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市川よみうり連載企画

<市立市川考古博物館学芸員・領塚正浩>

No38 いちかわの縄文人とその暮らし=食料の問題<3>

市川に暮らした縄文人たちは、一体どのような人間であったのであろうか。前回は、貝塚という特殊な条件で残った遺物の話にはじまり、糞石と呼ばれるウンコの化石について触れてみたが、今回は話を本筋に戻すことにして今回は、彼らの食料の問題を取り上げてみたい。
市川の縄文人たちは、貝塚の形成と連動して集落を営んでいることから、筆者は海の幸をメニューに取り入れた食生活をするために、この地に移住してきた人びととその子孫ではないかと考えている。彼らは、泥の海底を好むハイガイ・マガキ・オキシジミ、砂と泥の混ざる海底を好むハマグリ・アサリ・シオフキ・サルボウ・オオノガイ・カガミガイ・オキアサリ・アカニシ・ウミニナ、砂の海底を好むイボキサゴ・マテガイ・バイ・ツメタガイなど十数種の貝類を好んで採取していた。

これらの貝類は、食用となる部分が植物や他の動物と比較して、極端に少ないことがわかっている。たとえば、貝塚から頻繁に出土するハマグリなどは、何と一キログラムうち食用可能な部分の重さが二五〇グラムと約四分一であり、しかもカロリーが植物のクリの三分の一強、魚類のスズキの二分の一弱程度しかない。慶応大学教授の鈴木公雄氏は、このような貝類の栄養学的な特徴に注目し、大規模な貝塚が食料の豊富さを物語るものではなく、それだけ大量の貝類を採取しなければ、必要な食料を確保できなかったとも考えられるとした。ここで大きな疑問が生じる。彼らは、なぜに食用となる部分が極端に少ない貝類を食生活のメニューに加えたのであろうか。

 縄文人が貝類を採取するメリットは、木の実のように採取する季節が限定されず、イノシシやシカのように捕獲が難しくなく、安全・容易・確実に採取できることにある。貝類の採取は、現在の潮干狩りのシーズンと同じで春先から初夏に集中するが、それ以外のシーズンにも採取されていることから、シーズン外の採取を食料バランスの調整と見ることもできる。貝類は、春先から初夏にかけてが旬で味もよく身も大きいが、食料に窮していたとすれば味が落ちたり、身が小さくても仕方がなかったのではないか。このように考えてみると、不足分をうまく補いながら食料の確保に努めた賢い縄文人の姿が浮かびあがってくるのである。

 食いしん坊の筆者は、一日にどの位の分量のハマグリを食べると、縄文人に必要なカロリーに達するのか試算してみた。その結果、長径五センチ程度のハマグリであれば、計算上で五百個食べると二〇〇〇カロリー近くになることから、彼らの体力を維持できることがわかった。ハマグリのカロリーは、身の部分で百グラムあたり六四カロリーである。しかし、一食だけハマグリを食べるのならともかく、日に何食もハマグリを食べ続けることは、いくら食いしん坊の筆者にもできそうにない。土器でハマグリを煮ると、確かに調味料なしでも塩味が効いておいしいが、単一の食材ではすぐに飽きてしまうし、高価なハマグリを食べ続けると、筆者自身が財政破綻? してしまう。そして何より健康に悪い。         (つづく)

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No39 いちかわの縄文人とその暮らし=食料の問題<4>

市川に暮らした縄文人たちは、一体どのような人間であったのであろうか。前回は、貝塚から出土する貝類のカロリーと食用可能な分量に触れ、貝類が必ずしも効率的な食べ物ではないことを紹介したが、今回は貝塚から出土する貝類のうち、食用にならない貝類の話をしておきたい。
市川市内の貝塚から出土する貝類というと、すぐに食用可能な貝類と考えがちであるが、必ずしも食用にならない貝類がある。食用にならない貝類には、〈1〉貝輪などの装飾品の原材料として持ち込まれたもの〈2〉食用の貝類に紛れて持ち込まれたもの〈3〉二次的に混入した陸性貝類などがある。このほか、色や形が珍しいので持ち込んだという事例があるかもしれないが、ここでは除外しておく。

