性でもあった先見性と創造性に基づく市独自の教育施策を推進していた。

 さらに、校長の集まりで任意団体である校長会も教委に従属するのではなく、主体的・能動的に学校教育の向上発展に尽力していた。従って筆者も学校・校長の自主性を尊重し、学校訪問は要請時以外は極力控えるようにしたのである。校長会と教委は対等であり、共に教育のために力を合わせる立場にある。

 いずれにしても、学校は子供が学ぶところであり、子供たちの模範になるべき大人たちが、自分の承認欲求を地位や権力で満たそうとしていたのでは何とも醜い。子供は大人の生き方に敏感なだけに、人間形成に暗い影を落とすことは間違いない。

 〝トップが変われば組織が変わる、教育も変わる〟。新市長誕生を機に、「子供たちを大事にした市川教育」を蘇らせたいと強く願う。
 
 (2018年12月1日)  

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市川教育の変質(1)

 これまでに先輩諸氏から市川教育の変質を不安視する声を多聞している。その最多が教育施策の文部科学省化。文科省の教育方針・政策をそのまま学校等に丸投げする教育委員会になっているというのである。例えば研究テーマ「学力向上推進校」(文科省指定研究校)の受け入れ。つまり文科省の教育政策を実践し、その成果を報告するという、いわば文科省の実験校である。

 かつての市川教育は市政が「文教都市・市川」を標榜していたこともあって、教育面では「先見・独創(創造)の教育」を全国に発信していた。国に先行すること30年余、1980年、全国に先駆けてコミュニティ・スクール(C・S)事業を始めたのが市川市。その他にも情操を高める読書教育、花・音楽いっぱい運動など独創的な施策が多数展開されていた。そして何よりも筆者が重視したのは、全ての施策が教育の理念(不易)である人間教育に基づき、家庭、地域、学校・教委が一体となって子供一人一人の豊かな人間形成を支えていたことで、そこには「子供を大事にする」という一貫した姿勢があった。

 当時の教育長が「5%の子供達」という言葉を度々使っていたが、これは、高校に進学できない少数の子供たちを思う気持ちで、当時の教育施策の原点には一人一人の子供への教育愛があったことが窺われる。

 その市川教育を代表するC・Sが今、国の政策と化したことで本来の趣旨からすっかり変わってしまっているというのである。現在全国で実施されているC・S制度は法に基づいて行われる学校運営協議会制度であって、市川市本来のC・Sとは全く異なる。

 大きな違いは国のC・Sが「学校運営に意見を反映させる」ための仕組みであること。つまり「地域は学校の応援団」(市川教委の言)だという学校中心の考え方である。地域の教育力で子供たちの学習を支援するという本来のC・Sの理念とは掛け離れている。これは、国特有の制度作り優先の考え方で、子供の教育にどれ程役立つかは疑問視されている。

 人格と個性を尊重し、その全面的発達を目指すというのが現代教育観であるが、経済成長の人的資源と見る国の教育観に翻弄されているのが教委と学校の現実である。もし心ある教委であるならば、叡智と創造性を集めて子供達の幸せのための教育を推進すべきではないのか。長野県教委は既に人間教育に舵を切っている。
 
 (2018年11月17日)  

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自然との触れ合いが知的発達を促す

 「人間は自然の生徒であり、地球は人類の学校である」「子供は自然。自然を壊すことは子供を壊すことである」。世界的なこれらの言葉を裏付ける、自然と子供たちの成長・発達について筆者の実体験を基に考える。

 自然の美しさや神秘に対する感動は、子供が自分の目で見、耳で聞き、手で触れるなど直接体験によってのみ生まれるもので、親や教師が教えられるものではない。自然との直接体験は、子供にとって実践的な知識や知恵を習得したり、感性を磨いたりできる貴重な場なのである。

 自然の原体験の不足が現代の言葉の貧しさにつながっていることは論証されているが、国は勿論、教育委員会、学校も深刻な問題とは捉えていないようだ。

 自然との原体験とは水、土、火との体験である。子供は水遊び、泥んこ遊び、焚き火が大好きで、これら遊びの中で成長・発達していく。

 土との触れ合いでは大地の温かさが分かる。寒い日に土に触れると「大地ってこんなに暖かいのだ」と体感できるが、その機会が今では殆どない。『四季の歌』(荒木とよひさ作詞作曲・芹洋子歌)の一節「冬を愛する人は心広き人、根雪をとかす大地のような僕の母親」。この歌詞を実感を伴って分かる人がどれほどいるだろうか。同様に井戸から汲み上げた水が温かいと体感することや、逆に湧き水や小川の水の冷たさ、森の中に入った時の涼しさを体感することもないだろう。

 火との体験は焚き火がその代表。今はできないが、子供は焚き火から多くのことを学ぶ。後に学校で学ぶ放射熱とその進み方、遮り方、空気(酸素)の働きをはじめとする燃焼の原理などの基礎体験をする。勿論、焼き芋などの楽しみもあるが、剪定した生の木の枝を火にくべると冬芽が急速に生長して葉を広げるという現象に生命力の凄さを感じることもできる。

 その他にも、自然の直接体験は人間の成長・発達を支えてくれる。例えばゾウムシがたった1個の卵を産むために30分以上も時間をかけて葉を折りたたみ、丸めていく姿を観察することで、命の大切さを感じ取るなど、多くの感動や発見があり、好奇心を満たし、知的発達を促してくれる。花をきれいと感じるだけの子供より、自ら育てる子供の方が情操が発達しているともいわれる。

 このように自然は子供にとって豊かな学習の場となり、ゲーム遊びとは違い、知的発達にとって貴重な教育環境なのである。
 
 (2018年11月3日)  

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知的発達と好奇心・探究心

 最近の幼児は好奇心が希薄になってきたと言われるが、それは幼児が主体的・能動的に関わることが少ない生活環境が影響していると考えられる。

 「好奇心」と「探究心」は「生きる力」の原動力で、一生涯持ち続ける必要のあるものだが、特に幼児期においては『知的発達を促す』うえで極めて重要であり、幼児教育の基本に据えられるべきものである。

 「好奇心」は人間が生まれながらにもっていて、珍しいものや未知なものに興味・関心を示し、接触したり探索したりしようとする心の働きである。幼児が何かと見たがり、知りたがり、試したがったりするのは環境へ関わりたいという意欲の表れである。

