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市川よみうり連載企画

<市立市川考古博物館学芸員・領塚正浩>

No1 市川のあけぼの=最初の住民を求めて<1>


   昨年末の考古学界の激震はすさまじかった。東北旧石器文化研究所の藤村新一氏による「前期旧石器」ねつ造事件である。ねつ造事件は、新聞、テレビ、ラジオ、インタ−ネットなどで取りあげられ、一般社会にも広く知れわたった。藤村氏が認めたねつ造は二遺跡だけであったが、同氏が関与した他の遺跡についても嫌疑がかけられる結果となり、日本列島に人間があらわれた確実な年代は六十万年前から一気に新しくなった。関東地方では三万年を上限年代とすべきとの意見も出されている。あたかも日本経済のバブルがはじけたかのように。

藤村氏が発掘に関与した宮城県上高森遺跡は、近年の日本史の教科書にも紹介されていたことから、事件発覚後に出版社が対応に追われる一幕もあった。仮に、教科書に紹介されるような大発見がねつ造であったとしたら、この問題は一個人が引き起こした事件にとどまらず、考古学の信頼性が問われることにもなりかねない。「前期旧石器」ねつ造問題は、研究者が行ってきた発掘に対する警鐘でもあり、この際に十分な議論がなされるべきではなかろうか。

藤村氏のねつ造事件は、考古学のイメージを著しく損ねるものであったが、一方で「旧石器」あるいは「旧石器時代」という用語がマスコミから発信され、にわかに関心を持った読者も多いのではなかろうか。そこで、この機会に「旧石器時代」についての理解を深めるために、少しばかり説明を加えておきたいと思う。
 昭和二十四年、群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡を発見した在野研究者の故相沢忠洋氏は、発掘しても何も出土しないと考えられてきた赤土と呼ばれる関東ローム層の中から、縄文土器をともなわずに石器だけが出土することをつきとめた。相沢氏は、岩宿遺跡付近の道路わきの地層を丹念に調査し、赤土の中から本当に石器が出るのかどうか、何回も通いつめて事実関係を確認したのである。相沢氏の著書『「岩宿」の発見』(講談社)には、この時の様子が詳しく描写されている。最終的には、黒曜石製の石槍(いしやり)が赤土の中に突き刺さって発見されたことが決め手となり、赤土に埋もれたもう一つの石器文化の存在が確認されることになった。

 今日、縄文時代のはじまりは、放射性炭素を用いた年代測定により、約一万二千年前と考えられている。近年では、それ以前を「旧石器時代」と呼ぶことが多くなってきているが、世界史では旧石器時代と新石器時代の用語がセットで使われることから、「旧石器時代」だけを切り離して使うことは不自然である。したがって、筆者は市川市にもゆかりの深い元明治大学文学部教授の故杉原荘介氏の提唱にしたがい、土器に先行する時代という意味の「先土器時代」という用語を使っておきたい。  (つづく)


No2 市川のあけぼの=最初の住民を求めて<2>

 前回、筆者は元明治大学教授の野故杉原荘介氏の提唱にしたがって、縄文時代以前を示す用語として先土器時代(せんどきじだい)の用語を使うことを述べた。現状では、土器を基準とした時代の命名法が最も理にかなっているからである。先土器時代の用語は、少し前の日本史の教科書で採用されるなど、一時は多数派としての地位を保っていたが、近年では「旧石器時代」支持者に押されて少数派になってしまった。
 しかしながら、縄文時代以前を示す用語は、これだけにとどまらない。先縄文(せんじょうもん)時代、前縄文(ぜんじょうもん)時代、無土器新石器(むどきしんせっき)時代、無土器(むどき)時代、岩宿(いわじゅく)時代など、その数は五指に余る。

