市川よみうり連載企画

市川市自然観察グループ岡崎 清孝

 
北方調節池にみる自然環境の復元冬はあちこちで道路工事などの土木工事が行われる。これは、一年の三分の一は雨が降る我が国では、最も雨の少ない冬に土木工事の多くが行われるためである。
 そのような訳で、夏の間工事が止まっていた北方町四丁目の大柏川第一調節池(通称北方遊水池)も昨年十月中旬に工事が再開された。北方遊水池の概略については昨年七月二十六日の第五回で書いたのでここでは省略すが、その後の自然環境の復元には目を見張るものがある。乾燥していた期間土壌の中で休眠していた湿地本来の植物の種子が一斉に生育しだした感じである。タタラカンガレイやオオアゼテンツキカワジシャといった稀少植物や、シャジクモ、ヒルムシロなどかつて水田に生育していた水草、ヤナギなどの樹木を含め百種を超える植物が見られた。魚類では誰が放したわけでもないのにおびただしい数のカダヤシが群れをなすようになった。
 全体が池の形をなすようになって初めての冬は、掘削工事のため重機がたくさん動いていたり、完成した池でも水路工事のために一時水が抜かれたこともあってカモ類の数こそ例年に比べて少ないものの、タゲリやタシギ、クサシギも見られ、十二月には国分高校の越川重治先生により市川で初めてハジロコチドリが確認されるなど、多くの冬鳥が北方を訪れてくれた。

 動物では相変わらずタヌキ達が活発に活動しており、調節池の区域内で溜糞場も見られ、十二月には事故で傷ついたタヌキが現場の作業員の方によって保護された。
 また、掘削工事により露出した自然貝層からこの場所が約四千五百年の縄文時代中期には川が海に注ぐ河口部だったことがわかり、さらに土器片錘が見つかったことで太古の漁場としての位置が確認された。貝層に見られるハマグリやオオノガイなど四十種を超える貝の中には、チリメンユキガイやイセシラガイ、ヤチヨノハナガイなどの珍しい貝も見られた。詳細は機会を改めて報告したいが、きちんと気を配った工事をすれば大自然は私たちに素晴らしい贈り物をくれるというよい例だったと思う。
 市民を交えた復元検討会では「自然の回復力を手助けする」などと言う表現も用いられたが、大自然の成せる技の前に人間が何の手助けができるのだろうかと改めて考えさせられる動きであった。
 今後は人を含めてこの地を利用するすべての生き物にとって素晴らしい環境になるように工夫をしていくことが大切である。
(2004年1月1日)  
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市の木クロマツ<1>市川市の市の木はクロマツである。昭和四十五年に市民の投票により決定された。市川のクロマツ景観の最大の特徴は、市街地に集団的に生育していることである。特にJR総武線や京成電車の車窓から見る新田から菅野にかけてのクロマツの景観に対する賛美はいたるところで語り尽くされている。江戸川から見る国府台の斜面林と、この市街地のクロマツ景観が「緑豊かな市川」という大いなる錯覚を生み出しているといってもよい。  電車を降りて実際にクロマツが生育している街の中を歩いて見るとどうだろうか。まずクロマツが生育している所は地面がさらさらした白っぽい砂地になっていることに気がつく。これはこのクロマツの集団が、三千年から四千年ほど昔に形作られた「市川」と呼ばれる地形の上に生育しているためである。

 さらに、遠くから見ると林のように見えるクロマツも実際には道路や住宅の境界に沿って列状に生育していることが分かる。これはこれらのクロマツが江戸時代に農地や集落を海風やから守るために植えられた防風林に由来していることによる。市川では四季を問わず海から陸に向かって吹く風がしているので、市川のクロマツはすべて北側へ向かって傾斜している。
 江戸時代には生長したマツの枝を正月の門松の材料として江戸に出荷していたようである。一時期、門松のためにマツを切るのを止めようという運動が各地で起きたことがあり、市川でも印刷した紙を各戸に配布しているが、門松作りのために根元から切り倒すわけでもなし、再考してもよいのではないだろうか。
 最近改まって新しい年を迎えるという気持ちが薄くなっているのはこうした伝統的な風習が軽視されていることにも遠因があるのではないだろうか。そもそも門松は正月に家々に迎えるのであり、神が下界に降りて来るときの目標である。「松」を「待つ」にかけて「神を待つ木」としてマツが使われるようになったと言われる。松の枝を、節があるので「けじめ」を表すとされる竹と共にで巻き、七巻、五巻、三巻の三段の縄で締めた雄松、雌松一対の門松が本来の門松飾りとされる。臨海部の埋め立て後に造成されたクロマツの海岸林は三十年近くを経過して結構立派に生長し、そろそろしなければならない時期に来ている。このような資源を活用して、新年を迎えるけじめである門松の復活を考えてみてはどうだろうか。 (つづく)
(2004年1月23日)  
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市の木クロマツ<2>行徳では明治中頃まで製塩業が盛んに行われていた。特に江戸時代には重要な塩の産地として幕府天領だった。松葉は濃縮した海水を釜で煮つめるための燃料として最も適していたと言われ、海岸のマツのみならず、市川砂州に生育するクロマツの落ち葉や枝なども行徳に運ばれたようである。
 さて、市川のクロマツはこれまで数度にわたる危機を経験してきた。一度目は太平洋戦争末期に、底をついていた航空燃料の代替となるテレピン油を生産するため行われた「松根油」の採取である。方法は各地で異なり、市川では幹の南側に矢羽根型の傷をつけ、ゴムノキからゴム液を採取するようにしてを松脂採取する方法が採られた。現在市川に生育する多くのクロマツにこのときの傷跡が生々しく残っている。

 二度目は昭和三十年代の終りから行われた海面埋め立てと、地下水の汲み上げによる地盤沈下である。埋め立てにより、旧陸地と埋立地の境に海水を含んだ塩湿地ができ、旧海岸線に列状に生育していたクロマツはことごとく立ち枯れした。行徳の旧市街地では地盤沈下とその対策のための盛土によりクロマツの生育地が低湿地化しほとんどが枯死した。それまで豊かだった行徳の緑はこの時代に大半が失われた。
 三度目は昭和五十年代から平成初期にかけて大発生したマツノザイセンチュウによる松枯れである。市川では薬剤の地上散布で防除していたが、散布をやめた平成九年以降一気に被害が進み、北部の台地では景観が変わるほどマツが枯れた。
 そして今、これらの危機を生き残った市中心部のクロマツが第四の危機を迎えている。京成菅野駅付近を南北に貫く外環道路の建設である。さすがに時代の流れで樹木の保全にも相当な配慮がされているが、気になることもたくさんある。道路に直接抵触するクロマツは極力移植するとされ、移植のための調査も行われた。その結果、幹が傾斜している、ヒョロヒョロと背が高く葉の量が少ない、幹に大きな傷がある、等で「不健全」だとされ、多くのクロマツが移植に適さないと判断された。それが市川のマツの特徴だと言っても、事業者には理解されなかった。多くの権威を集めて検討しても、市川のクロマツの歴史や住民の思いを理解するには限界がある。市川のクロマツ景観に必要なのは木材を生産するための「健全木」ではないことを理解して欲しい。新しい苗木を植えても今の景観を取り戻すには数百年を要する。
(2004年2月13日)
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大柏川の野鳥読者の方から「石井先生のように鳥のことも書いて欲しい」という要望があった。野鳥はどうも苦手な分野であり、また市川市には高名な野鳥の専門家も数多くおられるので気後れしてしまうが、そうとも言っていられないので自宅近くの大柏川へ出かけてみた。
 今年は暖冬のせいか、大柏川沿川であれほどたくさん見られたユリカモメが、二月十五日頃からぱったりと姿を見せなくなった。例年であれば数を増減させながら、頭が黒い夏羽に変わる四月上旬まで見られるのだが、すでに一週間ほとんど姿を見かけないところをみると、今年は早々に北へ帰ってしまったのであろうか。ロシア極東地方などの繁殖地では繁殖のためのよい場所を確保しなければならないので出遅れると大変だが、このままシベリア高気圧が勢力を盛り返すことがなかったら、自然の力の何と不思議なことであろうか。


