>
市川よみうり連載企画

<市立市川考古博物館学芸員・領塚正浩>

No10 「石器時代」から「縄文時代」へ=縄文時代研究のあゆみ<2>

   明治政府は、西洋の近代思想や学問の導入を積極的に推し進め、教育面では学制を公布するとともに明治十(1877)年に東京大学を設立し、外国人研究者を招聘して教育にあたらせた。その一人として来日したのが、エドワ−ド・シルベスタ−・モ−ス氏である。

 モ−ス氏は、同年六月に横浜から鉄道に乗って東京に向かう途中、車内から線路の切り通しの崖に露出した貝塚(大森貝塚)を発見し、同年九月から十月にかけて発掘したことでよく知られている。大森貝塚の報告書は、モ−ス氏自身によって明治十二年に英文で刊行され、矢田部良吉(やたべりょうきち)氏の翻訳で日本語版の報告書『大森介墟古物編』がほぼ同時に刊行された。モ−ス氏は、発掘成果をまとめた報告書の中で大森貝塚の形成年代をヨ−ロッパの「石器時代」に対比し、その業績は近代科学としての日本考古学の出発点と評価されている。

 しかしながら、問題意識を持った発掘という意味では、すでに江戸時代から発掘が行われていた。黄門様の名前でおなじみの水戸光圀公は、元禄五(1692)年に那須国造碑(なすこくぞうひ)の被葬者を明らかにするために、栃木県那須郡湯津上村(ゆずがみむら)にある上侍塚(かみさむらいづか)と下侍塚(しもさむらいづか)古墳の発掘を命じたことがある。残念ながら目的を達することはできなかったが、発掘によって史実を明らかにしようとした点が高く評価されている。

 余談になるが、この発掘は光圀公が派遣した佐々介三郎宗淳氏(ささすけさぶろうむねあつ)の指揮で行われたのであるが、この佐々氏こそドラマ水戸光圀の「介さん」のモデルとなった人物なのである。

明治十年代には、かつて国外追放となったシーボルトの次男ハインリッヒ・フィリップ・シーボルト氏や地震学者のジョン・ミルン氏など外国人研究者の活躍が目立ったが、明治十七年に坪井正五郎(つぼいしょうごろう)氏や白井光太郎(しらいみつたろう)氏らが「人類学会」を設立し、機関紙として『人類学会報告』を創刊されることになると、次第に日本人研究者の活動が活発化していった。当時の人類学会では、現在の形質人類学・文化人類学・民族学 ・民俗学・考古学に相当する幅広い学問領域が研究対象となり、さまざまな分野の人物が入会していた。

 こうした「人類学会」の設立と前後して、外国人と日本人研究者の関心を集めたのが日本における石器時代人の人種あるいは民族をめぐる問題であった。モース氏は、石器時代人をアイヌに先行する人種あるは民族と考えたが、シーボルト・ミルン両氏や白井氏はアイヌの祖先であるとし、坪井氏はアイヌの伝承に出てくるコロボックルと考えた。

 アイヌ説とコロボックル説は黎明期の考古学界で支持者を二分して、激しく議論されたが、大正時代にコロボックル説の急先鋒であった坪井氏がロシアで客死すると、アイヌ説が主流を占めるようになっていった。時代は移り当時の「石器時代」は「縄文時代」へと名前を変え、今日では縄文人が現代日本人とアイヌの共通の祖先であったとする意見が支持され、アイヌ・コロボックル論争とは異なった結論が導きだされている。   (つづく)  (つづく)


No11 「石器時代」から「縄文時代」へ=縄文時代研究のあゆみ<3>

エドワ−ド・S・モ−スによる大森貝塚の発掘のあと、日本人研究者を中心に東京人類学会が設立されたことは前回も述べたが、同会は明治十九年ころから『東京人類学会雑誌』という機関紙を刊行しており、同紙の記述から黎明期の考古学界の様子を知ることができる。
 今回は、明治二十年代の同紙の記述を参考にしながら、市川市内で貝塚が発見されはじめたころの様子を紹介してみたい。