今日、「前縄文時代」「無土器新石器時代」「無土器時代」などの用語は学史上の用語となり、「先縄文時代」の用語も上野の東京国立博物館の展示や出版物に見られるくらいになってしまった。変な表現かもしれないが、“死語”直前の用語といえる。こうした事情もあってか、近年同館ではカッコつきで「旧石器時代」の用語を使うようになっており、最近開催された市川考古博物館の特別展『土器の造形』の図録の解説にも、カッコつきで「旧石器時代」の用語が使われている。
また、縄文時代以前を「岩宿時代」、縄文時代を「大森時代」と呼ぶ意見もある。この意見は、その時代の遺物が最初に発見された場所に因んで、時代の名前を付けようとするヨーロッパ流の命名法に基づき、古代学研究所の角田文衛氏が提唱したものである。
 「岩宿時代」は在野研究者の相沢忠洋氏が発見した岩宿遺跡に因んだ名前、「大森時代」はエドワード・モースが発掘した大森貝塚に因んだ名前である。日本史を通史的に見わたしてみると、都や幕府が置かれた場所が時代の名前となる事例が多く、角田氏のように場所を重視した意見も興味深いが、なぜかあまり一般に普及してはいない。

 時代を示す用語は、その時代を専門とする研究者が、それぞれに命名した用語を継ぎ合せているため、通史的に見ると呼称法に一貫性がないのである。すべての時代を網らできる研究者がいれば、一貫した呼称法で名前が付けられたのであろうが、そこまで器用な研究者はいなかったようだ。
 学術用語は、ただでさえ難しくなじみが薄いのに、一つの事柄を示す用語がいくつもあるとは何事だ、などとお怒りの読者もいることだろうが、この時代の話を人前でする機会の多い筆者も実のところ困っている。なぜならば、こうした事情を繰り返し説明する必要があるからである。できることなら、テープレコーダーでも持ち込みたいところである。こうした問題は、どの学問分野でも起こり得ることであり、学会によっては意識的に用語の統一を行う場合もあるが、考古学関係の主要な学会に統一の動きはない。
 つまり、その用語が理にかなっていようとなかろうと、研究者の任意で用語が使われていることから、必ずしも普及している用語が最善ではないのだ。   (つづく)


No3 市川のあけぼの=最初の住民を求めて<3>

これまで、縄文時代以前を示す先土器(せんどき)時代の用語にこだわって、かなり詳細に説明をしてきた訳であるが、こうした丁寧な説明は博物館の展示にまずないといってよい。不親切といってしまえば、それまでであるが展示には、どうしても担当者の主観や館の方針が反映されるので、見学に際しては特に注意が必要なのである。

さて、関東地方で最も古い先土器時代の遺跡は、昨年末まで埼玉県の小鹿坂(おがさか)遺跡が約五十万年前で最も古く、同県の長尾根遺跡(ながおねいせき)が約三十五万年前、東京都の多摩ニュータウンNO.471-B遺跡が約五万年前で、これに次ぐ古さと考えられてきたが、「前期旧石器」問題で評価を保留しなければならなくなった。小鹿坂遺跡や長尾根遺跡は再発掘による検証が可能であるが、多摩ニュータウンNO.471-B遺跡は遺跡自体が消滅してしまっており、再発掘による検証ができなくなってしまった。将来、黒曜石以外の石器を直接的に年代測定できる技術が開発されない限り、問題の決着がつかなくなってしまった訳である。

 今後、「前期旧石器」問題を検証するための発掘が、各地でおこなわれることになろうが、「遺跡があること」を証明することよりも「遺跡がないこと」を証明することがいかに難しいか、改めて思い知ることになるだろう。「遺跡がないこと」を証明するための発掘面積は、「遺跡があること」を証明する発掘面積の何倍にも及ぶであろうし、そのため時間・労力・費用だってばかにならないのである。以前に発掘した場所の周囲をドーナツ状に発掘するだけでも、膨大な時間・労力・費用が必要なのである。

「前期旧石器」問題の話をはじめると、この先も際限なく続いてしまうので、この辺で市川市の先土器時代の話に戻ることにしよう。市内の地形を見渡してみると、標高約二〇〜二五メートル前後の台地の多くは、一番上に約数一〇センチの黒土が堆積し、その下に赤土と呼ばれる黄褐色の関東ローム層と続き、細かい海砂から形成された成田層へと移行している。成田層は、先土器時代の遺跡と直接関係するものではないが、浅い海底に水平堆積した砂層であり、やがて凹凸の少ない関東平野を形成することになる。通常、私たちが工事現場などで見かけるのは、ここまでの範囲が限界といったところである。

