市川よみうり & 浦安よみうり online

連載「ホンネで語る 教育の理想と現実」


矛盾だらけ日本の教育

 この10数年間の日本の教育環境はかつてないほど劣化している。その現象を象徴するのが、教育の理論と実践の矛盾である。その現実の幾つかを紹介する。

 ①教育を人間性・能力の開花という人間形成作用と見ず、政治や生産性向上に結び付けて考える教育観。

 ②教育に市場競争原理を持ち込んでおきながら、思いやりの心を育てろと言う。思いやりは相手の立場に立って物事を判断し、行動すること。競争社会は、思いやりとは対極的な自己中心社会である。

 ③年齢で分けて学年を組み、同じ列車に乗せ、同一速度で同一方向に運ぶ。同一カリキュラム、同一教材、検定教科書で一斉指導をしておきながら、個性重視、多様性尊重という。

 ④子供は学びの主体と言いながら、学び方より教え方に重点を置く学校・教員。

 ⑤子供は教育環境から学ぶが、その教育環境を大人が悪化させておいて、子供には正しいことを学べという。

 ⑥規範意識を高める為に道徳教育を教科化するという。「嘘をつくな、誤魔化すな」「いじめをするな」と教えろ、と言っておきながら、国民の代表である政府の「嘘、誤魔化し」、大人社会でのいじめが絶えない。

 ⑦子供は自発性―自律性―自主性―自立という順序で発達をするというのが発達心理学の定説。改正教育基本法でその自発性と自立性を政府が削除したのは何故か。

 ⑧教員(指導者)が自らの指導力を確認し、反省・改善するために行う学力テストを子供の評価・序列化に使う。

 ⑨子供の教育は学校だけで出来ないのに、家庭と地域の教育力向上を推進する生涯学習部を教育行政(教委)から切り離す。これは行政責務の放棄であり、教育委員会の無能と不用論にもつながる。

 ⑩教育は大人同士、大人と子供、そして子供相互の信頼・敬愛・協力の関係でのみ成り立つが、改正教育基本法では教育に国家が介入できるよう、その「自他の敬愛と協力」の部分が削除された。

 ⑪原体験のある知識は生きた知識となり生きる力になるが、学校では映像や文字などによる情報を得るだけで、生きた知識にはなり得ない。

 大人社会の幼児化によって生じるこれら多くの矛盾が、思いやりや人間性、道徳心などの発達を阻害しているということは教育のプロであれば分かるはず。本当に日本の将来を背負って立つ子供達を育てたいと考えるならば、国の教育政策をただ請け負うだけの教育現場にしてはならない。
 
 (2018年5月19日)  

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日本人の国民性と道徳教育

 これまで日本ではタブーとされてきた「政治問題」をテーマにした漫才が、今大きな反響を呼んでいる。政治問題を漫才の対象にした理由を漫才師がテレビで語っていた。「アメリカなどでは、政治に国民の全てが関心を示し、子供や若者、芸能人でも政治批判を堂々とし、それをメディアが取り上げ続けるという土壌があるが、日本ではそれを〝重いもの〟〝触れたくないもの〟として心の底にしまい込んでしまう。しかし、実際に漫才にしてみると『忘れないでいて嬉しい』などといって涙さえ流す人々がいる」。

 諸外国と比較し、日本人は批判力が劣ると言われるように、国民性ともいうべきこの現象は何もお笑いの世界に限らない。

 特に教育界。国の教育政策を少しでも批判すると、「組合的」「左寄り」と決めつける偏見がある。教師に批判は相応しくないという雰囲気の中では、保身と自己中心主義的な考え方が蔓延する。

 この4月から、小学校の道徳が教科化され実施されている。筆者が文科省資料や教科書を見る限りにおいては、現代の教育観や子供観と乖離している。その一つは、22の徳目を全て「教える」道徳になっていること。現代の子供観は「子供は学び育つ主体」である。従って子供が主体的に「学び道徳心を育てる」のであって、大人の価値観を押し付ける道徳教育であってはならない。二つ目に、学校は正しいことだけを教えるのではない。善悪、真偽、虚実などを対比的に扱う中で子供がその真贋を見極め、また多様な価値観を身に付けていくようにするのが学校教育である。三つ目として、道徳は個人の生き方に関わる問題であるから、一人一人の人格の尊厳と個性を尊重すべきであって価値観の合意を目指すものではない。まして教師が個々の子供の心の中を評価できるはずもない。