  大柏川の浜道橋から上流は拡幅工事を行う際に多自然型工法が採用された。石積みの護岸の内側で川を緩やかに蛇行させ、土の土手や泥洲、小さなワンドなども作られている。夏には大型の雑草が繁茂するが、冬から春にかけてはかつての小川の土手のような雰囲気もあり、いい感じである。特に市の保険医療福祉センターの南側は道路からも離れているので、多くの鳥たちを観察することができる。川面ではコガモが二十から三十羽の群を作って上流から流れてくる餌を食べている。カモ類の中では最小だが、雄は大変美しい。土手の部分ではツグミやムクドリ、スズメが草の実などをついばんでいる。岸辺には狭いながらも泥洲ができるため、ハクセキレイが忙しく歩き回っており時折タヒバリもやってくる。さらに、ここから浜道橋の間にはいつも一羽のイソシギがいる。


イソシギはほぼ一年中見られるムクドリ大の小型のシギで、目の回りに白いアイリングがある大変愛らしい鳥である。ピューイと澄んだ声で鳴き、羽を小刻みに忙しく羽ばたかせながら直線的に飛ぶ。
 ところで、鳥インフルエンザの影響から鳥との接触を怖がる風潮が広がっているが、余程の条件が揃わなければ人に感染する恐れはない。鳥に限らず動物と接触した後に手を洗うなどというのは常識の問題であり、いたずらに風評に惑わされることなく、冷静に対応して欲しい。
(2004年2月27日)

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「景観」と「景色」前々回、市川のクロマツにとって外環道路の建設が第四の危機になっていると書いた。少し言葉が足りなかったため真意が伝わらなかった節があるので若干言い訳をしておきたい。
 クロマツ景観を守るために道路を作るなという気はないし、クロマツ景観が失われないよう、移植の取り組みが行われていることは高く評価すべきである。さらに、市川のクロマツのように高さが二十メートルを超えるようなマツを移植することの技術的な困難さも十分理解できる。しかし、移植の適否を判断するときに、幹に傷があるとか形状がよくないなど、あたかもマツの方に責任があるような言い方は納得できない。技術的に無理であるとか、経費がかかり過ぎるという人間側の理由は堂々と主張すべきである。
 前々回も書いたように、幹に大きな傷があるのは太平洋戦争末期に松根油を採取した跡であり、人間の都合で付けられた傷で、クロマツは戦争の犠牲者とも言える。しかも松根油の採取は当時勤労動員された近在の小中学生が行ったものであり、六十〜七十歳代の方の中には未だに癒えぬ傷からヤニを吹き出しているクロマツを忸怩たる思いで見守ってこられた方もおられることと思う。
 家を建てるときにも、土地の境界に生育していたマツを伐らずに塀に切欠きを入れたり、建て直しでセットバックした後も道路の真ん中に列状のクロマツが残ることを許容したり、落ち葉に困ることがあっても切り倒すことなく剪定でしのいできたのも地元の人々の愛着の表れである。その結果残ったマツの姿を「不健全」だと断ずべきではない。まさに長い間人とクロマツが共に生きてきた結果の姿であることを理解して欲しい。


 道路の建設工事後に別のりっぱな若木を植えることで、クロマツ集団の連続性やクロマツのある景色が復元されたとしても、人々の心の中に様々な思い出とともにあったクロマツは失われてしまう。人々の心に何の感慨も呼び起こさない単なる景色は心象を重視する景観にはなり得ない。
 移植作業を担当する造園業者の方が「このクロマツを見ていると地域の人がどういう思いで残してきたかがよく分かる。移植は一本一本を考えるのではなく、どういうクロマツの集団を復元するかを考え、そのためにはどの木を持って行ったらいいかを選ばないとダメだ。」と言っていた。さすがに長く現場で自然に接してきた人たちの感覚は真理を見抜いていると感心した。
(2004年3月12日)  

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情報と生物暦苦手な野鳥の記事を書いたら、ありがたいことに多くの方から情報をお寄せいただいた。柏井町の水アドバイザー、佐々木さんからは「今年は早くも二月二十日にウグイスのさえずりを聞いた」との情報、北方遊水池の会の齋藤慶太さんからは「昨年大柏川沿いの市保健医療福祉センター南側などで越冬したベニマシコが今年は来ないので気にしている」こと、大野町の鳥海一郎さんからは「昨年の夏が冷夏だったせいか、この冬は野鳥の餌になる昆虫のサナギや幼虫が少ない」こと、そのためか「ヒヨドリが蓚酸カルシウムのえぐみを嫌って普段はめったに食べないホウレンソウを食べている」こと、同じく大野町の天野悟佳さんからは「カラスが畑のビニールトンネルに穴を開け、足をかけて中を覗いていた」ことを聞いた。大変ありがたいことと感謝している。
 ところで、二月一五日頃から約一カ月姿を消していた大柏川のユリカモメが再び姿を見せた。南大野の田中俊行さんから「三月十二日に冨貴島小学校付近の真間川でユリカモメを四十羽以上見た」次いで「三月十四日に北方橋下流に七十〜八十羽」との情報をいただいた。同じ三月十四日に筆者自身北方遊水池の調査で調節池内に百二十羽、大柏川の大柏橋上流に約百羽いるのを確認した。一時は江戸川放水路でさえ数十羽にまで数を減らしていたユリカモメは一カ月間どこにいたのだろう。渡り鳥の渡りは気温ではなく日照時間の変化に左右されると言われているので、あのまま北へ帰ってしまったとも思えなかったのだが。例年だとこの調子で日々数を増減させながら四月中頃まで姿を見ることができる。


 この時期鳥たちはすでに繁殖期に入っており、日本で繁殖するもの以外に、これから北へ渡って繁殖をするカモ類もすでにつがいを形成している。市川東高校の東側にある柏井調整池には約百羽のコガモと少数のホシハジロやキンクロハジロがいるが、いずれも雌雄が仲良く並んで休息しているのが観察できる。カラスは繁殖期以外もつがいを解消せず、生涯添い遂げるといわれるが、この時期はやはり二羽ずつ仲良く寄り添っていることが多い。今群れているのは繁殖に関わらない若鳥たちである。
 三月十六日に真間山弘法寺の伏姫桜が例年より一週間早く開花した。東京のソメイヨシノの開花は三月十八日であったが、里見公園あたりではこの記事が掲載される頃が盛りであろうか。
(2004年3月26日)

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桜花を愛でる心四月といえばやはり桜の花ということになるだろう。温かさの訪れとともに樹全体にぱっと花を咲かせる桜は、寒い冬を乗り切って新しい生命の活動が始まる象徴として日本人の心に独特の感慨をもたらしてきた。
 市川は桜の花見をするには恵まれたまちだと思う。里見公園をはじめ、スポーツセンターや弘法寺、桜土手、真間川に出れば菅野の昭和学院北側から国道14号にいたるまで桜並木が続いている。この桜並木は治水対策で真間川が改修される際に市民の強い要望で残ったり復元された並木である。
 中山法華経寺や北方の妙正寺、曽谷の春日神社など桜の多い寺社も多く、第三中学校前や曽谷小学校前、市川東高校北側の水路沿いなど学校の周辺にも並木が多い。中国分四丁目の日本橋女学館研修センターには市内で最も大きなソメイヨシノの大木がある。
 行徳地区では、宝の中江川の両岸約六〇〇メートルにはソメイヨシノをはじめオオシマザクラ、ヤマザクラ系やサトザクラ系の実に様々な種類の桜が植えられており、色々な花色を楽しむことができる。
行徳近郊緑地の中では野鳥が運んできた種子から芽生えた様々な種類の桜が大きく育っており、観察舎からも花霞を楽しむことができる。
 この他にも大柏川沿いや北国分町の水路沿い、大野町四丁目の駒形神社横の通りなど、例を挙げれば枚挙に暇がない。さらには、古い住宅街の個人の住宅に桜の古木が多いのも市川の特徴である。