 黒土と赤土の境界は、地質学では約一万年前といわれているが、おおむね先土器時代と縄文時代の境界と考えてよく、市川周辺では関東ローム層と成田層の境界は約十二万年前とされている。ローム層とは一言でいえば火山灰のことであり、市川周辺の関東ローム層は主として富士山や箱根山が噴火して、偏西風で東方に飛来した火山灰のことをいう。関東ローム層は、上から立川・武蔵野・下末吉(しもすえよし)・多摩と呼ばれるローム層に区分されているが、確実に石器が出土するのは最上部の立川ローム層であって、一部に武蔵野ローム層出土とされるものもある。

 ちなみに、多摩ローム層は当時の市川が浅い海であったために観察できない。立川ローム層の年代は、地質学では約一万年前から三万年前と考えられており、縦長で木の葉の形をした石の破片から石器をつくる石刃技法(せきじんぎほう)が発達し、考古学的には「後期旧石器時代」とも呼ばれている。 (つづく)


No4  市川のあけぼの=最初の住民を求めて<4>

 地質学では、約一万年前を境界として約二百万年前までを更新世(こうしんせい)、それ以後を完新世(かんしんせい)と呼んでいる。ただし、更新世の上限年代をもう少し新しく考える研究者もいる。かつては、更新世を洪積世(こうせきせい)、完新世を沖積世(ちゅうせきせい)と呼んでいたが、昭和四十四(1969)年以後の世界的な取り決めにより、更新世や完新世と呼ぶようになったのである。

 更新世には、氷河が発達した寒い氷期(ひょうき)と比較的暖かく氷河が後退した間氷期(かんぴょうき)が交互に訪れており、一般的には氷河時代とも呼ばれている。よく引き合いに出されるが、ヴュルム氷期と呼ばれる最後の氷期には、最も寒い時期と考えられる約二万年前に海水準が著しく低下して、海岸線が現在の東京湾の湾口付近にまで後退した。

 東京湾周辺の景観は今日とは大きく異なり、東京湾の内湾は比高差のある巨大な渓谷で、渓谷の西寄りに流れる古東京川が地下水や雨水を集めて、大量の土砂を運んで河口に注いでいたのである。当時の東京湾は、古東京川を除くと標高の低い陸地であったことになり、海水準が今日よりも約百 前後は低下していたことから、古東京川はかなり勾配のきつい河川であったと推定される。最低で約八十メートル、最高で約百四十メートル低下したと考える研究者がおり、アメリカのアリゾナ州にある有名なグランドキャニオンほどではないが、比高差のある風景は想像を絶するものであったに違いない。

 市川市の北部は、おおむね標高約二十〜二十五メートル前後の台地と国分川や大柏川が流れる谷つまり低地から形成されているが、この谷(低地)の下には深く抉られた谷が埋没していて、国分川や大柏川などの河川が運んだ土砂で、長い間に埋めつくされてしまったのである。ボーリング調査によると、市川考古博物館東側の国分谷の中央は標高約4メートルほどであり、谷の基底に約二十メートルほどの厚さの土砂が堆積している。筆者は、国分谷や大柏谷の大部分がヴュルム氷期の浸食作用で削られた可能性が高いことから、この土砂の大半はヴュルム氷期以後の堆積物と考えている。

 それにしても、約二万年前の市川を訪れた人間たちは、このような比高差のある風景をどのように見ていたのであろうか。当時の人間に聞いてみたいところであるが、死人に口なしで取材は不可能である。意外と見慣れた風景として何気なく眺めていたのかもしれない。

一方、気温の変化は海水準だけではなく、植生や動物の種類にも大きな影響を与えた。約二万年前には、現在よりも年平均気温が七度前後も低かったとされ、関東地方は今日の北海道地方やその周辺と同じ気候であったことから、ブナをともなう冷温帯の落葉広葉樹に加え、針葉樹も繁茂していたようである。よく似た植生は、海抜千五百メートル前後の場所でも見ることができるようであるから、山登りがお好きな読者は植生の観察をぜひともお薦めしたい。この時期の日本列島は、地域と標高によって八種類の気候に区分することができ、ヤベオオツノジカやナウマンゾウなど、その後に絶滅した動物も生息していたことが知られている。 (つづく)