 「探究心」は好奇心を動力として、対象になったものの本質を究めたいという内的動機づけとなるもので、幼児の知的発達につながる。

 つまり、好奇心や探究心は、幼児が身近な環境に関わることで主体的・能動的な活動を誘起し、観察力を駆使して既知や経験と照らし合わせながら自己の課題に挑み、自ら解決しようとする原動力になる。幼児が「これなあに」「どうして」などと繰り返し聞いてくるのは、未知なるものを受け入れるための心の葛藤によるものであり、この主体的・能動的活動を通して、自発性や自主性、そして感性や創造性などを育てていくのである。

 では、好奇心・探究心を育てるために必要なことは何か。結論から言えば、身近な環境に「自由」に関わって自己を表出し、表現できる生活があること。幼児が主体的に関わりたいという意欲が持てる環境が不可欠で、安全重視の公園や園庭など大人が考え与える環境では決してない。

 都会では、このような環境を見つけるのは難しいかもしれないが、子供と共に探せば思わぬ場所に子供が興味関心を寄せる場所が必ずあると思う。できれば、幼児が「自由な遊び」を通して身近な環境や友達と直接的・具体的体験ができる場所があればなおよい。地域の子供同士の群れ遊びはこれらの条件を満たすものである。

 子供を受け入れる保育園や幼稚園、学校においても同様に、植林、雑草園・草花園やビオトープなどにより子供が環境と自由に主体的・能動的に関わる生活の中でこそ、子供の知的発達は促されるということを認識して生活環境づくりをしたい。

 幼児時代は人間性や知性を育む教育の原点である。大人が与える環境ではなく幼児自らが能動的に関われる環境を見つけたい。
 
 (2018年10月20日)  

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 今回は、AI時代の学力観と教育の在り方について筆者の経験を基に考える。

 学力とは学校で育てるべき、人生を生きるための基礎・基本となる知的能力。具体的には、言葉や数字を適切に使える能力、所謂「読み書き算」、他者との議論や協働を通して物事の見方や考え方を広げる能力、直接体験や経験から課題を発見して探究・解決する能力、将来の社会を展望して自分の生き方を考える能力などである。

 しかし、これまでは進学のための知識、即ち結果としての知識量を増やすことに傾注してきた。その反省から1990年代後半には、思考力と判断力、表現力、創造力、それらの土台となる学習への興味・関心・意欲を総合する力を新学力観とした。新学力観は主体的に物事を捉え、自ら解決していく能力であるとし、これを「生きる力(知恵)」と名付けた。この能力を身に付けるには自然や社会の現実に触れる直接体験が不可欠であり、鋭い観察力と豊かな感性によって自分でまず問題に気づく力が必要となる。これは、従来の教える教育から、主体的な学びへの転換である。

 一方、教員にはどんな資質・能力が必要か。一般的には①教育理念への識見と洞察②人間の成長と発達に関する理解③教科に関する専門的知識とそれらを総合しての指導力(力量)――などだが、教員と子供との関係において最も重視されなければならないのが専門知識や指導力以前に教員の人間性である。

 それと、学習効果が高まるのは子供の心と教員の心が通じ合ったときだということを忘れてはならない。教員の話を耳で聞く(言葉)だけでは内容は伝わらない。昔から「目は口ほどに物を言う」と言われてきたが、その諺を証明した米国の心理学者A・マレービアンによると、話の内容を言語から得られるのは僅かに「7%」だけで、その他は目と目を見つめ合うことや誠意溢れる表情からだという。

 教員が指導技術をいくら磨いても、心のつながり(信頼関係)がなければ教育は成り立たない。教員は子供一人一人の目を見つめ、子供の内面を探りながら学習活動を進めていくことで学習効果を高められる。授業参観では教員と子供の目を見ることで、両者の心の関係性を知ることができる。

 要するに、教員そのものの在り方、生き方が教育になるということ。学力向上も、教員の指導力ではなく人間性次第といえる。
 
 (2018年10月6日)  

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人間形成を阻害するアンバランスな現教育

 このところ、自然現象による災害や被害に見舞われることが多くなった。猛烈台風や集中豪雨をはじめ、農作物の成長異常、魚類・昆虫などの生息地の変化などは、いずれも地球温暖化が原因とされている。自然界はすべてにおいてバランスによって成り立っているが、地球の温暖化がそのバランスを崩した結果だといわれる。

 教育にもバランスが必要だが、今それが大きく崩れている。教育の理想は、知・徳・体の調和的発達であり、自律心、共感、協調性、思いやり、感動する心(感性)など人間性の豊かな発達を目標としているが、現行教育は知育に大きく傾斜している。その為、子供達が物事すべてを頭で考え、心や体で感じることができなくなっている。なぜそうなったかは説明するまでもなく、学力向上・知識中心の教育観にその原因がある。

 ではどうしたら教育の理想に近づけるか。それには入学以前の生活環境から考える必要がある。人間に求められるのは創造力であり、その基礎となるのは想像力(空想・連想)と感性である。それらは直接体験による感動によってのみ育つもので、しかも育まれるのは幼児期である。子供は、身近な大人からの感動と感化で豊かな心を、また自然の神秘を体験し感動することで感性を豊かに育てていく。

 東京芸術大学元学長・平山邦夫氏は生前、日本教育新聞紙上で「感性とは、子供の時に心の奥底でものを感じることから始まる。幼い時、親の深い愛情に包まれて、人間からも、自然からも、素直な心を身に付けることが、美しいものを美しいと感じ、清いものは清いと感ずる是非のわかる人間に成長する根本だろうと思う」と語っていた。人間や自然との感動体験の無いまま幼児期を過ぎると、学校等で知識として学んでも本当の感性とはならないということだ。

 また創造力は気づく(直観力)ことから始まる。その発見をもとに想像を巡らす、夢を広げる(感性)、そしてその夢や想像を論理的思考でまとめる(理性)と創造となるのである。この直観力も、子供時代の五感を使った直接体験が育てるのであり、TVゲームやスマホなど視聴覚情報や、雨、風、気温など自然現象から隔絶された人工的空間の生活では、直観力も感性も決して身に付くことは無い。

 「空想は知識より重要である。知識には限界があるが空想は世界を包み込む」(アインシュタイン)。幼児期の生活環境を見直したい。
 
 (2018年9月15日)  

