市川よみうり連載企画
     


■§曽谷の「百合姫」伝承―回遊展から市史編さんへ§■
市川民話の会会員・根岸英之


 
曽谷城の土塁と空堀の跡(平成11 年撮影)

 市川市曽谷には、鎌倉時代から室町時代にかけて曽谷城があり、落城の際に百合姫(ゆりひめ)という姫が曽谷の松戸境にあるじゅん菜池(弁天池)に入水したという合戦悲話が伝えられている。

 〈足利時代、千葉氏が二つに分かれて戦ったんだけど、曽谷氏の三兄弟はそん時戦死したんですよ。左衛門丞直繁(さえもんのじょうなおしげ)の娘の百合姫は、嫁に行くことになっていた人が、敵方についたのを知って、じゅんさい池に身を投げたんですって。
 百合台(ゆりだい)は「寄居台(よりいだい)」がなまったんだっていいますよ〉
(話=梶尾健也。『市川の伝承民話』市川市教委=平成四年所収)

 曽谷城はいまの曽谷三丁目の台地の西南端にあり、戦国時代のものと思われる土塁と空堀の跡がわずかに残されている。

 曽谷一丁目にある日蓮宗安国(あんこく)寺の縁起によれば、曽谷城は源頼朝が千葉勝胤(かつたね)に下総を与え、その末の千葉之助胤鎮(たねしず)が、同族の曽谷重胤(しげたね)へ曽谷一帯三千町を与え、城主となったのが始めとされる。重胤の孫の曽谷教信(きょうしん)が、日蓮聖人に帰依し、安国寺を建立した。

 その後、一族の末裔(まつえい)である曽谷胤貞(たねさだ)は、足利尊氏とともに九州に出陣し武功を上げるが、下総へ帰る途中、一三三四(建武元)年、三河国・高橋の合戦で討ち死にし、曽谷城は落城した。
 そして、一四五六(康正二)年、千葉氏と足利氏の市川合戦に巻き込まれ、一族の曽谷左衛門直繁、曽谷弾正忠直満、曽谷七郎将旨らは討死し、曽谷氏は滅亡したというのである。

 以上は、江戸時代に書かれた『曽谷村長谷山安国寺略縁起』『曽谷安国寺祖像記』などを元に書かれた『市川市史第二巻』による。
 ただし、市川歴史博物館の中世史が専門の湯浅治久学芸員によれば、これらを史実と見なすには慎重でありたいとのことであった。
 さらに歴史的史料には百合姫の名は出てこない。百合姫伝承が生まれたのは、おそらく、家来が城の周りに寄り集まって住むところを「寄居台(ヨリイダイ)」といい(埼玉の寄居も同じ)、その地名がいつしか変化して「ユリダイ」となり、そこから生み出された伝承であると考えられる。

 曽谷と隣り合う下貝塚に住んでいた松丸参治氏(大正三年生まれ)の奥様からうかがった話では、戦前、曽谷に祈祷(きとう)などをする女性の民間宗教者がいて、その人のお告げで、参治氏らが中心となって、曽谷のじゅん菜池に「妙曽池端弁才天」を祀(まつ)るようになったという。

 池にはしばしば蛇や主がおり、女性と結び付けられることが多い。百合姫伝承も、そうした民俗的な発想が民間宗教者の託宣(たくせん)によって顕在化され形作られてきたのであろう。真間の手児奈、中国分のじゅん菜池の姫宮伝承と同様、女性の入水伝承の系譜といえる。

曽谷に見られた茅葺き民家(平成11年撮影、現存しない)

 ところで、曽谷城の敷地に住まう石井家は「百合台」の屋号を持つ旧家だが、先代の吉之氏(明治四十年生まれ)は、次のような話を残してくれている。
 〈『百合台』になったのはね、今から何年前だろうな。国分小学校が出来てね、その校歌を作る時に、やっぱりある程度土地をあらわした形で校歌を作ろうじゃないかってんで、それで『百合台』はって、奇麗にあらわした訳です〉
《前掲『市川の伝承民話』所収》

 国分小学校の校歌が作られたのは昭和三十四年。冒頭は次のような歌詞で始まる。
 〈百合台は にじに照り映え 国分は 光 輝く(以下略)〉
 さらに同五十二年、校名に百合台を冠する百合台小学校が創立し、百合台の地名は、確固たるものになったのである。

 百合姫伝承は、市川の作家・中津攸子(ゆうこ)氏による創作絵本『曽谷の百合姫』(平成十九年すがの会発行)などへ受け継がれている。

 十日と十一日には曽谷一帯で「曽谷街回遊展」が開かれ、百合姫伝承もいろいろな会場で紹介される。

 しかし、まだ地域の歴史や伝承は未解明な部分が多い。地域の人が自らの地域を見つめ直し、新たな市史を編さんしていくことが求められている。

(2009年10月10日)

