市川よみうり連載企画
     


■§行徳浦安33か所観音札所巡り§■
市川民話の会会員・根岸英之


  四月は多くの花木が見ごろを迎え、五月はゴールデンウィークがあることから、行楽の季節である。この季節に、行徳郷土文化懇話会主催による「行徳浦安三十三ケ所観音札所巡り」が行われている。
 「行徳(浦安)三十三ケ所観音札所巡り」は、江戸時代初期の元禄三(一六九〇)年に、行徳・徳願寺の十世覚誉上人の発願によって始められたものである。
 観音霊場巡りは、観世音菩薩が、三十三の姿に化身し、人々を救ってくれるという「観音経」の教えに基づくもので、平安時代後期に畿内にある三十三か所の観音霊場を巡礼する「西国三十三所霊場」が始まりとされる。
 鎌倉時代には東国でも「坂東三十三所霊場」が作られ、室町時代には「秩父観音霊場」が形成された。そして、江戸時代には、信仰と行楽を兼ねたものとして、様々な霊場巡りが営まれるようになった。
御朱印帳に朱印を押す・正源寺
 行徳の観音札所巡りも、こうした流れを受けたもので、覚誉上人が、西国霊場を模して、三十三体の観音像を自ら刻んで、行徳領内の三十三の寺に分け置いたのである。
 江戸時代には、下総、江戸の各方面から、多くの人が足を運んだ行徳観音札所巡りだったが、明治以降は次第に廃れていった。
 昭和五十年代に、新井在住の宮崎長蔵さんの調査により、再び日の目を見ることとなり、昭和五十九年四月八日と五月二十日に、行徳郷土文化懇話会によって、第一回の観音巡りが復興された。参加者は百五十名を超え、関係者を驚かせるほどの大盛況だったそうである。
 前懇話会会長の永石幸さんによれば、四月は、花も咲き散策にいい時期であり、一日で回るのは大変なことから、四、五月の第一日曜日の二回に分けて開催するようになったという。
 佐藤久光『遍路と巡礼の社会学』(人文書院)によれば、四国や秩父でも、四、五月に巡礼する人の多いことが明らかにされている。
 ここ数年は、三、四十名ほどの参加だったそうだが、今年四月三日は、八十名近い参加者があり、田中愛子会長も、うれしい悲鳴を上げていた。
 四月三日に回ったのは、一番札所の徳願寺(本行徳)を皮切りに、江戸川放水路以南の行徳から浦安にかけての二十五か寺。
 一番札所の徳願寺は、徳川家の庇護を受けた、行徳でも目立つ伽藍の寺で、二〇〇四年三月に市指定文化財に指定された「山門」「鐘楼」「経蔵」が目を引く。宮本武蔵ゆかりの寺としても知られ、武蔵の供養塔が遺されている。縁起の説明を受けた後、普段は見ることのできない庭園も拝見させていただいた。
 四番札所の自性院(本行徳)は、行徳の総鎮守豊受神社の奥にあり、勝海舟の歌碑がある。
 十四番札所の法善寺(本塩)は、通称塩場寺といい、製塩法を行徳に広め、境内には、芭蕉の句碑「潮塚」が建てられている。この日は、住職から法話を聞かせていただけた。
 二十一番札所の光林寺では、お釈迦さまの誕生日を祝う「花祭り」の誕生仏が出迎えてくれた。
 二十六番札所了善寺(相之川)では、覚誉上人が刻んだ当時のままの千手観音が堂前に出され、往時の面影をしのぶことができた。
 この日最後の三十三番札所の大蓮寺(浦安市)についたのは、日もすでに傾いたころだったが、足は多少重たいものの、晴れ晴れとした気分で終えることが出来た。
 五月八日は、江戸川放水路以北の五ケ寺を回る予定。こちらも、小林一茶が逗留した安養寺(高谷)、徳願寺同様、宮本武蔵伝承の伝わる藤原観音堂(船橋市)など、見どころがたくさんある。
 ゴールデンウィークに遠出をするのもいいが、地元の魅力を足で確かめてみるのも一興だろう。
(2005年5月6日)

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■§厄を祓う菖蒲と茅がや§■ 市川民話の会会員・根岸英之


  戦災で流転を余儀なくされた文豪永井荷風は、昭和二十一年一月、ようやく市川市菅野に落ち着きどころを見つけ、従弟・杵屋五叟一家とともに移り住む。
 その年の五月、荷風は家の周りに咲く花の多さに目を止め、日記『断腸亭日乗』に記している。
 「五月十日 借家の庭に躑躅、牡丹、薔薇、藤、その他花樹多し。・・・・・・窓前今まさに百花爛漫の趣あり、ことに牡丹紅白数株ありて花の盛りなり、流寓の身にとりてはこれまた意想外の幸福ならずや。」
 「五月十二日 用水の流れに河骨の花さけるを見る、畦道に金ぽうげ、また蒲公英に似たる黄色き花さき、草の間に鷺草らしきものもあり、麦すでに熟し農婦水田を耕せり、稲の種まく準備なるべし。」
 「五月十五日 門外松下の小径を歩み行くに、梅多く植えたる庭の垣際に菖蒲しげりて花多く咲きたり、空くもりて木蔭くらければ、花の色一層美しく見えたり。・・・・・・八幡の村道を行くに女学校の溝に黄色の花さきし菖蒲多くあり、西洋種なるべし。」
 (『荷風全集』を基に読みやすく引用)
端午の節供に供えられた菖蒲(国分・藤城権司家の屋敷神)=萩原法子氏提供
 『断腸亭日乗』には、実にさまざまなことが記録されており、戦後の市川の植物の様子までもが分かる、貴重な日記だといえよう。
 十五日に記された菖蒲といえば、五月五日の端午の節供の菖蒲や蓬が思い浮かぶ。
 この場合の菖蒲は、花を鑑賞する菖蒲とは別のものであるが、蓬と同様、強い匂いを放ち、また葉が剣のように鋭いことから、古来より厄祓いの働きを持つものとして用いられた。
 市川でも、次のような由来話が伝えられている。
 「昔、菖蒲ってえのは、蛇がきれえなあるお姫さまにほれ込んじゃって、通ったりして、そうすっと、蛇とは知らなかったでしょう。だから、子どもが出来ちゃって。そうすると蛇は菖蒲が嫌いだから、その菖蒲を煮出して飲めば、子どもが堕りちゃうって。
 それから、五月の節句は、菖蒲が生えると蛇がいっぱい出るでしょ、山や何かあるから。それで、屋根にやったり、縁の下にやったり、すると、蛇が入らないって、おまじないのようなこと言ってましたね。菖蒲湯は、虫に刺されないようにって、今だにやってますね。」
 (国分・藤城こうさん。『市川の伝承民話』より)
 「菖蒲というものを、蛇が大嫌いなんだと。女は、田んぼや山へ行くじゃない。五月んなんともう蛇が出てくんでしょ。座ると女というものは、月に一回あるでしょ、その時に血っくせえのがね、蛇が大好きなんだって。そうすんと今度見こまれるって。
 だから五月五日に菖蒲湯に入って、体に菖蒲の匂いをさしとけば、蛇大嫌だんべ。だから、ここらへ菖蒲べったりおいとけば、蛇来っこねえだってから。自分の体腐んだと、菖蒲の葉っぱがここらへくっつけば。
 よもぎというものは、女の腰をあっためんで、そして五月五日によもぎと菖蒲と屋根さやったべ、今じゃやんねかしんねけんども。」
 (妙典・長田ふじさん。『行徳昔語り第七号』より)
 端午の節供に食される「ちまき」も、今は笹で巻くのが主流だが、「茅巻き」の名前からも明らかなように、元は茅を巻いたものだった。ちがやも、菖蒲と同じく剣型の葉と、強い生命力から、霊力を持つ植物として珍重されてきたのである。
 六月三十日には、八幡の葛飾八幡宮などで、「茅の輪くぐり」が行われるが、これは、ちがやの持つ祓いの力で、半年の厄を祓おうとする儀礼である。
 折々の行事には、しばしば植物が用いられる。六月二十六日には、真間の弘法寺で、花への報恩の意を表す「花供養会」が、初めて執り行われる。植物にまつわる新たな行事が、また一つ市川の歳時記に加わるわけである。
(2005年6月3日)

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■§七夕とあじさい§■ 市川民話の会会員・根岸英之


  七月七日は、「七夕」。この日は、笹飾りをして、願いごとを書いた短冊を吊るすと、願いごとがかなうとされる。
 市川での伝統的な七夕行事は、月遅れの八月七日に、盆行事の一環として行われていた。例えば、大正年間の様子を記したと思われる『大柏郷土誌』(大柏小所蔵)には、次のように書かれている。
 〈八月七日 七夕祭なり。各戸まこもにて作りたる馬と牛をうまや口に飾り、小麦粉にて作りたる餅を供す。家人もまたこれを食す。児童らは五色の紙に文字を記し竹枝につなぎて掲ぐ。〉
 (市川市史編さん委員会『市川市民俗調査概報(二)』昭和四十七年から分かりやすく引用)
 市川で昔の七夕の様子を聞くと、笹飾りのことよりも、このまこも馬を作り、子どもが庭先を引いて遊んだことを話してくれる人が多い。
 まこもは、葦に似た湿地に生える植物で、かつては、市川の水辺によく見られた。そのまこもで馬や牛を編み、小麦粉の餅を供えるというのは、お盆のときにきゅうりやなすで牛馬を作って、供え物をするのと同様、祖霊を迎える行為であった。
 市川で見事な七夕飾りが見られたのは、若宮商店会の「若宮七夕まつり」。戦後すぐから始められ、五十年以上も続けられた。しかし、大村会長によれば、五年ほど前から、主催者の高齢化で、七夕飾りは作られなくなったという。現在は、「フェスティバルIN若宮」と名前も変更され、ミニ列車、金魚すくい、みこしなどが楽しみとされる縁日のような行事になっている。今年は、七月二十四日(日)に行われる。
「若宮七夕まつり」(『市勢要覧1973年版』より)
 七夕にまつわる興味深い風習が、新田辺りに伝わっている。
 〈七月七日朝七時、赤い木綿糸でもっておうちにあるあじさいの花を切って、それを逆さにしてゆわいて、玄関の外の入口の上に吊るす。これはお金に困らないように、融通できるようにって。
 も一つ、それはおトイレ、人の目にあまり触れない所に逆さに吊るす、これは下(しも)の世話にならないようにって。花は一年間吊るしておく。
 ――どなたからお聞きしたのですか?
 うちの方のお年寄り。今住んでいる所(市川市新田)、気を付けて見ていると、お年寄りのいるおうちではやっぱりやっています。私のうちでもやっています。〉
 (話・山田アエ子さん。行徳昔話の会『むかしがたり』第五十五号、一九九五より)
 行徳昔話の会のかたも、それまで聞いたことのない珍しい話だったので記録したというが、実は大正十二年にまとめられた『千葉県東葛飾郡誌』という本に、市川周辺の「迷信」として、次のような記録が残されていた。
 〈紫陽花(あじさい)の花を土用の丑の日に便所に入れると疫病にかからない。〉
脚本家水木洋子邸に咲くあじさい
 鈴木棠三『日本俗信辞典 動・植物編』(角川書店)を見ると、全国に似たような風習が伝わっていることが分かる。
 〈土用の丑の日に入口に吊すと、厄病除けになり、その家は栄える(秋田県平鹿郡)。〉  〈丑の日の夜明けに花を取り、天井に吊せば金に不自由しない(鹿児島県国分市)。〉
 〈便所や玄関以外の入口に吊すと流行病の魔除けとなる(東京都武蔵野市)。〉  同辞典によれば、〈ハチの巣を吊して魔除けとしたり、商売繁昌を願う俗信と共通するものがある。球状でハチの巣に似、その上花の色が変化することから特別視されたものか。〉と解説されている。
 恐らく、市川でも土用の丑の日に行われていたものが、いつしか、八月七日の七夕と習合し、そして、「七月七日朝七時」の風習として、変化してきたのだろう。水を受けて色鮮やかに咲くあじさいのイメージは、土用の丑の日よりも、七夕のほうが合っているように思われるのも、面白い。
 今でも行っている読者がいれば、連絡していただけるとありがたい。
(2005年7月1日)