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PTAの原点

 PTAの原点を考えてみる。PTAは戦後、米国からもたらされたもので、その目的は子供を健全に育てるために保護者が学校と連携し、家庭、地域の教育を進めていくものであり、子供たちが育つ地域社会と学校を結ぶ太いパイプの役を果たす。

 それが、長い年月を経る中でPTA本来の目的、役割が歪曲されてきた。その原因の一つに組織の全国化がある。学級―学年―学校―市町村―都道府県―全国PTAというような縦の系列が完成。その結果、全国PTA連合が大きな力を持つようになり、政治に直結するようになった。

 もう一つの原因が、目的の中にある「連携」という意味の取り違い。「連携」とは、自立している者同士の対等な関係をいうのであって、依存・従属の関係ではない。つまり、P(親・保護者)とT(教員)が対等な立場で地域の子供を育てることを目的としている。

 ところが、その組織内ですら上下関係が意識されるようになり、対等であるべき教員と保護者が現実には学校・校長の下に置かれ、PTAは学校の支援団体だとの認識が一般的。更に、単一PTA内部における会長・役員と一般会員との関係、或るいは、元役員と新役員との関係にも上下関係が意識され、子供の教育支援というよりは大人の承認欲求の場となっている。

 また、会費の納入は本来任意であるべきはず。しかも会費の使い道も不透明だ。子供の教育の為に使うべき会費が上部組織への上納金や、学校の備品購入などに使われるのはPTA活動の本来の趣旨ではない。その他にも、役員による会員いじめがあったり、政治家への踏み台にしていたりと醜聞には事欠かない。このように子供の教育という目的から大きく乖離し、多くの問題をはらむ中では、会費拒否や役員のなり手不足は無理からぬことである。

 今から24年前になるが、当時のPTA活動を疑問視していた筆者は、校長会(会議)とPTA連絡協議会(総会)で本来の目的を話してPTAの変革を訴えてきたが、その後に動きはなかった。そこで立ち上げたのが家庭・地域の教育力で子供を育てるというナーチャリング・コミュニティ(NC)事業である。

 本場アメリカのPTAは「子どもの幸せ」を理念に市民が誰でも参加できる組織になっているというが、残念ながら日本のPTAは子供の為とは言い難い。もし本当に子供の幸せを望むなら、PTAに替わる地域の教育組織をつくらなければならないだろう。
 
 (2018年9月1日)  

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ヒトの進化と地域コミュニケーション能力

 ある大学の調査によると、現在の大学生に欠ける能力は、コミュニケーション力とリテラシー(読解力)だという。これは、社会で生きる人間にとっては危機存亡の秋といっても過言ではない。なかでもコミュニケーション力は人間が生きていく上で最も重要な能力で、これが身に付いていないと人間関係がうまくいかず、社会で生きていくのに困難を生ずる。

 何故なのかは、ヒトの進化から考えると分かり易い。古人類学者によれば、20万年前のホモ・サピエンスの時代から人類は、数家族が野営地に集まって生活し、子育てや狩りなどを共同で行いながら生きてきたことにより、仲間意識や集団への帰属意識が芽生え、更に同族意識として発展し、人類の普遍的な文化として根付いてきたという。ヒトは進化の過程で他者との結びつきによる安心と快適さを得てきたと考えられる。

 子供を育てる為にも他者との結びつきを必要としてきた。人間は無力な赤ん坊として生まれ、自力では生きられず、大人の保護と世話を必要とする。しかし、その一切を親だけでこなすのは不可能で、最低4人が必要ともいわれる。人間は社会との結びつきが欠かせなかったのである。

 ヒトが生きるため、人類が繁栄するための智恵が社会形成であった。社会では他者と協力し合えるように共感力や思いやりなどの情や、意思疎通のための言語が発達し、更に互いに交流するスキルとして物語、音楽、ダンスなどへと発展してきたと考えられる。

 コミュニケーション力やリテラシーも20万年の進化の過程で人類が身に付け引き継がれてきたもので、他の多くの種が絶滅したホモ属の中で唯一生き残ったホモ・サピエンスが繁栄できたのは、社会形成ができた為である。つまり、コミュニケーション力やリテラシーは生物の進化の中で現生人類が生き残りをかけて身に付けた生きる力といえる。

 ところが、現代は科学技術の発達や都市化などによって生活が便利になり、一人でも生きていけるとの錯覚さえ抱くようになった。そのようななか、子供時代を人や自然との出会いが極端に少ない生活環境で過ごしてきた学生に、それらの力が欠けているのは当然と言える。

 人類の滅亡を防ぎ、その繁栄を途絶えさせないためにも、地域での仲間意識や帰属意識を取り戻す努力をしなければならないということを、この調査は教えてくれている。
 
 (2018年8月18日)  

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承認欲求を満たす教育を

 このところ「承認欲求」という言葉をよく見聞きする。「承認欲求」とは、アブラハム・マズロー(米・心理学者)の自己実現理論に基づく発達心理学の定説であり、高校の教科書にも掲載されている。

 マズローは、人間の基本的欲求を低次から生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求の5段階に分類。下位欲求が満たされると上位欲求へ進むことができるとしたので「階層説」とも呼ばれる。

 4層目までが「欠乏欲求」で、その最上位が「承認欲求」。この欲求は自分が集団(社会)から価値ある存在と認められ尊重されることを求める欲求だから、これが満たされないと不安や劣等感、無力感などに苛まれる。そのため大人になっても注目を浴びたい、尊敬されたいとの思いが強く、承認欲求を満たそうとして地位、権利、名声などを求める。

 つまり、マズロー理論によれば「承認欲求」が満たされないと成長欲求である「自己実現欲求」を満たすことができない。従って「自己実現」即ち自分の可能性を十分に開発し発展させることができない。その為、生きることに常に不安な気持ちが付き纏う。そこでより高い地位に就こうとするとか、流行のSNSで拡散に依存するなどして自分の価値を認めてもらおうと必死になる。

 では、なぜ大人になっても「承認欲求」が満たされないでいるのか。原因は、幼少期に両親からの愛情を受け取れなかったため自分の生きる意味や存在価値を感じられずにいるというのが真説である。

