市川よみうり連載企画
         土史研究家前田 智幸

浦安の歴史のはじまり


万葉集には、市川の真間に住んでいた手児奈という美しい女性を偲んで詠んだ歌が何首もある。

     葛飾の真間の入江に  打ち招く玉藻刈りけん  手児奈し思ふ  

水辺にあそぶ手児奈を詠んだ歌である。万葉のころは、市川の真間が入江になっていて、波が打ち寄せていたのである。
 行徳から浦安にかけての土地は、はじめに太日川(現在の江戸川)が土を運び干潟をかたちづくっていった。そこにアシやススキなどの植物が自生し、枯れて折り重なり次第に陸地に変えていった。植物がつみ重なっていく厚みは一年で数ミリに過ぎない。  太日川の流れと水辺の草木が何百年もの歳月をかけて創りあげてきた土地に、いつ頃から人が住みはじめたかははっきりしない。伝承によると、土着の武士が台頭し、公家による荘園統治に陰りが見え始めた鎌倉時代の前期とみられる。武士たちは力をつけるために積極的に開墾を行った。そのときに、稲作の技術を持った人たちが住み始めたとみられる。漁の技術を持った人たちが住み始めたのは、それから四百年ほど経った江戸時代に入ってからである。
 家康が江戸に入部したのが天正十八(一五九〇)年だが、それまでの江戸湾の漁は、岸辺の小魚を落とし網で獲る程度に過ぎなかった。網を使って大量に魚を獲る漁法をもたらしたのは家康と共に江戸に移り住んだ西国の漁師たちである。静岡や和歌山などの西国からきた漁師たちは、網を使って大量に獲った魚を天日で乾燥させ、関西に持っていって販売するようなことも始めた。浦安には築地の魚河岸で仕事をしている人が多いが元をたどればこうした漁師の知恵にゆきつく。
 不思議なことに浦安の方言は、隣接する江戸や千葉とは異なり、どちらかといえば伊豆七島や静岡の方言に近い。それは西国の漁民たちが黒潮にのって江戸湾の沿岸に住み着いた痕跡でもある。
 大自然が創り上げた土地に最初に住み始めたのは稲作文化を持つ“土の民”であった。そこに漁の技術を持った“海の民”が住み始めた。浦安の文化は、土の民と海の民とがつくりあげてきた“移民のまちの文化”なのである。作家の山本周五郎や山口瞳を引きつけてやまなかった元町の開けっぴろげで、世話好きで、何事にもくよくよしない独特の人情は、土の民と海の民とが出会い、長い年月をかけて醸成されてきたのである。  昭和四十年までの浦安の人口は一万数千人に過ぎなかったが、平成十三年には十二万人をこえた。移民のまちであることは今も変わりはない。
<2002年5月4日>

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浦安の守護神


 神話によると、天照大神は天界から地界に降りてくるとき、豊受気媛神より五穀(米、麦、粟、胡麻、小豆)の種を受けとり、広めたと伝えられている。トヨは美しい、ウケは「食」のことであり、食料をあらわす。ヒメは女神、つまり食料の神は女神であるということである。浦安の代表的な神社の一つ、豊受神社に祭られている神は、稲穂にやどる美しい精霊、豊受気媛神である。
 かつて豊受神社の境内の中に海神社という小さな祠があった。ここには豊玉比売神が祭られて、この神には、男性の横暴を戒め、子どもの健やかな成長を祈る女性の願いが込められている。

 日本武尊が東国を平定するため伊勢を出発し、箱根を越えて三浦半島まで軍を進めたが、そこから先に進めなくなってしまった。東京湾の浦賀水道付近の海は、いつも潮流が早く“走水の海”とよばれ恐れられていた。波立ちならが激しく潮が流れるのは、この海にすむ龍、大綿津見神の仕業だと信じられていた。前に進めない軍を見てタケルの妃、弟橘媛は「私が竜神を静めに行きましょう。海がなぎたら素早く軍を進めなさい」といって海に飛び込んだ。こうしてようやく軍を木更津に進めることができた。
 “走水の海”には、海を司る龍神が棲むと畏れられていた。そして、その神の棲む龍宮への入り口が浦安沖にあると、地の人たちは信じていた。浅瀬の海にはたえず流れのある海中の川がある<2002年5月4日>。この流れは澪と呼ばれている。船橋から浦安にかけて、三番瀬を横切るようにして流れる大きな潮うねりがあり、漁師はこの流れを大澪と呼んでいた。流れは、浦安の高洲付近で大きく流れを変え湾の真中に向かって落ちこんでいた。

 この流れの変わるところに漁師たちは、龍宮の入り口を示す目印の棒木を立て龍宮の棒木と呼んでいた。豊受神社は五穀豊穣と子どもの健やかな成長を願う人たちによって建てられた女体神社である。
 もう一つの浦安の代表的な神社である清竜神社は、漁の安全と豊漁をと願う人たちによって建てられた男体神社である。浦安には、いくつもの白蛇民話があるが、白蛇は龍神の化身である。
 また、豊受神社境内のほこらの祭神、豊玉比売神の父親は大綿津見神である。すると二つの神社は親戚ということにもなる。そこに“土の民”と“海の民”が和合していった知恵が読み取れる。浦安の守護神には、大自然に畏敬の念をいだきつつ、暮らしの安泰を願った人々の祈りが込められている。
<2002年5月18日>

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浦安の屋敷稲荷


浦安の旧市内は、屋敷稲荷の多い町である。九助稲荷、板倉稲荷、家守稲荷など、数はハッキリつかめないが、堀江、猫実、当代島を合わせると30社ほどあるとも言われている。浦安にはキツネにまつわる民話が多く残っているが、稲荷信仰とは無縁ではない。
昔話に出てくるキツネたちは、どれもいたずら好きだ。いい温泉を見つけたからといってだまして肥溜めに入れたとか、漁師の釣ったうなぎをビクの中からねこばばしたとかという話しが多い。

 しかし、稲荷の鳥居の前に門番としてキツネが座るようになったのはそれなりの訳がある。キツネは稲を食い荒らすねずみや田んぼの土手に穴をあけるモグラなどの小動物を餌としていることから、稲を守ることにつながり、次第に大切にされるようになっていった。
稲荷に祭られているものの多くは倉稲魂命という「稲穂に宿る精霊」で五穀豊穣の願いが込められている。江戸時代も元禄時代になり、町民の生活ゆとりがでてくるようになると商人のあいだで自分の屋敷内に稲荷をつくることが流行となる。

稲荷信仰の起源は五穀豊穣の祈りだったが、江戸時代になると、それが商売繁盛の願いをかなえる屋敷神として祭られるようなる。「うちのお稲荷様ごりやくあるよ。やしろを建ててから、商いが大きくなってね」と屋敷稲荷の自慢をする者がいると、「そんなにごりやくがあるのか。それじゃ、うちにも祭るから子神をもらえないか」というようにご利益のあるといわれる稲荷の子神がどんどん広がっていった。神社を建てるのと違って、稲荷を祭るのにあまりわずらわしいしきたりもなかったことも広がっていった理由である。

江戸時代、米は貨幣的な役割を果たしていたことから、稲荷は商売繁盛の守り神というように信仰の目的も変化していったのだ。そして、キツネもまた金庫の番人的な存在へと変化していった。
家康が江戸に居を構え大名屋敷ができると、将軍家や大名に魚を納めるための「市」が日本橋にたつ、それが町民の町として拡大していくにつれて、庶民の台所もまかなう魚河岸に発展していった。浦安に屋敷稲荷が多いのは、この江戸の風習を真似たものとみられる。

 江戸時代、浦安の人たちの暮らしは半農半漁、江戸から観光客がくれば地引網を引かせて現金収入を得ていた。その様子を文政5年(1908)に猫実に観光にきた村尾嘉陵が『江戸近郊道しるべ』(平凡社)に記している。
 江戸時代から日本橋魚河岸に海苔や魚貝類を納めていた浦安の村々は、やがて江戸の商家を真似て、網元や海苔商の敷地内にも屋敷稲荷が祭られるようになっていった。
<2002年6月1日>

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浦安を天領にした家康の野望


 天正十八年(一五九〇)、秀吉の命によって家康が江戸に入部すると、葛西から浦安、行徳地域を天領(家康の直轄地)にした。それには、秘められた理由があった。家康がどんなに緊張感を持って江戸入りをはたしたかは『徳川實紀』第一巻に記されている。
 『関八州といえども房州に里見、上野に佐野、下野に宇都宮、那須陸奥に佐竹あれば、関八州の内、御領となるのは、わすか四州なり。…関東は年久しく北条に帰服せしめし地なれば、新たに主を替えれば必ず一揆蜂起す。土地不案内にして一揆を征伐せんは必ず敗れるなり、その敗に乗じて、計らいさまざまあるべしと秀吉が胸中』。