No5 市川のあけぼの=最初の住民を求めて<5>

先土器時代の遺跡からは、道具である石器とそれを作る際にでる剥片(はくへん)や砕片(さいへん)が出土するが、当時の住居や日常生活については不明な点が多い。住居跡と考えられる遺構(いこう)として、竪穴状(たてあなじょう)の建物跡が大阪府のはさみ山遺跡、掘立柱(ほったてばしら)の建物跡が広島県の西ガガラ遺跡などから発見されているが、類例に乏しく一般的な施設であったかどうか不明である。
 先土器時代の遺構としては、古くから熱を受けた石を含む石(礫)の一群、つまり礫群(れきぐん)がよく知られており、礫群と絡んで直径数メートルの範囲から石器が発見されることから、「ブロック」あるいは「ユニット」と呼ばれてきた。竪穴状の建物跡や掘立柱建物跡の発見は、ブロックやユニットの単位を住居と考える仮説に再検討を迫る結果となったのである。

 ヨーロッパでは、洞穴(どうけつ)も住居として利用されているが、日本では長崎県の泉福寺(せんぷくじ)洞穴や福井洞穴など、一部の洞穴から先土器時代の遺物が発見されているにすぎない。奥深いヨーロッパの洞穴ですら、暗くて湿度の高い奥まった空間で人間が生活することはなく、洞穴の入り口付近で生活していたようであるから、日本の先土器時代の洞穴遺跡の場合も、生活空間は洞穴の入り口付近であったと考えられる。
 また、先土器時代の遺跡からは、意図的に掘った定形的な土坑(どこう)と呼ばれる穴が発見され、食べ物の貯蔵穴(ちょぞうけつ)、罠猟(わなりょう)のための落とし穴、人間を埋葬するための墓など、いくつかの用途が推定されている。縄文時代に普遍化する施設の起源を考える上で、重要なデータを提供している一面もあるが、土坑の形や大きさが各遺跡で異なることから、用途を特定することが難しい場合が多い。北海道の湯の里四遺跡の場合には、楕円形の長径一 強の土坑から、装身具や副葬品の石器が発見されたことが決め手となり、この土坑が墓であることがわかった。

次回からは、いよいよ市川市内の遺跡の説明に入るので、今日までに出土した石器について説明しておきたい。市内の遺跡からは、これまでにナイフ形石器・角錐状石器(かくすいじょうせっき)・スクレイパー・彫器(ちょうき)・石槍(いしやり)・細石器(さいせっき)・敲石(たたきいし)・石核(せっかく)・剥片(はくへん)と呼ばれる石器が出土しているが、今回はナイフ形石器・石槍・細石器・敲石・石核・剥片を図入りで紹介しておいた。 ナイフ形石器はモノを突き刺したり、切ったりする機能、角錐状石器はモノを突き刺す機能、スクレイパーはモノを切ったり、掻きとったりする機能、彫器は溝を彫ったりする機能、石槍はモノを突き刺す機能、細石器は組み合せてモノを突き刺す機能などが主に想定されているが、複数の機能を備えていた可能性も否定できない。
 余談であるが、石槍のことを別名で尖頭器(せんとうき)とも言うのであるが、筆者は大学時代に先輩から神奈川県川崎市内の畑から「セントウキ」が出土したと聞き、太平洋戦争中に何かの理由で戦闘機が墜落して、その本体か破片が畑から出土したものと思い込み、迷わず先輩に質問して赤面した経験がある。専門用語とは実に厄介な代物である。       (つづく)
 