 しかし、満たされないのは家庭が原因だからと突き放す前に考えたい。子供が人間形成をする教育環境は家庭の外に地域や学校(幼稚園・保育園を含む)があるということを。特に地域が重要で、その優れた教育力をもって主体的に子供の成長を支えることが子供たちの「承認欲求」を満たす場になる。地域は学校以上に子供の人間形成の能力を持っていることを再認識したい。

 一方、学校は子供一人一人の家庭環境を把握・理解し、子供の興味関心を見極め、長所を認めそれを伸ばす教育、個性尊重の教育を行うことで、子供は相互に認め合うことの大切さを学び、自らも認められることを経験し「承認欲求」を満たすことができる。

 今、大人になっても「承認欲求」が満たされないでいる人々が多い中、家庭も学校も頑なに知育教育に拘るのは、将来ある子供にとっては極めて不幸である。
 
 (2018年8月4日)  

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 これからの学校教育は「アクティブラーニング」(能動的学習)でいくと文部科学省は言う。アクティブラーニングとは、子供が課題を見つけ、解決に向けて探究し、成果を表現するまでの過程を主体的に行う学習。具体的には体験学習や調査学習、グループディスカッション、ディベート、グループワークなどをいう。この学習方法は、教育関係者なら20年ほど前の第15期中教審答申にそっくりだと思うであろうし、1970年代、筆者が教員の頃から行われていたものでもある。

 その一次答申、第1章「これからの学校教育の在り方」には「まず、学校の目指す教育として(a)〔生きる力〕の育成を基本とし、知識を一方的に教え込むことになりがちであった教育から、子供たちが自ら学び、自ら考える教育への転換を目指す。そして、知・徳・体のバランスのとれた教育を展開し、豊かな人間性と逞しい体を育んでいく」、更に「そうした教育を実現するため学校は(c)〔ゆとり〕のある教育環境で〔ゆとり〕のある教育活動を展開する。(d)教育内容を基礎・基本に絞り、分かりやすく、生き生きとした学習意欲を高め…個性を生かした教育を重視する。(e)子供たちを一つの物差しではなく、多元的な、多様な物差しで見、子供たち一人一人のよさや可能性を見いだし、伸ばす…」とある。

 この答申でいう〔生きる力〕を育むために重要とされたのが、一人一人の個性を生かした教育であり、その学習方法が「自ら課題を見つけ、自らの力で考え解決する、つまり児童生徒が主体的に問題を発見し、解を見いだしていく」というもので、アクティブラーニングと何ら変わりない。

 英語で表現し、あたかも新しい教育方法と見せかけてはいるが、これまで学力低下の元凶としてきた『ゆとり教育』の再現であり、名前を変えて出してきたとしか考えられない。

 文科省の説明では、国際学力調査では一定の改善が見られたので『学力向上』一辺倒の教育からの転換を図るのだと言う。ということは『学力向上』教育が子供の為ではなかったということになる。この10年余の子供たちの学びや教育現場の混乱に反省の目を向けることなく、しかも、教育内容の精選とゆとり時間の確保や少人数学習の条件整備など、未解決のままに唐突に方針だけを急転換するというのは理解できない。

 主体性を持たず、国の教育方針に依存してきた教育委員会や学校は、この責任をどう説明し、どう取るのか。

 (2018年7月21日)  

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AI時代と教育

 「学校が企業の待合所になって『勉強のできる子』を育てているうちは本当の教育はできないのでは」とは教え子の言葉。まさに至言である。教育本来の目的は「人格の完成」、つまり「ヒトを人に育てる」ことだが、百歩譲って「生きていくための能力を身に付けること」を重視したとしても、今の学校教育は余りにも近視眼的であり付け焼刃的ではないのか。

 時はまさにAI(人工知能)時代を迎えようとしている。AIはコンピュータと違い、ディープラーニング(深層学習)により主体的に認識、判断をすることができる。そのため、いずれは「人間の知能を大きく凌駕する人工知能が登場するのは想像に難くない」(東大准教授・松尾豊氏の著書『人工知能は人間を超えるか』=角川選書=より)という。

 AIは人間の生活をより便利にするが、一方でAIやロボットによって仕事が奪われる心配もある。オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授が2013年に発表した論文「雇用の未来」によれば、今後10~20年で米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いという。日本では約63%の職業がAIコンピュータにとって代わられる可能性があるといわれる。なかでも専門的知識や論理的思考力で行う職業の大半はAIに置き換えられて行くだろうという。

 では、AIやロボットに置き換えられない職業にはどんなものが考えられるか。それはクリエーティブな仕事や緊急時に自ら臨機応変に判断する必要のある仕事、そして人間によるケアの必要のあるものなどが挙げられていた。それが今では前二者でさえAIに置き換えられる運命にあると言われる。残るは人間のケアが必要なもの、つまり知識や技術、思考力などより人間性・品性、感性などといった人間そのものの価値が重視される仕事ということになる。

 日刊SPA!のウェブサイトの記事で、国際政治経済学者の浜田和幸氏は次のように語っている。

 「これまで人類は科学技術を飛躍的に進歩させる一方で、破壊や対立も巻き起こしてきました。今後は〝人間らしさ〟がより必要になってくる時代です」

 10~20年先といえば、今の小学生が社会に出る頃。学歴社会の崩壊も予見できるなかで、現在の教育が社会でどれだけ役に立つかは甚だ疑問である。浜田氏の言う人間らしさ(人間性)の豊かな人間を育てる教育が今望まれる。
 
 (2018年7月7日)  

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自立と依存

 最近の日本社会で起こる様々な出来事を見聞きしていると、大人になっても自立できないでいる「依存」的な人間が多くなっていると感じる。特に政治、行政、スポーツ、教育など組織の責任ある立場の人々にその傾向がみられる。更に教育の学校依存、モンスターペアレンツ、パワハラ、大人のいじめなども依存心が根底にある。

 依存心とは、自分ではなく誰かが自分を満たしてくれると思う心理であり、人間の成長・発達段階では幼児レベルである。幼児性から脱皮できないでいる大人を「大人の幼児化」と名付けたのがK・ローレンツ(1903~89)で、著しい文明の進歩が自立心や忍耐心を低下させ、自分で自分のことができなく依存心を増大させているという。