 家康は、北条氏と親交の深かった大名たちの中に放り込まれたのだ。北条征伐の大将だった家康に関東の大名たちの反感も強かったに違いない。家康は、この大名たちとの戦になれば敗れるかもしれないという危機感をもって江戸に移ってきたのだ。またそうなることを秀吉は望んでいることも家康は知っていた。
 慶長十八年(一六一四)一月の七日から十七日まで、家康は葛西から下総東葛飾郡一帯で大掛かりな鷹狩りを行う。鷹狩りといっても花見遊山ではない。鶴や白鳥などの狩りをしながら川を走り渡り、草木を踏み分けて一日二〇から三〇キロメートルも移動した。馬に乗っているのは男性では家康ただ一人、武将といえども徒歩だった。この鷹狩りで家康は武将たちの気力体力を試した。じつは、この鷹狩りには特筆すべきことがある。

 厳冬の鷹狩りとはどんなに厳しいものかを体験させるため武将の妻たちを同行させた。日ごろは輿しか利用しない奥方たちが、馬にまたがって狩りを見学したのである。
 正月早々、武将の妻たちを引き連れてまで厳しい鷹狩りを行ったのは家康の強い決意のあらわれでもあった。実は東葛飾郡の湿地帯を、同じような地形を持つ大阪城周辺の冬の戦場に想定した、軍事訓練だったのだ。それは、この年の秋に「大阪冬の陣」の幕が切って落とされたのでわかる。いまは、葛西、浦安、行徳と行政区は分かれているが、江戸時代は、為政者もそこに暮らしていた者たちも、一つの集落のように考えていた。

 家康は、豊臣家との戦を想定し、この地域を重要な軍事訓練の場としたのだった。
 もう一つの理由は、鎌倉時代から行徳一帯の海辺で塩焼きが行われていたことにある。自給自足を大原則とする大名という武士組織にとって、塩は米と同じように重要な軍事物資である。上杉謙信に塩を封鎖され、難儀した武田信玄を見ていた家康は大金を投じて行徳塩浜の塩焼きを保護育成した。
<2002年6月15日>

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東京湾の養殖漁業を支えた浦安の漁民


 視野を広げて、江戸の町はなぜ発展できたかを考えてみたい。一六〇〇年代の初頭から始まった江戸のまちづくりは、百年足らずで世界最大の都市に発展していった。その発展に最も大きな影響を及ぼしたのが食料の供給である。
 家康は江戸入部と同時に伊奈忠次に命じて、関八州の河を運河で結ぶ大土木工事を始めた。伊奈家に代々受け継がれ、百年を要したこの運河の完成によって千葉、埼玉、群馬、栃木、茨城の各地域から高瀬舟を使って米や物資を運ぶことができるようになった。八百俵の米も一艘の船に船頭六名で運べるようになったのである。陸路しか利用できないとすれば、荷車六十台に同数の馬と馬子を必要とした。所要時間も現代人が想像するよりはるかに速い。

 銚子を上潮に乗って利根川をさかのぼり、関宿で江戸川に入り、行徳から新川、小名木川と渡り翌日の夕方には日本橋の市場に届けることができた。銚子−日本橋間は二十四時間で結ばれていたのである。
 人間は米や野菜だけでは生きて行けない。動物性のたんぱく質も必要である。肥大化していく江戸の町に、魚貝類など動物性のたんぱく質を供給できたのは豊かな漁場・江戸湾があったからにほかならない。しかし、一七〇〇年代になると新しい魚網や漁法が次々と開発されていくのに、水揚げ高が伸びなくなり、漁村間で漁場や漁法をめぐるトラブルが多発するようになった。乱獲が原因であった。

 そこで文化十三年(一八一六)、江戸湾内の魚浦総代が集まって協定を結んだ。これが「漁具三十八職」といわれる漁業協定。一職は一つの漁法で、同時に漁期もさす。通常一職は四か月間だった。この協定で三十八の漁のやり方について、漁具、魚網の長さ、網目の大きさなどの取り決めができた。今から二百年も前に、漁村間で自然資源を保護しながら収穫していこうという考え方が生まれたのである。

 一八〇〇年代半ばには木更津から川崎にかけての浅瀬の海で、木や竹の枝に胞子を植え付け、それを規則的に並べた海苔の養殖が行われるようになる。その枝のことを「ヒビ」というが、日比谷という地名もこの海苔の養殖に由来している。  浦安での養殖漁業も歴史は古い。明治二十年、猫実の田中徳次郎は千葉県の委託を受けて幼貝の養殖に取り組む。幾度も失敗した後、浦安地先の“えまっか沖”(現在の日の出地区)でハマグリとアサリの幼貝、行徳塩浜の地先でカキの養殖に成功する。そして、そこに十万坪にもおよぶ幼貝の養殖場をつくったのである。ここで養殖された幼貝は、東京湾の各漁協に供給された。浦安での幼貝の養殖は東京湾全体の養殖漁業を支えていたのである。
<2002年7月6日>

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「浦安」にこめられた祈り


 明治二十二年の市制・町村制施行にともない堀江、猫実、当代島の三村が合併して「浦安村」となった。合併には、同じ行徳領である新井や欠真間などをあわせた案もあったが、そうならなかったのは、三村は漁業の村であり、ほかは農業の村だったからだ。初代村長の新井甚左衛門は、安らかな魚浦の願いをこめて「浦安」と命名したと伝えられている。しかし当時の村の人たちは、すでに「浦安」という言葉に親しみを持っていたと考えられる。

 慶長十一年(一九〇六)、家康は江戸城本丸の増築と城石垣の増改修工事を始め、多くの石工が集められた。本丸基礎や城壁用の石は、伊豆から切り出されて船で運ばれた。そして、江戸城近くの日本橋川沿いに造られた加工作業所に荷揚げされ、荷揚げ場所は、小田原の石工が使う場所を小原河岸、鎌倉の職人が使う場所を鎌倉河岸とよぶようになっていった。
 工事が終わってもこの作業所跡は船を横付けして荷揚げるのに便利なことから、そのまま使われることになる。そこに家康は魚貝類や野菜を納めることを条件に、西国(紀州)商人たちに「市」の設置を認めた。
 徳川家が買い上げた魚の価格は市価の十分の一以下、支払いは半年に一回というひどい条件だった。そのため、仲買人は魚会所という組合をつくって会費を納め、損を補てんし合った。いまでも日本橋の付近に乾物店、海苔店、刃物店が多いのは魚河岸の名残である。

 この河岸の近くに鎌倉出身の職人たちが集まって町をつくった。その町を「鎌倉町」という。いまの神田駅近くである。鎌倉町には、職人たちが住みはじめる四、五百年も前から「伏見深草の分霊」というほこらがあり浦安稲荷神社と呼ばれていた。この稲荷神社はいつのまにか職人たちの守護神としてあがめられるようになっていった。
 元浦安町助役(故)金川義雄氏は、古老に聞いた話として「稲荷の境内には力石が置いてあり、力自慢の漁師も通った」と言っていた。市場に魚貝類や海苔を運んでいた堀江や猫実、当代島の漁師たちにも、神社は身近な存在であっただろう。そして、甚左衛門が漁浦の安泰と三村融和の基として「浦安」の名を示したとき、親しみをもって受け入れたに違いない。

 「浦安」に込められた意味が広く知れるようになったのは、昭和十五年に昭和天皇が詠まれた一首がきっかけとなる。
  天地の神にぞ祈る
  朝なぎの海のごとくに波立たぬ世を
 この平和を祈る心の詩に雅楽の振りをつけ「浦安の舞」として、いまでは全国各地の神社で奉納されている。
<2002年7月20日>

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浦安の品格


 次に浦安の自然災害との闘いの歴史を見ていくことにする。警察のOBは、「署長として新たな警察署に赴任して、最初にやったことは、町の古老を訪ね、語り継がれて来た大災害のときの状況を聞くことだった」と話した。関東大震災のとき深川では滝のように瓦が流れ落ち、地割れから緑色の水が、柱を建てたように噴き上げたという。
 行政にとって防災対策や災害時対策がもっとも重要な政策であることは、昔も今もかわらない。とくに浦安の場合、自然災害に悩まされ続けてきた。昭和五十年代まで、まちづくり基本計画といえば、防災対策計画をさしていた。それほど深刻だったのだ。