〈1〉の事例には、タカラガイ・イモガイ・イタボガキ・アカガイ・ベンケイガイなどをあげることができる。タカラガイやイモガイはペンダント、イタボガキ・アカガイ・ベンケイガイは貝輪の原材料または半製品・製品として集落内に持ち込まれ、原材料の場合には加工が行われていたと考えられる。市内の貝塚からは、加工途中で失敗して破損した貝輪の未製品の破片が多く出土しており、集落内で貝輪の生産が行われていたことがわかる。
 〈2〉の事例には、貝塚からよく出土する貝類の稚貝や死んだ貝類があげられる。市川市内ではまだ確認されていないが、貝塚研究者の加納哲哉氏は海藻に付着するシマハマツボという貝類に着目し、この貝類が縄文時代の集落から出土することから、縄文人が集落内に海藻を持ち込んでいたことを指摘している。

 〈3〉の事例は、縄文人たちが意図的に集落内に持ち込んだものではなく、貝塚が形成される過程で紛れ込んだ貝類であり、陸性貝類と呼ばれるカタツムリの仲間である。多くは、直径数ミリと言う微小な貝類であり、希に大きなカタツムリも発見されるが、後者を食用としたかどうかは一概にいえない。微小な陸性貝類は、縄文人が食べた貝類でないという意味では考古学の対象とはならないが、種類によって生息する場所が異なり、貝塚が形成された場所の環境復元に役立つことがわかってきた。つまり、集落内の貝塚であれば集落を取り巻く環境の復元に有効であることがわかり、こうした陸性貝類の種類を同定したり、数量を計算した遺跡の調査報告も増加している。
市川市内の曽谷一丁目にある向台貝塚は、縄文時代中期(約四千五百年前)の集落跡であるが、〈3〉の事例に属する陸性貝類が数多く確認され、集落周辺の環境を知る上で重要な成果があがっている。具体的な種類としては、ゴマガイ・オカチョウジガイ・ヒメベッコウガイなどの陸性貝類が多く、これらが森林に隣接した落ち葉の下を好んで生息することから、集落内に開けた空間があり、周辺に森林が広がっていたことがわかる。

 おそらく、これらの陸性貝類は、使われなくなった住居跡の窪地にたまった落ち葉の下に生息し、その後に捨てられた貝殻や土に埋没してしまったものと考えられる。「ゴマ」のように小さい陸性貝類ではあるが、わかることは大きいのである。      (つづく)   

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No40 いちかわの縄文人とその暮らし=食料の問題<5>

前回は、貝塚から出土する数多くの貝類の中で食用にならない貝類をいくつか紹介したが、今回は市川の貝塚から最も多く出土する貝類の一つ、「ハマグリ」について触れてみたいと思う。
ハマグリは、出土する比率や大きさが異なることはあっても、市内にあるほとんどの貝塚から出土し、食用の貝類としても重要な位置を占めている。市内にあるほとんどの貝塚から出土する位であるから、ハマグリが大量に繁殖していたのであろうが、現在の三番瀬や江戸川(放水路)に行っても、生きているハマグリを見つけることは難しい。縄文時代以降、何らかの要因で棲息できなくなったのであるが、最も有力な要因は河川が上流から運んでくる泥の堆積と海岸の埋め立て工事と考えられる。

 筆者は、市川に古くからお住まいの方と話をする機会が多いことから、折に触れてハマグリに関する聞き取りをおこなっているが、「子どものころはハマグリがたくさんと採れた」という話をよく耳にすることから、おそらく自然の営力で海底の泥が多くなり、ハマグリが少なくなってきたところへ、戦後の埋め立て工事がはじまってハマグリが激減し、今日に至ったのではないかと考えている。現在でも、東京湾でハマグリが採れたという話を聞くが、その多くはもともと東京湾にはいなかったシナハマグリである。このシナハマグリは、市場に出回っているハマグリの大半を占めており、中国などから輸入されたものが多い。