 横浜市教育委員の宮内孝久氏は言う。「疑ってものを見ることや筋道を立てて考えることができないと、安易に権威に迎合したり、教条主義の蔓延に繋がったりするなど、結果として非道徳的になる可能性がある。徳目中心主義の教科書が日本人の幼児化につながることを危惧する」(日経新聞1月22日朝刊)。

 人工知能(AI)、医療など科学の急速な進歩についていけない人間社会や、フェイク情報の氾濫などで現在も未来も読めない時代では、常に疑ってみたり、批判的に物事を見たりする思考力が不可欠。その力を育てたい。
 
 (2018年4月21日)  

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人生は出会いで決まる

 今年も新しい出会いの季節を迎えた。「人生とは出会いである。その招待は二度と繰り返されることはない」と言ったのはドイツの小説家で詩人のハンス・カロッサ。人は皆一人で生まれてくるが、その後多くの出会いが待っている。最初の出会いは家族・親族だが、学校に入ると出会いが一気に広がる。人は出会いという経験によって成長していく。出会いの一つに子供と担任、子供同士の出会いがある。子供のその後の人生に少なからず影響を及ぼすと考えて、いい出会いを心掛けたい。

 新任のころ「担任した子供たちの性格や物事への関心・考え方などおよそのことを理解するには早くても1学期はかかるが、子供は担任の全てを3日で直観してしまう」と教えられた。

 このことが証明されたのは、卒業後に子供たちと再会した同窓会。思い出話の中で「あの時先生はこう言ったけど本当は…」などと心を見抜かれていたことを知った時である。自分が小中学生のころ、皆が担任の性格や考えていることを見抜いていたことを思い出す。

 また、荒れた中学校と言われていた学校で、非行グループと言われていた生徒たちが、教頭として着任した筆者の人間性を見極めようとしていたと、卒業後に聞いた。これらは、持ち前の鋭い観察力と直観力を発揮して相手の人間性や能力などを見極める子供時代の特性でもある。

 このように子供は優れた知覚・観察力を有し、自らの学習によって人間性を開花していくものであるが、「相手は子供」だと高をくくっている大人が近年いかにも多い。大人は「子供でも分かる」とよく言うが、「子供なら分かる」と言うのが正しいのではないだろうか。

 筆者は最近、日本の教育が子供を軽んじ、大人の論理だけで進められていることに危機感を持っている。その象徴的な出来事が名古屋市の中学校で起きた教育内容への政治の思想的介入である。教育委員会と知事・市長の毅然とした対応は当然であるにもかかわらず、「神対応」などと言われるところに現在の教育の危うさがある。「言語道断」と言われる今回の議員の言動は、教育の中立性云々以前の、近代教育観・子供観への無知が招いたもので、極めて深刻である。このような教育の根幹にかかることは文部科学省の段階で毅然とした対応をすべきだが、現状は無理のようだ。その上、教委も期待できないなら、教師の正義しかない。子供の出会いを政治が制限してはならない。
 
 (2018年4月7日)  

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教育は百年の計

 今年になって2人の知人から、今「教育は百年の計」が忘れられているのではないかとの指摘が寄せられた。ジャーナリストのM氏は「現場の教員がこのことを心得ているだろうか」、元校長のS氏は著書で「学校新設に裏取引が多いようで、教育に関係したことがこれで良いのだろうか。例え建設したとしても建学の精神はどうなんだろうか」と疑問を呈する。

 この言葉は、中国の書物『管子』の「終身(百年)の計は人を樹うるに如くはなし」からとったもので、一般的には「教育は百年の計にあり」という教育の原理として広く知られている。人を育て、その成果を見極めるには、一生涯をかけた計画が必要だという意味である。

 子供の教育は大人になってから結果が出るもので、少なくても10年から20年、世代を超えて結果が表れるとすれば50年、100年という長期の視点で見ていかなければならない。

 教育基本法でいう教育とは「人を育てること」(教育理念)であり、どのような人を育てるかは到達目標として規定しているが、実際に行われている教育はそれとは全く懸け離れたものになっている。教育現場では、国と教育委員会が学力向上という短期の成果だけを求め、学校や家庭の尻をたたく。これに屈従する教員は勉強で子供の競争心を掻き立てる。これでは人を育てる教育とはとても言えない。