 現在の人口は約十三万人。その約半数が通勤や通学で毎日街を離れる。逆に毎日約十万人の人が観光や仕事に訪れる。もし日中、阪神淡路大震災クラスの地震に襲われたとすると救助・救命、安否の確認や食料の調達、帰路の確保など、さまざまな重要課題が同時に発生する。そのときに、何より先に立ち上げなければならないのが緊急情報受発信体制である。
 ところが、阪神淡路大震災の例をみると、行政側窓口が機能し始めるのに三日ほどかかる。災害直後はノンコントロールの状況に置かれるのである。災害直後の最も困難なとき、初めに駆けつけてくるのは、県でも国でもない。隣の人たちだ。そのことは浦安の災害の歴史や先の大震災の例が実証している。災害時には、自治会や自衛消防団などを核にしたローカル・エリア・ネットワークが不可欠なのである。

 いまの市民の暮らし方は、とかく自らのライフスタイルを大切にすることに目が置かれ、他人の暮らし方には無関心になりがちである。しかし、災害時対応策の根幹をなすものは、立派な防災センターを持つことではない。市民一人一人が自己犠牲をともなう相互扶助の心構えを持つというスピリチュアルな共通認識である。
 浦安に人が住み始めてから約九百年ほどになるが、その間、自然の恩恵に感謝しつつも自然災害と闘わざるを得なかった苦しい闘争史がある。おおよそ五十年周期で、家も田畑も漁具も、人々から生きるのに必要なものの全てを奪い取る大災害に見舞われたのである。その数々の困難を乗り越え今日の浦安の姿にしたのは“自己犠牲をともなう相互扶助の精神”が手から手に受け継がれてきたからにほかならない。それこそが守り、育て、次の世代に伝えるという浦安の精神文化であり、浦安の品格である。次回は、浦安市民として自然災害にどのように向きあうべきかを考えてみる。
<2002年8月3日>

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町を襲う大津波(前編)


 浦安の歴史は、自然災害との闘いの歴史でもある。調べてみると、ほぼ五十年周期で壊滅的な被害を受けていることがわかる。ほとんどが台風による高波の被害だ。まちが災害の恐怖から解放されたのは、浦安九百年の歴史のうち、後ろのわずか五十年にすぎない。
 明治二十八年(一八九五)七月(日は不明)、梅雨末期の豪雨により江戸川が増水し始めた。堀江の先には開墾によってつくられた新田(現在の富士見地区)が広がっていた。その新田と江戸川との間には土手が築かれていた。水かさが増えているというので、多くの人たちが土手の上から、心配そうに濁流を眺めていた。この濁流が土手を越えようとしたとしたとき、人々は土手の上にスクラムを組んで座り、土のうで堤防が補強されるまで、人間堤防を築いて水田を守ったのである。

 こうして守った堤防も大正六年(一九一七)の台風でズタズタに寸断されてしまう。マリアナ諸島付近で発生した熱帯性低気圧は、勢いを強めながら真っ直ぐ北上してきた。九月三十日は、数日前から分厚い雲が低く空をおおい、生あたたかい風が吹いていたが、夕方ごろから風の勢いはますます強くなってきた。人々は船のもやい綱を締め直し、戸締まりを厳重にして備えた。しかし、台風はこれまでの経験をはるかに超える規模だったのである。気象庁始まって以来の大型の台風が襲ってきた。
 しかも、三十日は年で最も潮位が高くなる満月の日だった。その満潮と時を合わせて、強烈な南風が東京湾に吹き荒れるようになった。これにより東京湾奥の沿岸では十月一日午前一時、通常位よりも潮位が一メートル以上も急上昇し始めた。そして三時には二メートル以上も上昇していた。浦安はさらに悪条件が重なり、町の南側は三キロも先まで遠浅の海が広がっていた。異常に高まった潮位は、海が浅くなるにつれてさらに大きなうねりとなり、高さは四メートルを超えていた。

 この壁のようなうねりが浦安沿岸に向かって走りだした。速さは時速にして一五キロ。午前三時五十分、うねりは堤防を乗り越え三メートルの大津波となって襲いかかった。誰かが叫ぶ「津波だ〜」の声と同時に、バリバリと雨戸や壁がはじけ飛ぶ音。流木にしがみつく人。流されまいと柱に抱きつく人、次々と襲う津波に追われて屋根に逃げる人。いたる所であがる「助けて〜」という悲痛な叫びを、烈風はすぐに打ち消し、荒れ狂った濁流は人を屋根に残したまま押し流していった。浦安小校庭の水深は七尺(二メートル)に達した。そして五時五分、津波の二波が襲う。
 こうして浦安の町は烈風の吹き荒れる濁流の中に沈んでいった。十月一日午前二時三十分の気圧は九五二ヘクトパスカルまで降下、瞬間最大風速は四三メートルに達し、雨量も一六〇ミリを超えていた。
<2002年8月17日>

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町を襲う大津波(後編)


 大正六年十月一日未明に関東地方を襲った台風は、浦安にも甚大な被害をもたらした。
 明け方には風雨もおさまって、町から水も引き始めた。夜が白み始めて人々が目にしたのは地獄絵図そのものだった。
 濁流によって寄せ集められた流木の山には多くの死体が引っかかっていた。また濁流の通り抜けた所では、家が跡形もなく消え去っていた。夜が明けてくるとすぐに町民総出の行方不明者探しがはじまった。

 日が高くなって、小さな男の子の亡がらが、若草幼稚園近くのガレキの中から見つけ出された。この子は母親にねだって団子をつくってもらい、梨を買ってもらって、秋夜の満月を見るのを楽しみにしていたという。その子を濁流は飲み込んでいった。胸には梨が両手でしっかりと抱きしめられていた。それがいっそう人々の涙をさそった。
 この台風による被害は
 死者四四人
 行方不明者一人
 負傷者一一五人
 流出家屋九七戸
 同作業所三〇〇戸以上
 破損家屋一七一九戸
 決壊堤防三三四〇メートル
 全戸の七割が被害を被った。多くの人たちは身内や親族の者を失くし、家も、船も田畑も、着る物も食べるのもの流されてしまった。小学校や社寺、漁協の建物などが仮住まいとして用意されたが、そこに八百八十所帯延べ三千五百三十五人が避難して、どこもすし詰め状態だった。

 こうした状況にもかかわらず県や国の支援はてこずった。橋は流され、市川の方から陸つたいに浦安に近づこうにも、行徳の先の湿地帯は湖と化してしまい、悲惨な状況が知れるのに時間がかかり、県の対応が遅れたのである(当時、江戸川放水路はなかった)。
 『浦安町誌』にも救援態勢に混乱があったことが記されているが、救援が本格化したのは十月五日ごろからである。一日から五日までの間、どのように対応したかは、記録が見当たらないのでわからない。しかし、はっきりしていることは、外部からの救援の手がのびてくるまで、お互いに助け合い、励ましあいながら耐えたということだ。

 日の出や高洲などの埋め立て地が海面より二メートル高くなっているのは過去の教訓をいかしてのことである。だが安心できない。国立環境研究所が平成十二年一月に作成した『海面上昇データブック2000』に「東京湾に対する台風の被害」の研究が報告されている。
 それによると、伊勢湾台風(九四〇ヘクトパスカル)と同規模の台風が、地球温暖化により中心気圧九二五ヘクトパスカルに発達し、大正六年の台風とほぼ同じコースをたどった場合、千葉市から東京にかけての潮位は通常よりも二メートル以上上昇すると予測している。
 災害対策はいつの時代も、街の最重要課題なのである。
<2002年9月7日>

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五人に一人は地震避難民


  キティ台風による浦安の住宅の被害は全・半壊合わせて三百九十戸。全戸数三千二百四十戸のうち被害をまぬがれたのはわずか三百二十戸にすぎない。
 昭和二十四年九月一日未明、電話線が寸断され道路も水没し、外部との連絡はとれなくなってしまっていた。やむなく宇田川謹次町長は、風雨のおさまるのを待って、町職員に徒歩で千葉県庁まで救援要請に行くように命じる。運よく、行徳まで来たが道が水没しているためそこから進めないでいた県機動隊と遭遇。被害の状況は直ちに無電で県に報告された。このときの県の対応は早かった。その日のうちに緊急食料の乾パンや食パン、梅干し、漬物などが届いた。しかし、受け入れ態勢が混乱し、町民も後片付けに追われていたため食料の町民への配給はとどこおった。救援体制がととのったのは四日ごろからだ。

 このとき素早く対応したのは隣人たちである。江戸川区は浦安町の要請を受けて、すぐに飲料水を届けてくれた。町が浸水したことにより汚水が流れ出たため、伝染病の赤痢患者が加速度的に増えていき、七日には十七人もの新たな患者が発見された。大正六年の教訓が生かされ、台風による死者は出なかった。しかし赤痢による死者は七人にものぼった。安全な飲料水の確保は急務だったのである。
 浦安に食料を真っ先に届けてくれたのも隣人たちだった。南行徳の消防団と婦人会は地元醤油工場の倉庫を借りて、一日から県の救援活動が本格化するまでの間、炊き出しをおこない届けてくれた。

