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市川よみうり連載企画

<市立市川考古博物館学芸員・領塚正浩>

No19 「石器時代」から「縄文時代」へ=縄文時代研究のあゆみ<11>

   戦後の日本考古学界は、静岡県登呂遺跡の発掘を契機として、昭和二十三年四月に日本考古学協会が設立されたことにより、ようやく軌道に乗りはじめていた。このころ、日本考古学会や日本人類学会も相前後して機関誌を復刊し、本格的な活動を再開している。
 日本考古学研究所は、終戦直後の混乱期に設立されたこともあり、日本を代表する研究機関の一つとしての役割も果たしていたが、大学を含む全国各地の研究機関の活動が再開され、本考古学協会が設立されると、その役割は日本考古学協会に引き継がれていった。

こうした状況下にあって、グロート氏は昭和二十六年三月に陰りが見えはじめてきた研究所の体制を立て直すために「考古学会連合」の設立を決意したようである。考古学会連合の規約には、日本各地の研究会や個人会員によって構成され、総会長を日本考古学研究所長が兼任すること、幹事長を同研究所員から選出すること、事務局を研究所内に置くこと、研究所の機関誌「日本考古学」を連合の機関誌とすることなどが明記されており、おそらくグロート氏は研究所を全国組織の中心機関に据えることにより、再び日本を代表する研究機関を構想したのである。

 グロート氏の脳裏には、外国人の考古学者に好意的でなかった日本考古学協会の存在があったと考えられる。南山大学人類学博物館には、趣意書にかわる「考古学会連合規約」が保管されている。実際に配布されたかどうかは不明であるが、考古学会連合が発足したという記録を確認できないことから、この構想が実現されることはなかったようである。当時の考古学界は、全国組織である日本考古学協会の設立を経て、もはやグロート氏が構想したような研究機関を必要としていなかったのである。

 昭和二十七年八月、グロート氏は篠遠喜彦氏と共著で報告書『姥山貝塚』を刊行すると、神言修道会のオランダ管区に移籍することになる。ヨーロッパにもどったグロート氏は、すぐさま同年九月にウイ−ンで開催された第四回国際人類学民族学会議に出席し、縄文時代の絶対年代に関する研究発表をおこない、姥山貝塚で出土した縄文時代後期の炭化材が約四千五百年前であることから、縄文時代のはじまりを約六千年前(現在では約一万二千年前とする研究者が多い)と推定している。発表のあと、グロート氏がどのような研究活動をおこなったか不明であるが、ドイツで主任司祭をつとめたあと、昭和四十五年三月に交通事故で死去している。

 日本考古学研究所は、昭和二十三年四月に日本人の研究者が中心となって日本考古学協会を設立するまで、名実ともに終戦直後の日本を代表する研究機関の一つとしての役割を担っていた。当時の国情と学界の状況を加味するならば、戦前の東京人類学会や日本古代文化学会で活躍していた第一線の研究者を迎え、組織的な研究活動を開始した日本考古学研究所の設立をもって、日本考古学界の復興の第一歩とすることもできよう。

 戦後の日本考古学史は、日本人の考古学者に限定して語られるべきではなく、グロ−ト氏ら外国人の考古学者が果たした役割とともに、語られなければならない。太平洋戦争が終結して半世紀あまり、あらためて戦後の日本考古学史を評価することも必要ではなかろうか。      (つづく)  


No20 「石器時代」から「縄文時代」へ=縄文時代研究のあゆみ<12>

昭和二十七年夏、オランダに帰国したグロート氏にかわり、神言修道会が管理運営するスイスの人類学研究所に在籍していたヨハネス・マーリンガー(Johannes・Maringar)氏が日本考古学研究所の職務を引き継ぐことになる。日本考古学研究所は、マーリンガー氏の所長就任を契機として「考古学研究所」と改称され、研究所の組織は大きく変わった。研究員の篠遠喜彦氏は、マーリンガー氏の助手として研究所に残っていたが、昭和二十九年六月に国外留学のため日本を離れることになった。