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■§中山の風鈴と薪能§■ 市川民話の会会員・根岸英之


  七月から八月にかけて、市川の各町で、盆踊りが行われている。今は、夏休みの娯楽としての需要が高いようだが、盆踊りは、あの世から返ってくる祖霊をなぐさめ、祖霊とともに踊るもの。できれば、十三日の盆迎えから十五日の盆送りの近くに、行われてほしいと思う。
 中山の盆踊りは、八月六、七日に法華経寺境内で行われる。時期こそややずれるが、先祖の眠るお墓の近くで行われる点で、盆踊りの風情を感じられる場所といえよう。数年前から、中山の魅力を唄い込んだ「中山音頭」が復活されたことでも知られている。  そんな法華経寺の参道には今、涼しさを演出し、商店街の魅力を高めようと、店々の軒先に約二百個の風鈴が下げられている。荒井貫首の発案で、「風鈴通り」と愛称され、九月まで実施されるという。
 風鈴には、「ザクロ」の絵が描かれているが、これは、法華経寺に祀(まつ)られている「鬼子母神(きしぼ(も)じん)」にちなんでいる。
 文永元(一二六四)年、日蓮聖人が、小松原(鴨川市)で命を狙われたとき、傍らの槙の大木から、光がきらめき、難を逃れることができた。そのとき、日蓮は光の中に、鬼子母神の姿を見たという。
鬼子母神とザクロの前で行われるほうろく灸と加持祈祷(土用丑の日・妙典妙好寺)
 中山へ逃れた日蓮は、鏡池に顔を映して眉間の傷を手当てし、加護してくれた鬼子母神像を、自ら彫り上げた。それが、今も法華経寺の守護神として祀られている鬼子母神像の縁起とされる。
 そもそも、鬼子母神は、お釈迦(しゃか)さまのいた時代、自分には大勢の子どもがありながら、他人の子どもをさらっては、食らう「鬼子母」という女性だった。
 釈迦は鬼子母を諭すため、女の子どもを一人隠したら、女は狂ったように子どもを捜し求めた。それを見た釈迦は、「我が子を無くす親の気持ちが分かっただろう。もし、子どもを食らいたくなったら、ザクロを食べろ」と諭した。こうして鬼子母は、釈迦に帰依(きえ)し、「鬼子母神」として、子どもを守る仏になったとされる。
 「法華経」の中では、鬼子母神は「法華経信奉者の守護神」とされ、日蓮宗で重要な位置を占めるようになった。
 「ザクロの実は人肉の味に似ているから植えない」と忌まれることもあるが、日蓮宗では、こうした説話に基づいて、鬼子母神ゆかりの植物として重んじられているのである。
 風鈴のみならず、鬼子母神堂や、参道から祖師堂へ向かう途中の「龍渕(りゅうえん)橋」の欄干(らんかん)に、ザクロが刻まれているのも、こうしたためである。
 ところで、八月二十日には、祖師堂前の特設舞台で、「第三回中山薪能」が開催される。今回の演目は、金春安明による能「黒塚」、野村萬齋による狂言「成上り」ほか。
 能「黒塚」は、安達が原(福島県二本松市)に住み、人を食らうという鬼女を、熊野の山伏が、法力によって鎮撫(ちんぶ)するという物語。
 人を食らう鬼女が、法力によって鎮撫される点で、鬼子母神と通底するように感じられるが、いかがであろう。法華経寺での演目として感慨深いものがある。
 現在各地で行われる薪能は、戦後、新宿御苑や平安神宮などで行われるようになった野外能の流れを受けているが、古くは、奈良市の興福寺と春日大社で仏事として始まったものである。お寺の境内で行われる中山薪能は、こうした伝統を負った点からも、単なる野外能という以上の魅力を持っているといえよう。
 お盆の時期、風鈴の音に誘われながら、「鬼子母神」と「安達が原の鬼婆」の説話に通底する、二人の鬼女の境涯について、耳を傾けてみるのも、一興であろう。
 なお、中山文化村旧片桐邸では、八月五、六、二十六日に「子ども広場」が、八月七日は「民族誌ビデオを見る会」も行われる。
(2005年8月5日)

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■§八幡のボロ市と回遊展§■ 市川民話の会会員・根岸英之


  九月十五日から二十日まで、八幡の葛飾八幡宮の例大祭に合わせて、「農具市」が開催される。古着を商う露店が多く出ていたことから、「ボロ市」の通称で親しまれている。
 今は、境内から京成線北側の参道辺りまでしか露店が見られないが、私が小学生だった昭和五十年代までは、国道の入り口までびっしり露店が並び、口上付きの皿売り、ひよこ釣り、ままごと道具売りなど、いろいろな露店が見られた。
 さらに、昔にさかのぼると、サーカスのような小屋がかかっていた時期もあったという。にぎやかだった頃は、国道十四号線に、二列にわたって露店が並び、人々がぞろぞろ歩いたという。大柏や行徳からは、水路を使って舟で来る姿も見られた。
 そんなボロ市の昭和初期の様子を記録した人に、本山桂川(もとやまけいせん)という人がいた。
葛飾八幡宮の神楽殿
 歴史博物館の小泉みち子学芸員の調査によれば、桂川は、明治二十一年長崎市生まれ。大正ごろから俳句や民俗研究を始め、大正十三年に市川町に転居。私立市川学館(商業学校)の教頭や、市川町町会議員などを歴任。昭和十二年に東京へ転居するまでの間に、民俗学の著作を多く遺した(小泉みち子「本山桂川−その生涯と書誌−」『市立市川歴史博物館年報十五号』一九九八)。
 桂川は、昭和三年から『民俗研究』というガリ刷りの雑誌を刊行、その雑誌などに昭和五年のボロ市の露店の様子を、克明に記録発表しているのである。
 それによれば、参道は言うに及ばず、国道十四号線の西は、現本八幡駅前の十字路まで、東は境川まで、びっしりと露店が立ち並んでいた。その数、九二三店舗。桂川は、その一軒一軒の商いの種類や小屋掛けの様子を、手書きの図面で丹念に記録している。
 「地内(参道)」には主に飲食物の店が、「仲見世(国道)」には主に古着や家具を商う店が多く並んでいた。
 今回、ボロ市に合わせて、「回遊展in八幡」が、九月十七日(土)から十九日(祝)まで開催されるが、十九日には、市民会館に「博物館がやってきた」という会場が設けられ、桂川のボロ市の記録のことも、歴史博物館の学芸員により展示紹介される。
 十九日には、やはり市民会館で、市川民話の会と木曜会による「八幡のおはなし」や「ブラックシアター」の上演も行われる。おはなしする予定のものをいくつかを紹介すると――。
源頼朝の駒止め石
 「千本公孫樹(いちょう)」は、本殿の東側にそびえる大きな木。木のうろには、たくさんの白蛇が棲んでいて、例大祭のときに、音楽を奏でると、数万の蛇が枝の上に現れたと伝えられる。
 「梨作りの善六(ぜんろく)さん」は、江戸時代、八幡の川上善六という人が、美濃尾張から梨の作り方を教わり、八幡で初めて梨を育てた話。善六が梨作りを志したのは、一説にボロ市の古本屋で、梨の白い花が雪のように咲いているさまを詠んだ漢詩に出会ったからだともされ、境内に顕彰碑も遺されている。
 「源頼朝の駒止め石」は、今放映中の大河ドラマ「義経」にも登場する源頼朝が、房総へ落ち延びて、鎌倉で挙兵する途中、市川へ立ち寄り、葛飾八幡宮で戦勝祈願した。そのとき、頼朝の乗った馬の蹄(ひづめ)の跡が石に付いたという話。
 また、藪知らずにまつわる話、八幡横丁でむじなに化かされた話など、八幡にまつわる民話を紹介し、八幡の魅力を堪能してもらう。
 このほか、十七日には中央公民館全館でのイベントや、葛飾八幡宮に昨年新設された神楽殿での雅楽奉納、十七日〜十九日の脚本家水木洋子邸の公開、十九日の市民会館でのコンサートなども予定されている。
 ボロ市の季節は、決まって雨が多いとされているが、天候に関わらず、八幡のにぎわいを楽しめる期間である。
(2005年9月2日)

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■§徳蔵寺のお十夜§■ 市川民話の会会員・根岸英之


  十一月三日の文化の日を前後して、京都や奈良辺りの寺社では、秋の特別拝観として、普段は見られない宝物や建物などを公開するところが多い。
   市川でも、毎年十一月三日には、中山法華経時の「聖教殿(しょうぎょうでん)」で保存している宝物に風通しをして公開する「お風入れ」が行われる。
 法華経寺は、日蓮聖人ゆかりの寺で、「立正安国(りっしょうあんこく)論」「勧心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)」をはじめとする日蓮聖人直筆の貴重な文化財が多く伝えられている。
十夜塔婆を受け取る檀家
 普段は見ることのできない宝物を見ることのできる、またとない機会。ただし、天候が悪いと中止されてしまうので要注意。
 中山と並んで寺社が多いのが、行徳の旧街道沿い。旧街道の一本東を走る細い道は「権現道(ごんげんみち)」と呼ばれ、徳川家康が鷹狩りに行くときに通った道とされる。  関ヶ島の徳蔵(とくぞう)寺は、この権現道の脇に建つ天正三(一五七五)年建立の真言宗の寺で、今年で開山四百三十年を迎える。
 これを記念して、「平成の仏教美術〜徳蔵寺の遺宝と仏画教室作品展」が十一月六日まで、行徳文化ホールで開催されている。
 不動明王の特別出開帳をはじめ、江戸時代の仏画や仏像、密教法具など、貴重な宝物が公開されている。
 同じく、行徳の寺町で大きな伽藍(がらん)を誇(ほこ)る寺に、本行徳の浄土宗徳願(とくがん)寺がある。寺名に「徳」の字が付くことからも分かるように、徳川家康の帰依(きえ)により、慶長十五(一六〇一)年に堂宇(どうう)が建立された。
 徳願寺で目を引く建物が、山門と鐘楼で、ともに安永四(一七七五)年に建立されたもの。経蔵とともに、二〇〇四年三月に市指定文化財に指定されている。
 この徳願寺で、十一月六日に「お十夜(じゅうや)」という法要が行われる。
 お十夜は、元来旧暦十月六日〜十五日までの十昼夜にわたって念仏を唱える法要で、浄土宗で行われることが多い。今は一日だけのところも一般的で、徳願寺のお十夜も十六日のみ。
 みがわり観音まつり、ご詠歌や双盤(そうばん)念仏などが行われたあと、檀家には先祖供養や収穫感謝のための十夜塔婆(とうば)が渡される。
 徳願寺のお十夜が親しまれているのは、午後三時から寺宝公開が行われ、一般の参拝者にも門戸を開いていることから。
 本尊の阿弥陀如来像は、鎌倉時代のはじめ、源頼朝の妻北条政子が霊夢を見て仏師運慶に命じて彫らせたもので、政子の念持仏とされる。同じく本道に安置されている閻魔(えんま)大王も、運慶の作という。大河ドラマ「義経」ゆかりの寺でもあるわけだ。
 寺宝の目玉の一つが、円山応挙(まるやまおうきょ)が書いたとされる幽霊画。応挙が常夜灯近くにあった「しがらき」という旅籠(はたご)に泊まり、夜中に廊下で胸を病んでいた女中とばったり出会ったときの驚きから描かれたとされる。応挙は、足の無い幽霊を初めて書いた江戸時代の文人として知られ、見るものを引き込むすごみがある。
 今一つは、宮本武蔵の書と達磨(だるま)の絵。吉川英治『宮本武蔵』にも描かれているとおり、宮本武蔵は晩年出家し、諸国行脚の折りに船橋市法典ヶ原を開墾し、その途中に解くガン時に留まったという伝承がある。そのため、武蔵供養塔とゆかりの寺物が遺されている。達磨の絵は八方にらみで、どこから見ても、見つめられているように見える。
 こうした寺社の魅力的な行事を、一堂に紹介できる仕組みができれば、市川も、京都や鎌倉などに引けを取らない寺社探訪の地になるに違いない。
 十六日には、市川案内人の会による徳願寺を含む行徳散策ツアーも企画されている。市川に住む私たちが、まずは初冬の市川を散策しよう。
(2005年11月4日)

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■§忠臣蔵ゆかりの唱行寺§■市川民話の会会員・根岸英之


  十二月になると、日本では『忠臣蔵』とベートーベン『第九交響曲』がもてはやされることが多い。
 『忠臣蔵』については、「義士会」「義士討入りの日」などといって、俳句の季語にもなっている。俳人・能村研三さんの解説を引いてみよう。
 「赤穂義士が江戸本所一ツ目の吉良義央(きらよしなか)邸に討入りした元禄十五年十二月十四日(一七〇三年一月三十日)を記念して、新暦の十二月十四日に催される追慕祭のこと。義士の墓所である泉岳寺(東京都港区高輪)の四月の大祭(義士祭)と区別するため、この呼称が用いられる」
 (『関東ふるさと大歳時記』角川書店 一九九一より)
 市川市の北部柏井町が、忠臣蔵ゆかりの土地であることは、ご存知だろうか。
 柏井は、元禄十四年(一七〇一)三月、江戸城内松の廊下で、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、吉良上野介(こうずけのすけ)を斬り付けたとき、内匠頭を抱き抱えた梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)の治める土地だった。
 柏井の唱行寺(しょうぎょうじ)には、与惣兵衛の着ていた裃(かみしも)や、祖父母の供養塚が、いまも遺されている。
 柏井の旧家岡本家には、次のような伝承が伝えられている。
唱行寺の宝物(一番下は梶川与惣兵衛の裃)
 「その当時、うちの先祖が名主か何かしていたんじゃないでしょうか。でもって、あの当時で、梶川与惣兵衛さんが、結局殿中の取り締まり役ですね、その役目が。浅野内匠頭が、もう一太刀斬らしてくれというのをかまわず早く押さえすぎたというので、結局殿中の取り締まり役をやめさせられたような形じゃなかったでしょうか。
 で、どこへ行っても、行く場所がなくなったらしくて、いなかへ来てかくれていたらしいですね。それで、家へ来て何年おりましたか判(わか)りませんが、しばらくいたらしいですね。(略)
 わたしにとって親の親、その親あたりまでかな、はっきりは判りませんが、梶川与惣兵衛の槍(やり)と裃を着て、命日に(唱行寺に)お参りしてたわけです」(話 岡本法光さん。『市川の伝承民話第7集』市川市教育委員会 一九九九による)この史実に基づいて書かれた歴史ホラーミステリーが、中津攸子(ゆうこ)さんの『怨霊忠臣蔵―意次元からの交信―』(二〇〇〇 彩図社)である。
 主人公の「私」は、小海線の車内で偶然乗り合わせた梶川の子孫の麗人と、こんな会話を交わすシーンがある。
 * *
 「・・・そんなわけで与惣兵衛の父母の墓がある唱行寺が日蓮宗、与惣兵衛の墓のある天徳院が曹洞宗なのですが、もちろんその両方の寺院への正面きってのというより梶川家の子孫としての参詣は禁じられておりました」
 麗人はハンカチを口に当てて私を見た。
 「それで・・・。与惣兵衛の祖父母の塚があると知って市川に住まわれたのですか」  私が聞くと、
 「いえ、たまたま市川に住んだのです。でも梶川与惣兵衛の知行地だったと知っていて市川の柏井に住んだのですから、無意識ではあっても今思えば先祖と関わりのある地に住んでみたいと願っていたのかもしれません」  
 * *
 唱行寺の石段は、古くは九十段近くあったものの、赤穂義士四十七士に遠慮して、四十六段に減らしたとの伝承も遺されている。
 境内にはまた、武田鶯塘(おうとう)と山雪の句碑や、女人の霊を祀った「女人塚」、夫婦のむじなの霊を祀(まつ)った「妙光法光霊神」碑などもある。
 ここに紹介した内容は、鬼高に開館した市川市文学プラザでも、読んだり調べたりすることができる。唱行寺を参詣した後、中山の東山魁夷記念館、八幡の水木洋子邸を経由して、文学プラザまで足を伸ばすのも一興だろう。
 十二月十七日には、水木邸で、電蓄による「第九」レコードコンサートも予定されており、師走の雰囲気を味わうことができよう。
(2005年12月9日)