 また一方で、浦安は大変な思いをしながら隣人を支援したこともある。大正十二(一九二三)年九月一日午前十一時五十八分、マグニチュード七・九の大地震が関東地方をおそった。地震直後に同時多発した火災は東京市に壊滅的な被害をもたらした。死者・行方不明者合わせて六万八千人にものぼったのである。火災はすさまじく、三日経っても、夜になると東京上空の雲は炎の色で赤く染まっていた。このとき、浦安には東京方面から二千二百人の人が避難してきた。そして浦安町は、罹災者たちに炊き出しを行い、仮設住宅を提供した。

 子どもたちが増えたうえ浦安小学校も被害を受けたので教室が間に合わず、日ごろは娯楽の場でもある浦安亭や演技館まで教室に当てられた。その後、校舎を増築までした。貧乏のどん底であえいでいた人口わずか九千二百人の町が、自分たちの生活を犠牲にしてまで町人口の二割にあたる罹災者を受け入れたのだった。
 災害時は救援を受ける方に苦労が多いが、する方にも大きな自己犠牲がともなう。しかし、相互扶助の精神が発揮されたからこそ、多くの人たちが救われてきたのである。そのことは、多くの歴史が教えてくれている。
<2002年9月21日>

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水難から解放の悲願達成


浦安は明治四十四年、大正六年、昭和二十四年と大きな台風におそわれて甚大な損害をこうむった。キティ台風の被害を例にとると、被害額は二億六千万円であった。この額は、当時の町予算の五倍にもなる。こんな周期で大災害にみまわれ、舟や漁具は流され、田んぼは塩水をかぶり、家に損傷をうけるのだから、町も住民もその対策と後始末に追われた。昭和五十年ごろまで「浦安の街づくり計画」といえば、防災計画であったといっても言い過ぎではない。浦安が貧しかった最大の理由はここにある。たび重なる自然災害のため、その復旧に追われ道路や橋、学校など社会資本の整備は進まなかった。

 町民も貧しく、その日暮らしに近かった。特に堀江の被害はひどく、ここに住んでいたのでは命も守れないと江戸時代には日本橋の小網町に、明治には隣の江戸川区に集団で逃げ出した。江戸川区に「堀江町」の地名が残っているのは、集団移住の名残なのである。
 江戸川デルタの浦安では、海抜ゼロメートルのところがほとんどで、高くてもせいぜい二メートルほどしかなかった。このため、洪水のときに身を守れる場所はごく限られており、人々は道路をけずり、軒と軒をくっつけて暮らす以外にはなかった。元町の道幅が狭いわけもここにある。町は台風の襲来を受ければ水に沈むのがわかっていても、土のうをつくる袋を買う予算も組めなかったほど、貧乏だったのである。

 昭和二十四年のキティ台風は、水害に加えて、伝染病の急速な拡大という新たな恐怖を与えた。急増する患者に葛南病院のベッドが間に合わなくなり、水害罹災者の仮設住宅に加えて、伝染病患者を収容する隔離病棟も仮設で用意せざるをえなくなった。
 枕を高くして寝るには恒久的な堤防の建設がどうしても必要であった。こうしてキティ台風直後から、国に堤防の建設を求める運動が高まってきた。町民の生命財産を守るための町民一丸となった運動のかいがあって、国の事業として堤防の設置が、ほぼ内定したかに思えた。ところが、同じ年に、関西方面を襲ったジェーン台風も甚大な被害をもたらした。そのため国は、この被害対策にも対応せざるをえなくなる。そうしたことから、浦安の堤防建設の雲行きがあやしくなってきたのである。これにあわてた町は、必死の巻き返し運動を展開し、やっとのことで本決まりとなった。こうして、昭和三十年、境川の二つの水門を含む七〇〇〇 の堤防は完成した。浦安が水難から解放されたのは、堤防と水門が完成した昭和三十年(一九五五)以後のことである。
<2002年10月5日>

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 循環社会の崩壊


浦安の歴史は、自然災害とのたたかいの歴史であると同時に、自然環境を破壊しようとする者との闘いの歴史でもある。
 昭和の初めから昭和四十年代まで、糞尿処理場設置問題、ゴミ処分場設置問題、工場廃水による河川汚染問題、地盤沈下問題、騒音問題など、じつにさまざまな自然環境破壊問題が次から次へとおきた。この時代は工業化最優先で、地域住民の健康や生活の場を守ろうとする訴えは、ほとんど無視されつづけた。生活権を守ろうとするギリギリの訴えに対しても、国や県は耳を貸そうとはしなかった。というより、ふみつぶそうとした、と言った方が近いのかもしれない。

 「公害」「環境破壊」という言葉もなかった時代に浦安の人たちは、国の方針に正面から異議を申し立て、自らの生活権を守ってきたのである。
 江戸時代からうまくいっていた循環型システムが崩れていったのは、大正時代に入ってからである。釘を用いない日本の伝統的な家づくりの一番の目的は、木材の再利用だった。伝統的な組み木工法は限られた資源を活かす先人たちの知恵だったのだ。庶民の女房たちは、たとえ手のひら大の布切れでさえ着物のつくろい用に大切にしまい込んだ。

 また、いまはゴミとなっている物も売れ、家計のたしになった。糞尿は肥料として、台所の残り物はたい肥づくりの原料として、かまどの灰は土質改良剤として、農家が買っていった。農家は東京近郊の町屋からこれらを買い取り、それで青々とした野菜にして町に届けた。そのことを徳富蘆花は『みみずのたはこと』の中で「不浄をもって浄をなす。農夫は神の子なり」と描いている。
 ところが東京が肥大化していく大正時代にはいると、この循環システムがうまく機能しなくなっていく。夕方になると品川や渋谷、新宿、目白、千住などの街道筋の上り坂や橋のたもとでは肥桶を満載した荷車で渋滞するようになっていった。そのため農家は、時間のかかる神田、日本橋などの市中心部まで行きたがらなくなっていく。

 つまり東京市の周辺部では糞尿が売れるが、中心部では清掃料を支払わないと来てもらえなくなるという目玉焼き現象がおき、次第に黄身の部分が拡大していった。「早く来てくれなきゃ、こぼれるじゃないか」と騒いでいる奥方たちをみて、蘆花は「バアやの来るのが遅いとじれている子どものようだ」と揶揄している。
 東京は、糞尿の処理に困り果て、隅田川の水に薄めて流したり、海に捨てたりするようになっていった。そうした深刻な東京の糞尿問題のとばっちりを浦安は受け続けることになった。

 つぎに、浦安の環境破壊との闘いの歴史を見ていくことにする。
<2002年10月19日>

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 県を見捨てた浦安町民〈上〉


戦前の浦安は二度にわたって東京の糞尿処理場として狙われた。東京が肥大化し始めたのは、大正時代に入ってからである。明治時代までは排泄物は肥料の原料として回収され、それで育てた野菜が東京市民の食生活を支えていた。明治時代まではムダを出さない社会だった。
 しかし、「富国強兵」のスローガンのもとに始まった重化学工業社会の進展にともなって、東京も肥大化していった。大正時代の後期になると、排泄物と農作物の循環が崩れ始めた。排出量が使用量を上回るようになっていったのである。こうしたことから東京市は、公営の汲み取り事業を始めざるを得なくなった。しかし、そこでまた新たな問題が持ち上がった。集めた糞尿の処分が思うようにいかないのである。そのとき、東京は三つの処分方法を考えていた。一つはダルマ船による海洋投棄。二つ目は糞尿を川から汲み上げた水で薄めて再び川に放流。三つ目は、肥料あるいは肥料の原料として売る、だった。

 この三つ目の方法にとびついた会社があった。東京・有楽町の豊国肥料株式会社だ。昭和四年四月、浦安での肥料工場建設計画が千葉県に提出された。受理されるとすぐに営業許可願が浦安町役場に申請された。その内容を見て町は驚いた。計画では、その肥料工場は堀江の地先の原野に建設が予定されていて、東京から糞尿をダルマ船で運び、一旦、工場に併設されたプール状のストックヤードに流し込む。その糞尿を汲み上げ機械乾燥させ、肥料にする計画だった。そんな肥料工場は日本のどこにも造られていない前代未聞の工場だった。

 工場予定地は町民の飲料水として利用されている江戸川に接していた。そして、その土地を守るはずの堤防は、水害のたびに決壊をくり返していた。そのことから町は、住民の衛生面や健康面、町の特産品である海苔の養殖などに重大な悪影響を与える恐れがあるので建設許可の取り消しを求める要望書を添付して、許可権限をもつ県に提出した。ところが、町民の意に反して、まもなく営業許可も認可されてしまう。
 まさか、町民を犠牲にしてまで、一私企業の利益を優先されることはないと考えていた町に衝撃がはしった。すぐに県に対し許可の取り消しを求める陳情がはじまった。しかし、くり返される陳情にも県の反応は鈍かった。浦安町民のせっぱ詰まった声にも耳を貸そうとしなかったのである。

