トップページ > 折々のくらし~市川文芸歳時記リスト > 2011年

《105》
井上ひさし「『むつ』に原始の火がともった」―市川から東北への眼差し―

 昭和49年12月、井上ひさしさんは、1年間の大きな出来事を戯文と狂歌で振り返るエッセイ「狂歌元年―一九七四年を跡づけて」を、『東京新聞』に10回にわたって連載した。

 「『むつ』に原始の火がともった」は、同年9月に原子力船「むつ」が、太平洋沖で試験航海をした際、放射線もれ事故を起こしたことに触れた章で、井上さんは、この出来事から次のような「主題」を提示している。

井上ひさし『ジャックの正体 エッセイ集3』(昭和54年、新潮社)
 〈ではいったいこの笑劇の主題とはなにか。それは「むつ」の愚かしい船出にも現れていたが、政府の面子と住民の生活権との闘争である。計画によって船を造った、計画によって船を出せなければ威信にかかわる、という政府の体面と、安全が完全に保障されないうちはせっかく獲ったほたて貝が売れなくなる、生きていくことができなくなる、という住民の主張がまともに衝突し、政府が小狡いやり方で住民を出し抜いたのだ。いえばつまり、計画は「明日」のことであり、生活は「今日」である。よりよい明日は今日をどう生きるかで決まってくるだろう。充実した今日はさらに充実した明日をもたらしてくれるはずだ。がしかし、政府はこの「今日」を飛び越していってしまったのである。

 だが、政府の「明日」がいかにデタラメだったか、間もなく暴露されることになる。「むつ」が出港してから三週間後、「むつ放射線しゃへい技術検討委員会」は次のような見解をまとめた。「放射線もれの主な原因は圧力容器と一次しゃへいのすき間を伝わっての上下方向のもれである」,br>
 この見解は三菱原子力工業のしゃへい設計に根本的な計算ちがいがあったこと、原子力委員会の安全審査体制に問題があったことを意味していると考えてよいが、ともあれ、わたしたちの政府が提示してくれる「明日」とはたいていの場合、この程度のずさんなものなのだ。(中略)

 むこうの「明日」とこっちの「今日」をしっかりと連結させるには政府をとりかえることがまず第一だが、たとえば次のような方法もある。

 六年前から「危険な原子炉は市街地から出て行け」と撤去訴訟をしていた大宮市住民が、この七月、三菱原子力工業と和解した。住民が研究所内を実地検証し、原子炉が完全に撤去されているのを確認、そのために和解が成立したのであるが、この訴訟によって住民側は構内の立ち入り調査権、会社側に資料を公開させる監視権を手に入れたわけで、むこうの「明日」とこっちの「今日」とを連続させるには強力な住民運動もまた効果的であることを、わたしたちに教えてくれている。(中略)

 こそこそといかりあげたる原子船 いかり買って 炉までいかれる〉

 (井上ひさし『ジャックの正体』所収)

市川市文学プラザ企画展図録『井上ひさし~東北への眼差し~』平成23年
 この文章で井上さんは、〈政府の「明日」〉と〈住民の「今日」〉というキーワードで、大きな社会問題に対する取り組み方を提示してくれている。この主題は、井上さんが繰り返し、多くの作品の中で描いてきた問題意識といえる。

 昭和49年といえば、日本の農業政策を背景にした代表作『吉里吉里人』を前年より連載、また市川を舞台に土地成金百姓らの拝金主義世相を皮肉る『ドン松五郎の生活』を連載、さらに市川に住む小説家が主人公となる戯曲『それからのブンとフン』が書かれた年である。

 これらが書かれた同じ市川市国分の書斎から、東北で起こった原子力船事故に向けて、井上さんの筆が及んだわけである。

 今年起きた東日本大震災の復興や、原発問題などに向けて、私たちがどのように向き合えばいいか、井上さんの作品は、そのヒントを与えてくれる力を持っているように思う。市川市文学プラザは、同プラザで開催中の企画展「井上ひさし~東北への眼差し~」に併せて、企画展の図録を発行した。収録されているいろいろな作品は、「市川」から「東北」に向けられた井上さんの眼差しを新たに読み解く手がかりとなっている。


 (2011年12月10日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《104》
井上ひさし『吉里吉里人』の主人公と市川

 前回、井上ひさし氏の小説『吉里吉里人』を取り上げたが、今回は主人公の古橋健二が、市川の下総国分寺近くの農家に住み着くことになった三文小説家という設定になっている点を、もう少し具体的に見ていきたい。

 山形県生まれの古橋は、幼児期にひどい物忘れとなり、そのことに興味を持った大学教授の世話で中学から東京に暮らし、さまざまな記憶術に触れる。大学卒業後の一時期、今度は異常なまでの記憶力を持つこととなった。

井上氏が暮らした国分寺そばの住宅街
 そんなある日、総武線の中で、免許の学科試験に受かりたいと話す若者に出会い、市川駅で降りた若者に自分の記憶力のすごさを伝える。

 〈古橋は、ここで自分の実力、というか病状を、若者に見せてやった方がよいと判断した。こういうことは信用が第一なのだ。折から傍を千葉商科大学の学生が通りかかったので、古橋は学生の持っていた本(中略)を借用し、若者に、どこでもよろしい、好きな頁を開いて下さい、その頁の全文を五秒で暗記してみせますから、と告げた。

 (中略)カメラが、レンズ玉の与えてくれた外部の光景を何の考えもなくただフィルムに感光させるように、古橋もまた、何のつもりも思想もなく、目玉の与えてくれた右の文章をただ脳味噌に焼き付けただけであった。そして古橋は焼き付けてある文字群を読み上げたにすぎない。だが、そんな簡単な仕掛けになっているとは露知らぬ若者と学生はただただ仰天して古橋を見つめていた。