No6  市川のあけぼの=最初の住民を求めて<6>

昭和二十九年、明治大学考古学研究室は市内の国府台四丁目にあった丸山古墳を発掘し、古墳の下に堆積していた関東ローム層(立川ローム層)の中から、縄文土器をともなわずに石器(ナイフ形石器を含む)だけが出土することを確認した。千葉県内で、はじめて先土器時代の遺跡が発見されたのである。
 その後に丸山遺跡と名付けられたこの遺跡は、土取り工事にともなって丸山古墳とともに消滅してしまったが、その発掘成果によって縄文時代以前の千葉県にも人間がいたことがわかり、研究史に残る記念すべき成果があがった。発掘は、時として予想外の成果をあげることがある。
関東ローム層の最上部に堆積する立川ローム層は、同じ市内でも厚さが異なるが少なくとも約二メートル前後はあり、硬さや色調などから細かく区分されていて、市内から出土する先土器時代の石器は、その最上部からIX層と呼ばれる地層にかけて出土する。立川ローム層の年代は、研究の進展によって変化しているが、おおむね上限年代が三万年前と考えられることから、市内から出土する石器は三万年前以降の所産ということになる。
 立川ローム層は、黄褐色のローム層を基調としているが、その中にやや暗い色の黒色帯(こくしょくたい)と呼ばれる地層が間隔を置いて堆積(たいせき)している。考古学者や地質学者は立川ローム層を更に細かく区分し、上部の黒色帯を第1黒色帯、下部の黒色帯を第2黒色帯と呼んでいるが、こうした色調の違いは火山灰の降下の程度、気候や植生(しょくせい)の変化と関係するものと考えられている。
 第1黒色帯と第2黒色帯の中間にある黄褐色土層には、偏西風で飛来した九州地方南部を起源とする姶良・丹沢火山灰(あいら・たんざわかざんばい)が含まれ、この火山灰が市内から出土する石器の年代を決める上で参考になる。姶良・丹沢火山灰は、考古学の世界ではAT(層)の略称で呼ばれており、細かいガラス質の火山灰で肉眼でもできることもあり、かつては二万年前後の年代が与えられていたが、最新鋭の測定器を用いた放射性炭素による年代測定法(AMS法)では、約二万五千年前と考えられるようになった。
 市川市内で最古の石器は、国府台六丁目の新山遺跡(にいやまいせき)から出土した石器群であり、姶良・丹沢火山灰の直下つまり第2黒色帯の上部から出土することから、年代的には約二万五千年前と考えてよいであろう。この石器群には、ナイフ形石器・スクレイパー・敲石(たたきいし)・石核(せっかく)・剥片(はくへん)などが含まれていた。
 丸山遺跡の発掘から四十年の歳月を経た今日、市内にある先土器時代遺跡は十0遺跡以上に増加したが、遺構や遺物の平面的な分布が確認された遺跡は少なく、一点あるいは数点の石器だけが断片的に出土たり、採集された遺跡が未だに大半を占めている。遺構や遺物がまとまって発見された遺跡は丸山遺跡や新山遺跡をはじめ、堀之内一丁目の権現原遺跡(ごんげんばらいせき)、柏井一丁目の今島田遺跡(いましまだいせき)など少数の遺跡にとどまっている。
 これらの遺跡からは、石器をはじめ多数の石器が遺物(いぶつ)として発見されているが、遺構(いこう)としては焼け石を含んだ調理用の礫群(れきぐん)が発見される程度であり、残念ながら住居については不明である。  (つづく)

No7  市川のあけぼの =最初の住民を求めて<7>

土器時代の石器は、全国的な規模で発掘されて研究が進展しており、出土地層や石器の特徴からある程度の年代を知ることができる。これまでの発掘成果を総合すると、市川市内の遺跡は、必ずしも同時期に営まれたものではなく、石器の特徴からも時間差を持って形成されている。
 最も古い遺跡は、ナイフ形石器をともなう国府台六丁目の新山遺跡(にいやまいせき)であり、立川ローム層の第二黒色帯と呼ばれる部分を中心として、発掘した部分だけで東西二二 、南北一六 の範囲で石器が平面的に分布し、最高で約七七  の上下差を持って石器が出土している。石器の上下差については、第一に二次的な要因による移動の可能性、第二に自然状態による地面の凹凸があった可能性、第三に人為的な施設つまり遺構(いこう)があった可能性を指摘できるが、本遺跡でのあり方からは判断することができなかった。

 石器が上下差を持って出土することは、これまでに全国各地で発掘された遺跡でも、研究者に問題とされてきた経緯がある。実際には、遺跡や地点によって事情が異なるのであろうが、第一の仮説の場合にはミミズやモグラなどの生物による移動、冬期の霜などによる移動が想定されている。
堀之内一丁目の権現原遺跡(ごんげんばらいせき)では、「ブロック」あるいは「ユニット」と呼ばれる石器の集中する場所が三十九か所も発見され、その多くが第1黒色帯(こくしょくたい)の直上の黄褐色土層下部からの出土であった。この発掘は、北総線北国分駅前の区画整理事業にともなうもので、出土した石器は総数で千点以上にのぼり、それにともなって調理用の礫群(れきぐん)が三十六か所から発見された。権現原遺跡は、この時期の大規模な遺跡であることがわかったが、正式な調査報告が未完であることから詳細は不明である。