 今年は寒の戻りがあったりして花期が長い上に週末の天候もまずまずだったので花見を堪能された方も多かったのではないだろうか。筆者は、市内で最も桜の美しい所はどこかと尋ねられると、大野町四丁目にある市営霊園=写真=を勧めている。地形が起伏に富んでいる上に、桜も古いものでは植えられてから四十年が経過して老木の風情を醸し出している。さらに背景となる自然公園の雑木林の芽吹きの色が一層趣を添えている。この記事が掲載される頃にはすでに盛りを過ぎていることと思うが来年は是非訪れてみていただきたい。
 先日真間川沿いを歩いていると「桜はきれいだけど川は汚いね」と言っている女性のグループがあった。汚れの原因がどこにあるのかを考えるよいきっかけでもある。また、桜の花を嗅いでいる人を見かけるが、桜はそのままではほとんど香らない。花も葉も塩漬けにすることで初めて独特の香りがでる。桜餅に使われるのは芳香成分を多く含むオオシマザクラの葉である。
(2004年4月9日)

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蓴菜池で感じた自然観国府台と中国分の間の谷津にある蓴菜池はかつての国分沼の景観を復元した都市公園である。人工的な空間が多いとは言え、雑木林の斜面林と池の組み合わせは結構自然らしさを感じる事ができる。特に早春の梅、桜から新緑にかけては大変美しく、わざわざ遠くから訪れる人もあって市内でも利用者が非常に多い公園の一つである。


 そのような蓴菜池公園で先日カミツキガメを発見し捕獲した。ペットとして売られている中南米原産のカメで、捕獲した個体は甲羅の長さが三七センチ、幅三〇センチもある大型の個体であった。性格が荒く、飼っていた人が持て余して捨てたものであろう。蓴菜池にはミドリガメの名前でやはりペットとして売られているミシシッピーアカミミガメなど数種のカメが大量に捨てられ、すでに繁殖さえしている。その他にも池にはブラックバスやブルーギル、他で捕ってきて持て余したザリガニやサワガニなど様々な生物が投げ込まれている。その上、野良猫に餌を与え放し飼い状態にしている人もあり、まるでペットの捨て場のような状態である。その一方で野生動物との触れ合いや自然愛護と称しカモ類などの野鳥に大量にパンを与える人も後を絶たない。


 蓴菜池には市内でも生息が限られてしまったドブガイやマルタニシなどの淡水性貝類やハゼ科の魚ヨシノボリ、テナガエビなど、在来の水棲生物がかろうじて生息している。このような環境に飼いきれなくなった外来種のペットなどを放す行為は無責任極まりない。
 また蓴菜池には全国で唯一、自然界で自生するイノカシラフラスコモという藻類が生育している。先日その保全のための池を浚渫していると「自然破壊だ。自分たちがやっていることが分かっているのか!」と言い捨て足早に去って行った人がいた。議論を避け一方的に捨てぜりふを残す心の貧困さに愕然とした。そもそも蓴菜池の自然は山奥の手つかずの自然と違い、長い間人の生活との関わりの中で形成された自然である。仮に今の状態が好ましい環境だとすれば、その状態を維持する作業が必要である。全く手を加えずに成り行きに任せるのが自然だという原理主義的な自然観は都市には適さない。蓴菜池の自然を危機に直面させているのは前述したような行為をする一部の心ない市民である。今市川の自然が健全でいられるかどうかは市民の見識とモラルにかかっている。
(2004年4月23日)

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 レンゲとショウブ四月二十四日、大野町四丁目の水田の一角でレンゲ祭りが開かれた。花の最盛期は少し過ぎていたが、約五千平方メートルのレンゲ畑は市川では珍しい光景である。
 市川北高等学校の北に位置するこの周辺は、わずかに残った水田とヨシが繁る休耕田が混在していた。四年前に市教育委員会が地元の農家の協力を得て休耕田の一部を復田し、親子で米作りを体験する「米っ人クラブ」を立ち上げた。


 この際、ゴミの不法投棄が著しかった周辺の休耕田の環境整備も合わせて行おうという地元の有志によってレンゲ栽培の取り組みが始められた。刈っても刈っても出てくるヨシや、冬には溜まった水が凍る厳しい環境にレンゲの栽培はなかなかうまくいかなかったが、刈ったヨシを使った暗渠排水や入念な耕耘などの努力が実り、四年目の今年見事に花が咲いた。
 多くの人々の努力によりこれまでの市川には見られなかった新しい田園風景が生み出された訳だが、環境の改変には気をつけなければならない面もある。休耕田だった頃には一見単なる荒れ地のように見えたヨシ原も、実はその中はそれなりに多くの生き物の住処や隠れ場所になっていた。市川では生息が限られている日本最小のネズミで、ヨシの途中に鳥の巣のような巣を作るカヤネズミや、小型のモグラの仲間のジネズミ、鳥ではヨシキリが巣を作り、アカガエルの隠れ場所にもなっていた。よく「田んぼは生物多様性の宝庫」と言われるが厳密には正しくない。水田の周辺には水路や溜池、畦、雑木林など様々な環境がモザイク状に存在しており、これによって初めて色々な生き物が生息することができる。大野町の取り組みは十分な話し合いの中で生物にとっての生息環境が単純化しないように留意して行われたところに価値がある。


 ところで、湿地では今ショウブの花が咲いている。実はアヤメ科のハナショウブをショウブと勘違いしている人が意外と多い。菖蒲湯に使う本物のショウブはサトイモ科でアヤメとは似ても似つかぬ花が咲く。ハナショウブにはショウブ独特の香気も薬効もない。一時スーパーなどで菖蒲湯用のショウブになぜかハナショウブの造花を一輪つけて売っていたことがあり、誤解を招いたものであろう。かつては水路の縁にたくさんあったショウブも市川ではすっかり少なくなってしまった。
(2004年5月7日)  

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遺棄ペットは外来動物クスノキに続いてスダジイやシラカシが新緑の季節を迎えている。スダジイは花も盛りで、むせ返るような芳香を漂わせている。常緑樹が最も変化を見せる季節である。


さて、前々回の「蓴菜池で感じた自然観」の中で「野良猫に餌を与え放し飼い状態にしている人もあり」と書いたら編集部に抗議文が来た。<写真=公園内に作られた猫用の段ボールハウス。餌の時間以外は猫の姿はない>「物事の筋道を考えないレベルの低い事をいつまでも叫ぶのは止めましょう!」と題し「活字にするにはあまりにも短絡した考え、尚且つ一方的なので一言」として、公園の猫はモラルのない人によって捨てられた、捨てられた猫はそこで生きていくことを余儀なくされる、現在は二十三匹いる、ボランティアが自費で避妊手術をしている、関係者や議員とも話し合いをしている、自然を破壊しているのは動物ではない、というような内容であった。
 公園の猫に餌を与えている人々が趣味で飼っているわけではないことは十分承知しているし、自分の意志と無関係に捨てられた動物を哀れに思い世話をする行為はそれなりに尊いことだとは思う。しかし、これが猫ではなく他のペットでも同じことが許されるであろうか。例えばすでに他の自治体で大きな問題となっているアライグマが二十三頭住み着いていたらやはり異常であろう。馴染みの深い猫とは言え、ペットとして飼われていた品種はりっぱな外来動物であり、蓴菜池の生態系に与える影響は未知数である。
<写真=蓴菜池の猫は外来種>


千葉市では相当数のコアジサシの雛が野良猫に捕食されている報告もある。餌を与えている人たちは多くの人が利用する公園でこれらの猫の行動を常に把握し、責任が持てるのだろうか。糞の始末は誰がしているのだろう。愛猫家は猫は孤高の生き物だから行動を制限するのはかわいそうというがこれは誤りである。猫は元々穀物などをネズミの被害から守るための家畜として飼われていたので行動が制限されなかったのであり、愛玩の対象にした時点で飼い主は行動の制限を伴う責任を持たなければならない。公園で餌を与えるのは飼い方としては十分責任を果たしているとは言えない。
 いかに目的が崇高で正しくても、手段が間違っていれば台無しである。そこで、猫に餌を与えている人たちに以下のことを提案したい。まず組織力を養い「かわいそう」という感情論ではなく自分たちの主張に責任を持つためにもペットショップを通じて責任ある飼い方の啓発をする、次にやむを得ず飼えなくなったペットの引き取りも含め欧米のような民間団体が運営する収容施設を設けることである。施設の設置や維持に関しては自治体も支援すべきであろう。
(2004年5月21日)