 若者の家は下総国分寺に近い畑地の中にあった。代々百姓をしてきたのだが、若者とその兄は間もなくその辺が宅地用造成地になるだろうと見越して、休日に畑の土をいじるだけにしているようだった。老父がまだ丈夫で、こちらは毎日、畑に出ている。なお、若者の兄は銀行員でまだ独身だった。

 古橋は畑の隅に建っている農具小屋に住みつくことになった。〉

 こうして、古橋の市川での暮らしが始まるわけである。そして、クイズ番組出演をきっかけに放送台本作家となるが、やがて、普通以下の記憶力に戻ってしまい、たまたま取れた文学賞のおかげで、なんとか作家生活を送れるようになっていた。

文学プラザ企画展「井上ひさし」の展示風景
 次は、そんなうだつの上がらない古橋の市川生活の一面を描いた部分。

 〈市川市立図書館の女司書は、古橋がこれまでにただの一度も本を元の所へきちんと戻したことがないので(ここは開架式だ)軽蔑している。文房具店の未亡人は、コクヨの原稿用紙を二十枚買った古橋が六十円のボールペンをちょろまかして行くので舌打ちしている。三菱銀行市川支店の女子行員は、古橋の預金高が一万円を超えたことがないので呆れ返っている。〉

 こんな市川暮らしの作家が、取材旅行先で「吉里吉里国」の独立騒動に巻き込まれていく。古橋の人物造型は、『吉里吉里人』のメーンテーマではないが、「東北」でも「中央(東京)」でもない「市川」に暮らす作家が媒介となって物語が展開されていく点に、この作品の空間的な面白さがあるといえるだろう。

 市川の国分寺近くに住む作家という設定は、井上氏本人に重なるイメージであり、処女小説『ブンとフン』、小説『ドン松五郎の生活』、戯曲『それからのブンとフン』などにも、同様の設定が見られる。



 市川市文学プラザで開催中の企画展「井上ひさし~東北への眼差し~」は、そんな作品の魅力を、多くの資料に基づいて紹介している。

 関連イベントとして、20日には俳優・熊倉一雄氏の講演会、12月8日には演出家・木村光一氏の講演会、同月3、4日には市民による『それからのブンとフン』の演劇公演などが予定されている。,br>
 20年にわたり市川で創作活動を続けた井上作品を、今一度ひもといてみるよい機会といえよう。


 (2011年11月12日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《103》
井上ひさし『吉里吉里人』に描かれた東北と市川

 井上ひさし氏の小説『吉里吉里人』(きりきりじん)は、多くの戯曲や小説の中でも、もっとも代表的な傑作といえるだろう。昭和48年から雑誌に連載され、昭和56年に単行本化されるや、日本SF大賞と読売文学賞を受賞、1980年代のミニ独立国ブームをもたらすなど、社会的にも大きな反響を呼んだ。
 
 岩手と宮城の県境の一寒村が、日本政府の農業政策に対する不満から、日本国から分離独立しようとする騒動を描いた、原稿用紙2500枚に及ぶ大作である。
 
 テーマは「中央」に依存しない「東北」の在りようを扱っているのだが、主人公の古橋健二は、山形県南部の山間(やまあい)出身で、特異な記憶体質のせいで、中学から東京で暮らし、職を転々とした挙句、市川の下総国分寺の近くの農家に住み着くことになった三文小説家という設定になっている。
 
 古橋は、岩手県の一ノ関駅に着く手前で、取材旅行で乗った列車が停められ、イサム安部という少年警官に連行される。古橋が目にした吉里吉里は、食糧やエネルギーを自給する豊かな土地で、そんな様子に感心すると同時に、自分の住む市川の農業のずさんさが嘆息される。

井上ひさし『吉里吉里人』(昭和56年、新潮社)
 〈この吉里吉里の田圃(たんぼ)は、自分の生れ故郷の、農業華やかなりしころの田圃と、多くの共通したものがあるように彼には思われた。どの田圃にも〔丹精〕の二字がたしかにしみ込んでいる。
 「ひさしぶりに田圃らしい田圃を見た」
 「俺達(おらだ)の国の総人口(そうずんこ)は四千百八十七人(よんせんひゃぐはぢずうすぢぬん)でがすと」
 イサム安部はすっかり機嫌を直し、団子鼻を得意そうにうごめかす。
 「田圃ば大事(でーず)にすてるお蔭(かげ)で、全国民の喰(く)い扶持(ぶち)ばここで穫(と)れる米っこで充分(ずうぶん)に賄うことが出来るんだがらねっす」
 「つまり自給自足が可能だというのだな」
 「んだっす。俺達(おらだ)の吉里吉里国は自給自足(ずきゅうずそぐ)が建前(たでめえ)なのす。あんだ方(がた)のお国(ぐに)の日本国(ぬっぽんこぐ)は、たすか食糧の自給率が四〇パーセント(よんずつぱーしぇんと)足らずでがしたな。それさ較(くら)べたら、はあ、俺達(おらだ)の国は立派なものす」
 古橋はこのとき、東京の東の郊外江戸川べりの、自分の家の仕事部屋の左手の窓から見える畠を思い泛(うか)べた。彼の家の左隣の畠は値上りを待つ土地成金百姓たちの所有になるものだが、彼等の畠仕事のいい加減なことといったら、腹の立つのを通りこして呆(あき)れてしまう。作物の種子を蒔(ま)くとあとは放ったらかし。大根は腐らせ、葱(ねぎ)は葱坊主にしてしまい、キャベツは転がしたまま。〉
 
 ほかにも吉里吉里では、「地熱発電」により電気が自給されていることなども描かれる。『吉里吉里人』で扱われた問題は、決して「東北」だけの問題だけでなく、市川のような場所の問題でもあることを示していよう。

宅地化される市川の農地(井上ひさしが暮らした市川市国分)=昭和44年春(市川市映像文化センター提供)
 ◇
 
 市川市文学プラザで、本日より始まった企画展「井上ひさし~東北への眼差し~」は、『吉里吉里人』をはじめ、「東北」への眼差しを持つ井上作品を取り上げて、「市川」という場所と重ね合わせながら、展望しようとする企画展である。
 