 考古学研究所は、従来どおり神言修道会が管理運営していたが、付属陳列館の見学を許可することはあっても、発掘をはじめ組織的な研究活動をおこなうことはなかった。マーリンガー氏は、南山大学社会科学部人類学科の教授(先史学)を兼務しており、週に一度は名古屋の南山大学へ通う生活を送っていたが、日曜日には研究所内の一室にあったお御堂でミサを捧げるようなこともあったようである。

 マーリンガー氏は、ヨーロッパの洞窟絵画や宗教など先史考古学に関する多くの業績を残しており、日本滞在中に相沢忠洋氏が発掘した群馬県権現山遺跡出土の先土器時代(旧石器時代)の石器や群馬県岩宿遺跡の発掘成果を海外に紹介したり、多数の著作によりヨーロッパの旧石器文化を日本に紹介したことは特筆される。

 相沢氏は、日本でにはじめて先土器時代(旧石器時代)の石器を発見した群馬県在住の考古学者であったが、ヨーロッパの旧石器文化に造詣が深いマーリンガー氏と交流があり、相沢氏自身が発掘した石器を携えて研究所を訪ねたこともあった。
 考古学研究所は、マーリンガー氏の講演会や研究発表を除けば、昭和三十二年に『先史時代の宗教』や『先史聚英・A編旧石器時代』などの著作を刊行したにすぎない。『先史時代の宗教』は、昭和三十一年に刊行されたドイツ語版の翻訳であり、ヨーロッパを中心とした発掘成果を援用しながら、狩猟民の宗教と農耕民の宗教を概観したものであった。

 『先史聚英・A編旧石器時代』は、マーリンガー氏が収集したヨーロッパや中国出土の旧石器時代の石器を時期別に概観したものであり、当時としては旧石器文化研究のテキストともいうべき内容であった。この二冊の著作は、マーリンガー氏の指導にもとづいて助手の鈴木八司氏(現東海大学教授)が日本語に翻訳したものであり、鈴木氏が序文でも述べているように専門用語の翻訳には困難がともなったようである。

昭和三十三年十月、マーリンガー氏は考古学研究所の名古屋移転にあたり、収蔵資料の一部を市川市教育委員会に寄贈しており、現在は市立市川考古博物館に収蔵されている。ところが、マーリンガー氏の帰国に際して、考古学研究所は解体されることになり、大半の収蔵資料は神言会が経営する南山大学人類学研究所に移管された。これらの資料は、その後に同大学人類学博物館に移管され、現在は同館で展示・収蔵されている。


No21 「石器時代」から「縄文時代」へ=縄文時代研究のあゆみ<13>

終戦直後の市川では、ジェラード・グロート氏が主宰する日本考古学研究所の発掘が行われていたが、一方では大学関係者や個人による発掘も数多く行われていた。たとえば、考古博物館に隣接する堀之内貝塚では、記録に残っている発掘件数を調べただけでも、昭和二十年代に九回の発掘が行われたことがわかっている。今回は、このうち昭和二十六年に行われた東京大学の発掘と昭和二十九年に早稲田・慶応義塾・明治の三大学が行った堀之内貝塚の発掘について紹介してみたい。
昭和二十六年の発掘は、東京大学人類学教室の実習として企画されたものであり、鈴木尚(後の東京大学教授)、山内清男(後の成城大学教授)・酒詰仲男(後の同志社大学教授)の三氏が指導にあたった。