ハマグリは、東京湾沿岸で暮らした縄文人にとって最も身近な貝類の一つであったこともあり、食用以外の目的でも利用されていた。たとえば、貝殻の縁を打ち欠いてナイフや包丁のような使い方をしたり(貝刃)、貝殻の内側に赤色の顔料を入れて容器にしており、縄文人の廃物利用の一端を見ることができる。貝塚からは、このほかに殻の外側や縁が摩耗して擦り減ったハマグリの貝殻が出土することがあり、縄文土器の製作に際して土器を磨いたためと解釈する研究者もいる。
 ナイフや包丁のように使う貝刃は、石器の石材に乏しい市川では盛んに使われていたらしく、曽谷一丁目にある向台貝塚では、九十点のハマグリ製貝刃が出土しており、うち八十五点が殻の長さが六五ミリ以上であった。発掘中に大きなハマグリを見つけたら貝刃と思って間違いないと言われており、大きなハマグリを意図的に選択して、貝刃にしていたことがわかっている。

 考えてみれば、指先で貝刃を持って使うのであるから、指先で持つ部分が広いほど力も入り、より一層使いやすくなる。刃の部分が長ければ調理の手間も省ける。考古博物館の隣にある縄文時代後・晩期の堀之内貝塚からは、魚のウロコが付着した貝刃が出土したとの記録があり、ウロコが人間の歯に引っ掛かりやすいタイ科の魚についてはウロコを取り除いて調理していた可能性がある。      (つづく)  

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No41 いちかわの縄文人とその暮らし=すまいの問題<1>

前回までは、市川市内の貝塚から出土する考古資料のうち、食料に関係した資料を具体的に取り上げ、市川の縄文人たちの食生活の一端に触れてみたが、今回からは彼らのすまいについて取り上げてみたいと思う。
 縄文時代のすまいを竪穴住居(竪穴式住居とも呼ばれる)とする考えは、すでに明治十九年に渡瀬荘三郎氏によって提出されていたが、こうした考えが裏付けられたのは、大正十三年の富山県氷見市朝日塚の発掘やその翌年の東京都町田市高ケ坂遺跡の発掘であった。しかしながら、朝日貝塚や高ケ坂遺跡では、こうした竪穴住居のごく一部が確認されたに過ぎず、竪穴住居の全体像が確認されるには、大正十五年の市川市にある姥山貝塚の発掘を待たなければならなかった。ここでは、はじめて縄文時代の竪穴住居が完全な形で確認された姥山貝塚の発掘の様子を紹介してみたい。

 姥山貝塚は、明治二十六年に八木奘三郎氏によって発見され、その後に流行作家の江見水蔭らによる発掘の様子が、彼の小説『地中の秘密』(明治四十二年博文館刊)で紹介されたことから、その名前が少しは知られるようになったが、何と言っても姥山貝塚の名前を全国に知らしめたのは、大正十五年の長期にわたる発掘であった。この時の発掘は、東京人類学会が行った「遠足会」に端を発したもので、縄文時代(当時は石器時代と呼んでいた)の人骨や炉跡の発見にはじまる。東京人類学会は、東京帝国大学理学部人類学教室内に事務局があり、本格的な研究者から一般人にいたるまで、さまざまな立場にある人々が入会しており、明治三十七年の市川市堀之内貝塚(当時は東葛飾郡国分村)の発掘以来、貝塚を中心に「遠足会」と称して各人が任意の場所を小規模に発掘する集いを催していた。もちろん、今日では文化財保護法という法律があり、規模の大小にかかわらず、勝手に発掘することはできないので、ご注意願いたい。

東京帝国大学の人類学教室では、東京人類学会の遠足会の発掘を受けて、五月から十月までの期間に前後二回にわたり、約千平方メートルに及ぶ大規模な面積を発掘している。発掘がはじまると、これまでに一部分しか確認されていなかった竪穴住居跡や縄文時代の人骨が次々と姿をあらわし、人類学教室の面々を驚かせた。

 この大正十五年の発掘は、人々の注目を集めて話題になっていたらしく、発掘を指揮した東京帝国大学の松村瞭教授が後の昭和天皇と皇后に姥山貝塚の講話をしたり、下総中山駅から姥山貝塚まで見学の人々の行列ができたというエピソードも残っている。スウェーデンのグスタフ・アドルフ皇太子が姥山貝塚の見学に訪れたのも、この時の発掘であり、尋常小学校に通っていた当時の児童たちが、歓待行事でスウェーデン国歌を歌ったことなどが語り継がれている。 (つづく) 