明治二十六年一月、東京帝国大学人類学教室の職員で標本整理を担当していた八木奘三郎氏は、大学の正月休暇を利用して当時学生であった山崎直方・佐藤伝蔵両氏と、千葉県の貝塚探究の旅に出かけた。当時は、JR総武線の前身である総武鉄道が開通していなかったことから、一行は両国橋から車(馬車か)に乗って意気揚々と出発したのであった。
 ちなみに総武鉄道は、明治二十七年七月に県内ではじめての鉄道として市川・佐倉間にの開通し、さらに同年十二月には市川・本所間が開通したが、本所・銚子間の開通は明治三十年六月、両国・銚子間の開通は明治三十七年四月まで待たなけれならなかった。

 一方、京成線は東京と成田山新勝寺結ぶ目的で大正元年に押上・江戸川間が開通し、まもなく押上・千葉間も開通したが、現在の京成成田駅が開通したのは昭和五年になってからである。
 さて、八木氏ら一行は途中で二班に別れて行動し、八木氏は現市川市柏井一丁目の姥山貝塚と現船橋市の古作貝塚の発掘、山崎・佐藤両氏は現市川市曽谷二丁目の曽谷貝塚と現千葉市の加曽利貝塚の発掘をおこなっているが、ここでは市川市内の姥山貝塚と曽谷貝塚に限定して紹介しておきたい。
 八木氏は、聞き取り調査によって姥山貝塚を発見することに成功し、三坪ほどの面積を発掘したところ厚さ約50メートル弱の貝層が確認され、土器・石器・骨角器(こっかっくき・骨や角でつくった道具)・魚骨などが出土した。現在の発掘とは比較にならない小規模な発掘であるが、この発掘を端緒として姥山貝塚の研究がはじまったのである。柏井(かしわい)貝塚という名称は、この時に八木氏が村の名前を取って付けたものであったが、大正末年の大規模な発掘以後は姥山貝塚と呼ばれるようになった。

一方、山崎・佐藤両氏は曽谷貝塚のはじめての発掘をおこない、「四尺より六尺」というから1・5メートル前後の貝層を確認し、土器・石器・魚骨・獣骨・木炭などが出土している。山崎氏らの目には、曽谷貝塚がよほど大きく映ったようで「其面積東西三町許南北四町」(一町=約110メートル)と記述されているが、現在では東西約210メートル、南北240メートルの蹄形貝塚(ばていけいかいづか・馬のひづめの形に貝殻が分布している)と考えられている。曽谷貝塚は、千葉市の加曽利貝塚に次いで日本でも最大級の貝塚であることから、はじめて同貝塚を見た両氏らの驚嘆ぶりがわかる。(つづく)


No12 「石器時代」から「縄文時代」へ=縄文時代研究のあゆみ<4>

市川市には、国史跡に指定されている縄文時代の遺跡が三つある。前回紹介した姥山貝塚と曽谷貝塚、そして堀之内二丁目にある堀之内(ほりのうち)貝塚である。文献に紹介されたのは、姥山貝塚と曽谷貝塚の方が早かったが、最初に発見されたのは堀之内貝塚の方が先であった。
 堀之内貝塚は、かつては「国分寺村貝塚」「国分寺貝塚」「国分貝塚」とも呼ばれていたようであるが、村名を遺跡名とすることが多かったためである。今日では飛躍的に遺跡数が増加したため、多くの自治体では古い地名(字名・あざめい)をとって遺跡の名前にしている。
 その原則に照らすと、堀之内貝塚のある場所は「駒形(こまがた)」であることから、駒形貝塚としなければならないのであるが、国史跡ともなると勝手に名前も変えられず、そのままになっているのである。「駒形」という字名は、貝塚内にある馬を祭った駒形様に由来しているのであるが、北総線北国分駅の開設にともない堀之内貝塚付近の地名が「堀之内」となり、嘘から出たまことではないが、以前から「堀之内」の地名があったかのような錯覚を与えているのである。