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■§戌年正月物語§■市川民話の会会員・根岸英之


  今年は戌(いぬ)年。民放の正月ドラマでも、滝沢(曲亭)馬琴(たきざわ・きょくてい・ばきん)原作の「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」が放映された。
 国府台に里見公園があるように、市川は戦国時代、里見氏の合戦場となった土地。市川は「南総里見八犬伝」にとっても、重要な舞台である。
 古河(こが)の芳流閣(ほうりゅうかく)の屋根の上から、利根川へ流れ落ちた八犬士の犬塚信乃(しの)と犬飼現八は、行徳に流れ着き、旅籠「古那屋(こなや)」を営む文吾兵衛(ぶんごべえ)に助けられる。文吾兵衛にはまた、八犬士の一人小文吾(こぶんご)というせがれがあった。
 八犬士の三人が、行徳でその因縁を知るという、まさに市川ゆかりの“犬”物語である。
 犬にまつわる市川の物語として、井上ひさしさんの『ドン松五郎の生活』(一九七五)も欠かせない。
「南総里見八犬伝」の「古那屋」挿し絵
 「東京の東の境界を流れる大きな川の、東岸のそば」に生まれた子犬は、木箱に入れられ、八犬士同様、江戸川を流されてくる。
 そして、「この丘陵地帯は陸軍の砲兵部隊の演習地だったそうだ。(略)なにしろ丘の下を流れる江戸川をひとつ越せば東京だ。この丘陵は住宅地として評価されはじた」場所に暮らす「小説家先生」の家で飼われることになる。
 井上さん自身がモデルのような小説家の家で暮らす中で、人間のことばを理解するようになる。ときには、「江戸川の川べりに建つ某私立商科大学」へ講義を聞きに行くことも。
 仲間の犬が売り飛ばされる事件をきっかけに、「人間を仕合わせにする行動を起こそうと考え(略)、下総国分寺裏の墓地」へ、犬の結集を呼びかける。そして、「国分寺近くの自動車教習所から渋谷」へ、犬が車を運転してかけつけるという、ユーモアあふれた物語。
 井上ひさしさんは、一九三四年の戌年生まれで、ほかにも『イヌの仇討』(一九八八)などの作品もある。
 脚本家/水木洋子さんも、一九一〇年の戌年生まれで、小さいころから犬好きだった。八幡の水木邸でも、何匹も犬を飼っており、その中の熊太郎のことは、しばしばエッセイに登場する。
 「今でも年賀状に「熊五郎は元気ですか?」と書いてくる人が時々ある。
 熊太郎をどうして熊五郎と思いこむのか。
 (略)私の熊太郎は、れっきとした黒い大型の秋田犬なのである。
 その四本の足の先は茶と白がまじって、頭のてっぺんが灰色で、子供の時は薄紫で、眼は南京豆のように小さく、連れて歩いていると、女子学生などがクスクス笑ったり、吹き出したりするほど、瓢軽(ひょうきん)な顔をしていて田舎くさかった。」
 (水木洋子「熊太郎」『新日本』一九七八年十二月号)
 『ドン松五郎の生活』同様、中野孝次さんの『ハラスのいた日々』(一九八七)も、映画となった犬物語だが、中野さんは、戦前まで市川に暮らしていた。中野さんは、須和田に暮らしていた昭和十八年の正月の様子を記している。
 「母が夜なべ仕事に用意した晴着を着てあらたまって新年を祝えば、何もないかにもないという戦争中の正月であっても、正月は正月の気分であった。朝一番に起きた父の手で、みがききよめた神棚に若水があげられ、朝日が茶の間に斜めにさしこんでくるころ、神棚、仏壇、荒神さま、それから門松や仕事場の入口の小さな松にまで、着物姿のあらたまった弟たちの手で雑煮のお初穂がそなえられた。」
 (中野孝次『麦熟るる日に』一九七八 河出書房新社)。
 現在、市川市文学プラザでは、「“犬”にまつわる市川の文学」「戌年生まれの脚本家/水木洋子と愛犬」のミニ展示を開催している。
 一月二十八日、二十九日に公開される水木邸でも、「水木洋子と愛犬」をテーマに、愛犬の写真や犬の郷土玩具などが出迎えてくれる。
 戌年の正月に、“犬”にゆかりの市川文学を読み始めてみてはいかがだろう?
(2005年12月30日)

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■§初卯祭と湯の花祭§■市川民話の会会員・根岸英之


  二月の節分を過ぎると、暦の上では春。一度は見てもらいたい二月の神事として、「初卯祭(はつうさい)」と「湯の花祭」がある。
 「初卯祭」は、立春後、初の「卯(う)」の日に、八幡の葛飾八幡宮で、祭神である「八幡さま(応神天皇)」の誕生日を祝って行われる神事で、今年は、二月七日(火)がそれに当たる。
 午後一時より、宮司が拝殿で御幣(ごへい)・熊笹・神鈴などを持ちながら「宮司舞(ぐうじまい)」が奉納される。
初卯祭「宮司舞」

 続いて、境内に設けられた大釜で湯が沸かされ、宮司が熊笹を釜に入れ、神湯を参詣者に振り掛ける「湯花神事(ゆばなしんじ)」が行われる。この湯玉を浴びると無病息災でいられるという。
 大釜の四隅に立てられた青竹の小枝は、家に持ち帰ると悪霊を防いでくれるとされ、神事が終わると、われもわれもと、竹を取り合う姿が見られる。
 その後、役員たちは、会場を移してお神酒をいただく「御奉謝(おびしゃ)行事」が行われ、境内の参詣者には、お清めの甘酒がふるまわれる。
 昔は、この日に「十二座神楽(じゅうにざかぐら)」も奉納されていた。一時、無かった神楽殿も復活され、神楽面は遺されているので、ぜひ神楽そのものも、復活が期待される。
 今一つの「湯の花祭」は、菅野の白幡天(しらはたてん)神社で、二月二十日(月)に行われる。
初卯祭「湯花神事」

 祭神武内宿禰(たけのうちのすくね)が、身に覚えのない罪に問われたとき、熱湯に手を入れたが、火傷(やけど)をせずに無罪を明かしたという「くがたち」の故事に由来するとされる。
 午前十一時、宮司が、境内にしつらえた大釜の湯を笹でかき回し、参詣者に湯玉をかけるというもので、由来を説く伝承は違っても、葛飾八幡宮の神事と同系統の神事と見ることができよう。
 白幡天神社では、その後、氏子の女性たちが作った田楽が振る舞われる。田楽は市川辺りの冬の郷土食であり、寒い中で湯気を立てながらほおばる光景は、市川の冬の風物詩といえる。
 葛飾八幡宮と白幡天神社はまた、永井荷風(ながいかふう)や幸田露伴(こうだろはん)らゆかりの神社でもある。
 荷風は、市川に移り住んでから四か月に満たない昭和二十一年五月九日に、葛飾八幡宮を訪れ、その様子を『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』という日記に記している。
 「風涼し、午後再び葛飾八幡宮の境内を歩む、祠前の常夜燈に明和五年丙子の年号を見る、絵馬堂の額、神功皇后、武内宿禰を描けるもの二枚、唐人管絃遊戯の図あり、いずれも嘉永安政頃のもの、画工もさしたる名家にてはあらざるが如(ごと)し、されど近年かくの如きものを見ること稀(まれ)なれば、浅草観音堂のむかしなど思い出でて杖を留むることしばらくなり」
 (『荷風全集第二十五巻』より読みやすく引用)
 荷風はこの二週間ほど前には、白幡天神社にも立ち寄っている。
 「四月十八日、晴、南風烈し、午後八幡の湯屋に行きしが休みの札出したれば帰途垣根道の曲がり行くに従い歩みを運ぶに、老松古榎欝然(うつぜん)として林をなせる処(ところ)、一宇の廃祠あり、草間の石柱を見て初めて白幡神社なるを知る」
 この記述の翌二十二年七月、白幡天神社の近くに住んでいた幸田露伴(こうだろはん)が死期を迎えようとしていたとき、娘の幸田文(あや)が、ここで父の死を悟る。
 「白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余とおぼしい太い榎が何本も枝を張っていた。(略)さあっと風が来、ぱらぱらと榎の枝から葉が離れ散った。ほそい枝も一枚一枚の葉も、暮れのこる空にシルエットだった。」(「菅野の記」より)
 荷風も文も仰いだ榎の杜(もり)は、今でも白幡天神社を暖かく覆っている。
 二月九日(木)には、鬼高の文学プラザで「露伴と荷風と井上ひさし」と題するギャラリートークも予定されている。
(2006年2月3日)

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■§中山の民話で街回遊§■ 市川民話の会会員・根岸英之


昨年の十一月、中山の木下(きおろし)街道の坂を登りきったところに、東山魁夷(かいい)記念館が開館し、法華経寺と合わせて、全国から大勢の人が、中山に足を運ぶようになった。
 三月二十五日(土)、二十六日(日)は、そんな中山の魅力を回遊しながら再発見しようと、「中山街回遊展」が開催される。
 法華経寺を始めとする多くの寺院や、学校、文化施設でさまざまな催しが予定されており、中山小では、二十五日午後二時から、「市川の民話のつどい」が開催される。今回は、そこで語られるお話の舞台を紹介しよう。
 まずは、「なんじゅうやまみち」の舞台。
「南中山道」の道標(中山小)

 中山小の校門をくぐり急な坂を登ると、左手に小さな道しるべがある。これは元々、東山魁夷記念館近くの市川四中へ入る木下街道脇に建っていた道しるべ。「南 中山道」「北 北方道」と彫られている。
 むかし、江戸からの旅人が木下街道を歩いて、この道しるべまでやってきた。二人は道しるべを見て言い合った。
 「こっちには、「なんじゅうやまみち」と書いてある。これから先は、難渋(なんじゅう)する山道が続くみてえだ。」
 「こっちには、「ぼくぼくかたみち」と書いてある。ボクボクするような硬い道じゃ、わらじで行くのは無理だんべ。」
じゅえむどんと臼と杵(中山小郷土館)

 それで、二人の旅人は、また来た道を戻っていってしまったと――。
 道しるべの文字を読み違えての笑い話。
 この話は、木下街道沿いで肥料店を営む松崎さんが、明治生まれの父親から、風呂に入りながら聞いた話。市川に伝わる民話のなかでも、面白みのある整った話の一つである。
 市川を代表する笑い話に「いんねえのじゅえむどん」にまつわる話が伝わるが、そのじゅえむどんが使ったとされる「きね」と「うす」が、中山小の余裕教室を利用して造られた「郷土館」に、地域の人から寄贈された昔の生活道具や農具とともに飾られている。
 じゅえむどんは、船橋の印内(いんない)出身で、東山魁夷記念館近くの北方の「きゅうべえ」さんという名主の家で奉公したとされる大男。気が向けば、人の二倍も三倍も働くのに、たいそうのへそ曲がりだったとされる。
 そのため、多くの面白い話が伝わっており、「民話のつどい」では、旧片桐邸で行われた「市川市伝統文化こども教室」に参加した市内の小学生たちが、いくつもの楽しい話を語ってくれる。
 市川は読書活動の盛んなところで、中山小にも、「ありんこの会」という読み聞かせのボランティアサークルが組織され、毎週子どもたちに絵本の読み聞かせなどをしている。「民話のつどい」では、ありんこの会のお母さんがたが作った大型紙芝居「さるかに」も上演される。
 中山の中心は、なんといっても、法華経寺。中山には日蓮聖人にまつわる伝説の地も多く残されている。
 法華経寺に祀られている「鬼子母神」は、日蓮聖人が法難に遭ったときに守ってくれた仏さまとされ、「民話のつどい」では、そのいわれを子どもにも分かりやすく紹介する。
 なお、回遊展の期間中は、法華経寺で寺宝公開も開催され、普段は見ることのできない文化財や、日蓮聖人が法難に遭ったときに身に付けていたとされる「血染めの衣」なども、拝観することができる。
 中山は、演芸評論家の故・小島貞二さんや、画家の梶山俊夫さんも、お住まいの地である。
 「民話のつどい」では、小島さんが子ども向けに分かりやすく書き直した「落語」や、梶山さんのあたたかい絵本を元にした「わらべうた」なども紹介する。
 回遊展の期間中、泰福寺での「小島貞二展」や、梶山さんのアトリエ訪問なども予定されており、合わせて、お二人の業績に触れることができる。
 回遊展は、単発的な文化イベントではなく、地域の文化資産を掘り起こし、いかに魅力的なまちになっていけるかを、地域の市民が見つめ直す場である。中山の民話は、そんな文化資産に色づけを与えてくれる、調味料ともいえよう。
(2006年3月3日)