 東日本大震災以降、人のきずなや産業、エネルギーなど、それぞれの地域のなかで、どのように自立していけるかが、見直され始めている。今、井上作品を読むことは、これからの行く末を問い直す、大きな力になるように思う。それとともに、井上氏が市川で作家活動を行った意味についても、考えてみたい。

 (2011年10月8日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《102》
「北限の海女」の地と水木洋子~岩手県久慈市の復興を願って

 3月の東日本大震災は、地震はもとより地震に伴う津波で、各地に大きな被害をもたらした。「海女」が活躍する日本の最北端の土地として知られる岩手県久慈市も、甚大な被害を受けた。

 数々の映画の脚本を世に送り出した水木洋子は、戦前からラジオドラマも手がけており、水木がこの「北限の海女」をラジオドラマに取り上げたこともあり、市川市で活動する水木洋子市民サポーターの会と、久慈市との交流が続いている。

岩手県久慈市「北限の海女フェスティバル」を訪れた水木洋子市民サポーターの会(平成21年8月)
 ラジオドラマ『北限の海女』は、昭和34年にNHKで放送され、その年の芸術祭賞ラジオ部門を受賞した作品で、この作品により、「北限の海女」が、全国的に知られるようになったとされる。

 当時、「日本のチベット」と呼ばれ、岩手県下の人もあまり訪れることのない陸中海岸を水木は取材に訪れ、久慈市小袖地区で行われていた「海女」の暮らしを知る。そこでの取材をもとに、〈都会から訪れた女性が、観光開発に肯定的な海女と、否定的な海女の、2人の海女と出会い、社会の中で生きる女性のあり方を見つめ直す〉というドキュメンタリー風の作品に仕上げたものである。

 久慈市の弥藤邦義さんらは、この「北限の海女」を地域文化の誇りにしようと、平成18年に市川市文学プラザへ資料調査の打診をし、そこから、市川市との交流が始まった。同19年、20年には、弥藤さんが市川市の水木邸、文学プラザを訪問。同20年には、水木洋子市民サポーターの会の8人が、毎年8月第一日曜日に小袖海岸で開催されている「北限の海女フェスティバル」の見学に赴いた。

 ラジオドラマ放送50年の節目に当たる同21年には、同じく久慈市の桑田和雄さんとともに、「北限の海女」久慈市民サポーターの会を結成。同年8月に、市川市が所蔵する水木洋子資料なども展示して「『北限の海女』資料展」とラジオドラマを聴く会が開催された。この日は「北限の海女フェスティバル」も開催され、水木洋子市民サポーターの会の皆さんとともに、私も久慈を訪れた。この年は、25年ぶりに19歳の新人海女2人が加わったということで、2人は「かわいすぎる海女」として評判を呼んだ。

水木洋子邸に掲げられている久慈市への応援メッセージ
 その後も、水木洋子市民サポーターの会の石井敏子さんが、弥藤さんらとメールや手紙を通じて交流を続けていたが、そこに東日本大震災が起こったのである。

 石井さんは早速、弥藤さんと連絡を取り、久慈市の関係者に大事はなかったものの、津波の被害は大きく、小袖海岸にあった海女センターも壊滅、復興までに時間がかかるだろうとの情報を得た。

 水木洋子市民サポーターの会では、水木作品を通じて交流の図れた久慈市の力になりたいと、復興を願うたれ幕を手作りで作成し、8月10日に行徳文化ホールI&Iで行われた『ひめゆりの塔』映画上映会の会場や水木邸の一般公開で、寄せ書きや募金を募ったりしている。

 9月10、11、17、18日に一般公開が行われる水木邸では現在、「北限の海女」に関する展示が行われている。ことに回遊展in八幡の期間にも当たる18日には、ラジオドラマ『北限の海女』の一部を聴く行事や、サポーターによる朗読や二胡の演奏、文化振興財団の菊地俊輔さんによる久慈の被災報告などが予定されている。

 市川市ではいま、井上ひさしさんの作品によって縁のできた岩手県大槌町への「吉里吉里支援募金チャリティーコンサート」なども行われているが、震災後の復興に『北限の海女』や『吉里吉里人』といった文芸作品が、拠りどころとなっていることに、その力を信じていきたい。

 (2011年9月10日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《101》
市川の民話を語れますか?―民話の語りを学ぶ会

 市川民話の会は、市川の民話を次世代に継承していくことを目的に、昭和53年から活動している。当初は、土地の古老を訪ね、聴かせていただいた話をテープから翻字し、資料集に記録する活動が大きな位置を占めていたが、ここ10年ほどは、自分たちが、公民館や小学校などから依頼されて、市川の民話を語ることが主流の活動となっている。

 今年度に入ってからも、市川市立百合台小や同鬼高小に呼ばれ、市川の民話を語った。これは、国語の教材に『いなばの白うさぎ』や『かさこじぞう』などがあり、その発展学習として、地域の民話を聴いたり、子ども自身が語ったりすることを、先生方が希望されているからである。

 しかし私たちは、市川に暮らす誰もが、一つでもいいから市川の民話を語ってほしいと願っている。そこで民話の会では、数年前から「民話の語りを学ぶ会」を開催している。

 こうした流れと重なるように、この6月には市川市中央公民館の主催講座として「語りつごう市川の民話」という3回講座を行うことができた。そこでは、20人ほどの受講生が、民話の会の会員の語る市川の民話を聴く時間をもった後に、各自が語りたい話を選び、その話を語ってみるという内容であった。

民話の語りを学ぶ会の様子(平成21年8月)
 参加者の中には、市川の民話を知ることを目的に来たとおっしゃる方もいたが、ほとんどの参加者が『真間の手児奈』『いんねえのじゅえむどん』『涙石』『袖かけの松』など、それぞれの琴線に触れた話を、個性豊かな語りとして披露してくださった。