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エゴノキと落し文高い所に花を咲かせる樹木の中には、花が地上に散り始めてやっと咲いていたことに気がつくものもある。エゴノキもそんな樹木の一つである。エゴノキは市内でごく普通に見られる高さ五〜六メートルになる落葉樹で、五月中頃に枝の下側にたくさんの白い花を下向きに咲かせる。最近はその清楚な感じから庭木としても人気が出ている。
<写真=エゴノキに作られた「落し文」>


 花がほぼ終わった五月の終り頃にエゴノキの葉先をよく見ると、葉が直径五ミリ、長さ一.五センチ強の筒状に丸められているのを見ることがある。これはエゴツルクビオトシブミという一センチたらずの小さな昆虫の仕業で、巻いた葉の中には卵が産みつけられている。昆虫の名前にもついている「落し文」とは、古来、相手に直接言えないことを手紙にしたためてわざと相手の目につくところに落としておいた巻手紙のことである。この虫の作る「ゆりかご」が古来の落し文の形に似ていることからなぞらえた何ともロマンチックな名前である。
 オトシブミの仲間は市川では数種類見られ、種類によって巻く樹木の種類もほぼ決まっている。いずれも一センチに満たない小さな昆虫が体の何倍もある大きな葉を丸めていくことは大変な労力であるが、この力仕事を雌だけでやってのける。これと思った葉を選んだ雌はカビによる病気や他の昆虫の卵がないか葉の裏表を丹念に調べ、葉の上を歩き回る。


このとき自分の歩幅で葉の大きさを計っているという説もある。葉の巻き方は種類によって異なるが、エゴツルクビオトシブミ=写真=の場合は点検が終わるとアゴを使って葉の根元から約三分の一のあたりに横に切り込みを入れ、アゴと前足を使いながらまず葉を縦に二つ折りにし、先端から丹念に巻いていく。少し巻いたところで卵を一個産みつけ、端も巻き込みながら巻き上げる。枝の先端付近の柔らかい葉を使うことが多いようである。一個作るのに一時間位かかるが、初めから上手にできる訳ではなく、初期の数個は切り過ぎたりほどけてしまったりするようで、段々上手になるようだがとても人間には真似できない。一匹の雌が二十から三十個の「落し文」を作る。幼虫は徐々に発酵する葉を食べて生長し約一カ月で羽化して成虫になる。大町自然観察園は観察路のすぐそばまでエゴノキの枝が伸びており、オトシブミの観察をするには便利だ。
(2004年6月11日)

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こざと公園の野鳥南大野の住宅街の真ん中にあるこざと公園は南北に分かれた池を中心とする公園である。周囲に園路が巡っており、常に多くの人々が散策に訪れているにも関わらず、間近に野鳥観察ができる珍しい公園である。
 そのこざと公園に今年もヨシゴイが来ている。ヨシゴイ<写真=ヨシゴイの雄>は夏鳥として日本に渡ってくる四〇センチ足らずの小型のサギで、日本で繁殖する。


その名のとおりヨシ原に巣を作るためヨシ原自体の減少に伴い数が減り、千葉県のレッドデータブックでは最重要保護鳥類に指定されている。こざと公園のヨシ原はそれほど大きな面積ではないが、どういう訳かここ数年続けて繁殖している。ヨシの茎に両足を広げて止まり、上から水面を覗き込むようにして魚や小型のエビ類を捕らえて食べる。早朝や夕方、ヨシの上の方に止まって遠くで犬が鳴くようなこもった声で「オーオー」と鳴く。鳴き声に気づいている人は多いようで、先日も写真を撮っていると「オーオー鳴いている鳥は何か」と訊ねられた。雄の頭は青みがかった黒色で、背は淡い褐色、腹は淡い黄白色で雌は胸に縦縞模様がある美しい鳥である。北池と南池に一つがいずつ営巣しているようである。警戒するとヨシの中で上を向き首を精一杯伸ばして動かなくなる。本人はヨシに擬態して隠れているつもりらしいが結構目立つ。順調にいけば七月の終り頃には若鳥が見られるようになるだろう。 こざと公園ではヨシゴイの他にも毎年バン<写真=バンの雛>が繁殖している。


今年も少なくとも北池で三羽、南池で二羽の雛がスイレンの葉の上を歩いているのを見ることができる。さらにコアジサシが二羽採餌に飛来している。カイツブリが営巣することもあるが、今年は姿は見ているものの営巣は確認していない。夏にはオオヨシキリが「ギョギョシ」とけたたましくさえずり、冬にはハシビロガモやキンクロハジロ、ホシハジロなどのカモ類が羽を休める。カワセミは一年を通して見ることができる。
 池は釣りが禁止されており池内のいたる所に釣り禁止の看板が立っているにも関わらず平然と無視して釣りをする人が後を絶たない。特に若者のルアー釣りは問題が多く、スイレンに引っかかり切り捨てられた糸はスイレンの上を歩くバンにとっては脅威で、南池には片足を失ったバンがいる。日本人は何時からルールを守ることの出来ない国民になってしまったのだろうか。
(2004年6月25日)

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江戸川放水路のトビハゼ顔の上に飛び出した大きな目玉。気難しそうにへの字に結んだ口。しかも泥の上を這い回っている。世の中には何とも変わった魚がいるものだ。 江戸川放水路に住むトビハゼは潮が満ちている間はやむなく穴の中に潜っているが、潮が引いて干潟が現れると胸びれを使って泥の上を器用に這い回ったり、干潟に残った水溜まりの水面をピョンピョンと跳びはねて渡ったりする。


同じ仲間としては有明海に住むムツゴロウが有名であるが、トビハゼは体長八a前後でずっと小形である。完全な肉食で、干潟の上で小さな甲殻類やゴカイの仲間を食べている。東京湾奥部はトビハゼの分布の北限と言われている。市川市内では野鳥観察舎がある行徳近郊緑地内の干潟でも見られるが、間近で観察するには江戸川放水路が適している。
 トビハゼの観察に出かけるときには新聞等で干潮の時間を確かめて行く必要がある。潮が引いていない時間に行っても干潟が出ていないので姿を見ることはできない。長靴、帽子、飲料水は必需品だ。双眼鏡や望遠鏡があるとさらに観察しやすい。江戸川放水路では左岸側(稲荷木側)の新行徳橋のたもとが最もトビハゼを観察しやすい。ただし、この付近に設置してある遊船業者の桟橋は営業用なのでマナーとして乗らないように心がけたい。
 トビハゼは六〜八月が繁殖期で、雄は背びれをいっぱいに広げて雌に求愛のディスプレイをしている。雄は口で巣穴を掘り、口いっぱいに泥を詰め込んでは巣穴の回りにペッペッと吐き出していくので巣穴の回りにはやがて土手ができる。巣穴ができると雄は結構遠くまでパートナーを探しに出かけて行くが、何の目印もない干潟でちゃんと巣穴に戻ってくる。筆者の観察では三十分後にペアで戻ってきた例がある。
 もっとも、個体識別しているわけではないので出かけて行った個体と戻ってきた個体が同一かどうかは確認出来ないが。


 ドロドロしていて臭くて一見汚い泥干潟だが、トビハゼや多くのカニ類が生息している貴重な場所である。江戸川放水路は人工的に掘られたものだが長い間にこのような環境ができた。国土交通省は護岸の改修をする際にトビハゼの生息環境を損なわないように工夫した「トビハゼ護岸」を採用し、生息環境の維持に努めている。
 市川市自然環境研究グループでは七月一八日午後一時三十分、行徳橋北詰集合で干潟の観察会を行う。ぜひご参加を。
(2004年7月9日)