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■§幸田露伴と文の見た桜§■市川民話の会会員・根岸英之


  今年の桜の開花は、当初は遅いと見られたのに、急に咲きそろい、今を盛りと咲いている。
市川の桜の名所はいくつもあるが、国府台里見公園は、四月九日まで桜まつりで、期間中は夜間開放もされる。北原白秋が暮らした紫烟草舎(しえんそうしゃ)も公開され、文芸散策の絶好のポイントといえよう。
市川を代表する文豪・永井荷風の見た桜は、本紙三月号に、橋本敏男氏が「荷風と市川の春」を掲載されたので、今回は、いまひとりの文豪・幸田露伴(こうだろはん)と、その娘・文(あや)の見た市川の桜を紹介しよう。
幸田露伴が、戦災で東京小石川の蝸牛庵(かぎゅうあん)を焼失し、市川へ移り住んだのは、昭和二十一年一月のこと。齢(よわい)すでに七十八歳。寝たきりで、白内障のため目も不自由であった。
露伴旧宅と国府台をつなぐように設けられた「文学の道」の「幸田露伴」紹介板

翌二十二年の春。「道を挟んでまん前の家」に住む五歳の子どもが、露伴のために、桜の小枝を届けた出来事を、娘の文がつづっている。
「二人の男の子たちも、垣根越しにかいま見た白髯(しろひげ)のおじいさん先生を尊敬している。下の坊やは五ツだった。その春、一しょう懸命におじいちゃんの先生へ見せてあげようと思って、こわいような高い処へのぼったと云(い)って、桜の若枝をしおって来てくれた。
(略)おもえばここ三年、父は臥(ね)たきりで花を見ていなかった。五ツの子の贈りものと聞いて、白い手を伸べて枝を受けた。ぎっしり咲いた若枝を眼に近づけたり放したり、ややしばらく眺め入っていた。「何かご褒美(ほうび)がやりたい」と云ったが、枕頭には数冊の書物があるだけ、隣室の茶棚にも子供の喜ぶものは何一ツしまわれていない侘(わび)しさだった。どんな気で詔雄(のりお)坊やは桜の樹の下に仰いで、お髯(ひげ)のおじいさんを慰めよう心を起したのか。五ツの幼い児に父子四十年のおもいが通じるとは誰が知ろう。これが見納めの花だった。」
「渚の家」の原題で、昭和二十五年一月の『中央公論文芸特集』に発表され(同じ雑誌には、永井荷風の名随筆「葛飾土産」も掲載)、のちに、「菅野の記」の題名で「父」という随筆にまとめられたものに拠った(現代かなづかいに改めて引用)。
露伴はやがて、昭和二十二年七月、八十歳の誕生日を迎えた直後に亡くなった。 娘の文は、露伴と市川で暮らすずっと以前の子ども時分、江戸川堤へ花見に来た様子も、回想している。
「子供たちは、酔っぱらいも乱痴気(らんちき)騒ぎもない、その代り人気もない江戸川堤へでかけた。墨田川の花をよそに、江戸川の花の下で駈けまわる。せいぜい油揚(あげ)のまぜごはんをお弁当に、それでけっこう大遊山(ゆさん)気分になれた。江戸川をわたった向岸は国府台。当時、国府台には兵隊屋敷があったのか、台地の上の松と桜の広い静寂境で、よく兵隊さんが一列に並んで、ラッパの稽古をさせられていた。
それがひどく滑稽(こっけい)で、子供にとってはまったく気に入るものだった。頬(ほお)をふくらまして、赤くなるほど気張って吹くのだが、ラッパはあわれプオーとひと声、尻すぼまりに泣くのみである。上官になにかいわれて、また吹く、またプオー。どうにも笑いをこらえかねる、いとも絶妙な音なのだった。
何年か国府台に行ったが、いつも花のもとの兵隊ラッパはプップップオーだった。新兵さんの時季だったのだろうか。いまではこの滑稽な記憶に、一抹(いちまつ)の哀感を添えて思いだすのである。」
一九七三年四月『うえの』に掲載された「あとひき桜」の一節である。
こんな随筆を読みながら、里見公園の桜を眺めると、また違う感慨がわいて来よう。
ちなみに露伴は、樋口一葉を世に紹介するのに尽力し、文もしばしば一葉と比せられる。
四月十五日(土)から、市川市文学プラザで開催される企画展「樋口一葉と市川の文人たち」では、露伴や文を始めとする文人らと一葉の関わりが展示される。
四月二十二日(土)には、水木洋子が脚本を手がけた映画「にごりえ」の上映会と、「にごりえ」に出演した女優丹阿弥谷津子(たんあみやつこ)さんのトークの会が、市民会館で行われる。
水木洋子の命日は二〇〇三年四月八日。真間川の桜の下を棺が運ばれていった。やはり、桜の時季にゆかりのある作家であった。
(2006年4月7日)

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■§川柳作家・阪井久良伎と五月鯉§■
市川民話の会会員・根岸英之


  五月といえば、端午(たんご)の節供(せっく)。市川でも、鯉(こい)のぼりをあげる光景があちこちで見られるが、古くは菖蒲(しょうぶ)の香気で邪気(じゃき)を払おうとする行事。
 それが、武家社会に入り「尚武(しょうぶ)」の行事として、男の子の育ちを願うものに変化し、「鯉の滝登り」の故事にあやかって、鯉のぼりが広まった。
 国分川では、四月二十九日から五月五日まで「こいのぼりフェスティバル」が行われ、大野こざと公園でも、五月四、五日に百三十あまりの鯉のぼりが掲げられる。
 国分川からほど近い国分寺には、次のような句碑が建っている。
 「五月鯉(さつきごい)四海(しかい)を呑(の)まんず志(こころざし)」
 これは、昭和六年から二十年にかけて真間に住んでいた川柳作家・阪井久良伎(さかいくらき)の川柳碑である。
 久良伎は、一八六九(明治二)年生まれで、新聞記者の傍ら、一九〇四(明治三十七)年に「川柳久良岐社」(このときは「岐」と表記)を創立、近代初の川柳会を催した。
 そして、一九〇五(明治三十八)年五月五日、川柳誌「五月鯉」を発行し、川柳の中興に力を注いだ。碑の句は、この雑誌創刊に当たって詠まれたものである。
久良伎の川柳碑(国分寺境内)

 「たとえ五月鯉のような存在であっても、世界中の海を飲みつくしてしまうほどの大きな志を持っていることよ」とでもいった意味だろうか。
 同時に、次の句も詠まれている。
 「五月鯉今上天(じょうてん)の時到り」
 久良伎の川柳界を変革しようとする強い決意が、五月鯉に託された秀句といえよう。
 国分寺の句碑は、久良伎の遺蹟の中から選ばれ、国分寺六十世吉沢永弘氏と親交があった関係で、一九七一(昭和四十六)年に建てられた。発起人には、徳川夢声、野田宇一郎、立川談志、岡本文弥、本山桂川などの名前も見える。
 国分寺について、久良伎はこんな随筆を遺している。
 「真間山の下亀井院の横を四五丁行って、突当りの岡の樹木欝蒼(うっそう)たる中にある。堂は四国某寺の写しで小さな堂である。寺の礎石は堂後墓地内杉林の中に天然石を遺している。
 住職吉沢永弘氏は風流の僧で、日本新聞時分から余を知っていて話が合う。快活活淡禅僧に近い。(略)寺には寺の花瓦を蔵している。
 国分寺庭さへ掘れば宝が出
 国分寺瓦せんべい思ひ付き
 などと戯れた事もある。庭内には夫婦梅といふ枝垂の薄仁梅の美事な老木がある。全国の国分寺で僅かに信州上田市に五重の塔が遺っているそうで、下総の国分寺も何等の遺物はない。真言宗である。」
 『趣好』昭和九年九月号に発表された「真間名所」の一節で、『川柳久良伎全集第五巻』(昭和十二)に拠った。
 久良伎にはまた、「市川国分山崎梅林にて」の詞書をもつ次のような川柳もある。
 梅林絵になる牛を繋(つな)いどき
  (『川柳久良伎句集』全集第三巻所収)
 かつては、国分の旧家山崎家の所有する梅林があり、牛も見られたのであろう。今からは想像も付かない風景を、文学作品は記録してくれている。改めてその価値が思い知れよう。
 現在、市川市文学プラザで開催されている企画展「樋口一葉と市川の文人たち」では、水木洋子や井上ひさしなどとともに、久良伎についても、取り上げている。これは、久良伎が、一葉の名作「たけくらべ」の書かれた、ほぼ同じ時期の吉原の様子を、一葉を引き合いに出しながら、記録しているからである。
 端午の節供の話題で、吉原にまで及ぶのは、いささかためらわれたが、「たけくらべ」も、背や思いのたけを比べるという、思春期の少年少女の成長の物語であり、あながち場違いではないのかもしれない。
 五月十一日(木)には、市川を代表する舞台朗読家・熊澤南水(くまざわなんすい)さんによる公演「樋口一葉と私〜朗読・十三夜」も行われる。地元市川で、しかも無料で南水さんの朗読に浸れるまたのない機会。ぜひお聞き逃しのなきように。
(2006年5月2日)

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■§手児奈伝承から見る市川の環境§■
市川民話の会会員・根岸英之


  六月は、世界中で環境に関するさまざまな催しが行われる。これは、一九七二年六月五日に、ストックホルムで「国連人間環境会議」が開催されたことを記念して、五日を「世界環境デー」「環境の日」、六月を「環境月間」と定められたことによる。
 市川でも、市民の間に環境の保全と創造に関する意欲と活動を高めてもらおうと、六月十七日の環境フェアを始め、「市川こども環境クラブ」の発足式、環境施設見学会の実施など、さまざまな行事が予定されている。
 ここでは、ちょっと趣向を替えて、市川の代表的な「手児奈(てこな)」伝承を読み解くことで、市川の環境が見えてくるという話をしてみたい。
 手児奈の伝承は、八世紀に編まれた日本最古の歌集『万葉集』に、すでに伝説の女性として語られている。
 それによると、かつては、真間山のすぐ下まで入江が入り込んで、その近くに湧(わ)き出る「真間の井」に、手児奈が水汲(く)みに来たとされる。
 現在の風景からは、あんなところに入り江があったのかと、思いも浮かばないかもしれないが、今の京成線や国道14号線が走っている辺りは、「市川砂洲(さす)」といって、東西に細長い砂の微高地になっており、須和田から真間にかけての低地は、今の大柏川や国分川から流れた真間川の水が、たまりやすい場所だったのである。
春の史蹟まつりで万葉歌人に扮する千葉商大演劇部(平成18年4月)

 昭和五十年代までは、大雨が降ると、この辺りは浸水する家が多く、さながら「真間の入り江」が復活したかのような光景となった。現在は治水対策も進み、ひどい水害はなくなり、手児奈霊堂境内に残る池に、入り江の面影をわずかにしのぶのみとなった。
 一方、真間の台地上に蓄えられた水は、台地のへりに湧き水となってしみ出してくる。現在、「真間の井」が残る亀井院は、弘法寺の高台と手児奈霊堂の平地の中間に位置し、まさにそうした環境に、建っているということになる。
 手児奈が、どういう女性だったのかをめぐっては、いろいろ想像されているが、一説に、「水を司(つかさど)る巫女(ふじょ)的な女性だったのではないか」とする見方がある。
 古代、神事を行うときには、清浄な水の力が求められた。そして、清純な女性が、神に仕え、神事を行ったとされる。
 『万葉集』には、山部赤人(やまべのあかひと)と、高橋虫麻呂(むしまろ)という二人の歌人の歌が収められており、赤人の歌で「妻問(つまど)いしけむ」と男性と契ったような表現が出てくるのは、神と一夜を共にする神事のために、ほかの男性の求めに応じなかったことを意味し、手児奈の人物造型は、こうした巫女のイメージを根底に持っているのではないかというのが、この立場からの解釈である。
 「水汲む」(虫麻呂)とか「玉藻(たまも)刈る」(赤人)といった手児奈の描写も、神事に関わる表現と見ることができる。
 もし、この解釈に立つと、手児奈伝承から、かつて真間の地では、「水」にまつわる祭祀(さいし)が行われており、それがやがて、日蓮宗に取り込まれ、その伝承と信仰が担われてきたという歴史環境が浮き彫りにされるのである。
 そして実は、このような「水」にまつわる女性が、日蓮宗に取り込まれていく系譜は、北方町「妙正寺(みょうしょうじ)」の「姥神(うばがみ)」伝承や、奉免町「安楽寺(あんらくじ)」の「常盤井姫(ときわいひめ)」伝承などにも、たどることができそうなのである。
 六月十七日には、環境フェアの行われる生涯学習センター三階の市川市文学プラザで、「いちかわ文学にみる女性と環境」と題するギャラリートークが行われる。
 また、二十一日は、手児奈にも関わる『パパス氏』という本を出された作家・葉山修平さんによる「樋口一葉の作品にみる女性像」の講演会も予定されている。
 「環境」「文学」「女性」をキーワードに、市川をさぐるユニークな機会となろう。
(2006年6月2日)