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■§大野町の「平将門」伝承の謎§■
市川民話の会会員・根岸英之


 
大野町の「城山」(大野3丁目の天満宮から臨む。手前は市立第5中学校グラウンド)

 市川市大野町三丁目の、現在、市川市立第五中学校の建つ辺りは「城山(しろやま)」といい、平将門(たいらのまさかど)の出城だったという伝説が伝わっている。

 このことは本欄「第二十二回 平将門ゆかりの地を求めて」(二〇〇五年二月十九日号)でも触れたが、なぜ大野に将門伝説が伝えられてきたのか、実はまだまだ未解明な部分が多い。

 一九二三(大正十二)年にまとめられた『千葉県東葛飾郡誌』には、「東葛飾郡大柏村」に「将門の城址(じょうし)として、字殿台(あざ・とのだい=大野町四丁目に相当)はその跡(あと)、字御門(みかど=大野町三丁目に相当)は大手門の跡、他に一の谷(いちのや)・二の谷(にのや)の濠跡(ほりあと)、迎米(むかいごめ=大野町二丁目に相当)と称する米倉跡をのこす」と記録されている。

 一九八二(昭和五十七)年の発掘調査では、五中のテニスコートの辺りに、大きな空堀や堀に架けられていた橋脚があったことが確認され、東側斜面からは、一三四八(貞和二十二)年と一三六一(延文六)年の年号の刻まれた板碑(板状の石碑)が出土している。

 これらの遺構は中世のものであり、将門の活躍した平安時代中期までさかのぼることは難しく、その接点は明らかでない。

 また、五中の校舎裏には、祠(ほこら)が建てられており、一九七四(昭和四十九)年に刊行された『市川市史第二巻』には、「将門伝説のある祠(市立五中校庭)」というキャプションとともに、その写真が掲載されている。

 『市川の伝承民話第五集』(一九八八年)には、柏井町の飯倉タマさん(大正九年生まれ)が、明治十三年生まれの父の話として、次のような話を残してくれている。

〈家の父親が、浄光寺(じょうこうじ)から抜け穴を掘ったんです。五中のあたりが城山で、途中まで掘ったらくずれたんですって。
 学校の裏に将門の首塚があるんです。山の中のさびしいところでした。
 将門山は、石の小さいのがあったんです。
 あのあたり、土るいとか、ほりが残っていました。〉

 しかし現在は、「妙法弁財天 法栄弁財天」と刻まれた弁天様の石版が納められ、蛇の絵馬が奉納されている。

 グラウンド下の石井米店の先代である豊さんからうかがった話では、戦前まで現在のグラウンドのところは大きな池があり、戦後青年団の人たちが埋め立てて、グラウンドに整備したといい、その池のほとりに祀(まつ)られていた弁天様を移したものではないかと想像される。

 「将門伝説のある祠」とこの弁天様とはどういう関係なのか、まだ調べる余地がある。

 グラウンドの向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請(かんじょう)したという伝承を持つ。石井米店には、そのことを伝える掛け軸が残されているが、そこには「南無妙法蓮華経」と書かれ、日蓮宗の影響が見て取れる。

 大野町四丁目の駒形大神社も、日蓮宗法蓮寺の住職の夢枕に、騎馬武者が三人現れ、「我らを祀れば、この土地の守護神になるぞ」と言ってかき消えたのを祀ったのが始まりだという伝承がある(『市川の伝承民話』)。

 駒形大神社にはまた、「御霊神社」が合祀(ごうし)されているが、明治四十一(一九〇八)年の合祀記録によれば、その祭神は「鎌倉権五郎影政(かまくらごんごろうかげまさ)」、一説には「将門」であるとも記されている(『市川市民俗調査概報1』)。

 こうした数々の事象が重層的に重なり合って、将門伝承が形成されているわけで、信仰的な背景を探っていくことも課題である。

 将門の死後、相馬氏や千葉氏が将門の末裔(まつえい)だと名乗るようになり、将門にまつわる伝承を定着させていった。

 大野町には、千葉氏との関わりも深い妙見様を祀る及川家があったり、馬事に秀でた相馬氏と結びつく牧に関(かか)わる「馬場(ばんば)」や「馬寄場(うまよせば)」などの地名が残り、これらの関わりも、探ってみると面白い。

 きょう十一月十四日には、市川民話の会が大野公民館で「第三十二回 市川の民話のつどい」を開き、将門伝説を始めとする大柏地区の民話を紹介する。

 地域の民話には、まだまだ尽きない謎が秘められている。


(2009年11月14日)