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セミとヤマユリ今年もいよいよセミが鳴き出した。市川で普通に鳴き声が聞かれるセミで最も早く鳴き出すのはニイニイゼミである。アブラゼミと同じく翅が透明ではない小型のセミで、耳の奥に残るようなチーと甲高く連続した鳴き方をする。筆者は六月二十四日に蓴菜池で今年最初の声を聞いた。幼虫は毛深いため、市川で見られるセミでは唯一脱け殻に泥がついている。
 次いで六月二十六日に大町でたどたどしいヒグラシの声を聞いた。カナカナカナというもの悲しい合唱が本格的に聞かれるようになったのは七月に入ってからである。
 日中のセミの声を独占していたニイニイゼミに加え、七月十六日には夏本番とも言えるミンミンゼミとアブラゼミの声が聞かれるようになった。アブラゼミは市川で最も数が多く、夜灯火に飛び込んでくるのもほとんどアブラゼミである。市川ではツクツクホウシが往く夏を惜しんで「つくづく惜しい」と鳴くとセミの季節も終りに近づく。
<写真=ヒグラシの脱け殻>

 セミの声の到来とともに、林の中ではヤマユリが見事な大輪の花を咲かせる。ヤマユリは古事記や万葉集にも登場するほど古くから日本人には馴染みの深い花で、市川でも以前はちょっとした林でも見られた。しかし、林が放置され林内が藪化するにつれて目にする機会が少なくなり、さらに心ない人々による盗掘が追い打ちをかけ今では限られた所でしか見ることができない。
 ヤマユリの花はユリの中では最大級で、直径が一五センチを超える。芳香が大変強く、林の中でも香りで存在に気づくことが多い。根は上部のひげ根と下部の鱗茎の二段構造になっている。鱗茎は古くから食用にされており、正月料理にも使われる。 日本の野生ユリにはヤマユリの他にもオニユリやテッポウユリ、スカシユリなど野生のままで鑑賞に耐える美しいユリが多く、十九世紀終り頃にはシーボルトらによってヨーロッパに持ち出され、オリエンタルハイブリットと呼ばれる園芸品種が数多く作り出された。今人気があるカサブランカもヤマユリをベースに作り出された品種である。

  市川では大野の駒形神社の林や、大町公園に隣接する民有林でヤマユリの花を見ることができるが、いずれも氏子や所有者の涙ぐましい管理の努力の賜物である。大町では所有者の方のご好意で二十四日まで林が公開されている。少し時期を過ぎたかもしれないが出かけてみてはいかがだろうか。<写真=駒形神社のヤマユリ>
(2004年7月23日)
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大野二丁目のアラカシ前回のセミの話の中でツクツクホウシが鳴くと夏も終りと書いたら何と記事が掲載された翌日の七月二十五日にツクツクホウシの声を聞いた。八月早々に鳴き始める気の早いものもいるが、集団で鳴くようになるのは例年お盆の、高校野球も終盤を迎えようという頃である。ところが今年は七月三十日には集団で鳴き始めてしまった。今年の暑い夏は地中で暮らすセミの幼虫にも影響を与えてしまったらしい。
   そのツクツクホウシの今年最初の声を聞いたのが市川市と松戸市の境に広がる大野二丁目の谷津=写真=の林である。多くの谷津が宅地化してしまった中で、この谷津は市川市の調整池が建設されていることもあり、かろうじて谷津の地形をとどめている。谷津の東側の斜面林は市川市、西側の斜面林は松戸市である。

   この市川側の斜面林に市川では珍しくアラカシがまとまって生育している。アラカシは高さ二十メートル近くになる常緑の高木で、どちらかというと西日本に多いカシである。関東で単にカシというとアカガシを指すことが多いのに対して関西ではこのアラカシを指すほど一般的である。
 市川に生育しているカシ類はアカガシ、シラカシ、アラカシの三種類で、アカガシはスダジイやタブノキなど他の常緑樹が作る自然林に少数が混ざって生育しているが、シラカシは屋敷林や土地の境界木として植えられたものが多い。アラカシ=写真=は市内では点々と見られるが、なぜかこの谷津の林とその南に続く梨風苑(りふうえん)の東側の斜面林には数多く生育している。アカガシやシラカシに比べると市内に生育するアラカシには大きな木がないので、それほど古くから生育していたわけではないのかもしれない。市川のような自然環境では人がいろいろな植物や動物を持ち込むので、本来の自生かどうか分からなくなってしまっているものも多く、アラカシの由来もよく分からない。