 昭和四年七月十四日、浦安小学校には、ムシロ旗が立ち並んでいた。肥料工場建設反対町民大会会場の講堂は駆け付けてきた町民で、うだるような暑さだった。自分たちの生活環境が破壊されようとしていることに、町民のイライラがつのっていた。町にとっては、何が何でも建設を阻止しなければならなかった。 (つづく)
<2002年11月2日>

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 県を見捨てた浦安町民〈下〉


昭和四年七月十四日、肥料工場反対町民大会の会場となった浦安小学校講堂は、つめかけた町民で立すいの余地もなかった。
 大会では、これまでの交渉経過が報告された。県に対する工場建設反対の陳情は、あっちだ、ここは担当ではない、とタライ回しにされ、まともに相手にされなかった。その誠意のない対応が報告されると、会場は殺気立った雰囲気になった。
 大会では、このまま県を相手にしていても解決は望めないとして、国にはたらきかけていくことが決議された。陳情書には『このままでは、町民の怒りがさらに高まり、やがて暴動を誘発する恐れがあるので至急の対応を望む』とまで書き添えてあった。それほど事態は深刻だったのである。

 しかし国会でも、「この件は彼の方が適任だ」「国務大臣の予定なので受けられない」とタライ回しにされてしまう。自分たちの命を守ろうとする陳情は、県にも国にも聞き入れてもらえなかった。
 八月になって、浦安町は悲壮な結論を出した。県にも国にも頼らない。郷土は自分たちの手で護るという結論だ。そして浦安町は地主から工場予定地を買い取ることにした。堀江川排水機場は、このような経過で市有地となった土地なのだ。ついに漁師の怒りが爆発。
 昭和三十九年の第一期埋め立て工事が始まるまで、東野一体はアシの原野だった。その一角に、ウナギやコイを養殖する池があった。富岡という人が所有していたので、「富岡池」と呼ばれていた。大正時代の地図にも載っているから、池は明治時代に造られたと思われる。大きさは幅三〇〇メートル、奥行き五〇〇メートル。昭和四年になって、この池が売りに出されたことをかぎつけた東京市は素早く買い取ってしまう。

 東京はこの池にダルマ船で糞尿を運んで池に流し込み、自然乾燥させて肥料にして販売する計画を立てた。しかし、このような沖で育った養殖海苔など誰も買うはずがない。計画が知れわたっていくと、当然ながら猛烈な反対運動が起きた。浦安町は、千葉県選出の国会議員を総動員して東京に圧力をかけたものの、深刻な糞尿処理問題を抱えている東京は後にひこうとしなかった。のらりくらりとした東京の態度に漁師の一部がキレた。
 池の調査に向かっていた東京市のトラックを止め、運転手と調査員を引きずり降ろし、トラックを境川に投げ込み、その勢いで池の事務所に乱入する事件がおきた。このようなすさまじい反対運動に、東京はついに計画を断念せざるを得なくなった。使いみちのなくなった池を引き取ってもらえないかという打診があり、このときも町は買い取った。その場所は給食センター、福祉センターの一帯である。
<2002年11月16日>

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 浦安の隣にごみの島が…


東京は大正時代から今日までずーっと、ゴミ問題を引きずっている。戦前は糞尿問題だったが戦後になるとゴミの処理が大問題になっていった。
 もともと東京はゴミの埋め立てで肥大化してきた街だ。江戸時代は建築廃材による埋め立てだった。ところが昭和の戦後になると、台所から出る家庭ゴミと産業廃棄物が次第に増加していった。夢の島のある江東区は二十三区のゴミのほとんどを受け入れていた。しかし昭和三十年代の後半、区内の道を、異臭を放ちながら列をなして走り回るゴミ運搬車が大問題になってきた。そして、ついに一部の区民による、道路を封鎖してゴミの受け入れを拒否するという実力行使にまで発展していったのである。夢の島も満杯に近づいていた。都の大問題になっていったのである。

 この窮状を打開する策として都は、葛西沖の湿地帯とそれに続く海面を第二夢の島とする計画を発表した。計画では海面を「ロの字」に区切り、そこにゴミを入れて埋め立て、そこが満杯になったら、そのとなりへと埋め立て場所を移していくというやり方だった。この計画が発表されたのは昭和三十九年二月。都は浦安町に対し、ゴミを入れるとすぐに土をかぶせてフタをするから衛生的にも問題はない、と説明した。
 しかし、説明をそのまま鵜呑みにすることはできないことは、すでに埋め立てが行われて来た所が示していた。埋め立て場所を区画するコンクリートの継ぎ目からは多量の茶色の液体が流れ出していた。ゴミの山のいたるところで、腐敗するときに発生したメタンガスが自然発火してオレンジ色の炎をあげ、炎の熱は上昇気流をうみ、空には紙などが大きなうず巻きをつくっていた。計画の葛西沖から浦安の中心部まで距離にしてせいぜい一キロ程度。この計画が実施に移されれば、浦安は毎日、臭気とハエや蚊の来襲に悩まされつづけることになる。これも、何が何でも阻止しなければならない問題だった。

 浦安は都に対し「国際文化都市を自認する東京都が、他県住民の健康的生活に必要な自然環境を奪うことを容認することはできない」と抗議文をおくって反対運動を展開した。しかし、深刻なゴミ問題を抱えている都もおいそれと変更するわけにはいかなかった。千葉県や国の圧力で計画中止と発表し、またすぐ取り消しの発表をするなど、都議会は迷走した。
 これに対して浦安町は「都も長い海岸線を持っているのに、なにも他県の住民が迷惑をこうむる県境に造らなくても場所は一杯あるではないか。もし強行すれば都庁に町民が大挙して押しかけ二重三重のバリケートを築いても阻止する」と警告した。こうした、浦安町の強い住民運動に昭和三十九年九月、都は計画を白紙撤回した。その場所は、いまは都民の憩いの場、葛西臨海公園となっている。
<2002年12月7日>

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 河川汚染をめぐる闘争史


わが国の工場廃液による河川汚染被害とそれを阻止しようとした川沿い住民の闘いの歴史は明治時代に始まる。今回は河川の汚染をめぐる大事件のいくつかを見ていくことにする。
 栃木県足尾銅山の歴史は古く、一六〇〇年代から銅鉱石の採掘と精錬が行われていた。明治になって銅の増産をはかるため電気精錬法が採用された。銅の増産は、また大量の亜硫酸ガスと粉塵を周辺にまき散らした。そのため周辺の木々が立ち枯れ、緑の谷間ははげ山と化して保水力を失い、渡良瀬川下流域ではひんぱんに洪水が発生するようになっていった。被害はそれだけではなく、飛散した鉱毒が流れ込み、渡良瀬川は魚の住めない川になってしまった。また、川の水を引き込んでいた水田も稲が育たなくなっていったのである。 明治三十三年二月、被害を受けていた地域農民数千人が請願のため東京を目指した。しかし川俣村に差しかかったとき、待ち構えていた警官隊に実力行使で追い返されてしまう。いつまでも鉱毒により苦しむ農民を目にして翌明治三十四年、田中正造は明治天皇に直訴を決意する。この直訴は未遂に終わったが大きな社会的な反響をよんだ。この事件によって被害農民にようやく救済の動きが出てきたのである。被害の発生から二十年がたとうとしていた。

 富山県の中央部にある神通川流域の婦中町には昭和のはじめころから風土病があった。この病は女性だけが中年期をむかえると発症した。骨が枯れ、枝のようにもろくなり、手をついただけでも骨が折れ、病状がすすんでいくと寝返りをしただけで複雑骨折をするようになり「痛い痛い」とうめきながら息が絶えていった。そのことから、この風土病は「イタイイタイ病」と呼ばれるようになっていった。原因も治療方法もわからない不治の病だった。発病した女性の中には、働けなくなった身を嘆き、食事も取らず死に急いだ者も多くいた。
 この風土病の原因をつきとめたのは町の開業医・萩野昇医師だった。彼は神通川の上流にある岐阜県、神岡鉱山の亜鉛精錬時に発生するカドミウムが川に廃棄されていることが原因であり、そのカドミウムが下流域で沈下し稲作を通じて子宮に蓄積して発症するのだと主張した。工場側は大々的な反論を展開したが一九七二年、名古屋高裁はカドミウム説の因果関係を認める判決を下した。 工場廃液による河川の汚染とそれを阻止するために団結した地域住民との闘いの歴史には、ほとんど例外なくこのようなつらい物語が埋もれている。

 じつは浦安にも同じような、にがく苦しい歴史がある。つぎは、江戸川や浦安の海の汚染に立ち向った苦難の浦安の姿を見ていくことにする。
<2002年12月21日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈1〉