 堀之内貝塚は、堀之内式(ほりのうちしき)と命名された縄文土器が出土することで有名であるが、その名前が考古学界に広く知られるようになったのは、明治三十七年に開催された東京人類学会の遠足会であった。東京人類学会は、設立二十周年を迎えた明治三十七年の十月十六日に堀之内貝塚で記念の遠足会を開催し、会代表の坪井正五郎氏を筆頭に総勢八十一人が参加した。
 さて、東京人類学会の記念遠足会とは一体どのようなものであったのか、発掘場所として堀之内貝塚を選定した人の一人で、当時の流行作家でもあった小説家の江見水蔭(えみすいいん)氏が遠足会に参加し、その時の様子をドキュメンタリー作品として発表しているので、以下にその作品『地底探検記』(明治四十年刊)の一節を紹介しておきたい。

『堀ノ内は東京近郊に稀なる大貝塚であるので、八十余人がそれぞれ発掘区域を占領しても、何処に人が居るか分らぬ程で、林の中、岡の後、崖や、畑や、我を先に発掘を始めた、其馬鍬(まぐわ)やシャブルやの音のみが山林中の寂莫(せきばく)を破って、其賑はしさ、三千年前のコロボックルも永き眠の夢から眼を覚まして、我々が遺した塵塚を、然う掘操っては困りますと、苦情でも云出しさうであった。(中略)坪井博士指揮の下に人夫四人が発掘した方面からは、大小土器土瓶形土器等、珍品が続々出た。(中略)午後、一同孤松の下に集合し、撮影した。それから坪井博士の野外演説があった。数千年後の考古家には「坪井博士演説の松」として尋ねられるであろう』

坪井博士は、前記の坪井正五郎氏で東京帝国大学教授。野外演説でアイヌの伝承に出てくる小人(コロボックル)を石器時代人とする自説の「コロボックル説」を力説したとされる。「坪井博士演説の松」は、その後に倒れてしまったようであるが、北側斜面にあった可能性が高い。江見氏は、尊敬する坪井氏が主張するコロボックル説を終生した一人であり、その後も自らの著作や講演会でコロボックル説を支持している。 (つづく)


No13 「石器時代」から「縄文時代」へ=縄文時代研究のあゆみ<5>

前回は、明治時代の流行作家であった江見水蔭(えみすいいん)氏のドキュメンタリー小説『地底探検記』(明治四十年刊)の一節から、明治三十七年の十月十六日に堀之内二丁目にある国史跡の堀之内貝塚で開催された東京人類学会主催の大遠足会の様子を紹介してみた。今回は、その続きで後半の部分を紹介することにし、若干の解説を加えてみたいと思う。『 』部分は本文からの引用である。

 『又更に発掘に掛ったが、午後四時までに各方面に於て学術上有益なる遺物が少からず出た。然うして余は終に失敗。但し穴だけは頗る大きなのを開けて−君は其所に居住するつもりか、などと冷評せられた』
日ごろの発掘で好成績をあげている江見氏も、この日ばかりは成果があがらなかったようであり、親しい仲間と船橋の本町通りにあった旅館の佐渡屋に一泊し、翌日の十七日も発掘を続けて汚名挽回を試みるのであった。今日の発掘では、地層に沿って一定の面積を平面的に掘り下げ、貝塚の貝層を掘り終えてもその下を丁寧に掘り下げて、住居跡や食料の貯蔵穴などといった遺構を確認するが、当時の発掘では一か所を深く掘り下げて、そこから土器や石器などの遺物が出土しなければ、発掘を取り止めてしまうことが多かったのである。その意味では、遺物の採集を目標とした発掘であった。

 『余は持前の性急として(中略)真さきがけて貝塚に飛込み、北方の崖に沿ひて名誉の馬鍬を振回し、(中略)掘って掘って堀進む處へ、やうやくにして他の四人も来た。其内に人足六人も来た。(中略)余は中に於て最も蛮勇らしき人夫の一人を選み、これと共に独立して発掘を進め、彼是三坪ばかり掘崩したが、やッとの事で鯨の脊髄骨の一節と茶碗形完形土器一個とを掘出して、ホッと一息つけば、這は情けなし。今までは我が汗とのみ思って居たのは雨。(中略)今日は大小土器遺骨等非常に多く出た。が、余は前記の他に何も得なかった。嗚呼ドロパトキン』