   ところで最近、市川市内で人に対しても吸血性があるマダニの一種が見つかった。もともとは牧場や牛の放牧地に多く生息するごく一般的な種類だが、ハイキングやオートキャンプに犬などのペットを連れて行って寄生された状態で連れてきてしまうらしい。一度連れてきてしまったダニはペットを媒介として公園や空き地の草むらに広がり、大発生している都市もあると聞く。改めてペットを飼う人々のモラルと注意力の向上を期待したい。(2004年8月13日)
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人工的な自然も大切行徳の新市街地に住んでいる人たちは「行徳には自然がない」と嘆く。しかし、実はかつて行徳地区は市川で最も自然が豊かな地域であった。旧市街地の寺社にはクロマツや照葉樹がこんもりとした社叢(しゃそう)を作り、海へ向かって何本もの水路が走り、水田や湿地には多くの渡り鳥が羽を休め、海岸にはクロマツやトベラ、シャリンバイなどが海岸林を形成していた。
 それが昭和四十年代に激変した。海面埋め立てにより海岸林は消滅し、内陸部の水田や湿地も埋め立てられ我が国有数の規模の土地区画整理事業が行われた。旧市街地の社叢は地下水の汲み上げによる地盤沈下により低湿地化し、多くが枯死した。 そのような訳で現在では市川の自然についての話をすると、どうしても市の北部に偏ってしまう。
 行徳地区の自然で特徴的なのは自然を復元しようという取り組みが行われていることである。野鳥観察舎がある近郊緑地での行徳野鳥観察舎友の会による内陸性湿地復元の取り組みはすでに一定の成果をあげ、近郊緑地の一部にかつての行徳の風景を彷彿(ほうふつ)とさせる景観が出来つつある。
 その近郊緑地に隣接して江戸川左岸流域下水道の第二終末処理場がある。処理施設の広大な屋上のうち約三・五ヘクタールが野球場やテニスコートなどのスポーツ施設、約三ヘクタールが修景池や散策路、広場として公開されている。修景池は当初は浅い池に水を張っただけのものであったが、それでもギンヤンマやシオカラトンボ、ノシメトンボなど多くのトンボがやってきた。その後スイレンが植えられたり護岸の一部にヨシが植えられイトトンボの仲間も増えた。
=写真=ビオトープとして整備された雨水調節池
今ではたくさんのカダヤシが泳ぎ、親子連れが魚すくいに興じる姿も見られる。さらに地上部にある雨水調節池約一・六ヘクタールは「水鳥の池」としてガマやヨシが植えられ観察デッキや園路が整備されている。池の形状や全体の構成にもう一工夫を要すると思われ、南大野のこざと公園のように多くの水鳥に利用されるところまでは至っていないが、ハクセキレイやカルガモが訪れ、ギンヤンマが悠然と遊弋(ゆうよく)している。
=写真=屋上修景池で魚すくいに興じる子供たち
また、屋上の散策路にはコナラやクヌギ、シラカシなどドングリのなる木も多く植えられており今後が楽しみである。
残念なことに昆虫類が少ないように思われるが、小さな昆虫類の飛翔力の範囲内にこのような環境をたくさん作っていくことで呼び込むことができるであろう。
(2004年8月27日)
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秋の訪れ九月に入ってもまだまだ厳しい残暑が続いているが、自然の世界は着実に秋が訪れている。さすがのセミの声も一頃の勢いはなく、代わって八月の終り頃から秋の虫の声が聞かれるようになった。都市部では草地の減少により「ガチャガチャ」と鳴くクツワムシがめっきり数を減らし、市川でも声を聞くことができる場所は限られてきている。それに対して最近急激に数を増やしたのは中国原産の帰化昆虫であるアオマツムシ=写真=左である。日本の鳴く虫と異なり草むらではなく樹上で暮らし、昼夜の別なく「リーッリーッ」というけたたましい連続音で鳴く。日本には明治時代に渡来したと言われ、街路樹などをつたって生息範囲を広げた。市川は東京との間に江戸川があるせいか、埼玉県などに比べるとそれほど数は多くなかったが、ここ数年で一気に増えた。特に今年は猛暑も手伝ってか、八月二十日過ぎには大合唱が始まった。
 野鳥では八月の終り頃からシギ・チドリ類の秋の渡りに伴って様々な種類が姿を見せ始めた。市川で見られるシギ・チドリ類の多くは「旅鳥」といって、繁殖地であるシベリアやアラスカと越冬地である東南アジアやオーストラリアを行き来する途中で日本に立ち寄るものが多い。したがって、繁殖地へ向かって北上する春と、越冬地に向かって南下する秋に姿を見せる。この一万キロを優に超える渡りのコースを解明するため、関係国の研究者が協力して捕獲した鳥に脚環やフラッグを付けて放し、その鳥が次にどこで観察されるかという「標識調査」を行っている。市内では江戸川放水路の干潟が間近でシギ・チドリ類を観察できる絶好の場所である。この時期は年間を通して姿を見られるイソシギのほか、キアシシギ、アオアシシギ、ソリハシシギ、チュウシャクシギ=写真=右、キョウジョシギ、メダイチドリ、シロチドリなどが観察できる。繁殖期を終え越冬地に向かう途中なのでいずれもほとんどがすでに冬羽に変化している。
 シギ・チドリ類は潮が引いているうちに干潟を忙しく走り回ってゴカイ類や小型のカニを食べている。潮が満ちてくると杭やトビハゼ護岸の蛇籠、船の上などで休息する。 カモメ類ではウミネコがやはり冬羽になっており、ユリカモメもすでに少数が姿を見せている。 野では気づかぬうちにヒガンバナの花茎が伸びてきた。この記事が掲載される頃には咲き出すかもしれない。
(2004年9月10日)
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宮久保の照葉樹林ある気候条件の下で最終的に到達する森林の姿を生態学の世界では「極相林」と呼んでいる。市川の極相林はシイ類やタブノキなど、常緑の広葉樹で構成される「照葉樹林」とされている。このことはこのシリーズ第六回の「里見公園の照葉樹林」でも述べた。市川市内ではこのような照葉樹林をいたるところで見ることができる。もっともいずれも斜面林なので林の規模は大きくはない。
 そのような中に、宮久保四丁目にある白幡神社=写真(左)=白幡神社のスダジイ林の照葉樹林がある。白幡神社の南側は大昔に海だった低地に面し、北側には宮久保の地名の由来にもなった細い谷津が入り込んでおり、神社は幅百メートルにも満たない半島状の地形の上に位置している。
その周囲を照葉樹の斜面林が囲んでおり、わずかに〇・六ヘクタールではあるが昭和五十六年に緑地保全地区に指定された。先に紹介した里見公園周辺の照葉樹林に比べると大きなタブノキがほとんど見られない代わりに、スダジイは大木が多く、幹回りが三メートルを超える巨木も四本ある。宮久保のスダジイ=写真(右)=の巨木の特徴は根元から株立ちしているものが多いことである。スダジイはもともと萌芽力が旺盛で、根元からたくさんの「ひこばえ」が出てくる。何らかの原因で主幹が枯れるとひこばえが一斉に生長し新しい幹を形成するので株立ちの形になるものと考えられる。
 この宮久保の照葉樹林が最近衰弱してきているように思えてならない。かつて、南側の斜面はスダジイの枝が道路上に覆いかぶさるまで繁っていた。南側の住宅との関係もあって何年か前に大きな枝も含めて道路に被さらないようにバッサリと枝下ろしが行われた。これによって最も光合成が盛んだった南側の大枝を失ったスダジイの大木は一気に衰弱した。スダジイは萌芽力は旺盛でもタブノキやクスノキのように枝の切り口や幹から芽を出す「胴吹き」をあまりしない。さらに南からの強い日射しや風が林内に直接入り込み、林床の乾燥化が進んでしまった。
今では一部にササが入り込んだり、ニセアカシアが生長するなどして典型的な照葉樹林の景観は失われつつある。極相林は自然界では相当長期にわたってその群落を維持すると言われているが、それはあくまでも人為的な行為が行われなかった場合のことであり、手の入れ方を誤ると極相林といえども群落が崩壊してしまう危険性をはらんでいることを示している。
(2004年9月24日)
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真間川水系の魚市川の北部を流れる真間川水系の河川は、勾配が少ない低地を流れるため上流まで潮位の影響を受け、毎日二回ずつ水位が大きく上下する。さらに、米作りのための水循環が必要なくなってしまったことで湧水は減り、これらの河川を流れる水はほとんどが家庭からの生活排水になってしまった。このため、流量や水温までが人の生活リズムによる排出水に合わせて変化する。生活排水による汚濁が最も激しかった昭和五十年代には洗剤の泡が舞い、メタンガスが吹き出す生物の住めない川になってしまっていた。素早く油汚れを落とす優れた洗剤も、一日の疲れを癒してくれる入浴剤も流れゆく先は川であり処理せずに流せば汚濁の原因物質になる。
 ところが近年、様々な人々の努力により水質が大分改善し、真間川水系でも多くの魚を見ることができるようになった。真間川水系や大柏川などで最も多く見かけるのはボラ=写真(左)=真間川の水面近くで餌を食べるボラの群れである。ボラは本来は海の魚で内湾から河口部に生息しているが、川にも上ってくる。真間川が江戸川に注ぐ根本水門や、東京湾に注ぐ高谷の河口から上ってくるものであろう。