 参考までに触れておくと、山内清男氏は、縄文土器が時期と地域によって形や文様が異なることを利用し、縄文土器を使った縄文時代の年代的な序列を考えた縄文土器研究の第一人者であり、「堀之内式土器」や「曽谷式土器」の命名者でもある。
発掘は、七月七日から十一日までの五日間行われ、最も下の地層から竪穴建物跡(すまいの跡)の一部? と称名寺式土器と呼ばれる縄文土器が出土し、すぐ上に称名寺式土器を含んだ貝層が確認されている。
 称名寺式土器は、堀之内式土器の直前に作られていた縄文土器であり、この時期(約四千年前)から貝塚が形成されはじめたことがわかるが、発掘成果が公表されていなかったことから、このことがわかったのは最近になってからである。
 昭和二十九年の発掘は、日本人類学会(以前に紹介した東京人類学会が改称)が創立七十周年を迎えるにあたって、同会が記念事業として企画した発掘であり、早稲田・慶応義塾・明治の三大学に発掘を依頼して実現したものである。

 発掘は、同会の総会(見学会を含む)の日時に合わせて十月十三日から二十三日まで行われ、馬の蹄の形に似た馬蹄形貝塚に最も近いこと、貝塚の外径が東西約二二五メートル、南北約一二〇メートルであること、堀之内式土器が貝塚の各地点から出土することがわかり、堀之内式土器をともなう竪穴建物跡二軒(地図リ・ハ地点)や埋葬人骨二体(同サ地点)が確認されるなど、大きな成果があがった。
 なお、慶応義塾大学が発掘したシ− 地点からはハマグリとイボキサゴからなる厚さ一 弱の貝層が確認され、貝層中とその下から多量の堀之内式土器が出土している。ハマグリとイボキサゴからなる貝層は、両者が交互に堆積しており、直径一 ほどのイボキサゴが層をなしていた。イボキサゴは、砂と泥が混じる浅い海の底を好む貝類であり、東京湾沿岸(特に京葉地域)の貝塚から多量に出土することから、当時の東京湾の干潟で多量に繁殖していたようである。

 一つ一つの貝は小さく食用にする部分は少ないが、採りやすいことが重視されて、集落内に持ち込まれたのであろう。小埜尾精一氏や三番瀬フォーラムの方々がまとめた『東京湾三番瀬』という本によると、現在の三番瀬にもイボキサゴが生息しているようであるから、筆者も三番瀬産の生きたイボキサゴにお目にかかりたいと思っている。(つづく)


No22 「石器時代」から「縄文時代」へ=縄文時代研究のあゆみ<14>

前回は、昭和二十年代に堀之内貝塚(堀之内二丁目)で行われた発掘について紹介したが、今回は昭和二十〜三十年代にかけて曽谷貝塚(曽谷二丁目)で行われた発掘について紹介してみたい。
曽谷貝塚は、明治時代から知られていた貝塚であり、曽谷式土器が出土する貝塚として知られている。曽谷式土器は、昭和十一年に曽谷貝塚を発掘した山内清男氏が提唱した土器の名前であり、約三千五百年前に関東地方で使われていた縄文土器のことである。
 昭和二十五年、東京大学人類学教室は曽谷貝塚で四地点の発掘を行ったが、曽谷式土器の前後の時期の縄文土器や約五千八百年前の縄文土器が数多く出土することはあっても、曽谷式土器そのものが顔を出すことはなかった。
 曽谷式土器は、しばらく同じような土器が発見されなかったことから、「まぼろしの縄文土器」のような扱いを受け、その存在を疑う意見もあったが、市外の遺跡から同じような土器が発見されたことなどから、現在では学界に認知され名前が定着している。

 また、曽谷貝塚は、規模の大きい馬蹄形貝塚として知られており、しばしば考古学関係の本に名前が出てくる。馬蹄形貝塚とは、その名前の通り上から見た平面形が馬の蹄のような形をした貝塚であるが、曽谷貝塚の場合はやや形が崩れていて、北側の部分が本体から離れてしまっており、「スマイルマーク」に似た人の顔のような形になっている。等高線を見ると、貝塚の中心がやや窪んでおり、北側の谷に面してつくられている。縄文人は、こうした立地を好んで住んでいたらしく、東京湾沿岸の馬蹄形貝塚は、中央が窪み谷に面した場所につくられているのである。昭和三十四年、明治大学考古学研究室が行った発掘では、曽谷貝塚の全体図がはじめて作成され、外形約二一〇メートル・南北約二四〇メートルであることがわかり、現在では千葉市若葉区にある加曽利貝塚に次いで、二番目に大きな馬蹄形貝塚として知られている。ただし、加曽利貝塚は、時期が異なる二つの馬蹄形貝塚がドーナツ状に並んだ珍しい例であり、単体としては曽谷貝塚が最も大きい例ということになる。