 また、現代の教育課題であり、政治的課題となっている少子化や貧困、核家族化も進行。そして人格形成に決定的な影響がある教育における貧困と格差、成長期の体験(自然・人)と愛情の格差、いじめなどについては、政府は社会問題であるとして家庭や学校に責任を転嫁してお茶を濁す。この大人の身勝手で無責任な社会の中で苦しみ踠いているのが子供逹である。

 子供を取り巻く環境の劣悪さを認識できる教員であれば、学力テストなど目先の結果に捉われず、子供の可能性を信じ、愛情を持って一人一人の人生に真正面から向き合っていくと思うのだが。子供はいつも尊敬できる大人を求めていることを忘れてはならない。

 「国家百年の計は教育にあり」でもある。我が国家は昨今の政治からみても自立国家とは言い難い。自立した国家をつくるためには自立した人を育てなければならない。その人を育てるのが教員の使命と心得るならば、教員自らが自立し、猫の目教育方針に振り回されることなく、子供の将来を見つめ、信念を持って教育に尽瘁したい。
 
 (2018年3月17日)  

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教え子の還暦同窓会に出席して

 去る2月10日、市川市立八幡小学校卒業生の「還暦祝い同窓会」に、元担任として出席した。半世紀振りの再会。筆者の最大の関心事は「皆が今幸せかどうか」だった。

 会が始まる。校歌斉唱、続いて筆者の挨拶。還暦を迎えられたことへの祝詞と感謝の言葉を述べた後、「皆さん、今幸せですか」と問うてみた。すると一斉に「ハーイ」という元気な声が返って来た。一瞬にして半世紀を遡り、当時の教室風景が蘇る。この50年間には様々な苦難があったと思うが、それを乗り越えて今「幸せです」と言えるのは真の幸せである。この時、筆者には特別な思いが込み上げてきた。

 というのも、教員になって間もなくのこと、先輩から「教員の使命は、目の前の子供達が少しでも幸せな人生を歩めるように手助けをしていくことだ」と言われていた。以来、子供逹を前にする時は「幸せな人生」を教育課題として意識していたので、「幸せ」という言葉に卒業生が素直に反応してくれたことに感動したのである。

 同窓会ではその後、約2時間にわたって52人がスピーチし、小学校での思い出や自己PRなどで会場は歓声と笑いに包まれた。続く懇談も、参加者がクラスの垣根を全く感じさせない和気あいあいとしたもので、筆者のところにもクラス外や途中転入の数人が話に来るオープンな人間関係でもあった。

 「個人的な幸福とは、友情と愛です」と言ったのは、ノーベル医学生理学賞を受賞したウィーン生まれの動物行動学者のK・ローレンツ。「親しい知人は人間の内面的均衡を保つのに不可欠だ」とも。哲学者・岸見一郎氏は著書『幸福の哲学』の中で「人間関係が幸福をもたらすのであって、人間関係の中でしか幸福は無い」と書いている。今回の同窓会をその幸福の源となる人間関係の観点から見た時、参加者全てが学歴、職業や社会的地位などと関係なく童心にかえって親しく交流する姿は真の幸せそのものだった。

 今、学校は競争社会の影響を受けている。子供達は、競争(学力・学歴)、格差(学力や経済)、差別・排除(いじめ・不登校)など人間関係に疲れ果て、友情どころではないようだ。

 しかし、そういう中でも時代の波に流されず、「人を育てる」という教育理念を実現する唯一の望みは、現場の教員の思いに深く託されている。今の小学生が50年後、幸せを感じる同窓会になることを祈るばかりである。
 
 (2018年3月3日)  

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子供に敬愛される教師に

 学級崩壊の次は学校崩壊だと言われて久しいが、今まさに現実味を帯びてきた。震源は国と国追従の教育委員会だが、今では家庭も震源となってきた。震源の真上、震央にあるのが学校。子供のいじめ、不登校、非行、自殺など全てを学校の責任とする直下型地震に見舞われる学校が次第に崩壊し、教員が委縮していくのは至極当然。筆者はこの現実を不条理だと常々思ってきた。