 講座だけではもったいないので、その後、ステップアップを目指す受講生を交えた自主的な語りの練習も2回ほど行っている。

 今月29日には市川教育会館で、誰れでも参加していただける「民話の語りを学ぶ会」を予定している。

 午前中は、「すがの会」「朗読グループ『和』の会」「根っこの会」など、市川で民話の語りもレパートリーにしている団体の皆さんにも呼びかけて、さまざまな語りを聴いていただいた後、午後は、参加者にほんの一節でもいいので民話を語ってもらおうというワークショップである。

 私たち市川民話の会が考えている「地域の民話の語り」は、かつて地域で行われていた語りを念頭に置いている。地域の民話というのは、地域に暮らしていれば自然と耳にし、自分の見聞きした身の丈のなかで、他の人に向けて語られてきたものである。中には、芸達者で話好きな語り手や、村落の役職を担った長老などが、特に秀でて語ってもいただろうが、多くの人は、特に語り方などを学習して語ってきたわけではない。

 したがって、私たちはまず地域の民話を聴くことを出発点としている。いまは、誰もが本やインターネットを通じて情報を得ることが当たり前になっているが、民話の伝承は〈語り手〉と〈聴き手〉が語りの〈場〉を共有し、声や身振りを含めて享受する、生の〈語り〉がすべてである。民話の本を読むのは、楽譜を見ても音楽を聴いたことにならないのと同じように、民話を聴いたことにはならないと思っている。

 また、民話は文字に記された情報を、一字一句間違えないように覚えて声に出す行為でもない。聴いた内容を、自分の心と体で咀嚼し、目の前の聴き手に伝えたいという思いから語るものであり、語る場所や聴き手が替われば自ずと替わっていくものなのである。それは、「図書」を前提とした「朗読」や図書館の「読み聞かせ」などとは、基本的に違うところである。

 とまあ、理屈をこねればこうなるが、言ってみれば、聴いた話を自分なりに語ればいいのが民話ということになる。となれば、市川市民の誰もが民話を語れるということは、それほど難しいことではない。帰省のシーズン、あなたも市川の民話を語ってみませんか?

 (2011年8月13日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《100》
いわき出身の川柳作家・吉田機司

 この連載も、今回で100回目を迎えた。当初は、民俗研究家・萩原法子氏と交互の執筆で、『折り折りのくらし』のタイトルのもと、主に民俗行事などを取り上げていたが、やがて季節的な出来事に対象を広げ、第24回(平成17年3月)からは単独で執筆することとなり、さらには、民話や文学などへと比重を移しながら、今日に至った。

 今回は、東日本大震災で津波の被害を受けた、福島県いわき市中之作出身の川柳作家・吉田機司(1902―1964)と、旧制磐城中学の同級生の詩人・草野心平(1903―1988)について紹介しよう。

 機司は、旧制山形高等学校卒業後、医師を志し、大正12年に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)に入学。附属病院に勤務しているとき、患者だった川柳作家の阪井久良伎(1869―1945)と出会い、師事するようになった。

 久良伎のことは、第37回(平成18年5月)でも紹介したが、江戸川柳を近代文芸の一ジャンルとして確立した「川柳中興の祖」といわれる人で、昭和6年から亡くなるまでを、市川市真間で暮らした。

 機司は昭和12年、久良伎の家にほど近い京成真間駅の近くに、吉田機司病院を開業する。市川に決めた理由を次のように記す。

 〈さて、どこかで病院を開こうとなった時、第一番に考えたのは、出来れば一年中投網が出来るところはないものかということであった。

 東京湾の浅瀬は投網の好適地であるが、寒い冬は魚は深い所にいっていなくなり、八十八夜がすぎないと海の魚は駄目である。したがって一年中投網をやろうと思えば附近に大きな河がなければいけない。

 私が現在のところに開業したのは、暖かい時分には、船橋、行徳、浦安で投網が出来、冬は近所の江戸川で投網が出来ると言う目算が立ったからである。〉

 『粋人随筆』(昭和30年)に拠った。海辺育ちの機司らしい。

 そこへ、たまたま訪れたのが、草野だった。機司の死後まとめられた『白玉樓』(昭和40年)に、草野は次のような文章を寄せている。

 〈昭和十二、三年頃からだった。その頃私は荒川土堤の近くにいたが、借家探しに市川へ行った。そして偶然「吉田機司病院」という看板を見た。私の知っているのは、それまでは吉田喜司だった。名前は少し違うが訪ねてみると、矢張り彼だった。肥って恰幅もよく、もうすっかり「先生」になりきっていた。私が市川市市川に移り住むようになったのは、この偶然のキッカケからだった。その二、三年後に私は南京に移転したが、市川を去る日にとった彼の写真がまだ残っている。〉

 こうして昭和14年、草野は機司を頼って、市川市市川南に8か月ほど住まうこととなる。

 南京に旅立つ草野を詠んだ機司の作品が、『白玉樓』に収められている。

 〈江流の蛙の声も聞いてくる〉

 草野と機司の交流は、昭和23年に草野が浦安に仮寓した折にも続いていたことは、第51回(平成19年7月)に紹介した。

 機司は昭和21年、正岡容、徳川夢声、古川緑波らと、随筆・川柳誌『川柳祭』を創刊、同27年には「川柳手児奈吟社」を創立主宰するなど、戦後の川柳の隆盛に大きな足跡を残した。

 機司はまた、医師としても、昭和34年に永井荷風の検死に立ち会ったことでも知られている。病院は葛飾区に移転し、ご子息が跡を継いでいる。



 現在、市川市文学プラザで開催中の企画展「いちかわの詩歌びとたち」では、機司のご遺族から寄贈された貴重な資料が展示されている。また、7月15日には、ご子息の憲司さんによる講演が行われる。どのような話がうかがえるか、楽しみである。

 (2011年7月9日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《99》
白秋の詠んだ小川と蛍

 詩人・歌人として有名な北原白秋(1885~1942)が、大正5(1916)年5月からひと月ほどを、江口章子という女性とともに、市川市真間の亀井院で暮らしたことは、本連載50回(平成19年6月)で紹介した。白秋31歳、章子28歳のときである。