余談になるが、加曽利貝塚に隣接する千葉市立加曽利貝塚博物館では、二月五日から三月三日まで企画展『加曽利北貝塚と中期の世界』を開催しており、市川市曽谷一丁目にある向台(むかいだい)貝塚の出土品(約四千五百年前)も展示されているので、日本最大の馬蹄形貝塚と一緒に見学されることをお勧めしたい。    (つづく)


No23 石器時代から縄文時代へ=縄文時代研究のあゆみ<15>

市川市は、市制施行三十周年記念事業として『市川市史』を刊行しており、昭和四十六年に第一巻が発行されている。今回からは、この『市川市史』の編纂事業にともなって発掘された美濃輪台遺跡、上台貝塚、向台貝塚について紹介することとし、まず最初に美濃輪台遺跡を取り上げてみたい。
美濃輪台遺跡は、本北方三丁目にある縄文時代早期(約七千五百〜七千年前)の遺跡であり、昭和二十三年に斉藤端造氏が貝塚を発見し、酒詰仲男氏(後の同志社大学教授)によって、北方(南)貝塚あるいは若宮境貝塚と名付けられている。美濃輪台という地名は、遺跡のある台地と低地の織りなす形が農具の箕に似ていることから付けられたようである。農具の箕と言っても、なじみが薄い読者もいるかもしれないが、掃除で使う塵取りに似た形で、穀物の殻やゴミを取り除くための道具と言えば、理解してもらえるのではなかろうか。

市史編纂にともなう発掘は、昭和四十一年八月に明治大学考古学研究室によって実施され、縦横約九×三メートル、厚さが最大で約三五センチの貝塚と炉穴呼ばれる調理用の施設が五つ確認されている。貝塚からは、ハイガイ・マガキ・カガミガイ・ハマグリ・オキシジミ・サルボウ・マテガイ・シオフキ・アサリ・ホソウミニナ・アカニシ・ツメタガイなど十二種類の海水産の貝類の殻が出土し、小粒で未発達のハイガイとマガキが主体を占めていた。

 市内の干潟で見られる貝類が多いが、ハイガイは温暖な海を好むため、現在の東京湾には生息していない。炉穴は、昭和十四年に船橋市の飛ノ台貝塚ではじめて確認されたもので、長径一〜二メートルほどの楕円形の穴を掘り、そこで火を焚いて食料を調理していた跡であり、類似したものは関東から九州地方にかけて見られる。
 市川のように海岸に近い地域であれば、干潟で取れた貝類を土器に入れて穴の隅に置き、草木を燃やして調理していた可能性も十分に考えられるが、いずれにしても種類が多い割りに分量が少ないこと、主体となるハイガイとマガキが小粒であることなどから、安定して確保できる食料ではなかったようである。

 美濃輪台遺跡は、市内で最も古い竪穴建物跡と貝塚が発見された重要な遺跡であるが、その後しばらく人間が住んだ明確な痕跡が市内で見当たらず、次に竪穴建物跡や貝塚が残されるようになるのは、縄文時代前期の初め(約六千年前)であり、この間は海岸部の干潟が未発達で海の幸に恵まれなかったと考えられる。美濃輪台遺跡は若宮小学校のすぐ北側にあり、貝塚のあったA地点は宅地造成で消滅したが、その後に炉穴が発見されたB地点が公園になっているので、散歩をかねた遺跡の見学をぜひともお勧めしたい。      (つづく)