 何故なら学校も、現代社会の価値観を持つ人々によって構成された一つの機関である。従って、文部科学省や教委を構成する同世代の人々と教員との間に大きな違いはないはず。しかも、国の教育政策が常に正しいとは言い切れない中で、その政策を強制しておきながら、うまくいかなかったからといって全て学校・教員の責任とするのはどう考えても理不尽である。責任は、政策を決めた国と、それに追従する教委にあるというのが道理である。

 正直、筆者が学校から教委事務局に異動した時の第一印象は「役所というのはなんて気楽なところだろう」だった。子供がいれば一時も気を抜くことができないが、それができる。教員がいかに大変な日々を送っているかを再認識した。

 また、役所は学校と違って、力量より地位がものをいう世界。その為か、教員が役所に入ると傲慢になることを知った。傲慢は大人の幼児化であり、自己愛性人格障害の典型的な症状。近頃では一国の首相でさえ、そう言われる時代。ということは、現代社会が自己中心性社会になったといえる。

 このような現代において、教員が本当の教育を行うことは苦難の道であることを覚悟したい。自己中心社会とは自分が一番の社会。何でも自分の考えに合わなければ批判や差別の対象とされる。従って、教育成立の前提である教員への信頼や感謝などは無く、教育愛とか教職観なども殆ど通用しない。

 では教師はどうすればよいのか。一般論では、人格を磨き人間的に成長することだが、加えて教師としての学識を深める努力を惜しまないこと、子供を信じ、子供に対して謙虚であることが必須。

 子供は敬愛する教員には喜んで従い、自ら進んで学び、苦境に立たされた時には味方になり助けてくれる存在。子供から敬愛される教員を目指すならば、子供一人一人の理解に努めて個性を尊重し、子供と一対一の関係を大事にすることである。決して子供を画一的に指導・評価し、序列化してはならない。
 
 (2018年2月17日)  

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教員の過重労働

 教員の長時間労働問題がようやく注目されるようになった。教員の仕事時間は国際平均の週38・3時間に対し、日本は週53・9時間で1・4倍である。

 長時間労働の温床となっているのは部活動だといわれるが、果たしてそれだけだろうか。地方の一部では、部活動の休止日を設けたり、朝練を止めたりしているが、活動時間を短縮すればそれで解決するという問題ではない。

 学校での部活動は教育課程外の活動で、教員の自主的なサービスとして行われるものである。それに、子供が好きなスポーツ活動や文化活動を楽しむためにやるものだから、自由で緩やかな活動であるはずである。

 ところが、地方大会や全国大会で勝つための部活動になっているため、練習が過熱し、時には体罰や差別・排除など人権問題も起きている。これを機に、学校部活動を民間クラブとして切り離すなど、その位置づけを考え直す必要がある。

 長時間労働にはほかにも多くの原因がある。その一つが、教員の異常な仕事範囲である。教員の仕事には授業と一般的事務業務があるが、そのほか海外では学校や教員の裁量になっていて義務付けられてはいない教育相談や課外活動、学級担任(中学校)などが義務付けられている。

 加えて、近年では学力テストが導入されたことによる弊害も報告されている。学力テスト日本一を誇る秋田県では、県内の小学校の92・2%、中学校の74・2%が事前対策を実施している。例えば、テスト問題の傾向を分析したり、国に提出する前に答案をコピーして学校で先に採点・分析したり。これにより授業の遅れが出たり、それを回避するために総合的な学習の時間を削って手当てをしたりと、その負担は大きい。この先、学力テストの科目に理科と英語が加わるため、更なる現場の混乱と苦悩が予想される。

 更に、今年度から道徳が教科化される。道徳や礼儀は家庭や地域社会で身に付けていくものだが、家庭・地域がその教育力を失ったから学校に依存するというのでは、教員には大きな負担となる。

 このような悪条件の中で、日本の教員は子供の教育に献身的に努力している。基本的にはまじめで、「子供のために」と時間を考えずに頑張ってしまうのが教員である。この心意気や善意に支えられているのが日本の学校であり、教育である。このことを親は勿論、多くの大人が認識しているとは言い難い。
 
 (2018年2月3日)  

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子供時代のない子供たち

 今、子供は幸せだろうか? こう自問自答している。そして思う。「今の時代に自分は子供でなくてよかった」と。

 なぜ、そう思うか。それは今、子供には子供時代がないから。子供時代とは子供だけの自由な時間と環境があるということで、自然の中での群れ遊びに代表されるように、性別、年齢を問わず、仲間から差別や排除されることもなく、大人に管理され強制されることのない、自律的で自主的・創造的な判断・行動が生かせる時間であり、自由が保障される世界である。