 大人の幼児化で問題なのは、自分の判断で責任ある言動をする自立した人とは違い、依存心の強い人は責任まで人に押し付ける(責任転嫁)ことにある。自分に不都合が起こると人の所為にして保身に徹する。これは自己愛性人格障害の症状でもある。

 教育の目的は「自立した人間」に育てることであるが、幼児化した大人の依存社会では子供の自立は容易ではないことは論を待たない。

 子供が自立する上で障害となるものとして、幼児化した大人が抱く前近代的な子供観がある。権利主体の子供として、子供時代そのものに価値があるというのが現代の子供観。だが近頃の報道では、躾と称した暴力や、車内に放置する、食事を与えないなど、子供の生きる権利さえ脅かされる現実が伝えられている。これは、生かすも殺すも親の権限、子供は小さな大人であり無知で未熟である、として人格を持つものと見なされず、親の私有物とされていた近世以前の子供観である。

 これとは正反対に見えるのが溺愛、そして過保護、過干渉をする大人の存在。子供の生活の全てに関わり、監視し、指示し、評価し、全ての危険を除去して失敗をさせない。これは一見、子供への愛情と見えるが、実は管理であり、大人の保身でもあり、身勝手でもある。これでは依存心以前である依頼心からも抜け出せない。

 人は依存―反抗―自立―相互依存というように成長する。従って、本当の教育は子供自身の自発的な活動を取り入れて、主体的に生きる喜びと成長しているという実感を大切にしていかなくてはならない。これができるのは自立した本当の大人でしかないのである。
 
 (2018年6月16日)  

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学びと体験・経験

 経験から切り離された「知識」は単なる「情報」に過ぎないが、両者を混同してはいないだろうか。現代はインターネット上に「情報」が溢れている。従って子供逹は情報をたくさん持つことは可能だが、その得た情報を知識にするための体験・経験が極めて乏しいと言える。

 子供時代に地域での集団遊びや自然との触れ合いなど豊富な体験をしていれば、学校で学ぶ情報(理屈)がそれまでの体験と結合されて生きる力として役立つ知識となるが、体験の裏付けのない情報は知っているというだけで、あくまでも情報のままでしかない。しかし、情報だけでも正解を得られる学力テスト、その成績の優劣だけで人間を評価するような社会にしてはいないだろうか。少なくても子供はそう感じている。

 子供時代の体験を支えるのは自然相手、子供同士の遊びであるということは何度となく書いたが、今回は視点を変えて学校での学びと体験について書いてみる。

 学校とは、教員が教える場所ではなく、子供が主体的に学ぶ場である。即ち、学校は昔から学び舎・学窓・学びの庭などといわれているように学ぶ(まねぶ)ところなのである。

 従って、教員の役割(支援)は子供主体の学習を進めていくことと考えたい。この主体学習に欠かせないのが体験だ。学習課題と学習教材を工夫し、子供にとって学ぶ意欲を喚起する課題・問題であると共に、その意欲を持続していけるような魅力的かつ適度に難解な教材であることが望ましい。このような課題と教材に遭遇すれば、子供は学びに我を忘れて没頭するものである。

 学ぶことが教育であるからには、学びに相応しい教育環境が必要である。中でも豊かな自然と文化、そして人間性豊かな大人達の住む地域社会が無ければならない。その環境の中での豊かな体験が人間性を育て、やがて学校に入り、豊かな知性を育んでくれるのである。その環境づくりは教育委員会の任務であることを忘れてはならない。

 「教育の唯一の方法は経験であり、唯一の基準は自由である」とはトルストイの言葉。彼は、国家の体制に順応する人間をつくる教育を否定し、学習者(子供)の自由を最大限尊重するために徹底した自由主義の学校をつくったことで知られている。この時代と酷似してきた近年の日本教育の現状が気掛かりである。
 
 (2018年6月2日)  

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矛盾だらけ日本の教育

 この10数年間の日本の教育環境はかつてないほど劣化している。その現象を象徴するのが、教育の理論と実践の矛盾である。その現実の幾つかを紹介する。

 ①教育を人間性・能力の開花という人間形成作用と見ず、政治や生産性向上に結び付けて考える教育観。

 ②教育に市場競争原理を持ち込んでおきながら、思いやりの心を育てろと言う。思いやりは相手の立場に立って物事を判断し、行動すること。競争社会は、思いやりとは対極的な自己中心社会である。

 ③年齢で分けて学年を組み、同じ列車に乗せ、同一速度で同一方向に運ぶ。同一カリキュラム、同一教材、検定教科書で一斉指導をしておきながら、個性重視、多様性尊重という。

 ④子供は学びの主体と言いながら、学び方より教え方に重点を置く学校・教員。

 ⑤子供は教育環境から学ぶが、その教育環境を大人が悪化させておいて、子供には正しいことを学べという。

 ⑥規範意識を高める為に道徳教育を教科化するという。「嘘をつくな、誤魔化すな」「いじめをするな」と教えろ、と言っておきながら、国民の代表である政府の「嘘、誤魔化し」、大人社会でのいじめが絶えない。

 ⑦子供は自発性―自律性―自主性―自立という順序で発達をするというのが発達心理学の定説。改正教育基本法でその自発性と自立性を政府が削除したのは何故か。

 ⑧教員(指導者)が自らの指導力を確認し、反省・改善するために行う学力テストを子供の評価・序列化に使う。

 ⑨子供の教育は学校だけで出来ないのに、家庭と地域の教育力向上を推進する生涯学習部を教育行政(教委)から切り離す。これは行政責務の放棄であり、教育委員会の無能と不用論にもつながる。

 ⑩教育は大人同士、大人と子供、そして子供相互の信頼・敬愛・協力の関係でのみ成り立つが、改正教育基本法では教育に国家が介入できるよう、その「自他の敬愛と協力」の部分が削除された。

 ⑪原体験のある知識は生きた知識となり生きる力になるが、学校では映像や文字などによる情報を得るだけで、生きた知識にはなり得ない。

 大人社会の幼児化によって生じるこれら多くの矛盾が、思いやりや人間性、道徳心などの発達を阻害しているということは教育のプロであれば分かるはず。本当に日本の将来を背負って立つ子供達を育てたいと考えるならば、国の教育政策をただ請け負うだけの教育現場にしてはならない。
 
 (2018年5月19日)  