No24 石器時代から縄文時代へ=縄文時代研究のあゆみ<16>

市川市は、市制施行三十周年記念事業として『市川市史』を刊行しており、昭和四十六年に第一巻が刊行されている。前回は、この『市川市史』の編纂事業にともなって発掘された美濃輪台遺跡について紹介したが、今回は考古博物館にも近い中国分の上台貝塚を取り上げてみたい。
上台貝塚は、中国分五丁目にある縄文時代前期(約五千七百〜五千年前)の遺跡である。遺跡のある台地が陸軍の練兵場であったことから旧東練兵場貝塚と呼ばれたり、北台遺跡などと呼ばれたこともあるが、昭和十年前後にはすでに学界に知られていたようである。陸軍大臣をつとめた大山巌氏の子息・大山柏氏は、自宅に大山史前学研究所という先史時代を研究する施設を開設し、史前学雑誌という雑誌を発行していたのであるが、その雑誌の中で宮崎糺・稲生典太郎の両氏が本貝塚と出土遺物を紹介している。

 昭和三十二年五月には、早稲田大学考古学研究室の西村正衛氏らが本貝塚の測量と発掘を行なって、本貝塚が十七カ所の環状に並んだ小規模な貝塚からなること、縄文時代前期後半を中心とすることがわかった。
市史編纂にともなう発掘は、昭和四一年の十一月から十二月にかけて十日間、発掘調査を委託された明治大学考古学研究室によって実施され、短辺一六メートル長辺四八メートルの長方形の発掘区から、九地点の貝塚と竪穴建物跡が三軒確認されている。三軒の竪穴建物跡は、四隅が丸くなる一辺が約五メートルほどの方形をしており、使用後に食用とした貝の殻が捨てられていた。

 発掘では、弓矢の先につける石鏃が一点しか出土していないこと、陸上の動物ではイノシシとシカの骨の一部がわずかに出土しただけであり、早稲田大学の発掘で出土したノウサギを加えたとしても、狩猟は全体に低調であったのかもしれない。ハマグリを主体とする約二十種類の貝類が出土しているにもかかわらず、魚類の骨がまったく出土していない点が気にかかるが、魚類を捕獲するための道具に乏しいことを考えると、食料としての割合は低かったのかもしれない。
 縄文時代前期の場合、動物の骨が出土する場所が一か所に集中することがあり、集落の半分以上を発掘していない現状で結論を出すことは難しく、家屋の建て替えにともなう今後の発掘に期待するところが大きい。

 上台貝塚は、縄文海進により海水面が現在よりも約三メートルほど上昇した時期に形成されはじめた遺跡であり、早稲田大学の発掘成果を加味すると、約五百年間にわたって集落が営まれていたことがわかる。縄文土器の変化を見ると、少なくとも六段階の変遷が確認できることから、環状の集落が順を追って少しずつ形成され、同時に形成されたものではないことがわかる。
 本貝塚の形成がおわる縄文時代の前期末(約五千年前)頃、海水面は現在の高さにより一層近くなり、台地よりやや低い段丘に貝塚が形成されるようになる。この間の変化が一体何を意味するのか、考えなければならない問題である。 (つづく)  


No25  石器時代から縄文時代へ=縄文時代研究のあゆみ<17>

市川市は、市制施行三十周年記念事業として『市川市史』を刊行しており、昭和四六年に第一巻が刊行されている。前回は、この『市川市史』の編纂(へんさん)事業にともなって発掘された上台貝塚について紹介したが、今回は曽谷一丁目にある向台(むかいだい)貝塚を取り上げてみたい。

向台貝塚は、市立第三中学校の北東約二〇〇メートルにある縄文時代中期(約四千五百年前)中心の集落跡であり、その範囲は東西約一〇〇メートル×南北約一〇〇メートルに及んでいる。四千五百年前と言えば、青森県の三内丸山遺跡が栄えていた時期であり、有名な火炎(かえん)土器が作られた時期でもある。