戦前までは、短時間で自分の思うような発掘をするために、日雇いの土木作業員の力を借りることがあった。クジラの脊椎は、稀に市内の貝塚から出土することがあるが、縄文人がクジラ漁をしていた明確な証拠はないことから、病気などで海岸に打ち上げられたクジラの脊椎を二次的(台座など)に利用するために、集落内に持ち込んだものと考えられる。クジラが海岸に打ち上げられた直後であれば、市川の縄文人がクジラの肉を口にしていた可能性も否定できない。

ドロパトキンとは、日露戦争の奉天会戦後に解任されたロシア軍人のクロパトキンと泥まみれになった自分の姿を掛け合わせた造語である。この日の発掘に同行した高島多米治(ためじ・雅号唯峯)氏は、千葉県内ではじめて埋葬された縄文時代の人骨を発掘することに成功し、学術的に一番の成果をあげたのであった。

 余談になるが、江見水蔭氏は貫一やお宮が出てくる小説『金色夜叉』の著者、尾崎紅葉氏が主宰する文学結社の硯友社(けんゆうしゃ)の同人でもあり、自宅に土俵をつくって稽古するほどの相撲ファンで、大相撲の国技館の実質的な命名者としても知られている。  (つづく)


No14 石器時代から縄文時代へ−縄文時代研究のあゆみ<6>

大正十二年九月一日に発生した関東大震災は、東京や横浜などの大都市で大規模な火災を発生させ、死者・行方不明者十万人以上にのぼる被害をもたらしたが、市川市域では幸い大きな被害はなかったようである。市川市域は、震災の前後から現在の総武線沿い(特に北側)が急速に宅地化したこともあり、大正九年に約三万二千人であった人口が大正十四年には約四万四千人に増加し、東京近郊の都市として発展しつつあった。

震災からまもない大正十五年五月九日、柏井一丁目にある姥山貝塚で開催された東京人類学会の第八回の遠足会は、参加者約百五十名と大盛況で縄文時代の炉跡や人骨が発見されて予想外の成果があがった。そのことが契機となり、東京帝国大学(現在の東京大学)の人類学教室は、炉跡や人骨が確認された地点を拡張して、総面積約三百坪にも及ぶ本格的な発掘に踏み切ったのである。
 発掘は、夏期を除いて五月から十月にかけておこなわれ、地面を掘り込んですまいにした縄文時代の竪穴建物跡が二十軒、木の実などの植物性の食料を貯蔵するための小竪穴が五基、人骨十七体が発見されている。

 この時の発掘では、完全な形で縄文時代の竪穴建物跡が日本ではじめて発見されたり、床の上に五体の人骨を埋葬した竪穴建物跡が発見されるなど、日本考古学史に残る成果があがったのである。少し前の中学校の教科書には、姥山貝塚で発見された竪穴建物跡の写真が掲載されたこともあるので、この機会にその部分を掲載しておきたい。五体の人骨が埋葬された竪穴建物跡は、その後の研究で五人の死因と相互の関係をめぐって、いくつかの意見が発表されている。

 死因については、関東大震災の直後であったことから、発掘関係者が「地震災害説」を発表したのに対して、一部の研究者からは「フグ中毒説」も発表されているが、医学が未発達であった社会では、フグ中毒以外の疫病による死亡も十分に考えられる。また、五体の人骨は、成人の男女各二人と子供一人の組み合わせからなり、女性は二人ともイタボガキという貝殻でつくった腕輪(貝輪・かいわ)をし、女性一人がほかの四人とやや離れて発見されたことから、埋葬された時期が前後する可能性が指摘されている。

もしかりに五人が家族であるとすれば、一夫一婦の三世代同居あるいは男女二人ずつがペアになる二世帯同居の可能性があるというが、それを裏付ける決定的な証拠に欠けるのが実情である。現代科学の力を借りて、五体の人骨の相互関係(親族関係)を明確にしようとするならば、DNA分析による遺伝情報の抽出が最も有効な方法であろう。姥山貝塚のような台地上の遺跡では、遺伝情報が失われやすいようであるが、それでもDNA分析をして結果が知りたいと思うのは、おそらく筆者だけではなかろう。    (つづく)