 なお、千葉県内で最初に先土器時代の遺跡が発見された丸山遺跡は、出土した石器の特徴と出土した地層が優力な根拠となって、この時期に形成されたことがわかっており、権現原遺跡と同様に調理用の礫群をともなっていた。
柏井一丁目の今島田遺跡(いましまだいせき)は、同じナイフ形石器が使用されていた時期の遺跡であるが、ナイフ形石器の形や作り方が異なることから、権現原遺跡や丸山遺跡よりやや新しい時期であることがわかっている。今島田遺跡では、石器の大半が硬いメノウで作られていること、石器の出土した地層が関東ローム層の直上であることに特徴あり、埼玉県の砂川遺跡(すながわいせき)から出土した石器と比較されている。
 最も近いメノウの産地は、関東地方北部の茨城県大子町(だいごまち)周辺つまり久慈川(くじがわ)上流であることから、直線距離で百  以上も離れた場所から、何人もの人間の手をへて市川の地にもたらされたのである。

 有名な観光地でいえば、「袋田の滝」の付近からメノウが運ばれてきたのである。加工された石器と原石(げんせき)の両方が発見されていることから、原石が運ばれる機会も多かったのであろう。縄文時代の市川の場合、弓矢の先につける石鏃(せきぞく)など小形の石器類を除くと、大半の石器はできあいの石器を入手していたようであるが、先土器時代の場合は自分たちで大半の石器を作っていたのである。(つづく)


No8  市川のあけぼの=最初の住民を求めて<8>

堀之内一丁目にある権現原遺跡(ごんげんばらいせき)は、先土器時代終末の細石器(さいせっき)という石器を出土した市内唯一の遺跡としても知られている。細石器とは、魚のメダカくらいの大きさの薄く細長い石の破片(剥片・はくへん)とそれを剥(は)ぎ取るとための石核(せっかく)の総称で、考古学の世界では前者を細石刃(さいせきじん)、後者を細石刃核(さいせきじんかく)と呼んでいる。道具として使用するのは細石刃で、細長い骨や木の両側に溝を掘って横並びにはめ込み、樹脂などで固着させて槍(やり)として使用したようである。権現原遺跡からは、この細石刃を剥ぎ取った細石刃核が一点出土している。

 細石器は、これまで年代的に先土器時代終末とされてきたが、北海道千歳市の柏台1遺跡(かしわだいいちいせき)で約二万年前の地層から細石器が出土したことから、本州でナイフ形石器が使用されていた時期に北海道で細石器が使用されていたことがわかった。このことは、先土器時代の地域性を再確認する結果となったが、少なくとも関東地方では先土器時代終末の石器と考えておきたい。細石器は、日本の先土器時代の石器からの直接的な変化では説明できないこと、年代的に古い細石器がすでに大陸にあることなどから、大陸起源の渡来石器(とらいせっき)とも考えることができる。

関東地方では、このあと大きな石槍(いしやり)と断面が三角形になる石斧を特徴とする文化に移行するが、茨城県の後野遺跡(うしろのいせき)では、この文化に文様のない無文土器(むもんどき)がともなっていた。こうした事実は、最近放射性炭素による年代測定で約一万六千年前という測定値が出て話題となった青森県の大平山元1.遺跡(おおだいやまもといちいせき)でも確認されたが、同じ青森県の長者久保遺跡(ちょうじゃくぼいせき)や長野県の神子柴遺跡(みこしばいせき)では土器をともなっていなかった。

 先土器時代と縄文時代の区分、つまり境界をどこに求めるべきかという議論があり、この大きな石槍と断面三角形の石斧(いしおの)を特徴とする文化、つまり長者久保・神子柴文化は先土器時代終末と考えられてきたが、その一部が無文土器をともなうことから、縄文時代初頭と考える研究者が多くなってきた。市内の大野町四丁目にある殿台遺跡(とのだいいせき)から出土した石器には、長者久保・神子柴文化の特徴を備えた石槍が1点含まれており、縄文時代初頭に位置付けられる可能性があり、市川の地に足を踏み入れた最初の縄文人であったとすれば興味深い。