きれいだった浦安の海は、東京湾に流れ込む河川への工場廃液タレ流しや糞尿の海洋投棄などで年々汚れがひどくなっていった。そのことが浅瀬の海に異変をもたらしはじめた。昭和二十八年、浦安近海ではヒトデが異常発生し、貝の養殖に大打撃を与えた。昭和三十年ごろになるとタンカーなどから海に捨てられた廃油が波にもまれてボール状になり、東京湾内に漂うようになった。この廃油ボールが海苔網に付着するようになったため海苔の価値も下がるようになってしまった。

 海洋汚染の進行が少しずつ漁民の暮らしに影響を与えるようになっていった。他方では、排水の処分に便利な河川の脇には次々と製紙工場やでん粉工場が建てられていった。
 昭和三十三年におきた漁民闘争史に残る“浦安漁民の蜂起”は追い詰められていった漁民の怒りが爆発した大事件だった。

 昭和二十三年、GHQによる財閥解体の政策で王子製紙は、王子製紙、十絛製紙と本州製紙に分割された。製紙業は装置産業であるから、生産設備の優劣がそのまま業績に影響を与える。二社より出遅れた本州製紙は地歩を固めるため、江戸川工場に新たな生産設備導入した。紙は樹の繊維であるセルローズでできている。杉や松の原木からセルローズを取り出すには樹の皮をむき、細かなチップ状に砕き、苛性ソーダ溶液に入れて熱を加える必要があった。

 樹にはセルローズのほかタンニンやリグニンなどがふくまれている。タンニンはお茶などの渋味で樹を昆虫などから守り、腐るのを防止するはたらきがある。リグニンには、セルローズという筋肉を束ね固定する接着剤の役割がある。セルローズからタンニンやリグニンを分離するのに苛性ソーダが用いられた。製紙工程はまず原木は回転ドラム式の皮むき機に投げ込む作業からはじまる。そこからミンチされた木皮を含んだ廃水が出た。その廃水にはタンニンが多く含まれていた。

 この廃水は川の中央部まで延びた太い鉄管から放流された。パイプから吐き出される多量の廃水は川の水と反応し真っ黒に変色し、下流に向かって扇状に広がって行った。水を黒くした原因は廃水に含まれているタンニンだった。タンニンは水中の酸素と反応し黒く変色していった。本州製紙江戸川工場が新型装置の試運転を開始したのは昭和三十三年四月一日だが、すぐに異変に気がついた人たちがいた。工場周辺の農家の人たちだ。水田に引き込まれている農業用水が真っ黒に変色していた。

 新型装置の竣工式が四月二十二日に盛大に行われた。その式典の最中に工場周辺の農家がこのままでは稲を育てることができないと会場に押しかけてきた。そのため、試運転段階で早くも農業用水に流す予定だった排水管のバルブを閉めなければならなかった。これが漁民闘争史に残る大事件のはじまりだった。
<2003年1月1日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈2〉


四月になって、江戸川に黒い水が流れ始めたとき、江戸川を魚場とする投網や遊漁船の漁師たちは喜んだ。魚は濁った水にもぐりこむ習性があるから、黒い水をめがけて投網を打つとおもしろいように魚が取れた。しかし、しばらくすると遊漁船の客が、黒い水から取れる魚はきみがわるい。口に入れるとあぶら臭いと言うようになった。
 四月二十二日、農家の人たちが用水に黒い水を流すのをやめさせる事を知った江戸川の漁師たちは、翌二十三日に江戸川にも黒い水を流すのを止めて欲しいと工場に申し入れにいったが、「大根も乾かすと黄色くなるし柿も吊るしておくと茶色くなる。たくあんや干し柿を食べても害はないでしょ」と軽くあしらわれスゴスゴと帰るしかなかった。

 異変はその後も続いた。四月から五月にかけて江戸川の河口では若鮎漁が行われるのだが、この年は若鮎の影を見ることができなかった。佃煮加工業者からも苦情が入るようになった。アサリがアブラ臭くって使えないという苦情だった。しかし、誰もこの原因をつかめないでいた。漁師たちの朝は江戸川を見ることからはじまる。五月十四日、川を見た漁師たちはその光景に息をのんだ。大人の腕ほどもあるウナギが白い腹を見せ、岸辺に打ち寄せられていた。これまで見たこともないほどの多くのウナギが死んでいた。ウナギは汚れた水につよい。そのウナギが死んだのだ。漁師たちに不安がはしる。すぐにアサリの養殖場を目指して舟を出した。

 川には死んだ魚が帯びとなって流れていた。しかし、海はさほど汚れていないように見えた。貝をとるカゴを下ろし、海の底をさらった。海面に現れたカゴをのぞいて言葉を失った。ほとんどの貝が口を開けて死んでいた。原因は不明との衝撃的な情報は千葉県と東京都の水産課にすぐに報告された。
 同日、都水産課の被害調査が行われる。被害は江戸川澪筋で九〇%の養殖貝が死滅、澪から少し離れたところでも六〇%が死滅。平均して七〇%が死滅していた。多くの漁師たちは、いま何が起きているのかをつかめないでいた。しかし魚や貝を殺したのは“黒い水”ではないかと疑いを抱きはじめた。
 五月十四日に急に大量の魚介類が死んだ理由としてはいくつか考えられる。一つが、工場の操作ミスで中和されない多量の苛性ソーダ溶液が排水管に流れ込んだ。もう一つは、廃水に含まれているミンチ状の大量の木皮が腐敗する過程で水中の酸素を奪い、江戸川を酸欠状態にした。あるいはもっと上流で有害物質が流れこんだなどだ。いずれにしても、この黒い水は、浦安を危機的な状況に陥れていった。
<2003年1月17日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈3〉


五月十四日以後も、江戸川はコーヒー色に濁ったままだった。そうなったのは五月に入ってからだ。漁師たちはコーヒー色の水を“黒い水”と呼ぶようになっていた。江戸川は魚の住めない川になってしまった。海もコーヒー色に濁り、底には綿状になった木のクズが積もっていた。多くの貝は死に絶え、魚は姿を消した。浦安の海は死の海になってしまった。
 都水産課の実験では、江戸川区篠崎にあるパルプ工場の排水口から上流で採取した水の中にフナを入れても死なないが、下流ではすぐに水面から口を出して呼吸をするようになり、やがて死んでしまった。報告書は『黒い水は、魚貝類の死滅に因果関係があるとみられる』と結論づけていた。この実験結果をもとに、浦安町漁業協同組合(本組合)と浦安第一漁業協同組合(第一組合)は近隣の行徳、葛西、荒川の漁協に呼びかけ、団結して工場との交渉にあたることを決めた。

 昭和三十三年五月二十四日、宇田川謹二町長、宇田川欽次本組合長、泉沢三四郎第一組合長を先頭にした漁船団は、三キロ先の工場を目指して江戸川をのぼっていった。どの舟にも“黒い水阻止”のムシロ旗がなびいていた。九時三十分、東門の前で団体交渉をめぐっての押し問答が始まった。その間も続々と漁師が上陸してきた。黒い水が川の中央部にモクモクと噴き上げるのを目の前にして、いつまでも始まらない交渉についに一部の漁師がキレた。「黒い水を止めろ」と叫びながら工場めがけて走り始めた。

 工場に乱入した漁師たちは黒い水を流すためのマンホールに石や棒切れを投げ込んだ。そのため工場はたちまち黒い水があふれだし、十時十分に操業を中止、小松川警察署に警備を要請した。その間も続々と上陸した漁師たちで、東門の前と土手の上は千名に達した。
 騒然とした中で、十一時四十分に小松川警察署長立ち会いのもと一回目の団体交渉が始まった。漁民団は「黒い水によって魚介類は死滅した。即時放流を中止し、補償交渉に応じるよう」要求した。これに対して工場側は「水が少し変色するのは、木の皮に多く含まれているタンニンの色で無毒である」と反論した。

 二十八日も交渉がもたれ、漁民団側から、死んだ魚を解剖してみるとエラに木クズが付着して窒息死していた、とつかれた。工場側は、八月中には沈殿ろ過池を造る約束をするから、運転を継続させてもらいたい、との案を示す。これを漁民団は拒否した。二十九日も引き続き交渉。しかし、決まったのは交渉中は黒い水の放流をしないという口約束だけだった。
<2003年1月31日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈4〉


五月二十九日の交渉で工場側は、交渉中には黒い水を流さないと約束した。しかし、約束は守られなかった。相変わらず川の中央からは黒い水が墳き上げていた。六月六日、浦安町議団は東京・中央区の本州製紙本社を訪ね、約束を守り黒い水の放流を即刻中止するよう抗議した。同日、漁民団は都建設局に対し、建築許可を与えた部局として、ただちに放流を中止し、漁民との交渉に応じるよう勧告してもらいたいという要望を出した。都建設局はイラついた。