 市川での仮寓の様子は、散文集『葛飾小品』(大正5年)や、歌集『雀の卵』(大正10年)にたどることができる。

 亀井院は、万葉集にも詠まれた「真間の井」が遺る、白秋ゆかりの寺として、手児奈霊堂とともに、外せない真間の文化スポットである。

 本堂の左脇には、白秋の歌碑が建っている。

 〈蛍飛ぶ 真間の小川の 夕闇に 鰕すくふ子か 水音立つるは〉

 この作品は、「かつしかの夏」(『国粋』大正10年8月号)として発表された連作の中の一首で、他の作品のいくつかは、『雀の卵』に所収されていったが、この短歌は、残念ながら再録に至らなかった。

 歌碑が建てられた経緯については、亀井院に生まれ、現在は院首という肩書きを持つ西川智泰さん(昭和5年生まれ)の『真間の里』(増補改訂版 平成12年)に次のように記される。

 〈平成二年、市川ロータリークラブの陶山修達さんがお見えになり、北原白秋ゆかりの亀井院の境内に住職の揮毫でこの歌の歌碑を建てさせてはもらえないかとの申し入れがあった。同クラブの本年度の重点事業となるもので、先行きこれを基盤に真間川の浄化を世上に訴えていきたいとのことであった。〉
 ところで、平成21年2月の市川市文学プラザ企画展「てこな」に先立って、真間の井にまつわる伝説を、西川さんに伺っていたところ、昭和初期まで、真間の井からあふれ出した水は、「涙川」と呼ばれる流れになって、亀井院の裏の崖下を流れ、「鏡ケ池」という池に流れ込んでいたことを思い出され、そこからさらに、次のような話に及んだのである。

 「白秋の蛍の歌は、歌碑を建てたときも、漠然と真間川を詠んだものと思っていましたが、真間川は小川と呼ぶには大きな川ですし、そこで子どもがエビをすくう水音が、亀井院まで聞こえてくるというのも不自然ですね。この歌は、ひょっとすると、亀井院の崖下を流れていた涙川と捉えたほうが、ぴったりするんじゃないですかねえ。」

 白秋の歌に対する新たな知見が、披露された瞬間であった。

 その後、この話を、平成22年2月の市川緑の市民フォーラムの例会「市川の近代文学に見る水と緑」で紹介したところ、同フォーラムの事務局長で、市川市史調査編集委員(自然部会)でもある佐野郷美さんから、思いがけない発言をいただいた。

 「今、市川には大町などにヘイケボタルが棲息していますが、この歌は、白秋が仮寓した時期が5月から6月で、崖下の小川ということになると、もしかしたら、ゲンジボタルがいたことの資料になるかも知れません。もう少しデータを集めて調べてみると興味深いですね。」

 この集まりもまた、市川の文学の新たな解釈が生み出された瞬間であった。

 現在、市川市文学プラザでは、企画展「いちかわの詩歌びとたち」が開催され、白秋が使用していた机や花瓶(市川歴史博物館蔵)=㊤写真=や、西川さんが新たに揮毫した短歌の色紙

 〈白秋の 真間の小川と 詠ひしは 涙川ならむ 蛍の飛びき〉=㊨写真=などが展示されている。

 6月2日には、「初夏の文学散歩」が行われ、亀井院で西川さんの話を伺ったあと、里見公園の紫烟草舎まで、雨の中を散策した。

 市川市では、この6月から〝市民、事業者、行政などが協働し花や緑を育て、まち全体が身近な庭のように彩りや優しさにあふれた、快適で魅力ある美しいまちづくりを目指す「ガーデニング・シティ」事業〟をスタートさせたが、市川の文学をひもとくことも、一つのアプローチ方法ではないだろうか。

 (2011年6月11日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《98》
荷風忌で荷風の短歌と俳句をしのぶ

荷風忌で講演をする近藤信行氏(背景の色紙=永井永光氏提供=は荷風が詠んだ短歌)
 2009年に市民の呼びかけで始まった、市川の文豪・永井荷風をしのぶ「市川・荷風忌」も、今年で3回目を重ねた。5月1日には「荷風の短歌と俳句をしのぶ」をテーマに、市川市生涯学習センターのグリーンスタジオで110人ほどの参加があった。

 プロローグは、市民有志による「朗読で味わう荷風の詩歌」。関東大震災後の感慨を謳った詩『震災』の朗読に始まり、市川を詠んだ短歌や俳句が、5人の市民により、二胡の演奏とともに朗読された。スクリーンには、市川時代の荷風の写真とともに、今回の東日本大震災の被災の画像なども投影され、関東大震災や東京大空襲を体験した後、老境の日々を市川で送った荷風の詩歌を、今日的な文脈においても、味わってもらうきっかけになったように思う。

 次いで、市川在住の俳人・中島玄一郎さんによる「荷風の俳句」の講演があった。中島さんは、荷風と俳句の関わりについて概説した後、日記『断腸亭日乗』や『荷風百句』(昭和12年)などから俳句作品を取り上げ、中島さんなりの鑑賞を提示してくれた。

 その後、山梨県立文学館館長の近藤信行さんの講演「市川の荷風散人」が行われた。近藤さんは、昭和19年から32年まで、市川市真間に暮らしていた。荷風との思い出を、『往事追懐』『二〇〇八年市川を詠む』(市川手児奈文学賞実行委員会編)の中で、次のように記している。

 〈闇市や電車のなかでおみかけした永井荷風先生をすこし身近かなものとしてみるようになったのは、妹の長唄の縁である。彼女は杵屋五叟の弟子五三次郎の門下生だった。その芸事から荷風の菅野生活がみえかくれしていた。〉