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日本人の国民性と道徳教育

 これまで日本ではタブーとされてきた「政治問題」をテーマにした漫才が、今大きな反響を呼んでいる。政治問題を漫才の対象にした理由を漫才師がテレビで語っていた。「アメリカなどでは、政治に国民の全てが関心を示し、子供や若者、芸能人でも政治批判を堂々とし、それをメディアが取り上げ続けるという土壌があるが、日本ではそれを〝重いもの〟〝触れたくないもの〟として心の底にしまい込んでしまう。しかし、実際に漫才にしてみると『忘れないでいて嬉しい』などといって涙さえ流す人々がいる」。

 諸外国と比較し、日本人は批判力が劣ると言われるように、国民性ともいうべきこの現象は何もお笑いの世界に限らない。

 特に教育界。国の教育政策を少しでも批判すると、「組合的」「左寄り」と決めつける偏見がある。教師に批判は相応しくないという雰囲気の中では、保身と自己中心主義的な考え方が蔓延する。

 この4月から、小学校の道徳が教科化され実施されている。筆者が文科省資料や教科書を見る限りにおいては、現代の教育観や子供観と乖離している。その一つは、22の徳目を全て「教える」道徳になっていること。現代の子供観は「子供は学び育つ主体」である。従って子供が主体的に「学び道徳心を育てる」のであって、大人の価値観を押し付ける道徳教育であってはならない。二つ目に、学校は正しいことだけを教えるのではない。善悪、真偽、虚実などを対比的に扱う中で子供がその真贋を見極め、また多様な価値観を身に付けていくようにするのが学校教育である。三つ目として、道徳は個人の生き方に関わる問題であるから、一人一人の人格の尊厳と個性を尊重すべきであって価値観の合意を目指すものではない。まして教師が個々の子供の心の中を評価できるはずもない。

 横浜市教育委員の宮内孝久氏は言う。「疑ってものを見ることや筋道を立てて考えることができないと、安易に権威に迎合したり、教条主義の蔓延に繋がったりするなど、結果として非道徳的になる可能性がある。徳目中心主義の教科書が日本人の幼児化につながることを危惧する」(日経新聞1月22日朝刊)。

 人工知能(AI)、医療など科学の急速な進歩についていけない人間社会や、フェイク情報の氾濫などで現在も未来も読めない時代では、常に疑ってみたり、批判的に物事を見たりする思考力が不可欠。その力を育てたい。
 
 (2018年4月21日)  

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人生は出会いで決まる

 今年も新しい出会いの季節を迎えた。「人生とは出会いである。その招待は二度と繰り返されることはない」と言ったのはドイツの小説家で詩人のハンス・カロッサ。人は皆一人で生まれてくるが、その後多くの出会いが待っている。最初の出会いは家族・親族だが、学校に入ると出会いが一気に広がる。人は出会いという経験によって成長していく。出会いの一つに子供と担任、子供同士の出会いがある。子供のその後の人生に少なからず影響を及ぼすと考えて、いい出会いを心掛けたい。

 新任のころ「担任した子供たちの性格や物事への関心・考え方などおよそのことを理解するには早くても1学期はかかるが、子供は担任の全てを3日で直観してしまう」と教えられた。

 このことが証明されたのは、卒業後に子供たちと再会した同窓会。思い出話の中で「あの時先生はこう言ったけど本当は…」などと心を見抜かれていたことを知った時である。自分が小中学生のころ、皆が担任の性格や考えていることを見抜いていたことを思い出す。

 また、荒れた中学校と言われていた学校で、非行グループと言われていた生徒たちが、教頭として着任した筆者の人間性を見極めようとしていたと、卒業後に聞いた。これらは、持ち前の鋭い観察力と直観力を発揮して相手の人間性や能力などを見極める子供時代の特性でもある。

 このように子供は優れた知覚・観察力を有し、自らの学習によって人間性を開花していくものであるが、「相手は子供」だと高をくくっている大人が近年いかにも多い。大人は「子供でも分かる」とよく言うが、「子供なら分かる」と言うのが正しいのではないだろうか。

 筆者は最近、日本の教育が子供を軽んじ、大人の論理だけで進められていることに危機感を持っている。その象徴的な出来事が名古屋市の中学校で起きた教育内容への政治の思想的介入である。教育委員会と知事・市長の毅然とした対応は当然であるにもかかわらず、「神対応」などと言われるところに現在の教育の危うさがある。「言語道断」と言われる今回の議員の言動は、教育の中立性云々以前の、近代教育観・子供観への無知が招いたもので、極めて深刻である。このような教育の根幹にかかることは文部科学省の段階で毅然とした対応をすべきだが、現状は無理のようだ。その上、教委も期待できないなら、教師の正義しかない。子供の出会いを政治が制限してはならない。
 
 (2018年4月7日)  

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教育は百年の計

 今年になって2人の知人から、今「教育は百年の計」が忘れられているのではないかとの指摘が寄せられた。ジャーナリストのM氏は「現場の教員がこのことを心得ているだろうか」、元校長のS氏は著書で「学校新設に裏取引が多いようで、教育に関係したことがこれで良いのだろうか。例え建設したとしても建学の精神はどうなんだろうか」と疑問を呈する。

 この言葉は、中国の書物『管子』の「終身(百年)の計は人を樹うるに如くはなし」からとったもので、一般的には「教育は百年の計にあり」という教育の原理として広く知られている。人を育て、その成果を見極めるには、一生涯をかけた計画が必要だという意味である。

 子供の教育は大人になってから結果が出るもので、少なくても10年から20年、世代を超えて結果が表れるとすれば50年、100年という長期の視点で見ていかなければならない。

 教育基本法でいう教育とは「人を育てること」(教育理念)であり、どのような人を育てるかは到達目標として規定しているが、実際に行われている教育はそれとは全く懸け離れたものになっている。教育現場では、国と教育委員会が学力向上という短期の成果だけを求め、学校や家庭の尻をたたく。これに屈従する教員は勉強で子供の競争心を掻き立てる。これでは人を育てる教育とはとても言えない。

 また、現代の教育課題であり、政治的課題となっている少子化や貧困、核家族化も進行。そして人格形成に決定的な影響がある教育における貧困と格差、成長期の体験(自然・人)と愛情の格差、いじめなどについては、政府は社会問題であるとして家庭や学校に責任を転嫁してお茶を濁す。この大人の身勝手で無責任な社会の中で苦しみ踠いているのが子供逹である。