No15 石器時代から縄文時代へ−縄文時代研究のあゆみ<7>

大正十五年、東京帝国大学(現在の東京大学)が柏井一丁目の姥山貝塚でおこなった発掘は、日本考古学史上に残る重要な成果をもたらした。前回は、このうち縄文時代のすまいに相当する竪穴建物跡がはじめて完全な形で発見されたこと、五体の人骨が一軒の竪穴建物跡の床面から発見され、その死因や相互関係(親族関係)をめぐって、いくつかの意見が発表されたことを紹介した。今回は、姥山貝塚で撮影された航空写真や当時のエピソードについて紹介してみたい。
姥山貝塚を上空から撮影した航空写真は、意図的に遺跡を撮影した記念すべき第一号の航空写真とされている。現在では、とくに珍しい写真ではなくなってしまったが、当時は意図的な遺跡の航空写真が撮影されることはなかった。読者の中には、大阪の大山古墳(伝仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳古墳・伝応神天皇陵)の航空写真をご覧になった方も多いと思うが、それらのさきがけが姥山貝塚の航空写真であったことを知る人は少ない。
 地面がドーナツのような形で白くなっている部分は、耕作などで畑の表面に浮き出た貝殻であって、地表面の貝殻の分布が航空写真でより明確になったのである。この航空写真は、下志津陸軍飛行学校の好意によって実現したのであるが、参謀本部の陸地測量部の協力によって、発掘地点を含む貝塚と周辺地形の詳細かつ精密な測量図が作成されたことも特記される。
また、発掘期間中の九月十五日には宮内省からの依頼で、スウエーデン皇太子グスタフ・アドルフ氏夫妻が発掘現場の見学に訪れている。当時、近くの尋常小学校(おそらく大柏小学校)に通っていた古老の中には、当時の様子をよく記憶されている方がいて、砂ぼこりが立たないように道路に水をまいたこと、皇太子の前でスウェーデン国歌を歌ったこと、皇太子用の木製洋式トイレが新調されたことなどを回顧している(『市川の伝承民話』による)。
 筆者自身も十年近く前になるが、偶然来館した大野町在住の武藤清治氏から、尋常小学校に通っていた当時、歓待行事の手伝いをしたとのお話を伺う機会があった。外国要人の歓待行事で発掘現場の見学が選定されることは、皇太子が考古学に関心を寄せているとは言っても極めて異例なことであり、当時の宮内省の粋な計らいには驚かされる。
 この時の姥山貝塚の発掘は長期に及んでいたこともあり、マスコミが発達していなかった当時でも広く国民に知られることになり、現在のJR総武線の下総中山駅から姥山貝塚まで見学の行列ができたともいわれている。おそらく、現在の青森県三内丸山遺跡のような騒ぎになっていたのではなかろうか。なお、この時の発掘品や記録類は、発掘後に東京帝国大学人類学教室に保管されてきたが、戦後に東京大学総合研究資料館が設立されたことから、現在では同館の主要な収蔵品として大切に保管されている。       (つづく)

No16  石器時代から縄文時代へ−縄文時代研究のあゆみ<8>

前回は、大正十五年に行われた姥山貝塚の発掘について紹介した。市川市内では、このあと昭和二十年くらいまで縄文時代に関する大きな発掘はなかったが、個人による小規模な発掘や発掘品を掲載した図録や論文の発表があった。そして、太平洋戦争が終結してまもない昭和二十一年になると、オランダ人考古学者のジェラード・グロート氏が国府台に日本考古学研究所を設立し、再び市川の地が日本考古学界の脚光を浴びることになる。今回からは、このグロート氏と日本考古学研究所の活動を数回にわたり紹介したい。

昭和六年十月、一人のオランダ人宣教師が来日した。彼の名前は、ジェラード・グロート(Gerard・Groot)。明治三十八年にオランダ北部のウエストワウドで生まれ、神言修道会(しんげんしゅうどうかい)という修道会に所属してカトリック司祭に叙階されたあと、日本での職務に着任している。グロート氏は、日本の言語・文学・歴史を学ぶうち日本考古学に強い関心をもち、布教活動のかたわら戦前から発掘をおこなったり、考古学関係の学会や研究会などに参加していた。