 今回の講演のあらましは、『文学』2009年3・4月号(岩波書店)に掲載された『市川の荷風散人』と重なるので、そこから引用しよう。

 〈このような生活環境にありながら、荷風が和歌を読んでいたのは注目すべきことである。昭和二十一年四月二十一日、「某女史に贈る返書の末に」として五首がある。そのうちの三首をひくと、

 隠れ住む 菅野の里は松多し 来て君もきけ風のしらべを

 夜ふけても 調はやまぬ 松の声 都のたより 時にきかせよ

 みだれ行く 世のゆくすゑは 松風の 騒ぐ音にも おもひ知られて

(中略)

 荷風といえば俳句。(中略)それは彼の江戸風流の明解な表現だった。それがこの市川にきて、「われにもあらず」といいつつ三十一文字に想いを託す。「菅野」と「某女」をならべてみると、荷風の詩情のありかがわかるような気もする。
市川市映像文化センターで29日まで展示している永井荷風の部屋
 戦後の荷風をめぐっては、さまざまなことがあった。日記にはそれが記されているが、人物でいえば阿部雪子と関根歌の登場するところがいい。雪子は昭和十八年以来、断腸亭の蔵書目録作成のためそこに通っていた人。そのかたわら荷風にフランス語を習っている。(中略)荷風訪問は昭和三十一年四月までつづいていた。関根歌は荷風との交情、もっとも深かった方。昭和二年、身受けして壺中庵にかこい、のち彼女に待合を出させている。歌は荷風の晩年に三度、遠方から菅野を訪ねているのである。〉

 近藤さんは、市川の風土が、荷風に短歌の調べを与えたのだとし、さらにその背後には、女性の存在が垣間見えるというのである。非常に興味深い指摘ではないだろうか。

 近藤さんは、荷風の葬儀には、「婦人公論」の編集者として参列し、『婦人公論』昭和34年7月号には、関根歌さんへのインタビュー記事を掲載している。そこには、「めでたさは 羊に似たる あごの髯 角も今年は丸くおさめん」の短歌は、未年生まれの歌に当てて贈られたものだとの述懐がある。

 現在、市川市文学プラザでは、この短歌の類歌「めさめては 翁に似たる あこの髯 角も羊は まろくをさめて」の荷風自筆の色紙が展示されている。市川のまちの魅力は、こうしたところからも感じることができるのである。

 (2011年5月14日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《97》
語り継がれる「大正6年の大津波」

大正6年大津波被害図=『市川の歴史を尋ねて』(市川市教育委員会)より
 3月11日に発生した東日本大震災は、国内観測史上最大のものとなり、市川周辺でも震度5弱の揺れを記録し、浦安や行徳の沿岸地域では、液状化現象の被害などが見られた。罹災した皆さんにお見舞い申し上げる。

 今回の地震では、津波の被害が驚異的だったが、市川の歴史の中にも、大正6年10月1日午前3時ごろに上陸した大型台風の、低気圧と強風で潮位が上昇した「高潮」が、「大正6年の大津波」として語り継がれている。

 『行徳郷土史事典』(鈴木和明著)によると、中央気象台観測以来最低気圧の714㍉バール、風速43㍍、時速約90㌔㍍の台風が関東地方を襲い、東京湾の海面が1尺9寸(約58㌢㍍)も盛り上がり、台風の北上とともに海水も3㍍を超える高さになった。行徳の第一波は午前4時半ごろで、午前5時半ごろの第二波は、大潮の満潮と重なったため、堤防も乗り越える高潮になったという。

 市川市妙典の様子を、高橋福一さん(明治45年生まれ)は、次のように語る。

 〈二十八日あたりから嵐がはじまって、三十日の明け方
「津波だよー、津波だよー」
って、さわいでいるうちに、どんどん水かさが増えて、一時間ほどだったかね。六尺(一八〇㌢㍍)くらいになっちゃってね。

 草ぶき屋根を切り開いて屋根に避難したんですよ。狐や狸、蛇なんかは、龍宮様の松の木なんかにのぼったようだよ。そういえば龍宮様の主のように昔から住んでいた白蛇は津波のときからいなくなったってことですよ。

 次の日になって、夜が白々とあけてくる頃に、浦安の方から小さな板切れにつかまって、
「助けてくれー、助けてくれー」
って、ここらあたりまで流されてきた人もいましたよ。二~三日は、あたり一面水びたしでね。一週間か十日ほどは、あちこちに水たまりができて、海の魚がいっぱいいましたよ。ぼらの大きいのとってきた覚えがありますよ。〉
(『ぎょうとく昔語り』行徳昔話の会より)

 市川市八幡の川上勝雄さん(明治40年生まれ)は、次のように体験を語る。

 〈うちのそこの郵便局のところから、遠くを眺めていたら、まっ暗になって、竜巻がおこり、こんどは海の水がころころと山になって転がるようにやってきました。大変でした。海水が見る見る国電の線路の下まで押し寄せてきたんです。

 小さい家や人間もきた。一番きたのはねずみと蛇です。当時八幡は蛇とねずみで一っぱいでした。波に押されて全部来ちゃいました。

 波の来るのは早いですよ。こちらで見てて、まだ遠いと思っていても、すぐこちらへ来ちゃいましたからね。

 稲の刈り取りが終わるか終わらないかの頃で、稲が稲架にかかっているときですからね。稲が波と一緒に流れて来ました。〉
(『市川の伝承民話』市川市教育委員会より)
3月11日の震災で崩壊した妙好寺の「妙田地蔵尊」
 この大津波は多くの犠牲者を出し、行徳の塩田にも壊滅的な打撃を与えた。

 妙典の妙好寺には、このときの犠牲者を供養するため、「妙田地蔵尊」が、昭和18年に建立されたが、今回の地震で屋根が崩壊してしまった。お寺では、「身代わりになってくれたのではないか」とし、再建の寄進を呼びかけている。

 こうした話は、地域の記憶を伝える無形の文芸「現代民話」といえよう。

 こういう災害にまつわる話や記録を伝えていくことも、地域の大きな役割だろう。そのために、博物館や図書館、文学館などの文化施設や、市史の編さんなどが意味をもってくる。こうした時機だからこそ、地域が担うべき役割を見誤らずにいたい。