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■§一葉を読み始めた和田芳恵の夏§■
市川民話の会会員・根岸英之


  北海道出身で、直木賞作家として、また樋口一葉研究者として業績を遺した和田芳恵(わだよしえ)が、市川ゆかりの作家であることは、あまり触れられることがない。
 新潮社で編集の仕事に携わっていた和田が、病弱な妻の健康を案じ、空気のいい市川市八幡に移り住んだのは、昭和十年(一九三五)のこと。昭和四十六年に書かれた随筆「永井荷風」で、次のように回想されている。
 「市川から、ひとつ先の本八幡に新しい駅ができて、三月ばかりたったとき、私はそれまで住んでいた牛込南榎町から市川市の八幡町へ引越して行った。私は肺結核で寝たきりの病妻とふたりの小さな子をかかえていた。昭和十年のことであった。このあたりの上空で、海からの風がまじりあい、オゾンが発生するので療養地向きだといわれていた。私が住んだ一画は八幡の神社に近かったが、どの家にも病人がいた。すぐ近くが、いちめん梨畑で、牧場などもあった。」
 本八幡駅ができたのは、昭和十年九月だから、その年の暮れあたりに越してきたのだろうか。当時の八幡あたりの環境も知れて興味深い。
市川市文学プラザで開催中の和田芳恵展示風景

 ところが妻は、転地のかいなく、昭和十四年二月に亡くなる。その悲しみを紛らすかのように、その年の夏から、和田の一葉研究が始まる。
 「わたくしは昭和十四年の夏、妻の遺骨を長男の昭と長女の陽子に託して、わたくしどもの故郷である北海道の片田舎の訓縫(くんぬい)村(現・長万部町)におくった留守に、樋口一葉の日記を読み始めたのである。これは一葉の病名が妻と同じであったことと、一葉の作品の数が少ないので研究しやすかったからである。
 (略)わたくしは照になにもしてやれなかったし、これからもどうしてやるわけにもいかないので、せめて心の中に亡妻の記念碑をたててやりたいと思ったのが、わたくしに樋口一葉を書かした動機である・・・。」
 これは、昭和十五年六月から十六年八月にかけて、『三田文学』に掲載した「樋口一葉」をまとめた、一葉関係の初の単著『樋口一葉』(昭和十六 十字屋書店)の「あとがき」の一節である。
 昭和十六年八月には、小説「格闘」が芥川賞候補になったのを機に新潮社を退社し、その後、『樋口一葉研究』(『樋口一葉全集』別巻)(昭和十七)、『樋口一葉の日記』(昭和十八)と、単行本を立て続けに刊行する。
 戦後、昭和二十二年(一九四七)から『日本小説』を創刊するも、昭和二十四年、膨大な負債を抱え、自ら起こした日本小説社が倒産、身を隠す生活を余儀なくされ、市川を離れることとなる。
 しかし、昭和二十七年六月に発表した「露草」が、同年直木賞候補に、昭和二十八年四・五月に発表した「塵(ちり)の中」が、同年芥川賞候補に選ばれるなど、文壇へ再起。これらは、昭和三十八年に短編小説集『塵の中』にまとめて発表され、同年の直木賞を受賞することになる。
 「塵の中」は、自伝的小説で、市川での生活にも触れられており、一読に値する。  晩年は、舞台朗読家幸田弘子さんとも親交があったが、昭和五十二年(一九七七)に死去。
 今年は、明治三十九年(一九〇六)年生まれの和田の、生誕百年に当たる。
そんな縁もあって、七月七日の七夕には、生涯学習センター二階のグリーンスタジオで、幸田弘子さんによる講演「樋口一葉と和田芳恵とともに」と、朗読「たけくらべ」の催しが行われる。
また、八月三日には、同センター三階の文学プラザで、「和田芳恵と一葉ゆかりの市川の文人たち」と題するギャラリートークも予定されている。
このほか、七月十九日には、文学座の演出家戌井市郎さんによる「文学座〈にごりえ〉と水木洋子」と題するトークもある。
(2006年6月30日)

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■§市民ミュージカル“夏の光〜空に消えた馬へ”§■
市川民話の会会員・根岸英之


  今はベストセラー作家となった五木寛之さんが、まだ下積み時代の昭和三十年ころ、市川に二年ほど住んでいたことをご存知だろうか。
 五木さんは、「ある日日本の片隅で」(昭和四十五年発表)で、次のように回想している。
 「競馬に熱中して、中山競馬場の近くの、北方町(ぼっけまち)という所に住んだことがあった。総武線に乗りかえて下総中山で降りさらに満員のバスで競馬場へ向かう労力がはぶけて楽だった。
 土、日曜には下駄ばきで、サイダーびんに紅茶をつめ、歩いて一レース前から競馬場へ向った。
 銭湯では顔見知りの馬丁がいて、暮の餅つきレースの情報をまことしやかに教えてくれたりもした。
 そんな二年間は、友だちというべき仲間も持たず、食うための最低のアルバイトだけで、全く若隠居したような、或はドロップ・アウトしたような、そんな生活を送っていた」。
いちかわ市民ミュージカル「夏の光〜空に消えた馬へ」

 中山競馬場は、大正八年(一九一九)に、今よりやや南側に作られ、現在の場所で競馬が開催されるようになったのは、昭和三年のこと。昭和の初めころの競馬場は、紳士の社交場で、背広や羽織はかま姿でないと入場できなかったという。
 しかし、太平洋戦争が激しくなると、競馬の開催は昭和十八年十一月を最後に中止され、軍馬を育成する場所になった。そして、昭和十九年三月、「陸軍軍医学校中山出張所」という施設が設けられ、近隣の農家で飼われていた農耕馬も、供出させられるようになった。
 ときは、昭和二十年(一九四五)四月、この中山出張所に、「本土決戦に備えて十万リットルのガス壊疽(えそ)のための血清を製造せよ」という命令が下った。
 「ガス壊疽(えそ)」とは、傷口にばい菌が付着して、筋肉が腐り、ガスを発生し、悪臭を放って、死に至る恐ろしい病気で、本土決戦ともなれば、多数の負傷者が出る可能性があるため、治療用の血清が、多量に必要とされたのだ。
 十万リットルの血清を作るために、中山出張所には、五百頭もの馬が集められ、馬にガス壊疽菌を注射して抗体を作らせ、体中の血を抜き取って血清を製造する「全採血」作業が施された。
 その作業に当たったのは、授業も停止され、お国のために働くことを命じられた勤労動員の私立市川中学校(現在の市川学園)や船橋中学校(現在の船橋高校)、船橋高等女学校(現在の東葉高校)の生徒たちだった。
 当時、市川中学二年生だった根岸泉さんは、「血を抜かれた馬たち」の中で、次のように記している。
 「中学二年生の私たちの作業は、「全採血」に指定された馬の四本脚にロープを巻き、一斉にロープをひっぱって馬を横倒しにする。胴体に藁(わら)むしろをのせて文字どおり「馬乗り」になって押さえ込む。白衣を着た獣医が馬の首筋の動脈をメスで切り、ゴム管を入れる。直径一〇センチ、高さ三〇センチほどの円筒形ガラスビンに鮮血がうなりをたててほとばしる。血液がガラスビン約二十五、六本にそそがれ、私たちはそれをリレーして控室に運ぶ。馬は脂汗を流し、眼は空を見つめ、最後にかすかないななきを残して絶命する」。
 現在では語られることのなくなった、この実際にあった少年と馬たちの「とんでもない歴史」を元に、市川在住の吉原廣さんが作・演出を手がけ、〈いちかわ市民ミュージカル〉「夏の光〜空に消えた馬へ」が、九月二日(土)、三日(日)に、文化会館で上演される。
 総勢三百名以上の市民手作りのミュージカルは、今、熱のこもった練習の真っ最中。「三世代市民の文化交流と地域のつながりを求めて」をテーマに、子どもからお年寄りまで感動できる舞台を目指して取り組んでいる。
 市川にかつてあった“歴史”から生れた舞台作品を共有しながら、これからの時代を考えていく営みが、深められていくことを期待したい。
(2006年8月4日)

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■§水木洋子と葛飾八幡宮の捨て犬§■
市川民話の会会員・根岸英之


  「ひめゆりの塔」「裸の大将」などの脚本で知られる水木洋子さんは、八月二十五日が誕生日。一九一〇(明治四十三)年生まれの戌(いぬ)年で、今年は年女。本人も大の犬好きであった。
 葛飾八幡宮近くの八幡五丁目に移り住んだのは、一九四七(昭和二十二)年からで、しばらくして、梨を売りに来る農家から、スコッチの雑種を貰い受けて飼っていたという。
 一九五七(昭和三十二)年、週刊誌の告知板に日本犬が欲しいと書いたところ、多くの応募があり、秋田、北海道、紀州の日本犬をもらった。今までいた二頭と合わせて、多いときは六頭の犬を、同時に飼っていた時期もあった。
 そんな水木さんには、犬にまつわる随筆も多いが、「買物籠」と題する執筆年も掲載誌も未詳のエッセイがある。これは、水木洋子市民サポーターの会の皆さんが、自筆原稿の資料整理を進めるなかで、見つけ出されたもの。
 どことは明示されていないが、おそらく自宅近くの葛飾八幡宮を舞台としていると読める内容である。
昭和36年ごろの水木邸と愛犬・熊太郎(文学プラザ提供)

 〈御用聞きは、こちらの用事が中断されるので、なるべく気のむいた時に、籠をさげて出かけることにしている。といっても寸暇をつくっての買物だが、あわただしい交通網に、歩く場所が次第にせばめられ、この頃は神社の境内の中が駐車場化したり、それらが整理された後も、鳥居から社殿への参道のコンクリが自動車道路になって、人間は、参道の外へ、いちいち避難しないと、神様の前で轢(ひ)き殺されてしまうような有様である〉 水木さんの随筆は、いつもぴりっと辛口である。
 〈そんな風景の中で、私は或る日、鳥居のそばで犬の子が三匹うろうろしているのを見た。まだ目が見えない生後僅(わず)かの赤ンぼたちだが、明らかに捨てられたらしく、離れた所に大きいボール箱があり、中に布が丁寧に敷いてあった〉
 水木さんは、家には大型犬がいるので、連れて帰ることもできず、しばらくえさを与えに通いつづける。
 〈私は、それから用事があって、食事の心配も薄れたまま二日ほど行かなかった。しかし、祭が近づく頃は、テキヤの地割りが始まるのと、天幕張りの茶店などが立ち始めるので、心騒いだ。
 そして三日目、幾ら探しても、戸板の屋根も、ビニールの花柄も、私の運んだ水呑(の)みの器も、すべて、あとかたもなく消えて、母犬も、残った一匹の仔犬も、もういなかった。
 私は呆然と立ち、そこに、いちはやく出来た天幕の射的場で、店番をしている少女にたずねた〉
 この祭とは、おそらく九月十五日から二十日にかけて行なわれる葛飾八幡宮の農具市(通称ボロ市)のことであろう。しかし、店番の少女に、犬の行方など判ろうはずはなく、「犬がどこへ行くと告げて出て行くわけもないじゃないか」という妙な顔で、そっけなく答えるだけだった。
 〈私は今でも、その場所を通ると、誰か知ってて、教えてくれないかな、と思うのである〉
 エッセイは、このような一文で締めくくられている。犬好きの水木さんが、その後も、境内を通るたびに気に病んでいた姿がしのばれる。
 「キクとイサム」の主人公役を務めた女優の高橋エミさんによれば、水木さんは、神社の境内を通るときは、八幡会館のわきの弁天さま(厳島神社)を、芸能の神さまということで、お参りしていたという。
 水木邸は、「回遊展in八幡」が九月十七日(日)、十八日(月祝)に開催されるのに合わせて、十六日〜十八日までの三日間公開される。
 土曜の午後は、水木邸の電蓄で古典落語のレコードを聞く会が催される。夜は、葛飾八幡宮神楽殿で芸能の奉納が行われる。回遊展のイベントも、市民会館ほかで、さまざまな企画が予定されている。  犬を愛した水木さんの足取りを辿りながら、葛飾八幡宮を訪れてみるのもいいだろう。
(2006年9月1日)

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■§弘法寺の水原秋櫻子句碑建立§■
市川民話の会会員・根岸英之