 建設を許可するにあたって、工場は「無害であることを実験で確かめている。問題が生じた場合は自分たちが、責任をもって解決にあたる」と約束をした。それがいきなり、漁民団との交渉の矢面に立たされることになったのである。「即刻排水を中止し、漁民の交渉に応じるよう」指導がなされた。しかし工場の排水はすぐには止まらなかった。中止されたのは八日に入ってからである。
 工場がこれほどまでに強引な操業を続けることができたのにはわけがある。昭和三十三年当時、工場廃水を規制する法律が未整備で、排水を中止させる法的な後ろ盾がなかったのだった。交渉はあくまでも相手の良心に訴えるしかなかった。

 とはいえ、工場側もこのままでは操業が難しくなることを感じていた。話は前後するが、六月四日、浦安本、浦安第一、南行徳、行徳の漁協に一通の速達が届いた。交渉を再開する用意があるので出席を願いたい。場所は市川の料亭「白藤」、差出人は、本州製紙代理人鈴木武となっていた。浦安本組合は、漁民の暮しにかかわる重大な問題を話し合うのに料亭はふさわしくないと、出席を拒否した。出席した各漁協の代表をまえに鈴木はひとつの提案を示した。その内容は、一、これまでの被害に対する見舞金はすぐに支払う用意がある。二、魚介類が死滅した原因調査を権威ある研究機関に依頼する。三、沈殿設備は、現在の貯水池を転用する。四、原因調査委員会の構成員は各漁協、工場とも三名とする、というものだった。各漁協の代表は、浦安本組合の同意を条件に基本的には了承したが、本組合はこの案を拒否した。

 その理由は、工場の息のかかった研究機関では公平な調査結果が望めない。八月までかかるといっていた沈殿設備をすぐ造れるというのは信用できない。小さな漁協と大勢の組合員を抱える漁協とが一律に三名というのは不公平だ、という三点だった。他の三組合の組合員を合計しても、本組合員数千百五十名には及ばなかった。しかし、鈴木は八日の工場会議で、「漁協のうち、反対しているのは浦安本組合だけだ。見舞金の額で合意できる」との甘い見通しを示した。
 この報告を信じた工場は稼働率をおさえれば操業を再開できると判断した。八日午後十一時三十分、「操業再開」と指令が下る。
<2003年2月14日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈5〉


昭和三十三年六月八日深夜、本州製紙は都の勧告をも踏みにじる生産再開の決定を下した。翌日の九日、浦安では毒水対策臨時議会が開催されていた。昼食を終えて、午後の会議が始まって間もなく、工場がまた黒い水を流し始めた、という情報が飛び込んできた。議会は再三再四、黒い水の排水を中止して、話し合いに応じるよう求めて来た。しかし、ことごとく無視されたのだった。浦安町はこの暴挙を町に対する宣戦布告と受け取った。
 すぐに議会は散会。議員全員を都陳情団と千葉県陳情団に分け、あわただしく目的地に出かけて行った。東京に出向いた陳情団は、都建設局指導課の担当職員に面会を求め、再び黒い水が排水され始めた事についての説明を求めた。これに対し都職員は「中止を勧告してある。排水は止まっているはずだ」と受け付けなかった。都もよもや、勧告を無視した操業などありえないと考えていたのだった。

 この説明に納得のいかない陳情団は永田町の砂防会館に、浦安を選挙地盤に持つ川島正次郎自民党幹事長を訪ね、事態が深刻であることを説明した。聴き終えると川島は通産省に電話をして、詳しい説明を求めた。間もなく繊維局紙業課長から「いま直接、工場に操業中止の指示をした。すぐに排水は止まる」と電話がはいる。それを伝える川島の言葉に拍手がおきた。
 連絡を取り合っていた県陳情団に「排水を止めることができた。帰途につく」と伝える。県陳情団から「よくやった。こちらも帰る」と返事がきた。県陳情団は念のため帰途にある工場によって中止を確認することにした。夕闇がせまるころ工場裏手に到着した。土手を駆け上がり水面を見て「アッ」と声をあげた。川の中央部から黒い水がモクモクと吹き上げていた。またしてもダマされたのだった。排水が止められたのは九日の深夜になってからだ。

 浦安に帰った議員団を待ち受けていたのは罵声のあめ嵐だった。「東京見物にでも行って来たのか」「何度虚仮にされれば気が済むんだ」など。その怒りのあまりの激しさに議員たちは議会場から外に出ることができなかった。黒い水を止められないイラ立ちの鉾先が議員に向けられたのだった。議場を囲んだ漁師たちの怒号が飛び交う中で議会は、翌十日、毒水阻止町民大会を開催することを決めた。
 この日を境に、漁民闘争は一つの転機をむかえる。漁民たちは、これまで町の良識派といわれる人たちを前面に立てて問題の解決を図ろうとしてきた。しかし、このままでは問題を解決できないのではないか、という疑念を抱かせることになった。漁民たちは代表を立てた話し合いではなく、直接団体交渉の方が手っ取り早いではないか、と考え始めた。こうして漁師たちが担ぎ出そうとしていたのは皆がびっくりするような人物だった。
<2003年2月28日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈6〉


昭和三十三年六月十日午前十一時、カンカンカン…と火の見やぐら警鐘の乱打が町に鳴り響き、毒水阻止町民大会の開催を告げた。会場となった若草幼稚園には一万人の町民がおしかけ、周辺の道路も人で埋めつくされた。会場には毒水阻止のムシロ旗が並び、厳しい表情の漁師たちの頭には「毒水反対」と染めたハチマキが巻かれていた。
 大会では、まず議長、副議長の選出から始まった。「議長に岡島多三郎君、副議長に小安浦司君を推薦します」漁師たちの案が読み上げられると会場はどよめいた。岡島は、浦安を縄張りにもつ関東岡島組組長だった。次の瞬間、いたるところから「異議なし」の声が上がり、原案通り承認された。

 こうして、任侠の親分が毒水対策のリーダーに担ぎ上げられた。岡島は「みなさんのご苦労は、よう分かっているつもりです。この岡島、命がけで働いてみせます」。会場は割れんばかりの拍手につつまれた。大会は、これまでの経過報告がされたあと、毒水の放流を阻止する、という毒水阻止町民大会宣言が採択され閉会した。
 ここで岡島多三郎について少しふれておく。彼は、任侠だがヤクザではない。この時代、警察も両者をハッキリ分けていた。最も大きな違いは収入源である。任侠の人は何か生業を営んでいた。多くは露天商だった。秋葉原の電気街を創ったのも任侠の人たちだったことは有名な話だ。他方のヤクザは用心棒代を主な収入源としていた。

 岡島は大正八年(一九一九)群馬県太田で生まれる。小学校を卒業するとすぐに東京日本橋の綿布問屋に丁稚奉公にされる。いくつか職をかえた後、十六歳から太平洋戦争の終戦までを軍隊ですごす。除隊後、浦安に移り住んで魚の中卸業を営むようになる。昭和三十三年ころ、奥さんは洋品店を営んでいた。
 岡島は他の男達のように威張らなかった。誰にでも腰を折ってニコニコと挨拶を交わした。水路は次第に砂が積もり浅くなるので定期的に掘り下げなければならない。漁師が最も嫌う重労働だ。このときも岡島はすすんで水路に入っていった。若い漁師がサボって花札にふけっているのを見つけると「コラ! オッカーを働かせておいて」と容赦のない鉄拳がとんできた。子供たちに楽しみの少ないのをみて、ノートや鉛筆、クレヨンなどを買ってきては、それを懸賞にしたわんぱく相撲大会を開催した。それを見るのが岡島の一番の楽しみだった。
 岡島は勝負事が好きで軍鶏を飼っていた。漁師たちもまねて鶏を飼いはじめた。しかし、闘鶏となると誰も岡島の鶏にはかなわなかった。それでも負けても負けても挑んだ。それが漁師たちの楽しみでもあった。そんな岡島には多くのファンができ、ついには難問解決のリーダーに担ぎ出されたのだ。岡島多三郎三十九歳のときだった。
<2003年3月14日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈7〉


昭和三十三年六月十日十二時三〇分、町民大会開催。これを偵察に来ていた私服刑事から千葉県警に緊急連絡が入った。浦安の漁師七百名がバス十台に分乗して国会に向かった。途中で行徳・南行徳の漁師が合流するもよう。この内容はすぐに警視庁に伝えられた。
 十三時三〇分、国会前に到着した漁民団はその場に座り込み、代表は川島正次郎自民党幹事長に面会を申し込む。聞き終えると川島は「私が何とかする。現場に行こう」と待つように伝え、閣議のため席を立った。川島の出てくるの待っている漁師らの前を、機動隊にはさまれた安保反対の学生デモ隊が通り過ぎていった。