 (2011年4月9日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《96》
寺のまち回遊展で妙典めぐり

妙好寺の山門(毎年11月に行われるお会式にて)
 歴史資産と自然に恵まれた行徳の魅力を内外に広め、地元に住む人々が誇りと愛着をもてるようにと、毎年3月に行われる「寺のまち回遊展」。今年は26日に、本行徳の権現道沿いの寺院や、妙典の旧街道まで範囲を広げ開催される。

 市川民話の会も、すがの会と合同で午前11時から、妙典の清寿寺をお借りして、語りと紙芝居で行徳の民話を紹介する。

 妙典といえば、東西線妙典駅やスーパー堤防など、新しいまちのイメージが大きくなっているが、東西線と行徳バイパスの間を南北に通る道がかつては行徳街道と呼ばれ、古くからのまち並みを残している。北側の江戸川放水路は、明治期後半に開削されたもので、それまでは対岸の田尻、高谷と地続きであり、江戸時代には、江戸と成田を結ぶメインルートだった。

 妙典で真っ先に挙げられるスポットに、妙好寺がある。永禄8(1565)年、篠田雅楽助清久という人が、中山法華経寺の日宣上人を迎えて開基した寺である。篠田氏は千葉氏の家臣で、永禄7年の国府台合戦の時、小田原北条氏に味方したので、その恩賞に妙典の地を与えられたと伝えられている。

 「妙典」の地名の起こりは、法華経の経典が、日蓮聖人の唱えた「南無妙法蓮華経」のごとく「妙」なる経「典」であるというところから、付けられた地名である。いわば、妙典の起こりが、この寺にあるということになる。

 ちなみに、船橋市の法典は、妙典の人たちによって開墾され、法華経が妙なる法典であるというところから付けられた地名である。

 行徳領民と法典のつながりが、本行徳の徳願寺にまつわる宮本武蔵伝説に関わり、吉川英治の時代小説『宮本武蔵』にも描かれるエピソードにもなっている。

 妙好寺の北側の墓地には、「ごんたく坊さん」の悲話の伝わる観音堂がある。

 江戸時代、妙好寺にごんたく坊さんという小僧がいた。男前で村の娘たちからもてる上に、酒癖が悪く、村中に火をつけたりした。村の男たちはこらしめようと、墓の外れに穴を掘り、生き埋めにしてしまった。その後、村人にたたりが起こったため、供養の石を祀った。

 大正時代の終わりころ、中山の陽雲寺の上人のところに、ごんたく坊さんの霊が現れ、観音とともに自分を祀れとのお告げがあったため、観音を祀るようになった―という話が伝わっている。

 また、妙好寺に隣接した上妙典八幡宮の祠には、「源頼光の酒呑童子退治」の彫刻が施されており、神輿の製作で知られる行徳の工芸技術の一端を見ることができる。

 手児奈をめぐる現代的な文学作品として、その位置が与えられよう。
清寿寺の「おちか猿像」
 妙典には、今ひとつ、やはり日蓮宗の清寿寺がある。元禄8(1695)年、清寿尼による開基とされる。

 先代上人の母がぜんそくで難渋しており、上人は、何とか治したいという信念から、中山法華経寺の荒行に参行したところ、荒行で感徳したまじないで、母のぜんそくを完治することができたため、その後、ぜんそく封じの加持を行う寺として知られるようになった。

 本殿前には、「神猿おちか」の像があり、次のような話が伝えられる。

 昔、狩人が身持ちの猿を鉄砲で撃ち殺してしまい、その家では、その後三代に渡り耳の聞こえない長男が生まれるようになった。占い師に見てもらうと、猿のたたりということが分かり、親子七体の猿の姿を石に彫りお祀りしたところ、たたりも無くなったため、以来、耳病守護の神猿として、ここに祀られるようになった。

 また、隣接した下妙典の春日神社には、祭礼のとき神輿のように担がれる獅子頭があり、回遊展でも公開される予定。

 一つのエリアの中でも、めぐり甲斐のある妙典である。

 (2011年3月12日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《95》
11回目を迎えた市川手児奈文学賞

6日に行われた手児奈文学賞の贈賞式の様子
 市川の自然や文化、祭、史跡や建物、市川ゆかりの人物などを短歌・俳句・川柳に詠んでもらい、市川の魅力を広く市内外の人に知ってもらおうと、平成12年に始まった「市川手児奈文学賞」。第11回を迎えた今年度は、全国から5781点もの作品が寄せられ、今月6日に、市川市グリーンスタジオで贈賞式が行われた。

短歌 大賞
美しい 日本語残し 遠くなる ひょうたん島も 吉里吉里国も
(千葉県八千代市 上田野出)

 短歌の大賞は、昨年4月に亡くなった井上ひさし氏をしのぶ作品。選考委員の清水麻利子氏は、次のような講評を寄せる。

 〈『吉里吉里人』(昭和56年)では、東北の一寒村が日本から独立宣言をし、共和国ブームの火付け役となりました。作品中に、下総国分寺も登場します。井上氏は、平成10年の「日本語シンポジウム」で、やまとことばと文法が大切であり、音韻をよく生かした和歌や俳句が理解される間は、日本語は大丈夫だと述べています。美しい日本語を次の世代へ伝えたいと願う大賞受賞作は、共感を呼ぶことでしょう。〉

 市川の文学は、こういう連鎖を重ねながら、展開していっている点が、深さと広がりを生んでいるといえよう。

俳句 大賞
梨選果 手児奈ゆづりの 髪束ね
(千葉県浦安市 安藤しおん)

 俳句の大賞は、市川の代表的な産物である梨と、「手児奈」を重ねて詠んだ作品。選考委員の能村研三氏は、次のように講評する。

 〈きっと現代の世の中で、梨の選果場で働く娘さんたちも、遠く手児奈の末裔であって、その美しさも手児奈の美しさを湛えていて、髪も束ねた姿を見ていると手児奈のイメージが広がってきました。〉