 子供を取り巻く環境の劣悪さを認識できる教員であれば、学力テストなど目先の結果に捉われず、子供の可能性を信じ、愛情を持って一人一人の人生に真正面から向き合っていくと思うのだが。子供はいつも尊敬できる大人を求めていることを忘れてはならない。

 「国家百年の計は教育にあり」でもある。我が国家は昨今の政治からみても自立国家とは言い難い。自立した国家をつくるためには自立した人を育てなければならない。その人を育てるのが教員の使命と心得るならば、教員自らが自立し、猫の目教育方針に振り回されることなく、子供の将来を見つめ、信念を持って教育に尽瘁したい。
 
 (2018年3月17日)  

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教え子の還暦同窓会に出席して

 去る2月10日、市川市立八幡小学校卒業生の「還暦祝い同窓会」に、元担任として出席した。半世紀振りの再会。筆者の最大の関心事は「皆が今幸せかどうか」だった。

 会が始まる。校歌斉唱、続いて筆者の挨拶。還暦を迎えられたことへの祝詞と感謝の言葉を述べた後、「皆さん、今幸せですか」と問うてみた。すると一斉に「ハーイ」という元気な声が返って来た。一瞬にして半世紀を遡り、当時の教室風景が蘇る。この50年間には様々な苦難があったと思うが、それを乗り越えて今「幸せです」と言えるのは真の幸せである。この時、筆者には特別な思いが込み上げてきた。

 というのも、教員になって間もなくのこと、先輩から「教員の使命は、目の前の子供達が少しでも幸せな人生を歩めるように手助けをしていくことだ」と言われていた。以来、子供逹を前にする時は「幸せな人生」を教育課題として意識していたので、「幸せ」という言葉に卒業生が素直に反応してくれたことに感動したのである。

 同窓会ではその後、約2時間にわたって52人がスピーチし、小学校での思い出や自己PRなどで会場は歓声と笑いに包まれた。続く懇談も、参加者がクラスの垣根を全く感じさせない和気あいあいとしたもので、筆者のところにもクラス外や途中転入の数人が話に来るオープンな人間関係でもあった。

 「個人的な幸福とは、友情と愛です」と言ったのは、ノーベル医学生理学賞を受賞したウィーン生まれの動物行動学者のK・ローレンツ。「親しい知人は人間の内面的均衡を保つのに不可欠だ」とも。哲学者・岸見一郎氏は著書『幸福の哲学』の中で「人間関係が幸福をもたらすのであって、人間関係の中でしか幸福は無い」と書いている。今回の同窓会をその幸福の源となる人間関係の観点から見た時、参加者全てが学歴、職業や社会的地位などと関係なく童心にかえって親しく交流する姿は真の幸せそのものだった。

 今、学校は競争社会の影響を受けている。子供達は、競争(学力・学歴)、格差(学力や経済)、差別・排除(いじめ・不登校)など人間関係に疲れ果て、友情どころではないようだ。

 しかし、そういう中でも時代の波に流されず、「人を育てる」という教育理念を実現する唯一の望みは、現場の教員の思いに深く託されている。今の小学生が50年後、幸せを感じる同窓会になることを祈るばかりである。
 
 (2018年3月3日)  

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子供に敬愛される教師に

 学級崩壊の次は学校崩壊だと言われて久しいが、今まさに現実味を帯びてきた。震源は国と国追従の教育委員会だが、今では家庭も震源となってきた。震源の真上、震央にあるのが学校。子供のいじめ、不登校、非行、自殺など全てを学校の責任とする直下型地震に見舞われる学校が次第に崩壊し、教員が委縮していくのは至極当然。筆者はこの現実を不条理だと常々思ってきた。

 何故なら学校も、現代社会の価値観を持つ人々によって構成された一つの機関である。従って、文部科学省や教委を構成する同世代の人々と教員との間に大きな違いはないはず。しかも、国の教育政策が常に正しいとは言い切れない中で、その政策を強制しておきながら、うまくいかなかったからといって全て学校・教員の責任とするのはどう考えても理不尽である。責任は、政策を決めた国と、それに追従する教委にあるというのが道理である。

 正直、筆者が学校から教委事務局に異動した時の第一印象は「役所というのはなんて気楽なところだろう」だった。子供がいれば一時も気を抜くことができないが、それができる。教員がいかに大変な日々を送っているかを再認識した。

 また、役所は学校と違って、力量より地位がものをいう世界。その為か、教員が役所に入ると傲慢になることを知った。傲慢は大人の幼児化であり、自己愛性人格障害の典型的な症状。近頃では一国の首相でさえ、そう言われる時代。ということは、現代社会が自己中心性社会になったといえる。

 このような現代において、教員が本当の教育を行うことは苦難の道であることを覚悟したい。自己中心社会とは自分が一番の社会。何でも自分の考えに合わなければ批判や差別の対象とされる。従って、教育成立の前提である教員への信頼や感謝などは無く、教育愛とか教職観なども殆ど通用しない。

 では教師はどうすればよいのか。一般論では、人格を磨き人間的に成長することだが、加えて教師としての学識を深める努力を惜しまないこと、子供を信じ、子供に対して謙虚であることが必須。

 子供は敬愛する教員には喜んで従い、自ら進んで学び、苦境に立たされた時には味方になり助けてくれる存在。子供から敬愛される教員を目指すならば、子供一人一人の理解に努めて個性を尊重し、子供と一対一の関係を大事にすることである。決して子供を画一的に指導・評価し、序列化してはならない。
 
 (2018年2月17日)  

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教員の過重労働

 教員の長時間労働問題がようやく注目されるようになった。教員の仕事時間は国際平均の週38・3時間に対し、日本は週53・9時間で1・4倍である。

 長時間労働の温床となっているのは部活動だといわれるが、果たしてそれだけだろうか。地方の一部では、部活動の休止日を設けたり、朝練を止めたりしているが、活動時間を短縮すればそれで解決するという問題ではない。

 学校での部活動は教育課程外の活動で、教員の自主的なサービスとして行われるものである。それに、子供が好きなスポーツ活動や文化活動を楽しむためにやるものだから、自由で緩やかな活動であるはずである。