 来日したグロート氏は、岐阜県にある神言修道会の多治見修道院で日本語の学習をはじめ、昭和七年十月に新潟県の相川教会に着任し、主任司祭をつとめている。その後、相川教会を皮切りに各地を転任し、任地付近の遺跡を踏査したり、大小の発掘を試みていたようである。そして、昭和十四年五月に東京府吉祥寺にあった聖アルベルトホームに着任している。聖アルベルトホームは、神言修道会が設立した修道院・研究所であり、施設内には考古学研究所が設けられていた。グロート氏は、聖アルベルトホームへの転任を機として、考古学関係の研究会で日本人研究者とのかかわりを深めていった。グロート氏の名前が、考古学関係の文献上に登場するのもこの頃からであり、東京に移ったグロート氏は、昭和十四年に堀之内貝塚、昭和十五年に神言修道会のシェニッグ氏と姥山貝塚のC地点を発掘している。

 昭和十六年十二月、太平洋戦争がはじまると、オランダ人であったグロート氏は、敵国人として自由な活動を制限されるようになる。聖アルベルトホームは、ドイツ人神父が多かったこともあり、しばらくは抑留されなかったらしいが、抑留は時間の問題でしかなかった。昭和十八年春以降、グロート氏は埼玉県浦和市にあった収容施設(埼玉抑留所)での抑留生活を強いられることになる。グロート氏は戦時中に本土で抑留された唯一の考古学者であった。この収容施設は、政府がカトリックのフランシスコ会修道院(現在のカトリック北浦和教会)を接収したものであり、宣教師を中心に大学講師・船員など五六名が収容されていた。収容所での生活は、すべて特別高等警察の管理下に置かれており、一日三回の点呼に際して廊下に整列する以外は、狭い小部屋の中で何人かと暮す日々が続いた。収容所では、個人的な付き合いが一切許されず、宗教活動や食事が制限されたことなどから、日々の生活は苦しいものであったが、太平洋戦争が終結するとグロート氏は吉祥寺の聖アルベルトホームに戻り研究活動を再開する。  (つづく)


No17 石器時代から縄文時代へ−縄文時代研究のあゆみ<9>

前回、オランダ人考古学者のジェラード・グロート氏と終戦直後の市川市国府台に設立された日本考古学研究所について紹介したが、今回も引き続きグロート氏と日本考古学研究所について紹介することにしたい。
 太平洋戦争が終結すると、グロート氏は日本人研究者の協力を得て「日本考古学研究所」の設立を計画、昭和二十一年七月には資金調達のためにGHQの民間情報教育局に勤務している。
 一方、新しく発足する研究所の資料収集を目的として、同月に神奈川県にある三戸遺跡や愛知県にある西志賀貝塚の発掘をおこない、着々と研究所の設立準備を進めていった。

 同年九月、国府台に日本考古学研究所が設立されるとグロート氏は所長に就任し、顧問・評議員・研究員に日本の考古学界・民俗学界を代表する研究者と聖アルベルトホームに在籍していた神言修道会の宣教師が迎えられた。研究所の施設は、東部軍砲兵隊指令部(将校集会所)の建物を利用したもので神言修道会が管理運営していた。一階には、グロート氏の研究室・図書室や礼拝のためのお御堂などがあり、お御堂ではミサが捧げられることもあった。
 二階の付属陳列館には、グロート氏や研究所の発掘資料をはじめ、日本各地から出土した考古資料が多数展示されており、毎月第一・第二土曜日の十二時から十六時に限り、希望者に対して公開されていた。開館まもない同年十月には、グロート氏の案内により当時の皇太子(現在の天皇)も研究所の付属陳列館を見学している。