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No42 いちかわの縄文人とその暮らし=すまいの問題<2>

前回から、市川で暮らした縄文人のすまいの問題を取り上げ、柏井町一丁目にある姥山貝塚の事例を簡単に紹介してみたが、今回は彼らの「すまい」の一般的な特徴について触れてみたい。
縄文人のすまいである「竪穴住居」は「竪穴式住居」とも呼ばれ、縄文時代の一般的なすまいとして学校の教科書にも紹介されている。筆者は、これまで地面を数十センチほど平坦に掘りくぼめて造った四角形や円形の施設が、必ずしも「すまい」ではない可能性もあることから、連載の中では「竪穴住居」ではなく「竪穴建物」と呼んできた。市川に暮らした人々は、すくなくとも平安時代くらいまで「竪穴住居」に住んでおり、古墳時代以降にはモノを作る工房としても、こうした「竪穴」が利用していたことから、これ以後「竪穴住居」ではなく「竪穴建物」と呼んでおきたい。

北海道以北のサハリンや千島列島などでは、平安時代以降も竪穴建物が引き続き造られていた。たとえば、サハリンでは「トイチセ」と呼ばれる竪穴建物が近代まで造られており、研究者が調査記録を発表されている。縄文時代の竪穴建物の構造は、建物の部材が偶然火災などで炭化して残るか、低湿地にある遺跡の地下で残る以外は、基本的に後世に残ることなく腐食してしまうため、断片的な出土品から復元するしかないが、近代に使用されていた竪穴建物の民俗例を参考として、ある程度まで竪穴建物の構造とそこでの暮らしを復元できる。

 竪穴建物のメリットの一つに、冬暖かいことがあげられるが、密封性が高い構造のものとなると、湿気がこもるというデメリットがあり、健康上あまりよくないらしい。十九世紀の民俗調査によると、サハリンの土で覆われた竪穴建物の場合、厳しい冬には余り問題にはならないが、春先に気候が暖かくなると、病気にかかりやすくなるらしい。とはいえ、冬場であっても建物に入って慣れるまでに、約一週間ほどかかるようであり、その間は頭痛に悩まされるらしい。医学的には、どのように説明されるのであろうか。こうした竪穴建物を実験的に造り、実際に寝泊まりしてみれば、頭痛の原因も解明されるのであろうが、筆者には残念ながらその勇気がない。

 サハリンに住んでいたアイヌの人々は、こうした理由から夏場は掘り込みのない掘立柱(ほったてばしら)の建物にすみ、冬場は竪穴建物にすむ生活をしており、こうした様子が古い写真に残されている。縄文時代のすまいは、これまで一般的に竪穴建物と考えられてきたが、一部の研究者は同じ場所から発見される掘立柱の建物を住居と考え、夏場にすむ掘立柱建物と冬場にすむ竪穴建物の二者を想定し、季節ごとのすみ替えを想定している。ユーラシア大陸の内陸部や寒冷地域では、すみ替えが民俗例として確認されているが、こうしたすみ替え論に対しては研究者間でも異論があり、今後の研究の進展に期待するところが大きい。 (つづく)

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No43 いちかわの縄文人とその暮らし=すまいの問題<3>

前回は、縄文人のすまいである竪穴建物の一般的な特徴について触れたが、今回も引き続き同様のテーマを取り扱ってみたい。
竪穴建物は、使われなくなると貝殻や土器片などが投げ入れられたり、風雨によって土砂が運ばれて埋まりはじめるので、普通には竪穴の「くぼみ」が見えなくなるが、自然作用による土砂の体積が浅いところでは、竪穴の「くぼみ」が肉眼で観察できることもある。北海道地方ではこうした「くぼみ」が観察できることが知られており、地上からの観察で竪穴建物跡を確認することができる。