 自由とは強制、束縛、拘束や支配などを受けることがなく、行動・言論・選択や意志の自由が保障されていること。勿論、子供といえども社会的な規範や道徳を発達段階に応じて身に付けさせる必要はあるが、発達段階を無視した躾や行き過ぎた規範意識など、大人の価値観による強制は子供の心の自由を奪うことになり、大人へのステップである自主性は育たない。近代社会では規制や強制が多く、その影響が子供にも強く反映していることを勘考しなければならない。

 現代の子供の一日の生活をみると、遅く寝るから眠いのに、朝、強制されて起こされる。早く、早くと急き立てられて学校へ。決まりだらけの学校生活が終わると息つく暇もなく塾へ。そして家で宿題をこなして束の間のゲーム。また寝るのが遅くなる。これでは子供が自由に行動できる時間もなく、自由な意思選択もできない。

 子供時代がない現代の養育・教育環境においては、自由で自主的な経験によって育まれる豊かな人間性、すなわち自らを律しつつ他人と共生し、他人を思いやる心や感動する心などは育つはずもない。子供というものは何事も経験から学び、失敗を重ねながら成長するものであるから、多くの失敗経験が必要である。また、子供は子供同士、小さな悪さをしながら友達作りをするものでもある。そのためにも制限は最小限として自由をできるだけ保障し、子供主体の活動ができる環境作りをしなければならない。失敗を見守ること、友達を選ぶ自由を与えることなどは、子供を育てる大人としての心の余裕であり、雅量であるが、それが今はない。

 本来であれば、教育のプロ集団である教育委員会がこの実態を認識し、子供に良好な環境を取り戻すべく努力すべきであるが、国の方針、政策に追従し、一方で保身に走る現状では、子供の幸せはこれからも望めないであろう。
 
 (2018年1月20日)  

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人間形成と教育環境

 ヒトは教育無しでは人になり得ない。人になるには、そのための養育・教育環境が必要であり、その良し悪しが子供の成長に影響を与える。

 ヒトとして生まれた子供は他の動物と違い、人間として成長・自立するまでに十数年を要し、その間の養育・教育環境の質が人間形成を決定づける。

 ヒトが人として一人前になるには、人間形成の原点である家庭が成長発達のカギを握る。乳幼児期の母親の抱きしめる愛と、学童期あたりからの突き放す父親の愛というバランスのとれた愛に包まれることが大切。そのような環境の中で、新生児期の食物・睡眠・排泄など生命維持のための生理欲求、幼少時期における安全欲求が満たされ、学童期には人から愛情を受けるという経験が、人に愛情を与えて周囲の人と平和で親しい関係を保ちたい、集団に受け入れて欲しい、という愛と所属の欲求を満たす。

 次に高度な尊敬(承認)欲求、更により高度な自己実現欲求を持ち、価値あるもの、いわゆる真・善・美を求めて行動するようになる。この発達段階の過程で、一つでも満たされなければ次の段階に進むことができないため発達障害になる。

 子供が健全な発達を遂げ、豊かな感性や知性を持ち、人間性豊かで優れた人格を形成するためには、発達段階に応じた育児環境・教育環境が無ければならないが、現代はそれとは程遠い劣悪な環境といわざるを得ない。幼児期に食物を与えられないなど生理欲求すら満たされない子供がいる。生活環境の中にあるさまざまな危険に対して自己防衛しようとする行動の推進力となる欲求が安全欲求であるが、最も安全であるべき家庭内で起こる幼児虐待や学童期の愛情欲求が満たされないことで、いじめをする、非行に走る子供がいることは悲しむべきことである。

 欲求の現れ方、満たされ度合いは個々人によって違ってくる。子供たちを年齢で学年を決め、クラス分けしているのが学校であることを考えれば、画一一斉の指導が誤りであることは自明である。ましてや全国同一の学力テスト問題を実施し、点数をもって評価・評定し、序列化するなど、教育者としては考えられない愚行であり、子供にとってはこの上ない不幸である。

 行動遺伝学の最新研究では、子供の知能や性格、精神疾患は遺伝だという。もしそうなら、養育・教育の在り方そのものが根本から覆ることも想定しておかなくてはならない。
 
 (2018年1月3日)  

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