  十月の真間山弘法寺周辺は、八日の手児奈まつり、九日の新作薪(たきぎ)能と、風趣な催しが目白押し。
 そんな弘法寺には、小林一茶、富安風生(とみやすふうせい)の句碑とともに、昭和の俳人水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)〔一八九二〜一九八一〕の句碑が、急な石段を登った仁王門の左手に建っている。
 〈梨咲くと葛飾の野はとのぐもり〉
 この句は、秋櫻子が、昭和二(一九二七)年に詠んだ句であるが、神田生まれの秋櫻子は、小中高生時代に、遠足で市川を訪れており、明治から大正期の風景を脳裏に抱きながら詠んだものである。
 そのことを、『自選自解 水原秋櫻子句集』(一九六八)に、次のように記している。
句碑除幕式での秋櫻子(1952年10月26日)=野村研三氏提供
 
* *
 〈「梨咲くと」は、「梨の咲く頃となったので」というほどの意味。また「との曇り」は、「おおらかにぼうっと曇っている」ことである。
 私は、小学校時代、中学校時代、高等学校時代を通じて、何回か葛飾へ行っているので、その頃の美しい景が頭の中にこびりついている。後年、俳句を詠むようになってからの葛飾は殆(ほとん)ど変貌(へんぼう)して、美しさを失っていたが、私は昔の美しさを忘れることが出来ず、現在の景の上に、思い出の美しさを重ねて詠んだ。そんなわけで、私の作る句は、写生に同行した友達から不思議がられた。
 この句は、真間山弘法寺の境内から、南の方をながめて詠んだ句で、いま寺の境内に立つ句碑に刻まれている。梨棚は現在まだ少し残っているが、位置が東の方に移って、真間山からは見られない。だが、私が石段の上に立つと、今でも一面に白く、花ざかりの梨棚が見えるような気がする。そうして空は、どこか明るく、おおらかに曇っているのである。〉     
*   *
 真間山から梨畑が見られたとは、今からは想像もできないが、俳句の中に、かつての市川の景観が活写されて、貴重な記録となっていることが分かる。
 秋櫻子は、高浜虚子(たかはまきょし)の元で俳句を学んだが、やがて、虚子の唱える「客観写生」に飽き足らず、「梨咲くと」の句のように、目の前の実景だけを詠むのではない、新しい俳句を主張した。
 「梨咲くと」の句は、昭和五(一九三〇)年刊行の処女句集『葛飾』に収められ、『葛飾』は当時の句集としては珍しく、増刷されるほど評判になった。
 昭和六年十月には、俳誌「馬酔木(あしび)」に「〈自然の真〉と〈文芸上の真〉」という論文を発表し、虚子俳句からの訣別(けつべつ)を宣言した。
 いわば、“葛飾真間”は、秋櫻子によって、昭和俳句の出発の地となったといってもよい。
 秋櫻子は、昭和九(一九三四)年に「馬酔木」の主宰となり、「馬酔木」は昭和二十六(一九五一)年に創刊三十周年を迎える。翌昭和二十七年十月は、秋櫻子の還暦のときでもある。
 このため、祝賀行事として、句碑建立が計画され、秋櫻子俳句の発祥地と目される「葛飾」が候補地となり、碑文は昭和俳句の門を開いたとされる句集『葛飾』から、選ばれることになった。
 そして、当時市川学園で教鞭をとっていた能村登四郎(のむらとしろう)、林翔(はやししょう)らの尽力で、弘法寺に、「梨咲くと」の句碑が建立されることになったのである。
 こうして、昭和二十七年十月二十六日、弘法寺に、秋櫻子を迎え、秋櫻子の第一号の句碑として、除幕式が行なわれた。
 林翔「除幕式の記」(『馬酔木』昭和二十七年十二月号)には、〈朝のうちの強風もすっかり凪(な)いで、珠のような秋日和〉だったとある。
 現在、市川市文学プラザ(生涯学習センター三階)で開催中の企画展「昭和の俳人 水原秋櫻子と富安風生が詠んだ葛飾」では、昔の真間の風景写真とともに、秋櫻子の魅力が紹介されている。
(2006年10月13日)

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■§一茶も一葉も見た弘法寺の紅葉§■
市川民話の会会員・根岸英之


  真間山弘法寺といえば、富安風生(とみやすふうせい)の「まさをなる空よりしだれさくらかな」の句碑にもあるように、今はしだれ桜の名所として知られているが、江戸時代は、紅葉の名所として有名だった。
 江戸時代の俳諧(はいかい)師・小林一茶(いっさ)も、真間の紅葉を見た一人。小林一茶は、市川周辺にも知人が多く、真間以外にも、高谷・新井などを訪れている。
 一茶の句文集『我春集(わがはるしゅう)』(文化八年・一八一一)には、寛政十(一七九八)年に、今の松戸市馬橋(まばし)で油商を営んでいた大川(栢日庵・はくじつあん)立砂(りゅうさ)という、一茶の面倒を見た俳人とともに、真間を訪れ句を詠んだ様子が、次のように回想されている。
小林一茶句碑(真間山弘法寺)
 〈夕暮の頭巾(ずきん)へ拾ふ紅葉哉   立砂
 紅葉ゝ(ば)や爺(じじ)はへし折子はひろふ  一茶
 寛政十年十月十日ごろ、二人てこな・つぎ橋あたりを見巡りしときのこと也〉
 立砂の生年は定かではないが、一茶とは親子ほどの人物だったと見え、一茶の句で、立砂を老人に、自分を子に見立てて詠まれている。当時の一茶は三十六歳。
 旧暦の十月十日は、今年の新暦に当てはめると十一月三十日で、初冬の真間山の紅葉を堪能したことになる。
 翌寛政十一年十一月二日に、立砂は亡くなってしまう。
 それから、十数年ほど経た文化八年十一月二日のこと。一茶は、偶然にも立砂の十三回忌の法要に立ち会うことができ、先に引いた『我春集』の回想文が書かれたのである。
 一茶はこのとき、十三回忌に因んで、墓前への手向けに十三句を詠んでいる。その内の一つが
 〈真間寺(でら)で斯(こ)う拾ひしよ散紅葉(ちりもみじ)〉
の句で、今、弘法寺の仁王門の前に句碑が建っている。「かつて真間寺で、立砂さんとこんな風にして、散り紅葉を一緒に拾ったものだなあ」と、二人で体験した真間山の紅葉狩りの光景を追憶している句であろう。
 また、十三句の中の一つに
 〈冬木立むかしむかしの音す也〉 の句もあり、こちらは八幡の葛飾八幡宮境内に句碑として建てられている。
 一茶の時代から、百年ほど下った明治二十九(一八九六)年のこと。森?外(おうがい)や幸田露伴(ろはん)らとともに活躍した明治の文人斎藤緑雨(りょくう)という人が、借金取りから逃れるために、市川に仮寓していた。
 緑雨は、樋口一葉(ひぐちいちよう)と親しく、その年の秋(日付ははっきりしない)、次のような手紙を一葉に送っている。
 〈これは残(のこり)少(すくな)き真間のもみぢに候(そうろう) 処(ところ)の名とは申(もうし)ながら羨(うらや)ましく候〉
 借金取りに追われ、飯も満足に取ることの出来ない身の上には、「飯」の俗語「まま」に通ずる「真間」という地名は、なんとうらやましいことよ、と自分の境涯を嘆きながら、真間山の紅葉を手紙に添えたのである。
 一葉はすでに肺結核を患い、この年の十一月二十三日に亡くなっている。死の直前に、一葉が真間山の紅葉を目にしていたことを想像すると、また感慨深いものがある。
 一葉忌の一日前に当たる十一月二十二日、市川市生涯学習センター二階グリーンスタジオでは、樋口一葉原作・水木洋子脚本の映画「にごりえ」の上映会がある。「にごりえ」「大つごもり」「十三夜」からなるオムニバス映画で、十三夜は、今年の暦でいうと、十一月三日に当たる。
 何かとゆかりのある月回りであると、思わずにはいられない。
(2006年11月3日)

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■§水木洋子の描く「雪女」§■
市川民話の会会員・根岸英之


  年の瀬も押し詰まった師走に、“怪談”を持ち出すと、季節外れのようにも思われるが、今回は、水木洋子脚本の映画「怪談」を紹介したい。
 映画「怪談」は、昭和三十九(一九六四)年十二月二十九日に封切られ、お正月映画として、人気を博した。この年度のキネマ旬報ベストテンの第二位に選ばれている。
 監督は小林正樹、音楽・音響は武満徹。俳優陣も、三国連太郎、岸恵子ほか、そうそうたる面々が名を連ねる。
 原作は、帰化して小泉八雲(やくも)を名乗ったギリシア生まれのラフカディオ・ハーン。彼の作品の中から、「耳無し芳一の話」や「雪女」などの四話を、水木が選んで脚色したオムニバス映画である。
 水木は、〈「怪談」のシナリオ〉(スカラ座上映プログラム)という文章の中で、次のように記している。
 〈小泉八雲の作品集は、何回か企画されたが映画化困難という理由で実現しなかった。
「怪談」執筆中の水木洋子(水木邸書斎・現次の間)
 (略)民話、伝説をもとにしたそれぞれの話は、昔からさまざまなパロディとして日本人の間には耳新しいものではない。しかも惨酷ムードが日常化している今日、単に怪談としての凄さや、迫力は、もはや薄れていると言ってよいであろう。
 私はこの民話、伝説の「怪談」という素材の中から現代人に訴えるテーマを発見し、設定したいと思った。〉
 ここでは季節がら、多くの人が知っている「雪女」を見ていこう。水木は先の文章に続けて、「雪女」について、こう記している。
 〈雪女と知らず愛を誓って夫婦になるが、彼女との約束を破って、雪の夜に殺された茂作の話を口走ったため、彼女は約束どおりお前を殺すと叫ぶ。だが愛児のために悲痛な声を残して雪の空に消える。
 この自然を表象する雪と、人間との愛憎を主軸に、自然を愛してそのふところに抱かれる人間の幸福を、自然の掟を破った時の生への復讐をここに表象化し、美しい詩情を感覚的に描きたい。〉
 小泉八雲の「雪女」は、一九〇四(明治三十七)年に英語で出版された『怪談』に掲載されている。原序によると、この話は八雲の家に出入りしていた「西多摩郡調布村の一農夫が、その土地の口碑として、わたくしに話して聞かせてくれた」ものだという。
 雪女の話は、豪雪地域を中心に、日本各地に伝承されているが、八雲の記録は、実際に民間に伝わる話として記録された、早い時期の話といえよう。しかも、単にあらすじが記されているだけでなく、文芸作品としても、非常に美しく仕上げられている。
 水木の描く「雪女」は、八雲の幻想的な作品に比べて、愛する男に裏切られた怨念や、子どもへの未練を引きずる情念といった、より生身の女性の思いが、浮き彫りにされた脚本と評価されている。
 八雲の『怪談』からやや下った一九一〇(明治四十三)年に出版された、柳田國男の『遠野(とおの)物語』には、岩手県遠野地方に伝わる、こんな〈雪女〉が記録されている。
 〈小正月の夜又は小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいふ。童子をあまた引き連れてくるといへり。(略)十五日の夜に限り、雪女が出てくるから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりといふ者は少なし。〉
 このように、民俗世界の雪女は、単に恐ろしい雪の妖怪という性格だけでなく、母神的な側面や歳神(としがみ)的な要素も含んでいる。
 夫の巳之吉が、口止めされていた禁を破って、雪女を見た出来事を語ってしまい、二人が別れる場面は、八雲の原作には「ある晩」とだけしか書かれていないが、水木の脚本では、正月の晴れ着や草履の支度をする、年の瀬の晩となっている。
 映画の封切りが年末ということもあったかどうかは分からないが、水木の〈雪女〉は、図らずも、民俗世界のそれをほうふつさせる存在となっていると、見ることもできる。  十二月十六日には、水木洋子邸で「耳で味わう小泉八雲の〈怪談〉」と題して、「雪女」の読み語りの会が催される。
(2006年12月1日)