 市史編纂にともなう発掘は、昭和四十二年六月から七月にかけて委託を受けた明治大学考古学研究室が実施しており、その後も市川市教育委員会による発掘が実施され、これまでにすまいである竪穴建物跡が四十二、木の実などの食料を貯蔵した小竪穴が四十八ほど確認されている。

 竪穴建物跡は、上から見た形が円形・楕円形・隅(すみ)の丸い四角形の何れかをしており、使用後のくぼ地から食用とした貝類の殻をはじめ、クロダイやコチなどの魚骨、イノシシやシカなどの獣骨が出土している。こうした現象は小竪穴の一部でも確認されているが、決して現代人がゴミを捨てるような感覚で、こうした遺物を投げ入れていないことは、貝塚の直下から出土した埋葬人骨からも明らかである。現代人の理解を越えた縄文人の世界観の一端をそこに見ることができるのである。

 発掘では、弓矢の先につける石鏃、木を切るために使う磨製石斧、土を掘るための打製石斧、食用となる木の実を加工するための磨石・石皿などの石器が出土している。このうち、天然ガラスの黒曜石から作られた石鏃の産地を理化学的な方法で調べたところ、伊豆諸島の神津島産が大半を占め、わずかに長野県の霧ケ峰産が入ることがわかった。

 理化学的な方法とは、蛍光X線を用いた分析法のことであり、産地によって元素の割合が異なる黒曜石の特性を利用し、各産地の黒曜石の原石と黒曜石の石鏃に含まれる複数の元素の割合を測定し、両者を比較して石鏃の産地を同定しようとする画期的な研究法である。黒曜石の産地を同定する研究法としては、かつて結晶の形を基準とする研究法も開発されたが、すべての黒曜石に用いることができなかったことから、今日では採用されていない。

 神津島と本州は、縄文時代の当時も海で隔てられていたことから、縄文人たちは舟で黒曜石を本州に運んでいたと考えられる。現代科学は、発掘を機に数千年の眠りから覚めた黒曜石のなぞを少しずつ解き明かしてくれる。 (つづく)


No26 石器時代から縄文時代へ=縄文時代研究のあゆみ<18>

 曽谷一丁目にある向台貝塚は、東西約一〇〇メートル×南北約一〇〇メートルの規模で広がる集落遺跡であり、昭和四十二年に市川市史編纂事業の一環として明治大学考古学研究室がはじめて発掘し、市川市教育委員会が現在に至るまで継続的に発掘している。昭和四十二年の発掘では、『市川市史・第一巻』にはなぜか掲載されていないが、当時としては珍しい縄文時代の道路跡が確認されているので、この機会に紙面を割いて紹介したい。
 道路跡は、遺構確認面のレベルで幅二三〜五七センチ、長さ約一七メートルの規模で一条確認されており、上面が著しく硬化していた。道路跡の上部は、発掘によって既に失われているため、本来の数値よりやや幅が狭くなっている。竪穴建物跡の付近では、床面上に暗褐色土層、黒色土層、耕作土層の順で地層が堆積しており、縄文時代の遺物が暗褐色土層から黒色土層にかけて出土することがわかっている。

 暗褐色土層は、関東ローム層の小さな粒子が多く含まれている下部(竪穴建物跡を覆う土)とあまり含まれていない上部(付近の台地上に広く堆積する土)に区分することができ、道路跡は、両者の境界付近から約三〇センチほど弧状に落ち込んでおり、その上に褐色土ブロックを含む約一〇センチの暗褐色土層が堆積していた。道路跡の幅が直立した人間の両足の間隔に近いこと、やや蛇行しながら延びていること、硬化面の厚さが遺構外では薄いことから、本来的には人間の歩行で帯状に窪んだり、硬化した道路であったと考えられるが、断面図にある深さが三〇センチ近い落ち込みは、こうした道路としてはやや深く不自然である。