 ところが、地方大会や全国大会で勝つための部活動になっているため、練習が過熱し、時には体罰や差別・排除など人権問題も起きている。これを機に、学校部活動を民間クラブとして切り離すなど、その位置づけを考え直す必要がある。

 長時間労働にはほかにも多くの原因がある。その一つが、教員の異常な仕事範囲である。教員の仕事には授業と一般的事務業務があるが、そのほか海外では学校や教員の裁量になっていて義務付けられてはいない教育相談や課外活動、学級担任(中学校)などが義務付けられている。

 加えて、近年では学力テストが導入されたことによる弊害も報告されている。学力テスト日本一を誇る秋田県では、県内の小学校の92・2%、中学校の74・2%が事前対策を実施している。例えば、テスト問題の傾向を分析したり、国に提出する前に答案をコピーして学校で先に採点・分析したり。これにより授業の遅れが出たり、それを回避するために総合的な学習の時間を削って手当てをしたりと、その負担は大きい。この先、学力テストの科目に理科と英語が加わるため、更なる現場の混乱と苦悩が予想される。

 更に、今年度から道徳が教科化される。道徳や礼儀は家庭や地域社会で身に付けていくものだが、家庭・地域がその教育力を失ったから学校に依存するというのでは、教員には大きな負担となる。

 このような悪条件の中で、日本の教員は子供の教育に献身的に努力している。基本的にはまじめで、「子供のために」と時間を考えずに頑張ってしまうのが教員である。この心意気や善意に支えられているのが日本の学校であり、教育である。このことを親は勿論、多くの大人が認識しているとは言い難い。
 
 (2018年2月3日)  

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子供時代のない子供たち

 今、子供は幸せだろうか? こう自問自答している。そして思う。「今の時代に自分は子供でなくてよかった」と。

 なぜ、そう思うか。それは今、子供には子供時代がないから。子供時代とは子供だけの自由な時間と環境があるということで、自然の中での群れ遊びに代表されるように、性別、年齢を問わず、仲間から差別や排除されることもなく、大人に管理され強制されることのない、自律的で自主的・創造的な判断・行動が生かせる時間であり、自由が保障される世界である。

 自由とは強制、束縛、拘束や支配などを受けることがなく、行動・言論・選択や意志の自由が保障されていること。勿論、子供といえども社会的な規範や道徳を発達段階に応じて身に付けさせる必要はあるが、発達段階を無視した躾や行き過ぎた規範意識など、大人の価値観による強制は子供の心の自由を奪うことになり、大人へのステップである自主性は育たない。近代社会では規制や強制が多く、その影響が子供にも強く反映していることを勘考しなければならない。

 現代の子供の一日の生活をみると、遅く寝るから眠いのに、朝、強制されて起こされる。早く、早くと急き立てられて学校へ。決まりだらけの学校生活が終わると息つく暇もなく塾へ。そして家で宿題をこなして束の間のゲーム。また寝るのが遅くなる。これでは子供が自由に行動できる時間もなく、自由な意思選択もできない。

 子供時代がない現代の養育・教育環境においては、自由で自主的な経験によって育まれる豊かな人間性、すなわち自らを律しつつ他人と共生し、他人を思いやる心や感動する心などは育つはずもない。子供というものは何事も経験から学び、失敗を重ねながら成長するものであるから、多くの失敗経験が必要である。また、子供は子供同士、小さな悪さをしながら友達作りをするものでもある。そのためにも制限は最小限として自由をできるだけ保障し、子供主体の活動ができる環境作りをしなければならない。失敗を見守ること、友達を選ぶ自由を与えることなどは、子供を育てる大人としての心の余裕であり、雅量であるが、それが今はない。

 本来であれば、教育のプロ集団である教育委員会がこの実態を認識し、子供に良好な環境を取り戻すべく努力すべきであるが、国の方針、政策に追従し、一方で保身に走る現状では、子供の幸せはこれからも望めないであろう。
 
 (2018年1月20日)  

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人間形成と教育環境

 ヒトは教育無しでは人になり得ない。人になるには、そのための養育・教育環境が必要であり、その良し悪しが子供の成長に影響を与える。

 ヒトとして生まれた子供は他の動物と違い、人間として成長・自立するまでに十数年を要し、その間の養育・教育環境の質が人間形成を決定づける。

 ヒトが人として一人前になるには、人間形成の原点である家庭が成長発達のカギを握る。乳幼児期の母親の抱きしめる愛と、学童期あたりからの突き放す父親の愛というバランスのとれた愛に包まれることが大切。そのような環境の中で、新生児期の食物・睡眠・排泄など生命維持のための生理欲求、幼少時期における安全欲求が満たされ、学童期には人から愛情を受けるという経験が、人に愛情を与えて周囲の人と平和で親しい関係を保ちたい、集団に受け入れて欲しい、という愛と所属の欲求を満たす。

 次に高度な尊敬(承認)欲求、更により高度な自己実現欲求を持ち、価値あるもの、いわゆる真・善・美を求めて行動するようになる。この発達段階の過程で、一つでも満たされなければ次の段階に進むことができないため発達障害になる。

 子供が健全な発達を遂げ、豊かな感性や知性を持ち、人間性豊かで優れた人格を形成するためには、発達段階に応じた育児環境・教育環境が無ければならないが、現代はそれとは程遠い劣悪な環境といわざるを得ない。幼児期に食物を与えられないなど生理欲求すら満たされない子供がいる。生活環境の中にあるさまざまな危険に対して自己防衛しようとする行動の推進力となる欲求が安全欲求であるが、最も安全であるべき家庭内で起こる幼児虐待や学童期の愛情欲求が満たされないことで、いじめをする、非行に走る子供がいることは悲しむべきことである。

 欲求の現れ方、満たされ度合いは個々人によって違ってくる。子供たちを年齢で学年を決め、クラス分けしているのが学校であることを考えれば、画一一斉の指導が誤りであることは自明である。ましてや全国同一の学力テスト問題を実施し、点数をもって評価・評定し、序列化するなど、教育者としては考えられない愚行であり、子供にとってはこの上ない不幸である。

 行動遺伝学の最新研究では、子供の知能や性格、精神疾患は遺伝だという。もしそうなら、養育・教育の在り方そのものが根本から覆ることも想定しておかなくてはならない。
 
 (2018年1月3日)  

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