竪穴建物は、一面において定住生活の指標にされているが、短時期で集落が途絶えることが多い縄文時代では、むしろ半定住的なすまいであったと考えられる。竪穴建物跡は、縄文時代の遺跡では普通に発見されるが、その起源はどこまでさかのぼるのであろうか。日本では、縄文時代以前の竪穴状遺構が発見されており、千葉県でも四街道市の池花南遺跡でこうした遺構が発見されているが、こうした遺構は発見された数も少ないことから、一般的なすまいであったかどうかはわからない。

 至近な国外の事例では、バイカル湖に近いロシアのマリタ遺跡やブレチ遺跡から、旧石器時代の竪穴建物跡が発見されているが、これらはヨーロッパに分布する旧石器時代の竪穴建物の系譜を引くもので、直接的に縄文時代の竪穴建物につながらないという。竪穴建物の起源については、定説がないというのが現状らしい。
 竪穴建物は、位置や面積が固定した山間部の洞穴遺跡と異なり、自由な場所に自由な形と大きさで造ることができるはずであるが、形・大きさ・構造は時代(時期)によって異なっている。また、同一の竪穴建物が使用中に改築されることもある。同じ改築であっても、規模が縮小することは稀であり、増築された竪穴建物がよく発見される。竪穴建物の増築は、出産にともなう家族構成の変化が要因とされており、埼玉県上福岡市にある上福岡貝塚の竪穴建物跡(約五千七百年前)のように、七回の増築が行われた事例も知られている。

 市川市内の事例に目を転じると、曽谷一丁目にある向台貝塚からも増築された縄文時代中期(約四千五百年前)の竪穴建物跡が確認されており、三十八軒のうち十六軒の建物に増築が確認されており、集落内で出産が繰り返されていたと推定される。向台貝塚の竪穴建物跡は、床面のほぼ中央に炉があり、炉を中心に上屋を支える柱が配置されている。建物の中央にある炉は、もちろん調理にも使用されていたのであろうが、暖を取ったり、明かりとしても役立っていたのである。現代社会にたとえるならば、蛍光灯とガス台とエアコンの機能が炉に集約されているので、読者の中には思わず「省エネ」を連想した方も多いのではなかろうか。(つづく)

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No44  いちかわの縄文人とその暮らし=ゴミと廃物利用<1>

前回まで、縄文時代のすまいの問題を取り上げてきたが、今回からは現代社会にも通じる「ゴミ」と「廃物利用」の問題を取り上げてみたい。
縄文時代の貝塚は、しばしば「ゴミ捨て場」といわれる。しかしながら、単なるゴミ捨て場と考えるには、これまでも述べてきたように疑問が残る。死んだ人を埋葬したり、住居である竪穴建物を建てたりしているからである。現代人の発想では、墓地とゴミ捨て場が併存する状況は考えられないし、住居とゴミ捨て場が併存する状況も理解に苦しむ。
 貝塚は、貝殻・動物の骨・土器片・壊れた石器などが出土し、現代人から見ればゴミ捨て場ともいえるのであるが、縄文人に同様の観念があったとは考えられない。結果的に、縄文人と私たち現代人が異なる世界観を持っていたという結論に達する。

 埋葬された人骨と貝殻・動物の骨・土器片・壊れた石器などが同じ場所から発見される状況を敢えて解釈するならば、貝塚は一面において「役目の終わった物や人」が帰る場所ということになろう。自然条件に左右されることが多かった縄文人の暮らしには、事物に霊的なものが宿るアニミズムの信仰が浸透していたと考えられる。
 貝塚の遺物で主体を占めているのは、私たちが「生ゴミ」と呼んでいるものであり、貝塚が形成されていた当時は、おそらく悪臭がたちこめていたであろうし、「生ゴミ」を狙って集まる小動物も数多くいたことであろう。貝塚からは、しばしば小さなカタツムリやネズミ・ヘビなどの類が出土するが、後者のうち骨が完全に残っているものは、おそらく縄文人が食用にするために持ち込んだものではなく、「生ゴミ」に関連して二次的に入り込んだものと考えられる。