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■§永井荷風の正月§■市川民話の会会員・根岸英之


  折りに触れ、市川の文豪・永井荷風さんに登場願っているが、今回は、荷風が過ごした、市川での正月の様子を見ていこう。
永井荷風は、東京麻布の偏奇館(へんきかん)を東京大空襲で焼け出され、明石、岡山と転々とする。
昭和二十(一九四五)年九月から、いとこの杵屋五叟(きねやごそう・大島一雄)一家とともに熱海で過ごし、市川に移り住んだのは、昭和二十一(一九四五)年一月十六日のことであった。
その日記『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』によると、荷風の市川初の正月は、哀れな一夜で始まった。
〈晴、早朝荷物をトラックに積む、五叟の妻長男娘これに乗り朝十一時過ぎ熱海を去る、余は五叟その次男及び田中老人等と一時四十分熱海発臨時列車に乗る、乗客雑沓(ざっとう)せず、夕方六時市川の駅に着す、日既に暮る、歩みて菅野二五八番地の借家に至る、トラックの来るを待てども来らず、八時過ぎに及び五叟の細君来りトラック遂(つい)に進行しがたくなりたれば、目黒の車庫に至り、運転手明朝車を修繕して後来るべしと語る、夜具も米もなければ、にわかにこれを隣家の人に借り、哀れなる一夜を明したり〉 (『荷風全集第二十五巻』岩波書店より分かりやすく引用)
荷風が市川で最初に暮らした家は、菅野の日出学園から国府台女子学院方面に寄った場所であるが、五叟の次男で、戦前に荷風の養子となり、現在、荷風終焉の地で、貴重な遺品を守っておられる永井永光(ひさみつ)さんは、その著『父荷風』(白水社)で、次のように回想している。
『永井荷風ひとり暮らしの贅沢』(新潮社)
〈あの時代、引っ越しはたいへんでした。トラックの手配一つとってもすぐ右から左へというわけにはいきません。燃料は貴重品ですし、道路事情も悪い。運転手はいろいろとちょろまかします。トラック一台の家財道具といえば、絶好もカモでした。
(略)この家は大正十五年、平田華蔵(けぞう)さんによって創設された国府台高等女子学校(現・国府台女子学院)の教員用住宅の一軒でした。私たちが借りたのは、華蔵さんの息子で教頭だった平田博さんが住んでいた家で、東側の奥は校長さんの長女ご夫妻が、隣には後に教頭になった川田さん夫妻が住んでいました。
(略)兄の音楽学校の同級生が平田博さんの妹さんで、その縁で借りることになったのです。〉
 翌二十二年は亥年であるが、荷風は、五叟との同居がうまく行かず、近くに住むフランス文学者・小西茂也家で、正月を過ごすことになる。
 その年の日記は、〈昭和丁亥歳正月起筆〉と始まり、〈一月初一 陰(くもりの意味)早朝腹痛下痢二行、午前正岡容(いるる)氏来話。午後小西氏の邸に至る。夜去年の日記を閲読す。窓外雨声あり〉と記されている。正岡容とは、真間に住んでいた文芸評論家のこと。
 昭和二十三年は、荷風が数えで七十歳を迎える年で、〈一月元日。晴。来訪者なし。終日家に在り。〉とした上で、次のような短歌をしたためている。
 〈七十になりしあしたのさびしさを誰にや告げむ松風のこゑ〉
 しかし、小西家とも折り合いが悪くなり、昭和二十四年の正月は、前年の暮れに越した菅野の独居で迎えることになる。
 こんな風に見ていくと、荷風の晩年は、どちらかというと、さびしく哀れなもの、という印象を与えるが、昨年出された永井永光・水野恵美子・坂本真典『永井荷風ひとり暮らしの贅沢』(新潮社)では、ひとり暮らしを楽しんでいた荷風の姿が、豊富な写真とともに紹介されている。
 年の初めは、新しい荷風像を思い描きながら、過ごしたいものである。
(2006年12月28日)

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■§初午にお稲荷さんと狐の話§■市川民話の会会員・根岸英之


  二月最初の午(うま)の日は、初午(はつうま)といって、お稲荷(いなり)さんの祭礼が行われる。これは、京都の伏見稲荷の祭神が、和銅四(七一一)年二月初午の日に鎮座したからだとされる。今年は、五日がこれに当たる。
 市内にも、真間、稲荷木、下新宿、押切など、集落で祭っている稲荷神社のほか、屋敷神としても、多く祀られている。
 劇作家で小説家としても著名な井上ひさしさんは、一九六七(昭和四十二)年から市川市国分の国分寺のそばに住み始め、一九七五(昭和五十)年には北国分へ転居するが、そのころ書かれた「鴻ノ台(こうのだい)だより1」というエッセイには、お稲荷さんにまつわるこんな話が書かれている。
 〈近所に小さな稲荷があります。唐傘(からかさ)と絵日傘がぶら下げてあるので不思議に思っておりましたところ、古老(としより)の曰(いわ)く、
初午の油揚げが供えられた八幡の旧家のお稲荷さん
「……むかし、この稲荷さんへ洗濯屋が、どうかここ一週間ばかりは晴天の続くようにと祈願をかけた。天水場(てんすいば)の百姓からは、どうか一日も早く湿(うるお)いのあるようにと雨乞(あまごい)を祈った。如何(いか)な稲荷大明神もこれには閉口。一方の願(ねがい)を叶(かな)えてやれば一方は困るといって双方満足するようなことは到底できず如何にせんと、一夜(いちや)、眷族(けんぞく)どもを集めて相談せられたが、一匹の白狐(びゃっこ)が、私は左程六ケ敷(さほどむつかしい)こととは思いませぬ。丁度私には年頃の娘が一人居(お)ります。それを嫁入りさせば、双方の祈願を叶えさせましょうと思います。と申せば稲荷さんは小首を傾け、其方(そのほう)の娘を嫁入りさせて双方の祈願を叶えさせるとはどういう訳か、と問反(といかえ)すれば、白狐はハイ狐(きつね)が嫁入りすれば日が照って雨が降るです、といったそうだ」
 とまあこんな昔話を聞いてまわって居(お)る毎日で呑気(のんき)なものであります。〉
 (初出は『面白半分』一九七五年七月号。『聖母の道化師』所収)
 このお稲荷さんは、一体どこのお稲荷さんだろうか。もとより、戯作者(げさくしゃ)の流れを自任する井上さんのこと、ほんとにこんな話が、国分に伝わっていたものか、井上さんの創作なのかは保証の限りではない。
 しかし、市川の民話の一つにでも、登録してみたくなる話である。どなたか心当たりの方があれば、「この話のお稲荷さんは、どこそこのお稲荷さんではないか」と、情報を寄せていただけるとありがたい。
 市川の民話には、稲荷のお使いとされる、狐の話も多く伝わる。
 高谷から中山へ向かう途中の、今でいえば鬼高の辺りに出たという〈おしょろぎつね〉も、そんなきつねのひとり(一匹?)。
 高谷に住む清兵衛(せいべえ)さんは、春の彼岸に、中山の法華経寺へ彼岸参りに行くことにした。おかみさんに作ってもらったぼた餅(もち)を重箱に詰めて、中山へ向かう途中、日傘を差したきれいな女の人と一緒になった。女の人は、「重箱が重そうだから持ってあげましょう」というので、重箱を持ってもらう。
 法華経寺に近づくと、参詣の人込みに紛れて、女の人の姿が見えなくなってしまう。それは、ぼた餅欲しさに女に化けた〈おしょろぎつね〉だった――という話である。
 二月三日に、中山旧片桐邸で、子どもたちが市川の民話を語る「いちかわかたりべ体験教室発表会」が開かれ、すがの会による紙芝居「おしょろぎつね」が演じられる。
 また、二月二十五日からは、市川市文化会館で、「市川の文化人展 井上ひさし展」が開催され、井上作品の魅力が紹介される。
 お宅のお稲荷さんには、話になるような霊験がおありだろうか。
(2007年2月2日)

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■§水木洋子「もず」の復活上演§■市川民話の会会員・根岸英之


  十一日まで、市川市文化会館で開催中の「市川の文化人展 井上ひさし展」(十五日からは市川市芳澤ガーデンギャラリー)に、脚本家・水木洋子が、一九八二年(昭和五十七)ころに書いたと見られる小さなメモが、展示されている。
 そこには、次の七人の脚本家の名前が列挙され、下に「将来性」と添え書きしてある。 ○山田太一
 ○早坂 暁
 ○倉本 聰
 ○橋田須賀子
 ○矢代静一
 ○つかこうへい
 ○井上ひさし
 井上ひさし展では、やはり一九八〇年前後に水木洋子が買い求めたと思われる井上ひさしさんの文庫本二冊も展示されており、晩年の水木が、井上さんに関心を示していたことがうかがえて興味ぶかい。
 水木洋子の仕事は、映画の脚本が中心ではあったが、舞台作品も、いくつも手がけている。
 杉村春子を主演に、文学座で一九七九年(昭和五十四)に上演された「もず」もその一つ。
 舞台「もず」は、水木洋子のオリジナルの作品で、最初は一九六〇年(昭和三十五)にテレビドラマとして書き下ろされ、翌一九六一年に映画化されて話題作となった。
 そのオリジナル作品が、市川の市民劇団「七福神」によって、三月十七日(土)、十八日(日)に、市川市文化会館で復活上演される。
「もず」ちらしより
 「七福神」は、いちかわ市民ミュージカルをきっかけに二〇〇五年(平成十六)に誕生した劇団で、旗揚げ公演は、井上ひさし「イーハトーボの劇列車」だった。
 今回の「もず」の公演チラシには、こんなうたい文句が掲げられている。
 〈母は敵か!? 娘は競争相手か!? 「女の自立」を模索した水木洋子の世界が、いま市川によみがえる! 渾身のオリジナル戯曲を、市民の手で再生、復活上演! 乞う、ご期待!〉 
 「もず」は、一九五九年(昭和三十四)四月、新橋ガード下の小料理屋で働くすが子のもとに、夫の死後離れ離れに暮らしていた娘さち子が訪れて来るところから始まる。二十五年ぶりの再会だが、戦中戦後の混乱期を女ひとりで生きてきたすが子と、美容師として自立しようと上京したさち子は、なぜか会話が進まず、いたわり合うはずの会話は、いがみ合いになってしまう。そんな母娘の愛憎模様を、女性ならではの手法で鮮やかに描いた作品である。
 テレビドラマと映画の「もず」の時代設定は、昭和三十年代だったが、文学座の舞台「もず」では、昭和五十年代の時代設定に書き改められている。
 七福神の演出を手がける吉原廣(ひろし)さんは、〈「もず」の真骨頂が発揮されるのは、やはり昭和三十四年代に戻すことで、すが子に象徴される古い女の死を経て、さち子の時代へと変化していく、その時代の躍動を表現していきたい。
 昭和三十年代ころまでは、親子や友人同士で、飾り気はないけれど、正直なうそ偽りのないことばをぶつけ合っていた人間関係があった。そんなひと昔前の日本で見られた人間関係が、このドラマでは感じることができる。どこか懐かしさを感じさせる庶民的な人間のつながりを、水木さんのセリフに感じ取ってもらえたらうれしい。〉と見どころを語る。
 この作品には、市川こそ描かれていないが、さち子の職場は、江戸川区の小さな美容室の設定。
 映画「もず」では、小岩辺りと思われる場所でのロケや、母すが子がレジャーに赴く「百円銭湯」は、かつて船橋市にあった船橋ヘルスセンターがロケ地に使われるなど、水木が市川に住んでいたことで選ばれたような場面設定が見られる。
 映画「もず」は、四月二十八日に、映画で母すが子を演じた女優・淡島千景(あわしまちかげ)さんのトークと合わせて、市民会館での上映会が予定されている。演劇と映画の両方の「もず」を堪能できる、またとない機会である。
(2007年3月9日)

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■§荷風を世話した擬似家族―「荷風忌」に§■
市川民話の会会員・根岸英之


  永井荷風の命日は、昭和三十四(一九五九)年四月三十日未明である。
 前日の昼、毎日のように通った京成八幡駅前の大黒家で、これまた定番のカツ丼と酒(菊正宗)一本を取ったのが、最後の外出となった。胃潰瘍(かいよう)による吐血(とけつ)で心臓発作を起こし、畳の上にうつ伏せで亡くなっていたのを、三十日の朝、通いの手伝い婦、福田とよさんにより発見されたのである。
 死の前日まで書き続けた日記「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」の最後には、次のような記述が並ぶ。
 〈四月二日。晴。市川郵便局にて文化賞四十五万円受取。大黒屋昼食。(略)
 四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼飯。(略)
 四月廿七日。陰。また雨。小林来る。
 四月廿八日。晴。小林来る。
 四月廿九日。祭日。陰。〉
 荷風は「大黒家」を「大黒屋」と書いている。
 ここにしばしば登場する「小林」というのは、荷風が市川で二番目に暮らした菅野のフランス文学者小西茂也宅近くの家作に、福田とよさんと一緒に住んでいた小林修氏という人物である。
市川市民映像制作クループによるビデオ「荷風のいた街」

 福田とよさん(明治十七年頃生まれ)は、戦前から小西家をはじめ何軒かの屋敷で、お手伝いの仕事をしていたという。戦前に両国で知り合った小林庄一(大正三年生まれ)という人と、養子にする約束をしたらしく、いつからは不明ながら、二人で菅野の家作に住み始めた。
 小林庄一氏は、とよさんと菅野に移り住む前に、押上の床屋に間借りしていた。その床屋の息子が小林修氏(大正八年生まれ)で、本名は吉田だが、庄一氏を兄さんと慕い、戦後間もなく、菅野の庄一氏のところに身を寄せ、小林を名乗るようになったという。
 荷風が小西家との同居がうまく行かなくなり、菅野に一人住まいの家を世話したのが、この三人だった。「断腸亭日乗」昭和二十三年十二月の条に、このように記されている。
 〈十二月十三日。快晴。温暖春の如し。午下(ごか)小林氏と共に八幡の登記所に至り売主代理人と会見し家屋の登記をなす。小林氏といふは和洋衣類の買売をなすもの。余とは深き交(まじわり)あるに非らず、今春余は唯(ただ)二三着洋服を買ひしことあるのみ。然るに余が年末に至り突然家主より追立てられ途法(とほう)に暮れ居るを見て気の毒に思ひ其老母と共に周旋(しゅうせん)すること頗(すこぶる)親切なり。今の世にも親切かくの如き人あるは意想外といふべし。小林氏の老母は猶(なお)心あたりをさがして女中になるべきものを求めて後引越の世話をすべしと言ふ。万事を頼み家に帰り疲労を休めて後燈刻浅草に行きて夕餉(ゆうげ)を喫(きっ)す。〉
 小林氏と並びの家作に住んでいた山中正一さん(昭和十一年生まれ)によれは、名前が「ショウイチ」同士ということで付き合いを持った庄一氏は、温厚寡黙などちらかというと真面目すぎる教師のような感じで、話し方も穏やかで不動産関係の仕事をしていたという。それに対して修氏は、社交の活発な踊りの師匠さんで、歌舞伎の女形のような、今でいえば丸山(美輪)明宏のような人だったという。
 山中さんは、「断腸亭日乗」にただ「小林」とあるのは、一般には修氏のこと一人を指すように思われているが、実際は修氏も庄一氏も、荷風の元へ通っていたのではないかと想像されている。
 戦後の混乱期とはいえ、既存の「家族」制度に縛られない、ドメスティックパートーナー実践者たちが、荷風と親身な付き合いをしていた事実は、荷風文学や生き方を読み解く上で、案外重要なことのようにも思われる。
 四月三十日は、南千住の浄閑(じょうかん)寺で、毎年「荷風忌」の法要と講演が行なわれるが、五月六日には、市川でも「第一回市川荷風忌」として、市川市民映像制作グループが三月に完成させたビデオ「荷風のいた街」と、二〇〇四年に市川市芸術文化団体協議会によって上演された「荷風幻像」舞台公演ビデオの上映会が、映像文化センターで予定されている。
(2007年4月13日)