 面白い組み合わせで、市川のイメージが広がる作品といえよう。

川柳 大賞
他殺かも 手児奈の身投げ 疑惑あり
(千葉県松戸市 中原政人)

 川柳の大賞も、手児奈を詠んだ作品。選考委員の岡本公夫氏の講評に、鑑賞の手がかりを見る。

 〈意表を衝いたこの作品には、定説となった手児奈哀話の影もありません。いかにも現代風に、先ず疑って掛かる風潮を句にとりいれ、ミステリアスな味付けも施しながら、(中略)素朴な疑問を代弁しています。(中略)それは手児奈の古代にあった「純真無垢なこころ」と現代のほとんどの人のもつ「かけひきのある情」の大きな変化による「疑惑」なのです。(中略)現代人との精神性の違いを強力に風刺しています。〉

 手児奈をめぐる現代的な文学作品として、その位置が与えられよう。
24日まで開かれている手児奈文学賞の入賞作品展の様子
 ◇

 手児奈文学賞には「子どもの部」も設けられており、以下のような作品が高く評価された。

短歌
三本松 えだを切って わかがえり とこや帰りの お父さんかな
(市川市中国分 岩城元己 小学3年)

 ドキドキの オープンスクール 短歌よみ 時間がすぎてく チクタクチクタク
(市川市広尾 高野ゆう 小学5年)

俳句
秋のたいこ あいをこめれば いいおとだ
(市川市新井 梅田幸太 小学3年)

あじさいは 自然がくれた ブーケかな
(市川市平田 植田愛香 小学6年)

川柳
水着着て 入浴してる 日やけあと
(市川市島尻 太田有紀 小学5年)

死にそうと 顔をつっこむ 冷蔵庫
(市川市広尾 谷口紗夜花 小学5年)

 ◇

 これら入賞作品展は、市川市文学プラザで24日まで開催されており、作品集も販売されている。

 (2011年2月12日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト

《94》
生誕100年・能村登四郎の句碑巡り

 市川を代表する俳人の能村登四郎氏は、明治44年1月5日、東京・台東区谷中清水町(現在の池之端)に生まれ、昭和13年、開校間もない旧制市川中学(現在の市川学園)に国語教師として赴任してから平成13年5月に90歳で亡くなるまでの63年間を、市川市八幡で暮らした。

 今年がちょうど生誕100年、没後10年となる。生涯に14冊の句集と6千余句の作品を発表し、あまたの賞を受賞した。

 年明けにふさわしく、その長寿にあやかり、登四郎氏が90歳の初春に詠んだ作品を紹介しよう。逝去後に刊行された最終句集『羽化』(平成13年)からの引用である。

〈見飽きたる筈の初空待つてをり
九十歳の春や如何にと胸はづむ
劇場の恵方飾りに触れてゆく
初芝居序の三番叟さはやかに
昨日見し枯野の景の未だ去らず〉

 歌舞伎好きだった登四郎氏の、華やいだ初春の様子がしのばれる。
 「枯野」については、次の代表句がある。

〈火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ〉

 昭和45年刊行の句集『枯野の沖』の書名にもなり、同じ年に自ら主宰創刊した結社「沖」の由来にもなった作品である。

昭和60年には「沖」15周年を記念して、市川市中国分のじゅん菜池緑地に句碑が建立されている。

 「枯野」は冬の季語で、この句については、「枯野・野たれ死への願望」(『沖』昭和52年2月号)という随筆が鑑賞の参考になる。

〈枯野というものの私のイメージはいろいろある。遠野の旅で通りすぎた早池峰の麓の延々とつづいた枯野。はるかに湖の紺青がのぞく近江・蒲生野の葭地帯。伊吹の山裾の冬枯れの景などの印象が頭の中に浮んでくる。

 しかし別に旅に出ないでも、私の住んでいる市川でも家から十五、六分歩けば、刈田を抱いた蕭条とした葛飾の枯野らしい風景を見ることができる。よく晴れた日にはその枯葎の中に尉鶲の金茶色の可憐な姿を見かけることがある。そうしたいくつかの枯野の景が私の脳裡に重なったものが、私の作品の中にしばしば出てくる枯野である。〉
 市川市内の登四郎氏の句碑のうち、ほかに春らしい句としては、国府台スポーツセンターの次の句もよく知られる。

〈春ひとり槍なげて槍に歩み寄る〉

 句碑は平成10年、市川市俳句協会の創立50周年を記念して建立された。この句も句集『枯野の沖』に収められた作品で、句碑除幕式のリーフレットに次のように解説されている。

〈当然、教師としてグランドの練習風景など毎日のように見ていたことでしょう。この一齣は、見たままの景だけでなく、心の奥にある青春のイメージを重ね合わせたもので、心象風景が見事に描かれた代表作の一つであります。〉

 枯野の句も春ひとりの句も、市川の情景そのものの写生句というより、心象風景としての市川の景物が作品化されているといってよいのだろう。そして、それが登四郎俳句の魅力の特徴といえる。

 市川市内にはほかに、大町の市川霊園の菅田家墓地、東菅野の市川学園グラウンド、八幡の能村邸(非公開)に、句碑が建てられている。

 去る12月1日には、市川市文学プラザの企画展「俳人 能村登四郎とその水脈―林翔・伊藤白潮とともに」の関連イベントとして、登四郎氏のご子息で、「沖」主宰を継承された能村研三氏の案内により、これら登四郎氏ゆかりの地をめぐる吟行会が行われた。

 1月8日には、同じく研三氏による講演会「父・登四郎を語る」が、文学プラザで開催される。

 これらを通して、今日の市川の俳句文化に、登四郎氏の大きな水脈が流れていることを知ることができよう。

 (2011年1月3日号)TOP PAGE「折々のくらし〜市川文芸歳時記」リスト