 筆者は、道路跡が竪穴建物跡を覆った土の上を通過していることから、しまりを欠いた土が人間の往来によって沈下し、沈下した道路の帯状の窪みに褐色土ブロックを含む暗褐色土を入れ、修繕した可能性が高いと考えている。自然状態では堆積しない褐色土ブロックを含む暗褐色土が道路跡の三〇センチ近い落ち込みの直上に堆積していること、帯状の硬化部分と周囲の土が不連続であることは、新たな土を入れた有力な証拠である。竪穴建物跡を覆った土の上から確認された硬化面は、そこ以外で確認された硬化面と比較して厚みがあり、沈下した道路の窪みに入れた土が帯状に硬化したものと考えられる。人為的に突き固められた可能性もあるが、確証はない。

 道路跡は、縄文時代中期(約四千五百年前)の遺物を出土する地層から確認されており、すまいである竪穴建物跡と同じ高さから落ち込んでいること、縄文土器を出土する竪穴建物跡に切られていることなどから、縄文時代の道路跡であることは間違いないが、発掘当時としては類例に乏しかったこともあり、正式に報告されることがなかったようである。      (つづく)


No27 石器時代から縄文時代へ=縄文時代研究のあゆみ<19>

 曽谷一丁目にある向台貝塚は、昭和四十二年に市川市史編纂事業の一環として明治大学考古学研究室がはじめて発掘し、市川市教育委員会が現在に至るまで、継続的に発掘している。前回は、向台貝塚で確認された縄文時代の道路跡について触れたが、近年では縄文時代の道路跡が日本各地から確認されて、本貝塚の道路跡の重要性も増しているので今回もこの道路跡について触れておきたい。
 向台貝塚の道路跡は、東側に広がる平作貝塚の中期後葉(約四千五百年前)の集落と西側に隣接した小支谷(前谷津)の中間にあり、西側の延長が和尚の池と呼ばれる湧き水の方角を向いていることから、小支谷に湧き水を求めるための道路であった可能性が高く、道路の方向や漁撈具・貝類・魚類などの出土遺物から、河川や海岸に出るための道路とも考えられる。向台貝塚や平作貝塚を残した縄文人たちは、この道路を通って崖下の湧き水に日々の生活水を求め、市川砂州とその周辺に広がる干潟で水産資源を獲得していたことであろう。

 前谷津は、崖の東南斜面の傾斜が急であるのに対し、北西斜面の傾斜が比較的緩やかであること、開口部に近い西側の崖下に前期後半(五千五百年前)から中期初頭(五千年前)の根古谷貝塚が立地することから、縄文人たちは北西斜面から足下が安定した崖下に至り、そこから河川や海岸に向かったと考えられる。この道路は、集落の継続期間内に使用されなくなってしまうが、機能上の理由に起因するものであるとすれば、歩行に支障を来す道路(路面)の沈下が最大の要因であろうし、集落の東方への拡大にともなう路線の変更の可能性も十分に考えられる。

近年、古代や中世の道路跡が盛んに発掘され、全国的な規模で調査・研究されているが、それ以前の道路跡は報告例の絶対数が少ないこともあり、必ずしも研究が進展しているとは言えない。縄文時代の道路跡は、ここ十数年で急速に報告例が増加したことから、遺構間の比較検討が可能な状況になりつつあり、ようやく研究の対象として考えられるようになった。向台貝塚では、幸いにして縄文時代の道路跡を確認することができたが、果たして縄文時代の道路とは一体どのようなものであったのか。
 縄文時代の集落跡は、開発にともなって多数発掘されているが、近年まで道路跡が確認されることはまれであった。その理由として第一に、二次的な要因で遺構の遺存状態が悪化し、確認が容易でなくなったこと、第二に竪穴建物跡などと比較して落ち込みや掘り込みが浅く、機械(重機)による発掘(表土剥ぎ)で破壊された可能性が高いこと、第三に類例に乏しく調査者に注意されなかったことなどが考えられる。第三の理由を考えると、縄文時代の「溝」や「溝状遺構」と報告された事例には、道路跡と認定できる遺構が含まれている可能性があり、過去の発掘や報告を見直す必要がありそうである。       (つづく)


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