 日本考古学研究所は、「日本新石器時代の縄文式文化の研究所」であり、縄文時代に属する遺跡の発掘・機関紙や報告書の刊行・例会の開催・付属陳列館の一般公開・蔵書の閲覧サービス・研究者や研究機関との情報交換が主な活動内容であった。研究所は、千葉県北部と茨城県南部をフィールドとして発掘をおこない、茨城県花輪台貝塚・中妻貝塚、千葉市検見川遺跡(落合遺跡)、鎌ケ谷市中沢貝塚、市川市姥山貝塚D地点・須和田遺跡・ 三中校庭遺跡・根古谷貝塚・権現原貝塚、松戸市二ツ木貝塚・陣ケ前貝塚・南道合貝塚などを次々と発掘していった。
 花輪台貝塚は、当時としては縄文時代最古の貝塚であり、花輪台式と呼ばれる尖がった底の土器や集落跡が確認されて話題になった。検見川遺跡は、厚く堆積した草炭の採掘中に丸木舟や櫂が出土して、慶応大学や東洋大学との共同調査がおこなわれたが、昭和二十六年に大賀一郎氏が古代ハス(大賀ハス)の実を発見したことから、一般に知られるようになった。姥山貝塚D地点は、日本アジア協会の後援により、最も大規模な発掘がおこなわれた。 (つづく)


No18 石器時代から縄文時代へ−縄文時代研究のあゆみ<10>

前回に引き続きオランダ人考古学者のジェラード・グロート氏と終戦直後の市川市国府台に設立された日本考古学研究所の業績について紹介してみたい。
日本考古学研究所は、昭和二十三年から翌年にかけて機関誌『日本考古学』を刊行し、昭和二十七年に姥山貝塚の報告書を刊行している。報告書『姥山貝塚』は、昭和二十七年八月に刊行された英文併記の報告書であり、グロート氏が戦前に発掘したC地点と研究所で発掘したD地点に関する記述を中心に、姥山貝塚の過去の発掘成果を集大成したものであった。
 グロート氏は、基本的に英文併記の刊行物を目標としており、当初から国外研究者への配慮を怠らなかったのである。
 姥山貝塚の報告書には、D地点にある竪穴建物跡(すまいの跡)の床面から出土した炭化材に関する理化学的な年代測定の結果が掲載されている。この理化学的な年代測定とは、生物の体内に含まれる炭素14がその死後、五千七百三十年で半分になる原理を応用した年代測定法、つまり放射性炭素14による年代測定法のことであり、その後に賛否両論を巻き起こすことになったが、現在では縄文時代の一般的な年代測定法として定着している。
 放射性炭素14による年代測定法は、昭和二十二年にシカゴ大学原子核研究所のウイリアム・F・リビー氏が開発した画期的な測定法であり、原爆研究の副産物として開発されたものであった。リビー氏が受理した測定資料は、発掘を担当した酒詰仲男(後の同志社大学教授)氏が元GHQ経済科学局(繊維課)勤務のラルフ・ブラウン氏経由で依頼した二点、グロート氏が依頼した一点であり、酒詰氏依頼分の二点の測定値は二点平均で約四千五百年前、グロート氏依頼分の測定値も約四千五百年前と出ている。
また、昭和二十四年になると、酒詰氏と研究員の篠遠喜彦(後のハワイ・ビショップミュージアム研究員)氏が研究所内に転居するが、酒詰氏は最後まで研究員になることはなく、グロート氏と篠遠喜彦氏が研究活動の中心メンバーとなっていった。当時の酒詰氏は、市川周辺に在住する若手研究者を集めて「土曜会」という名前の研究会を設立し、毎月第二土曜日に研究所内の自宅で例会を開催していた。
 土曜会には、篠遠氏・下津谷達男氏(後の國學院栃木短期大学教授)・麻生優氏(後の千葉大学教授)・石部正志氏(後の宇都宮大学教授)・岡田茂弘氏(後の国立歴史民俗博物館教授、現東北歴史博物館館長)・平井尚志氏(後の駒沢大学講師)らが集い、縄文時代中期の千葉県佐原市下小野貝塚(五千年前)を発掘したり、研究者間の情報誌であった雑誌『貝塚』や考古学辞典(改造社刊)を刊行するなど積極的に活動し、終戦直後の縄文時代研究に大きく貢献している。(つづく)


 市川よみうり Top Pageへ