 本州で長者久保・神子柴文化が栄えていたころ、九州地方では細石器文化が残存していたようであり、細石器と縄文時代初頭の土器の一群がともなうことがわかっている。これらの土器は、粘土の粒や紐を貼りつけた豆粒文土器(とうりゅうもんどき)や隆線文土器(りゅうせんもんどき)、人間の爪や棒の先を押しつけた爪形文土器(つめがたもんどき)などと呼ばれていて、長崎県福井洞穴(ふくいどうけつ)や泉福寺洞穴(せんぷくじどうけつ)など洞穴遺跡の発掘成果によって縄文時代最古の土器と考えられるに至った。
 先土器時代と縄文時代の境界を決めることは研究上の大きな課題であるが、この課題を解決するための研究材料は平野部の遺跡(開地遺跡・かいちいせき)だけではなく、この時期にしばしば利用される山間部の洞穴遺跡(どうけついせき)にも眠っている。(つづく)


No9  「石器時代」から「縄文時代」へ−縄文時代研究のあゆみ<1>

明治十年、エドワ−ド・シルベスタ−・モ−ス氏によって、現在の東京都品川区にある大森貝塚が発掘されてから、早くも百年以上の歳月が流れた。モ−ス氏は、大森貝塚の時代をヨ−ロッパの「石器時代」に対比したが、今日の研究では「縄文時代」に属するものと説明されている。
 「縄文時代」に相当する時代は、戦前まで「石器時代」と呼ばれることが多かったが、縄文土器をともなわない先土器時代の群馬県岩宿遺跡(いわじゅくいせき)が発見されたことから、「石器時代」という用語は用いられなくなった。

 「縄文時代」に近い用語としては、昭和七年に弥生時代の研究者であった森本六爾(ろくじ)氏が「縄文式時代」という用語を用い、それを受けて、後に國學院大学の教授となった大場磐雄(いわお)氏が「縄文土器時代」と呼んだことがある。この間の経緯は、埼玉県富士見市教育委員会の早坂広人(ひろひと)氏も指摘しているが、「縄文時代」の名称が定着するまでには長い道のりがあったのである。

 大森貝塚の調査報告書が刊行されて以来、「縄文時代」あるいはその一部を示す用語として、「石器時代」「貝塚時代」「縄文式文化時代」「縄文式石器時代」「新石器時代」「先史時代(前期)」など、実に多様な用語が用いられてきたのであった。
 昭和二十一年、市川市の国府台に日本考古学研究所を設立したオランダ人宣教師、ジェラ−ド・グロ−ト氏は昭和二十三年に刊行された機関誌『日本考古学』第一巻第三号の中で、はじめて「縄文時代」という用語を用いて以来、昭和二六年に刊行された『先史の日本』(英文)の中でJOMON PERIOD(縄文時代)、昭和二十七年に刊行された姥山貝塚(うばやまかいづか)の調査報告書の中で「縄文時代」の用語を用いている。日本で最初に「縄文時代」の用語を用いたのは、日本人ではなく外国人研究者のグロ−ト氏であったのかもしれない。

 グロ−ト氏は、昭和二十七年に帰国して昭和四十五年に交通事故で死去しているので、直接本人から取材することはできないが、少なくとも関連の著作を見る限り、昭和二十年代の前半から「縄文時代」の用語を用いていたのである。「縄文時代」の名称は、昭和三十年ころを境に縄文土器が使用されていた時代、つまり先土器時代と弥生時代の中間の時代を示す用語として普及し、今日に至っている。
 しかしながら、こうした動向に同調しない研究者もいた。縄文土器研究の第一者である山内清男(やまのうちすがお)氏は、縄文土器が使われていた時代をヨーロッパの「新石器時代」に対比していたが、晩年まで「縄文時代」の用語を積極的に用いることはなく、「縄文土器の時代」「縄文式文化」などと呼んでいた。

 山内氏は、文字の有無や道具の材料にこだわった時代の呼称法は好ましくないと考えていたようであるが、意に反して土器を基準とした時代の呼称法が優勢になった。筆者は、「縄文時代」の一部に農耕が認められたとしても、明確な牧畜が認められないことから、「縄文時代」を「新石器時代」と呼ぶことには問題があると考えており、土器を基準とした時代の呼称法を採用して、「縄文時代」の用語を用いたいと考えている。 (つづく)

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