 ボラは生長するにつれて名前が変わる出世魚で、二〜三センチのものをハク、次いでオボコ、イナ、ボラと変わり、六〇センチを超えるくらいになるとトドと呼ぶ。トドは「これより先はない」という「とどの詰まり」の語源と言われ、小さな少女を指す「おぼこ」、若者を形容する「いなせ」など、ボラの名前に由来する言葉は多い。水上から見ると、丸みを帯びた頭、前方上についた目、背びれが前後二つに分かれていることで見当がつく。真間川と派川大柏川=写真(右)=派川大柏川を泳ぐボラが合流する三角橋周辺やニッケコルトンプラザ付近の真間川ではトドと呼んでよい大物が泳いでいる。大柏川でも調節池の工事が行われている奥谷原橋付近より下流ではボラの姿を普通に見ることができる。
 また、春から初夏にかけては産卵場所を求めてたくさんのコイが川を遡る。水草が繁る国分川調節池はコイにとっては絶好の産卵場所で、稚魚が誕生するとそれを狙ってサギなどの水鳥が集まる。江戸川からは体長一メートル近いハクレンが国分川と真間川の合流点まで入ってくる。真間川や大柏川で水面をさざめかせているのはかつてのメタンガスの泡ではなくおびただしい数のカダヤシである。それをカワセミが狙う。皆さんも一度足を止め川面を眺めてみて欲しい。
(2004年10月8日)
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イチョウの話イチョウは市川の秋を彩る樹木の代表である。樹木の黄葉は、秋になって気温が下がってくると葉の中の葉緑素が分解して緑色が薄くなることにより、元々含まれているカロチノイドという黄色の色素の色が表に出てくることによって起きる。これに対して紅葉は元々葉に含まれている色素ではなく、秋になってからアントシアンという赤色の色素が新たに形成されることによって起きる。
 イチョウは寿命が長く巨樹になるものが多い。市川では胸の高さの幹周りが三メートルを超える巨樹が百九十七本確認されているが、このうち三十四本がイチョウである。この中で最も有名なのが八幡の葛飾八幡宮にある千本公孫樹=写真(右)=である。高さ約二〇メートル、胸の高さの幹周り一二メートルというなかなか堂々とした木で、昭和六年に国の天然記念物に指定された。この木は江戸時代の終りに描かれた江戸名所図会にも神木としてはっきりと描かれている。行徳地域には特にイチョウの巨樹が多く、三十四本中十四本が行徳にある。行徳には旧行徳街道沿いを中心に十一の神社=写真(左)=本行徳神明神社の切り詰められたイチョウがあり、このうち八か所の神社にイチョウの巨樹がある。これらのイチョウはかつて東京湾に漁に出ている漁師が方角を見定める目印にしたと言われている。しかし、すぐ間近まで住宅が建てられた今では太い枝までが切り詰められ、残念ながらとても目印になるような状態ではない。
 イチョウはソテツとともに、恐竜が栄えていた約一億年前の中生代から氷河期を越えて生き残っている樹木で、植物の分類上はマツやスギなどの針葉樹と同じ裸子植物に分類される。このため、広葉樹のような広い葉をもっているにもかかわらず、植物図鑑では針葉樹のグループに含められている。原産地は中国南部で、日本には仏教伝来とともに渡来したとも鎌倉時代に伝わったとも言われているが詳しいことは分からない。現在は街路樹や公園樹などとして世界中で植栽されているが、自生地となると原産地の一部に野生状態のものがあるらしいということくらいしか分かっておらず、人間が植栽していなければとっくに絶滅していたともいわれている。イチョウという名前は中国名の「鴨脚=ヤーチャオ」から転化したといわれている。雌雄異株で、銀杏がなるのは雌だけである。
 黄葉では神宮外苑絵画館前のイチョウ並木が有名だが、市川市内では霊園のイチョウ並木の黄葉が素晴らしい。
(2004年10月22日)
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冬鳥の到来北陸地方では台風の影響でドングリ類の実りが悪いことがクマが人里に出てくる理由の一つではないかと言われているが、市川ではスダジイなど近年にない豊作である。もっとも、スダジイの場合は開花してから結実するまで二年かかるので、去年と今年のどちらの要因が豊作をもたらしたのかは分からない。
 さて、前回のイチョウについて補足を少し。イチョウは一億年も前から生き残ってきた「生きた化石」であることは前回述べた。イチョウは種子植物であるにも関わらず、受粉後結実に至る過程が長く不明であった。しかし、一八九六年東京大学の助手であった平瀬作五郎氏によって、運動性を持った精子が発見され謎が解明された。コケ類やシダ類など原始的な植物ではそれまでも生殖のある段階で精子が発見されていたが、高等植物では初めての大発見であるとともに、植物の進化の過程を知る上でも大きな発見であった。このときのイチョウの木は今でも東京の小石川植物園に元気にそびえている。
 本題の冬鳥の話。ユリカモメは九月終り頃から冨貴島小学校付近で見られるようになり、十月終りには北方遊水池でも百羽近い数が羽を休めるようになった。同じく十月初めには大柏川でコガモが、十月十五日過ぎには蓴菜池などでハシビロガモ=写真(右)=繁殖羽やヒドリガモの姿も見かけるようになった。ところがこの時期のカモ類は雌ばかりが目につき、派手な色合いをした雄はほとんど見かけないように見える。実は雄もいるのだが、この時期のカモ類の雄は雌と同じような色をしているので目立たないのである。これを専門的には「エクリプス」=写真(左)=と呼んでいる。野鳥の図鑑を見ると「夏羽」とか「冬羽」という表現が出てくるが、雄が派手なのは繁殖期の夏羽だけで、繁殖期以外は雌同様目立たない地味な色をしている。ところが、繁殖のためのつがい形成は日本にいる冬のうちに行われるので、「冬日本にいるカモの羽は夏羽」というややこしい現象が起きてしまう。このため最近では「繁殖羽」と「非繁殖羽」というように表現される場合もある。十一月に入り、カモ類の雄の羽がどんどん変わり始めた。日本に渡ってくる以前に下から繁殖羽が出てきていて、日本に着いてしばらくすると非繁殖羽が抜けて繁殖羽に変わる仕組みらしい。カモの雄たちが美しく変貌していく様をじっくり観察していただきたい。
(2004年11月12日)
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斜面林は緑の命の綱今年の日本は天災に見舞われ続けた年であった。市川でも十月二十日の台風23号では市内の数か所で雨のため斜面が崩れた。近年の台風では久々のことであった。このような被害が出ると決まって起きるのが「斜面林は危険だ」という主張である。崩れた斜面の下に住んでいる人にとっては深刻な危険であったことには違いないが、なぜ斜面が崩れたかを冷静に調べる必要がある。
 斜面の崩壊には不連続な地層による滑り面が起こす地滑り、斜面自体が支持力を失って起きる崩落、そして斜面上に地表面流が生じ水と土が一緒に流れる土砂流出など様々なパターンがある。災害の直後にはこのような違いが全部一緒くたに「土砂崩れ」として語られることが多い。滑り面がないローム層から出来ている市川の地層では通常地滑りは起こりにくい。崩落は斜面の下が道路や造成など何らかの原因で削られている場合に起きやすい。逆に土砂流出は斜面の上部に造成地や道路があり、そこから大量の水が流れることで起きる。市川ではこのパターンが最も多い。
 重要なのはいずれの場合も普段から斜面を十分観察していれば危険は予知できるということである。斜面に対する人の手の加え方に問題があるのであって、決して斜面林に責任がある訳ではない。たとえば今回斜面の崩落が発生した大柏小学校の南斜面=写真=では、隣接する西斜面では斜面下部擁壁の水抜き穴から長期間にわたって多量の水が出ていたのに対して、崩落現場の水抜き穴からは全く水が出ていなかったばかりか、降雨時には地表面流が発生し小規模な土砂流出があった。
 さらにこのような林を調べてみると林内に伐採した樹木や庭木の剪定枝が投棄してあるなど林が荒れている場合が多い。斜面の崩壊を防ぐためには適切な管理も不可欠である。
 また、大野町四丁目では樹冠の直径が二〇メートルもあるスダジイの古木が倒れて住宅に被害が出た。奥行きそのものが二〇〜三〇メートルしかない市川の斜面林ではこのような大木が倒れると斜面林そのものがなくなってしまったような景観になる。傾斜が急な南向きや南西向きの斜面では適切な樹木の更新も必要である。
 そのためには所有者の努力にだけ頼るのではなく、素晴らしい自然の景観を提供してくれる斜面林を市民全体の公共財産として位置づけ、積極的に公共支援する必要もあるであろう。平地林がほとんどない市川にとって、斜面林は残り少ない緑の命の綱である。一時の悲観論に惑わされることなく、少しでも多くの斜面林を残す努力が必要である。
(2004年11月26日)
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石井先生と「いちかわ自然の窓」昨年六月に亡くなられた元市川中・高等学校教諭故石井信義先生の著作「いちかわ自然の窓」が発行された。
 同書は一九八一年四月から先生が亡くなる直前の二〇〇三年三月までの二十二年間、約五百回にわたって本紙に掲載された同名の連載の一部である。連載当時から平易で分かりやすい文章や、生物と環境を合わせて描いた図は大変好評で、出版を望む声が強かった。=写真=「いちかわ自然の窓」表紙