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■§小島貞二と千葉笑い―法華経寺界隈§■市川民話の会会員・根岸英之


 
中山・法華経寺の参道を歩く小島貞二さん一家=昭和29(1954)年=小島豊美さん提供

 今回は小島貞二(こじまていじ)さんにちなんで「落語」調でお送りしましょう。

 小島さんってえと、昭和二十二年から、市川市中山の法華経寺さんの近くに住んでらした、相撲や演芸の評論家で知られた御仁(ごじん)です。

 平成十五年六月に、参道にある清華園(せいかえん)での寄席の解説中に、脳溢血(いっけつ)で倒れて亡くなっちまったってんですから、よっぽど、中山や寄席演芸に生涯をかけてらしたお方だったんでしょう。

 生きていれば、今年で九十歳ってえことで、今、市川市文学プラザでは「寄席と相撲が好き 小島貞二の世界」なんて、しゃれた催しが開かれているようです。

 そんな小島さんの、中山と笑いへの思いが分かる随筆を、紹介してみましょうか。

〈中山に住んでもう四十年。まだ子どもたちが幼かった頃、連れて散歩しながら、ヒョイと洒落(しゃれ)で笑わせてやる。石畳の上でころぶ。「ほうら、ストーンところんだだろ。英語で石のことを、ストーンというんだよ」。仁王門の前で、「ここでオナラをしてはダメだよ。仁王さんが〝匂う″というからね」とか、実に他愛のないことだ。
(中略)
 法華経寺界隈は、その頃も今も、少しも変わらない。五重塔も群れとぶ鳩(はと)も、長く延びた石畳も仁王門も、八大竜王の池も朝夕聞こえる太鼓の音も、初詣での賑(にぎ)わいも、夜桜どきのさんざめきも、盆踊りの歌も踊りも演出も、むかしそのままだ。〉

 昭和六十二年に、市川市の広報誌『City Voice 市川の街から No.3』に掲載された「中山法華経寺界隈」っていう随筆です。

前からも後ろからも読めるユニークな装丁の小島貞二『千葉笑い』=昭和63(1988)年、恒文社=市川市文学プラザ提供

 小島さんの功績で忘れちゃあならないのは「千葉笑い」を復活させたことでしょうな。

 「千葉笑い」ってえのは、大晦日(みそか)の夜、今の千葉市の千葉寺の本堂に集まった庶民が、手ぬぐいで顔を隠し、声色を変えて勝手なことを言い合って笑い、時には代官、地主、町役人の悪行を言いたい放題並べ立て笑うという、痛快な一種の悪態(あくたい)まつりのことだそうです。

 中には、侍や役人がまぎれこんでいても、決して怒らず、それを自分たちの反省材料にして、次の年には悪いことも少なくなったってんですから、最近の政治家にも聞かせたいものですな。

 ところが、嘉永五(一八五二)年に千葉寺が火事になってしまい、鎌倉時代から六百五十年以上も続いた千葉笑いも絶えてしまった。

 小島さんは、この千葉笑いを「庶民の風刺と笑いの場」として、何とか再現・復興しようとしたわけです。

 そして、途絶えて百三十年近く経(た)った昭和六十年一月から、朝日新聞の千葉県版で、笑文芸の投稿欄として「千葉笑い」を復活させたんです。

 昭和六十三年四月には、『千葉笑い』なんてユニークな本を出しただけじゃなく、十二月十七日に市川市文化会館で開かれた「市川文化サロン」で、千葉笑いの再現までしちゃったんです。

 このときの資料を、小島さん自身が保存していた切り抜き帳が、市川市文学プラザに収められているんですが、それを見るってえと、小島さんの解説に始まり、講談師・田辺一鶴(いっかく)さんや浪曲師・玉川福太郎さんらによる出し物などが披露されたことが分かります。

 当時、この催しを担当した市の職員から聞かせてもらった話では、小島さんはどうしても会場で、除夜の鐘を鳴らしたかった。そこで、職員が八方手を尽くし、何とか国府台女子学院から借りることが出来そうになったところ、その重さが何百キロとかいうんで、到底運びこむことができない。なんとか小島さんに納得してもらい、効果音のレコードで済ませたなんて逸話が残っているんですから、その思い入れには恐れ入ります。

 市長選の投票率が三〇パーセントにも満たない「千葉都民」の多いまちには、地域の文化なんて必要ないんでしょうが、小島さんが生きてらしたら、こんなご時世をどう笑いで風刺するでしょうか。

 「カネにならない文化事業は、事業仕分けで廃止だ! なんて、デフレになりそうなことは言うんじゃないよ。」

 「いやそんな心配には及びません。そろそろ法華経寺では百八つもカネがなります。」
(2009年12月12日)

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