 余談になるが、縄文時代の貝塚はカルシウム分が豊富で、酸性土壌がアルカリ性に変化するためしばしば変わったものが出土する。たとえば、ウマの歯や骨である。縄文時代の動物に関心を寄せる研究者の中には、明石原人で有名になった直良信夫氏のように、縄文時代の貝塚からウマの歯や骨が出土することを根拠に、縄文時代にウマがいたと考える研究者もいた。
 しかしながら、理化学的な年代測定法が普及した結果、これらが縄文時代より新しい時代の所産であることがわかっている。貝塚から出土するからと言って、すべてが縄文時代の所産とは限らず、後世に家畜などが埋葬されることもあるのだ。旧石器のねつ造問題ではないが、出土した遺物が古いものであるかどうか、丹念にチェックする必要がある。

 また縄文人たちは、注目すべきことに定型的な貝塚を形成しており、現在人がいうところの「ゴミ」、特に貝殻や骨などの生ゴミをやたらに放置せず、使われなくなった住居つまり竪穴建物跡とその周辺に集積し、最終的に「ゴミ」の形が環状もしくは馬蹄形になるようにしている。もちろん、市川の縄文人たちも例外ではない。ゴミの不法投棄が問題になるようなご時世、身につまされるような気がするのは、果たして筆者だけであろうか。     (つづく)

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No45 いちかわの縄文人とその暮らし=ゴミと廃物利用<2>

テレビや新聞のニュースで、ダイオキシンや不法投棄などの「ゴミ問題」がとりあげられ、大きな社会問題となっている。ゴミ問題は、行政だけでなく市民の一人一人が意識し、考えなければならない身近な問題である。
 さて、日常生活から出る「ゴミ」は、人間社会の負の産物として厄介もの扱いされてきたが近年では、古紙やプラスチックのリサイクルに代表されるように、国や自治体が廃物利用を奨励していることもあって、「ゴミ」に対する人々の認識も変わりつつある。しかしながら、廃物利用は何も現代人の専売特許ではなく、私たちの祖先も古くから実践してきたのである。
 驚くことなかれ、日本では、すでに縄文時代から廃物利用が一般化していたのである。もちろん市川の縄文人たちも例外ではない。ここでは、曽谷一丁目にある向台貝塚出土の石器を一例にあげ、縄文時代の廃物利用について紹介してみたい。向台貝塚は、これまでも紹介してきたように、今から約四千五百年前の集落跡である。

 縄文時代には、石をみがいてつくった磨製石斧という道具があり、木を切るために用いられていた。使っているうちに刃こぼれしたり、割れてしまうことがあり、刃こぼれした場合には、その部分をみがいて再生し、割れてしまった場合には、磨石として利用することもあった。磨石とは石皿とよばれる皿のような石の道具の上に、ドングリなどの木の実をのせて殻を割ったり、実をすりつぶしたりするための道具である。これらの石器は、市川に材料となる石が皆無であることから、大半が市外から製品として運ばれてきた。つまり、物々交換に近い形で複数のムラを経由し、はるばる市川の地にやって来たのである。

磨石に転用された磨製石斧は、すったり叩いたりされた結果、石けんのような形になってしまった。転用された磨製石斧は、縄文人が役目を終えた道具をすぐさま「ゴミ」として扱うことなく、場合によっては廃物利用することによって、効率的に使っていたことを示している。
 不況とはいっても、今の日本には「物」があふれており、何らかの職業に就いて普通に生活していれば、「物」に不自由することはまずないが、広い世界を見渡せば、必要な「物」が手に入らない人々は、いくらでもいる。「ふるきをたずねて新しきを知る」という論語の故事がある。縄文人たちからの時を越えたメッセージ、「物」を大切にする心をいつまでも忘れずにいたい。      (つづく)   

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No46 いちかわの縄文人とその暮らし=ゴミと廃物利用<3>

前回は、木を切るために使われていた磨製石斧が刃こぼれしたり、割れたりして本来の機能が果たせなくなった結果、木の実を割ったり、すりつぶしたりする磨石に転用された向台貝塚出土の磨製石斧の事例を紹介した。
 縄文時代の廃物利用は明治時代の考古学者がすでに指摘しており、「廃物利用」という研究分野が黎明期の考古学界にもあった。たとえば、前回説明した磨製石斧を磨石に転用する事例は、尾崎紅葉門下の流行作家・江見水蔭氏も明治四十四年に『日曜画報』という雑誌で指摘しており、その観察力を高く評価せざるをえない。九十年も前に、こうした視点があったことは驚きであるが、「もの」を大切にした時代であったことを考えれば、むしろ自然な発想であったのではなかろうか。