 一九七〇年代は、都市は日常生活の利便性の向上を最優先させ、高速道路や鉄道網を整備することで、休日に郊外の大自然と触れ合えるようにするのが理想というのが主流な考え方だった時代である。こうした中、自然が次々と失われていくことに危機感をもった人々の努力により、行徳の近郊緑地をはじめ、大町自然観察園や小塚山市民の森など身近にある貴重な自然が残された。そうした保全運動の中には常に石井先生の姿があった。
 一方で、石井先生=写真=は市民に身の回りの身近な自然に目を向けてもらう活動にも力を注いだ。「いちかわ自然の窓」の連載もそうした活動の一環であった。普段何気なく見過ごしてしまう身近な小さな自然の中にも生物相互の複雑な関係があることや、様々な生き物による熾烈な生存競争が繰り広げられていることに注目して欲しいとの気持ちからであった。
 初めは専門の植物の紹介から始まり、後に哺乳類や鳥類などの動物、個々の場所の自然の紹介へと話が広がった。時には自然環境保全への思いから言葉が厳しくなることもあったが、その文章は常に市川の自然に対する愛情に満ちていた。
 通常、植生調査を行うと、その場所の樹木や草本がどのような位置関係になっているかを示す平面図と断面図を作成するが、石井先生はその断面図を詳細に描くことで、誰もが理解しやすいようにその植物群落の立体構造を紙の上に復元した。今回発行された「いちかわ自然の窓」には石井先生がこの本のために新たに描き起こしたものも含めてこうした細密画が多数収録されている。今回収録された八十四編は石井先生が生前に選んでいたものであるが、比較的初期の話題が多い。今改めてこの本を読むことによって、この二十年間の市川の自然の変化を感じ取ることができる。
 本書は千五百円、書店で買い求めることができるが、かなり好評とのことで、出版に関わった一人としてはありがたいことと感謝している。
(2004年12月10日)
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雑木林の再生@荒廃前号の本紙で詳しく紹介されているが、国府台四丁目にある雑木林の一部に地域の人々の協力で遊歩道が整備され、一つの雑木林が蘇った。この雑木林は市川と松戸の市境にある柳原水門付近の江戸川から国府台小学校付近まで入り込んだ谷津の南西斜面に広がる林である。
 市川の斜面林は海食崖や細く鋭い谷津に由来するものが多く、特に南向きや南西向きの斜面は非常に急峻である。このような斜面はほとんど人手が入らないので自然の植生遷移が進み、スダジイやタブノキを主体とする照葉樹林になっている。これに対して、北向きの斜面など比較的傾斜が緩やかな斜面は雑木林として利用されてきた。
 そのような中にあって、国府台四丁目の森は小さく浅い谷が複雑に入り込んでいるためか、南西斜面には珍しく傾斜が緩やかで、発達した照葉樹林が多い江戸川沿いでは珍しく雑木林が作られていた。市街化区域内にあってこの森が今日まで宅地化されずに残ってきたのは奇跡に近く、偏に所有者の方々の森に対する愛情の賜物と言ってよい。
 雑木林は薪や炭を生産するために人が育ててきた林で、昭和三十年代終りまでは薪炭林としての管理が行われていた。クヌギやコナラを主体とする「武蔵野の雑木林」がその代表である。市川の場合はそれにイヌシデやアカマツを交える場合が多い。クヌギやコナラは炭を焼くためにほぼ二十年周期で伐採され、イヌシデは自家用の薪としての利用が多かったようである。さらに落ち葉は堆肥の材料にされた。
 そのような雑木林=写真=放置されて荒れた雑木林も都市ガスの普及の影響を受け、昭和四十年代中頃から手入れされずに放置される林が目立つようになった。定期的な草刈りや柴刈りが行われていた時には林床は明るく、イカリソウやフデリンドウ、イチリンソウ、ヒトリシズカなどの林床植物が可憐な花を咲かせていたが、アズマネザサの繁茂やシラカシ、シロダモ等の常緑樹の幼樹の生長に伴って林床が暗くなるにつれこれらの明るい所を好む植物は姿を消した。薄暗く、見通しが効かなくなった雑木林はやがて鬱陶しいだけの存在になりゴミが投棄されるなど、ますます環境が悪化し、やがて人々から顧みられなくなった。
 国府台四丁目の雑木林は市川の雑木林としては最後まで手入れがされていた林であったが、時代の趨勢とはいえ昭和五十四年頃に谷の一部が残土で埋め立てられるなど荒廃が進んだ。(つづく)
(2004年12月24日)
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雑木林の再生A再生雑木林としての管理が行われなくなって三十年以上が経過した雑木林では、コナラやクヌギは樹齢五十年、胸高幹周は一メートルを超え、樹林の高さも一五メートル近くなっている。人と雑木林の長い歴史の中でこれだけの大木の林の管理は未経験のことである。コナラなど萌芽力の強い樹種もこれだけの大木になると萌芽力が落ち、伐採しても萌芽による更新は期待できない。
 そのような状況の中で今回の国府台四丁目の森の取り組みは一つのモデルケースになるかもしれない。重機も用いた林内の思い切った整理は、あまりの変化の大きさに衝撃を受けた人もいるかもしれない。しかし、今後人が手で管理をしていくことを考えるとある程度思い切った措置は必要だったといえよう。
 今回の作業では特に林床に多く繁茂したシュロの除去に力を入れた。シュロは清少納言も枕草子の中で「姿は悪いが唐めいていて卑しい家のものには見えない」と書いているほど古くから珍重された植物であるが、関東地方の雑木林には本来生育しない植物である。ところがどういうわけか日本人には南方の植物に対する憧れが強く「唐めいた」シュロは学校や個人の庭に好んで植えられ、その実は鳥に食べられて糞とともに大量の種子が雑木林に散布された。
=写真=林床が明るくなって復活したフユノハナワラビ  シュロは普通の樹木と異なり生長点が長く地中にあるため冬に地面が凍ると冬を越えることができなかった。ところが、近年の温暖化により冬でも地面が凍ったり霜柱が立つことが少なくなったため、難なく冬を乗り切れるようになってしまった。
 このため、市内の雑木林はどこでもおびただしい量のシュロが生育し、さながら亜熱帯林のような様相を呈している。しかも最も量が多い生長点がようやく地表に出たくらいの大きさのものは、二メートル前後の高さに葉を繁らせるため林内の見通しを著しく阻害し、林の景観を損ねる大きな要素になっているため、今回整備を行った部分からは極力シュロを取り除き関東地方の雑木林の景観の復元に努めた。生長点が地中にあるシュロは、地上部を刈り取っても新たに芽を吹いてくるので、当分はこまめに刈り取る作業が必要になるだろう。 林床が明るくなったことで、姿を消していたシダ植物のフユノハナワラビが復活した。今年の春には雑木林本来の春植物が姿を見せるかもしれない。ぜひ、訪れてみていただきたい森である。
(2005年1月7日)
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珍鳥の訪れ自然博物館の金子謙一さんから、南大野のこざと公園に稀な渡り鳥のアカハジロが来ているという情報をもらった。
 アカハジロは中国の東部沿岸域に生息するカモの仲間で、日本にはキンクロハジロやホシハジロの群に混じって稀に渡来する。雄の前胸部が赤味を帯びた茶色で羽の一部が白いことからこの名がある。=写真=こざと公園のアカハジロ(渋谷孝さん撮影)遠目ではキンクロハジロと似ているが、目の虹彩が金色ではなく白いことで区別ができる。
 こざと公園のアカハジロは一月十日に行われた行徳野鳥観察舎友の会によるカモ類のカウント調査の中で確認された。一時はカメラマンで大分混雑したようである。このアカハジロは脚環(あしわ)をつけており、自然環境調査会の渋谷孝さんの観察記録や撮影した写真をもとに行徳野鳥観察舎の蓮尾さんが調べたところ、昨年十一月一八日に行徳の宮内庁新浜鴨場で捕獲され脚環をつけて放された雄であることが分かった。この個体はその後十二月七日に再び鴨場で捕獲され、再放鳥された後、こざと公園に飛来したらしい。
 こざと公園は周囲を住宅地に囲まれた面積約二ヘクタール強の公園である。調節池を兼ねた南北二つの池からなるが、どういうわけか野鳥に好かれる。冬にはコガモやハシビロガモ、ホシハジロ、キンクロハジロ、オナガガモなど多くの種類のカモ類が越冬し、夏にはバンやカイツブリ、県のレッドデータブックにも記載されているヨシゴイなどが繁殖する。アオサギやダイサギ、ゴイサギ、カワウなどの大形の水鳥やカワセミも訪れ、池中のヨシやガマの群落ではオオヨシキリやセッカ、ホオジロ、シジュウカラなどが見られる。数年前にはオオハクチョウも姿を見せた。街中にありながら絶好の野鳥の生息環境になっている貴重な場所である。
 市川ではこの時期多くの野鳥が身近に観察できる。こざと公園にも近い大柏川ではコガモやキンクロハジロが泳ぎながら餌をとり、川中の泥洲や岸辺ではイソシギやタシギ、タヒバリ、ツグミなどが餌を探す。少し南の大柏川第一調節池付近ではセイタカシギの優雅な姿を見ることができる。 江戸川放水路の河口付近や塩浜海岸では日本で見られるカイツブリの仲間では最大のカンムリカイツブリが潜水して魚を捕っているのを間近に見ることができる。
 二〇〇一年から二〇〇三年にかけて行われた市川市自然環境実態調査で確認された野鳥は百九十三種。今年はトリ年、冬は双眼鏡を手に野鳥観察するには絶好の季節だ。
(2005年1月21日)
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ichiyomi@jona.or.jp 市川よみうり