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■§宗左近の『炎える母』―五月空襲のなかで§■
市川民話の会会員・根岸英之


  詩人で評論や翻訳も手がけた宗左近(そうさこん)さんは、大正十一(一九一九)年五月一日に今の北九州市に生まれた。
 昭和五十三(一九七八)年から、江戸川越しに富士山を望むことのできる市川南のマンションに住まい、「縄文」に思いを馳(は)せた宇宙的な広がりのある創作活動をなさってきた。
 その宗左近さんは、昭和四十二(一九六七)年に『長篇詩 炎(も)える母』を刊行、翌年「歴程(れきてい)賞」を受賞し、評価を固めた。この「炎える母」は、昭和二十(一九四五)年五月二十五日の夜から始まったアメリカ軍による東京空襲で、母を亡くした体験に基づいてつづられている。
 〈母よ/あなたにこの一巻を
 これは/あなたが炎となって/二十二年の
 炎えやすい紙でつくった/あなたの墓です
 そして/わたしの墓です〉
 (「献辞」より)
 当時、原宿に下宿していた宗さんのもとに、福島に疎開していた母が、たまたま上京してくる。折り悪しく、五月二十三日の空襲で原宿の家は焼け、四谷の寺へ避難するものの、二十五日の夜、またしても焼夷(しょうい)弾が、宗さんと母の上に降り注ぐのである。
宗左近「炎える母」(1968年普及版・弥生書房)

 〈シャラシャラシャラシャラシャラシャラシャラ
 鳴りやまぬその金属音に嘲笑けられていると気付いたとき
 いつのまにか母の正面にむいていたわたしは母の頭の
 黒い防空頭巾【ずきん】にもう一つの花が炎える花びらを散らしているのを見た〉
 (「金箔の仏壇」より)
 しかし、寺の墓地も火の海に包まれ、そこから逃れようと、両脇に火の家が燃え盛る炎の一本道を進む中で、母の手は離れ、母を炎の中に置き去りにしなければならなくなってしまう。
 〈一本道の炎の上
 母よ
 あなたは/つっぷして倒れている
 夏蜜柑【みかん】のような顔を
 炎えている
 枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
 炎えている
 もはや/炎えている〉
 (「走っている」より)
 宗さんは、母を見殺しにしてしまったという思いを長い間かかえ、二十二年の歳月を経て、やっとそれを「詩」という形にすることができたのであった。
 〈燃えさかる炎のただなかにたしかにわたしは
 母をおきざりにして逃げてきました
 引き返し抱きおこすこともできたはずなのに
 一目散に走りに走ってふりむきませんでした
 見殺しにしたのではないそれ以上です
 むしろ積極的に母を殺した
 その思いを深めるためだけの以降二十二年〉(「愛しているというあなたに」より)
 宗さんは、「炎える母」を書くことで、沈黙する母から書く力を与えられ、やがて戦死した学友や、歴史の底で沈黙する「縄文」の世界に思いを馳せるようになる。
 市川に移り住んでからは、「市川市民文化賞」の設立に関わり、市川讃歌「透明の蕊(しん)の蕊(しん)」や市川西高等学校の校歌「空はなんのために青いのか」を作詞するなど、市川市民にも親しまれる活動を展開された。
 しかし、平成十八(二〇〇六)年六月二十日未明、帰らぬ人となった。享年八十七歳。
 間もなく一周忌。六月十日には宗さんをしのぶ会が市川市市民会館で計画されている。同時期に芳澤ガーデンギャラリーと文学プラザでも、宗さんの集めた美術品の展示や、宗さんの生涯と作品世界を紹介する企画展が、予定されている。
(2007年5月18日)

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■§北原白秋の短い「かつしかの夏」§■
市川民話の会会員・根岸英之


  詩集『邪宗門(じゃしゅうもん)』(明治四十二年)、『思ひ出』(明治四十四年)、歌集『桐(きり)の花』(大正二年)で、詩人としても歌人としても世に認められた北原白秋(きたはらはくしゅう)は、人妻との恋愛事件を起こし、神奈川県三崎、小笠原父島などを転々とし、心に深い痛手を負う。
 そんな中、江口章子(あやこ)と知り合い、二人は結婚。その新婚生活を送ったのが、市川市真間の亀井院(かめいいん)であった。ときに白秋三十一歳、章子二十八歳。
 このときの生活から生まれた短歌をまとめた「葛飾閑吟(かつしかかんぎん)集」の「序に代えて(真間の閑居(かんきょ)の記)」(歌集『雀の卵』大正十年所収)には、こう記される。
白秋歌碑(亀井院)

 〈大正五年五月中浣(ちゅうかん)、妻とともに葛飾は真間の手児奈廟堂(てこなびょうどう)の片ほとり、亀井坊というに、仮の宿(やどり)を求む。人生の命運定めがたく、因縁の数奇予(あらかじ)めまた測りがたし。(略)われ一人の女性を救い、茲(ここ)に妻となして、永恒(えいこう)の赤縄(えにし)を結ぶと雖(いえど)も、いささかも亦(また)浮きたる矜(ほこり)を思わず。〉
 格調高い文章であるが、友人への手紙の形で書かれた「葛飾小品」(大正五年十月)には、もう少し、生活実態のうかがわれる文章がつづられている。
 〈私達(私はこの五月に結婚したよ。妻は章(あや)子というのだ。)は恰度(ちょうど)その頃真間山の下の亀井坊という日蓮宗の庵(あん)寺に間借(まがり)していたものだ。その裏庭には一本の棗(なつめ)の花が咲いていてね、(略)そのつい左手に手児奈の昔汲(く)み馴(な)れた亀井というのがあった。私達はその冷たい水で顔を洗ったり、お飯(まんま)を炊(た)いたり、青い野菜を濯(すす)いだりしていた。〉
 この亀井院暮らしの様子を短歌に詠んだのが、「かつしかの夏」(『国粋』大正十年八月号とともに、「葛飾閑吟集」に抜粋の上収録)である(一部を紹介)。
 〈葛飾の真間の継橋(つぎはし)夏ちかし二人わたれりそのつぎ橋を
 葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺(べ)のうきぐさの花
 堪へがてぬ寂しさならず二人来て住めばすがしき夏たちにけり
 香ばしく寂しき夏やせかせかと早や山里は麦抜きの音
 雑木の風ややにしづもれば松風のこゑいやさらに澄みぬ真間の弘法寺(ぐほうじ)
 蛍飛ぶ真間の小川の夕闇に鰕(えび)すくふ子か水音(みのと)立つるは〉
 ところが、当時の真間周辺は、明治四十五年から着手された耕地整理の真っ最中。白秋は寺のせいにしているが、これは白秋の思い違い。
 〈坊主の耳には山の松風の声も聞えず、祖師堂の蔭に白い栗鼠(りす)が啼(な)いても心を澄ます風情もない。後(うしろ)の山は切り開く。手児奈廟の周囲の広い蓮花(れんげ)の沼は埋立てる。それかあらぬか、そこら一面真赤な原っぱにされて了(しま)って、チョボチョボと生えた草の中にはトロッコは走る、埃(ほこり)はあがる〉(「葛飾小品」より)
 こんな状況に耐えかねて、六月の終わりには市川を離れ、江戸川対岸の小岩に「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」を構えることになる。
 しかし、その「紫烟草舎」も、今は国府台の里見公園に移され、亀井院には、白秋の歌碑も建てられている。
 そして、耕地整理で切り開かれた場所に、今は建つ芳澤ガーデンギャラリーでは、父が白秋と同じ福岡県柳川出身ということもあり、白秋にも深い関心を持っていた詩人・宗左近さんの追悼展が開かれている。文学プラザでも、白秋と宗さんとのかかわりの分かる蔵書などが公開されている。
 たった一ヶ月半の市川暮らしとはいえ、白秋をしのぶよすがは、市川に確かに刻み込まれている。
 (前回の連載で、「原宿に下宿していた」とあるのは「四谷に下宿していた」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。)
(2007年6月8日)

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■§蛙の詩人草野心平と江戸川§■
市川民話の会会員・根岸英之


  梅雨時期を迎えたものの、あまり雨は多くなく、暑い毎日が続いている。市川の蛙たちも、鳴く時期を逸していることだろう。
 蛙の詩人として知られる草野心平(くさのしんぺい)(一九〇三‐一九八八)は、市川で使われている小学校四年生の国語の教科書にも載っている有名な詩人であるが、小学校の先生がたは、草野心平が、市川に住んでいたことを、子どもたちに伝えて下さっているだろうか。
 現在の福島県いわき市に生まれた草野は、中国の大学に留学したのち、詩人として活躍。昭和十(一九三五)年に同人詩誌「歴程」を創刊。昭和十三年に詩集『蛙』を出版。
草野心平『わが賢治』(宗左近宛署名人)=宗左近蔵書(市川市文学プラザ所蔵)

 草野は、東京を中心にかなり頻繁に転居を繰り返しているが、昭和十四年十一月、荒川区から市川市宮田(現・市川南)に移り住み、翌十五年七月に、南京政府宣伝部顧問として南京に渡るまでの八か月あまりを、江戸川に近い市川で過ごした。
 市川時代の草野は、帝都日日新聞社を退社し、東亜解放社で編集長として勤めるかたわら、借金の返済に追われながら、『宮沢賢治全集』の編集などに携わっていた。
 ある晩、酔っ払って、津田沼まで乗り過ごし、貨物列車に忍び込んで、本八幡駅まで戻ったところ、駅員に見つかり、警察に連れていかれたこともあったという。
 「そのころ、僕の磐城(いわき)中学校の同級生で吉田機司(よしだきじ)という親友が、市川で病院を持って医者をしていた。駅長も僕の作品を何か読んでいたらしいこともあり、吉田も病院長だから市川の顔役だったらしく、それで警察へもらい下げに来てくれて釈放されたよ。」
 (草野心平対談「「歴程」への道」『草野心平 凹凸の道 対談による自伝』より)
 吉田は、川柳作家としても知られ、草野が南京に渡るときは、「水虫で吉田機司に手術をしてもらい、まだ包帯がとけないため靴もはけず、半ズボン下駄ばきのまま、神戸から単身乗船」したともいう(長谷川渉編「年譜」『草野心平全集』第十二巻所収)。
 終戦後、中国から故郷のいわき市に帰郷。昭和二十三(一九四八)年、浦安市猫実で貸本屋をしていた友人が、郷里へ帰る間の店番を兼ねて、浦安へ単身上京。猫実と江戸川区妙見島で独居自炊生活を送った。この間、吉田が、毎週一回、肺浸潤の診察のために往診に訪れた。
 こうした生活は、昭和二十四年八月に、練馬区下石神井に転居し、家族と同居するまで続いた。
 昭和二十四年に発表された「時間」「江戸川」などの詩は、のちに詩集『天』(昭和二十六年)に収められたが、直接的には海に望む浦安辺りの江戸川下流の情景を歌っているものの、市川にいたころの印象も、投影されているかもしれない。
 「時間」
 その墨色の夜のなかへ。
 内海(うちうみ)へ。
 無数の針の光になって。
 無数の光の針が並んで。
 内海からこの江戸川をのぼってきて。
 そしてまた私のいのちのなかへ。
 青と黒との明滅のなかへ。
 「江戸川」
 時には水が川上に動き。
 流れるともなく。そして内海に流れてゆく。
 きらめく無数のプラチナを浮べ。
 曇天(どんてん)には曇天のうす墨色の天を映して。
 (以下略)
 ところで、草野の主宰する「歴程」に加わった詩人の一人に、宗左近(そうさこん)がいる。草野とも深い親交のあった宗は、昭和五十三(一九七八)年、江戸川越しに富士山を望める市川南に移り住み、ここをついのすみかとした。宗が市川に居を定めた思いの裏に、草野の存在はどの程度意識され、草野の「蛙」や「江戸川」の光景は、どう受け継がれているのだろうか。
 現在市川市文学プラザでは、二人の親交を示す蔵書が展示されている。宗の蔵書は、そうした問いに、静かに応えてくれるかに思われる。
(2007年7月13日)

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center@ichiyomi.co.jp 市川よみうり