 さて、縄文時代といえば縄文土器。石器の廃物利用だけではなく、縄文土器の廃物利用の事例も当然ながらある。市川市内にある縄文時代の遺跡(貝塚)を発掘すれば、石器をはるかに上回る多量の縄文土器が出土することから、それらが廃物利用されていたとしても、何ら不思議なことではない。縄文土器の破片を使った土錘は、縄文土器の廃物利用としては、最も典型的な一例としてあげられよう。この土錘は、土器片土錘と呼ばれるものであり、漁業用の錘と考えられている。土器片土錘という名前は少々くどいが、はじめから錘にするために作られた土錘と区別するために、この名前を用いることにした次第である。

土器片土錘は、約四千五百年前から四千年前にかけて流行し、市川市内では向台貝塚をはじめとして、柏井町一丁目の姥山貝塚や今島田貝塚などから数多く出土する。近くの川に河原石がゴロゴロと落ちていれば、そうした河原石の端を打ち欠いて、石の錘つまり石錘を作るのであろうが、市川付近には適当な河原石はない。適当も何も河原石と呼べるようなものがなかったと考えられる。

土器片土錘の使用法は、水中に網を張って通り抜けようとする魚が頭を突っ込み、抜けなくなったところを取り上げる刺し網漁の錘とする説と投網用の網の錘とする二つの説がある。河原石を使う石錘と比較して、土器片土錘はやや軽いように感じるが、実際には水が浸透した分重くなるので、錘としての重さが確保できるのである。
土器片土錘が使われはじめた約四千五百年前、市川市内では百メートルを越えるような大型の馬蹄形貝塚が形成され、魚類だけでなく貝類を含めた水産資源が盛んに食用とされるようになった。馬の蹄の形をした大型の馬蹄形貝塚は、約三千年前近くまで形成され続けるが、土器片土錘は約四千年前を境に作られなくなり、棒の先で魚を突き刺す漁法が用いられるようになり、漁の方法に大きな変化が見られるようになる。   (つづく)

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No47 いちかわの縄文人とその暮らし=ゴミと廃物利用<4>

前回は縄文土器の破片を使った土器片土錘に触れてみた。市川市内にある縄文時代の遺跡では、土器片の一部が土錘に形を変えて出土することもあるが、それ以外の形でも廃物利用されることがあった。
たとえば、すまいである竪穴建物の炉の周囲を、壊れた土器片で囲んだ例が報告されている。東京と神奈川の境を流れる多摩川のように、河川敷に河原石が数多く転がっている場所や崖の断面(地層)に河原石が含まれている場所の近くでは、炉の周囲を適当な大きさの河原石だけで囲んだ例もあるが、市川周辺では河原石が河川敷に転がっていないし、崖の断面にも適当な大きさの河原石が含まれていないので、壊れて不要になった土器片で炉の周囲を囲んでいるのである。

 しかしながら、市外から持ち込まれた河原石が炉の周囲に置かれていることもあり、河原石がまったく出土しないというわけではない。竪穴建物は、現代的な呼び方をすれば一戸建て住宅ともいえるが、トイレなしのワンルームという間取りであり、炉と床の段差がほとんどないことから、炉内の灰がはみ出して床に散乱しないために、土器片や河原石で境界をつくる必要があったのである。
 土器片を縁取りに多用した炉跡は、姥山貝塚など市内にある約四千五百年前の遺跡から発見されており、この時期の市川に特徴的な遺構と言えるが、これとは別に底を欠いた土器を竪穴建物の中心に埋め込み、炉にした例が同時期の遺跡に見られる。底のない土器は、大多数が食べものを入れて煮炊きしていた深鉢と呼ばれる底の深い土器であるが、水もれなどで使用できなくなった土器の下半部を壊して転用したのであろう。

 柏井町一丁目の姥山貝塚から発見された約四千五百年前の炉跡で正確の大きさは不明であるが、写真に写った土器片の大きさや最近の発掘例などから推測すると、長径五〇センチ前後と考えられる。炉跡の写真をよく見ると、大半の土器片が内面を炉の中心に向けて、二重三重にめぐっているように見えるが、左下に土器片が一片だけ置かれた部分があり、意味ありげに土器片の両側が空いている。
 おそらく、木などの燃料を燃やして出た灰が増えると、この部分からかき出してしたのであろう。一片の土器片は、灰のかき出しに際して取りはずされ、場合によっては灰をかき出す道具として使用していたのではなかろうか。縄文人たちは、こうした灰の一部を木の実のアク抜き作業に用い、アクの強いトチの実などの食用に役立てていたと考えられている。灰の利用も立派な廃物利用である。(つづく)

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最終回 いちかわの縄文人とその暮らし=ゴミと廃物利用<終>

縄文時代の遺跡を発掘すると、しばしば赤い顔料が外側に付着した土器が出土する。こうした土器は、朱塗土器・丹塗土器・塗彩土器・彩文土器・赤彩土器などと呼ばれ、古くから儀礼や祭祀にかかわるものと考えられてきた。以下、こうした土器を仮に赤彩土器と呼ぶこととし、この機会に市川と周辺の事例を紹介しておきたい。

日本で最も古い赤彩土器は、宮崎県の塚原遺跡から出土した約一万二千年前の縄文土器であり、赤彩土器の起源が縄文時代の初頭にさかのぼることがわかっている。赤彩土器の流行は、時期と地域によって異なっており、市川周辺では約五千五百年前と約四千五百年前に流行するものの、それ以降は減少傾向をたどるらしい。
 約五千五百年前の赤彩土器は、考古博物館の対岸にある中国分五丁目の上台貝塚から出土しているが、その数は極めて少なく小さな破片の状態で発見されている。四千五百年前の赤彩土器は、柏井一丁目の姥山貝塚や曽谷一丁目の向台貝塚から多数出土しており、その一部が報告書で紹介されている。

 姥山貝塚や向台貝塚から出土した赤彩土器は、浅鉢や鉢と呼ばれる盛りつけ用の浅い土器が多く、煮炊きに使う縦長の深鉢は少ない。土器を直接火にかける深鉢は、赤い顔料を塗っても煤などで色が見えなくなることから、基本的に顔料を塗ることはないようだ。逆に言えば、赤い顔料が塗られた深鉢は、煮炊き以外の用途に使用されていたのである。

 浅鉢形の赤彩土器は、粘土紐を貼りつけたり、縄文を転がして図形的な文様が描かれた土器と文様がまったく描かれていない無文土器の二種類があり、上半部に赤色顔料が塗られている。特に無文土器は、赤彩土器に特有な半円形・楕円形・長方形などの文様が描かれており、しばしば上から見ることが強く意識されて、土器の内側に文様が描かれることもある。姥山貝塚や向台貝塚の浅鉢は、副葬品として墓地から出土する約五千五百年前の浅鉢とは異なり、絶対数が多く墓地から余り出土しないことから、死者の埋葬と直接関係しない土器と考えられる。

 今日では、理化学的な分析方法が整備されつつあり、赤彩土器の顔料の成分を分析することにより、水銀を含んだ朱であるのか、酸化第二鉄を含んだベンガラであるのかが、客観的に判断できるようになった。朱の上限年代は、赤彩土器の文様から判断して約四千年前と考えられていることから、市川周辺では余り朱が使用されなかったようだ。ベンガラは、近年になって一部にパイプ状の物質が含まれていることがわかり、こうした物質が湿地で形成されることがわかってきた。
 筆者は、姥山貝塚や向台貝塚から多数の赤彩土器が出土していること、底部の内面に顔料が付着した土器(顔料の貯蔵容器?)が出土していることから、湿地で形成された褐鉄鉱が集落内に持ち込まれ、赤色顔料が製造されたのではないかと考えており、そのことを裏付ける物的な証拠を求めて調査を続けている。 (おわり)

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