 ところがいくらも経たないうちに機動隊と衝突したらしく、追われて漁師たちの中に逃げ込んできた。自民党本部をめがけて投石を始め、多くの窓ガラスが飛び散った。これに一部漁師も加勢したため、学生と束で鎮圧されてしまう。しかも後で浦安には自民党本部から学生の分を含めた高い請求書が届く。この日は閣議が長引き、川島は「責任を持って取り組む」という言葉を伝えただけで姿を見せなかった。
 十五時三〇分、漁民団は皇居前に移動した。国会での騒ぎに懲りた漁民代表は、楠正成の銅像の前に漁師らを待機させ、大手町の都庁に抗議に向かう。都庁についた代表は都知事に面会を求めるが不在を理由に拒否される。そこで応対に出た建設局の職員と押し問答になる。都が黒い水の排水の中止を勧告したと言った。それにもかかわらず止まらなかったことに対する都の責任を代表は突いた。「口頭による勧告を行い、工場は従うと約束した。だから、そう伝えた」と都は責任を回避しようとする。

 これに「千葉県の漁民が甚大な被害を被っているのに、やり方が手ぬるいのではないか」と詰め寄る。このやり取りが終わったのは「いますぐに工場に指導に行け」という漁民代表の案を都側が受け入れたからだ。十六時三〇分、本州製紙本社にも抗議に行く予定だったが手間取ったため、帰る事にしてバスに乗り込む。勇んで飛び出して来たがデモのやり方は全く知らなかった。疲れだけが残った。暴発を恐れたパトカーが帰りのバスの後に続くが小松川橋の手前で左にそれた。橋を渡って右折し、そのまま進めば浦安までは一本道。誰もがこのまま家路につくものと思った。バスは今井橋に近づきつつあった。橋を渡れば、そこは浦安、行徳になる。

 そのとき、眠っているようにしていた岡島が初めて口を開いた。「次の交差点を左折」。先頭のバスにならって、次々と左折する。バスには「悪水反対」の横断幕がくくりつけてあった。道の脇でバスに手を振る人も見受けられ、漁師たちはいくらか元気を取り戻す。しばらく走ると、岡島は「そこを右」と指示をした。これから起きる大事件を誰も予想していなかった。
<2003年4月4日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈8〉


右折すると道はそのまま本州製紙江戸川工場の敷地内に伸びていた。先頭のバスは農業用水に架かる小さな橋の手前で止まる。橋を渡ったところに観音開きの工場の門があり、扉は開いていた。バスは先に習って次々と止まっていった。不満を感じ取っていた岡島は、抗議文を読んで工場側に渡し、二、三度シュプレヒコールをくり返して、今日は終わりにしようと思っていた。どのバスからも漁師たちが降り始めた。

 そのときギーギーと音がした。振り向くと守衛が門を閉めているところだった。守衛は「暴力はやめろ」と書いた板を門に立てかけ、工場の奥に消えようとしていた。その時だった。若い漁師が「おメエら話し合えネェのか」と叫びながら門に飛びつき、頭から内側に落ちていった。彼はカンヌキを投げ捨て、扉をグイと内に引いた。その瞬間、岡島の描いたシナリオは崩れた。扉が開いたことが合図となった。ワッとなだれ込む漁師。すさまじい怒りの濁流は止めようがなかった。

 工場は入り口から守衛室、事務棟、倉庫、仕上げ工場棟、貯木場、回転式皮むき機(ドラムパーカー)設備と並んでいた。漁師たちは凶源であるドラムパーカーを目指し、窓ガラスなどをこわしながら進んだ。怒りの津波が貯木場の近くまで来たとき突然、多くの警察官が行く手をさえぎるように現れた。漁師らが目にしたのは、工場側の要請を受けて出動、食堂に待機していた機動隊員二百名だった。通常警備のための出動で、盾やヘルメットは用意してはいなかった。しかし、漁師たちには、毒水をタレ流す工場に加勢しているように映り、さらに激怒した。漁師四百名が機動隊めがけて投石を始めたのである。

 暴力行為で四名を現行犯逮捕したが、投石により機動隊員にはケガ人が続出した。小松川警察署長は、このままでは騒ぎが収められないと判断して機動隊に緊急出動を要請した。投石騒ぎはまもなくおさまった。要請に応じて出動した機動隊員は八百名。漁師千名と機動隊員千名とのにらみ合いになった。漁師たちは逮捕された仲間の即時開放を要求し、機動隊員は工場敷地内からの即時立ち退きを求めた。そして包囲網を狭めていく機動隊員とそれに抵抗する漁師との間でいたるところにこぜりあいが起きた。
 二十一時四〇分、機動隊員に警棒の使用認め、実力行使による排除を通告。「かかれ」の号令がひびく。同時に打ち上げられた照明弾は警棒を頭上から振り下ろす機動隊員や、うずくまったまま蹴られている漁師たちを浮き上がらせた。同僚のケガ人続出が、機動隊員の理性も失わせていた。今度は漁民側に多くのケガ人が出た。その結果、さらに騒ぎが大きくなった。この大乱闘は二十三時過ぎまで続いた。
<2003年4月18日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈9〉


昭和三十三年六月十一日、浦安は騒然としたまま朝をむかえた。機動隊との大乱闘は、どうしてそうなったか分からなかった。誰もが混乱していた。早朝、岡島は漁協幹部を集め円く座らせた。浮き足だった者を落ち着かせるにはそれが一番だということを戦場で覚えた。全員が座るのを見て静かに「昨日はご苦労様でした。予期せぬ事態となりました。この責は私が負います」と話しはじめた。戦場の最前線でいく度も銃弾をくぐり抜け生還してきた兵士の判断は冷静だった。「いくさは始まったばかりです」と続け、二つの指示を出した。言葉は短く、やるべきことは明確だった。 一つ目は、漁民のケガ人の数とケガの程度を早めに公表する。二つ目は警察に拘束された仲間を一刻も早く取り戻す。漁協は負傷者について公表した。脳挫傷による脳内出血など重傷三十四名、軽傷百八名。警察官は重傷二名、軽傷三十五名。その他報道関係者二名が軽傷、工場の警備員二名も軽傷を負っていた。実に抗議に出向いた漁師の七人に一人がケガをしていた。

 六月十二日付けの新聞各社はこの事件を大々的に取り上げた。読売新聞は「よみうり寸評」でこの事件を『いついかなる場合でも、暴力を是認するわけには参らぬ。浦安の漁業組合員の本州製紙江戸川工場での暴力行為は、近ごろにない不祥事である。しかし、漁民たちを、何がここまでかりたてたかという事情を、考えてみることは別の問題である。死活問題につながる事柄は、何ものにも強い。工場にとっても死活問題だそうだが、死活の筋と質が違う』と論じた。

 新聞各社も暴力行為は否定しつつも、河川に廃液を流し、川を独占する行為もそれ以上の暴力だという論調だった。マスコミは浦安漁民を支持する立場をとった。それは同じように工場廃液に苦しめられている沿岸漁民も勇気づけた。
 再び十一日に戻る。朝から漁協や役場は事件を知って駆けつけてきた県漁協の幹部たち、千葉県出身の国会議員、県議会議員や江戸川区議会議員でごった返していた。応対に当たる者は多くの時間を、警察に拘束されている仲間を取り戻すことに当てた。「建造物侵入及び暴力行為等処罰ニ関スル法律」違反で逮捕された漁師が八名いた。努力が通じて十三日には全員釈放され、町は喜びに沸いた。

 その中の一人、佐藤金蔵が小松川署の留置場に入れられたのが十日二十三時ごろ。その直後から胸に激痛がはしることを訴えたが、聞いてもらえず、再三頼んで、十二日の昼頃になってようやく医師の診察を受けることができた。医師は「肋骨の骨折の疑いがあり、治療が必要」と伝えた。しかし、佐藤は釈放まで、手当てを全くしてもらえなかった。岡島はこの事実を見逃さなかった。
<2003年5月2日>

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 闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈10〉


昭和三十三年六月十三日、町は歓喜に包まれた。警察に拘束されていた仲間八人を取り返したのだ。岡島は、深々と頭を下げ「ご苦労をかけました。これで存分に闘うことができます」とねぎらった。岡島は、警察官の警備行動によって多くの漁師が怪我を負ったことと、警察に留置された者が治療を受けさせてもらえなかったことの責任を問おうとしていた。岡島の指示を受けた漁協は、警察官の警備ならびに留置中の被疑者の対処について適正を欠く行動があったと、法務省人権擁護委員会に提訴した。

 この訴えを受けて六月十八日、一回目の参議院法務委員会が開催される。傍聴席は、浦安漁協関係者と頭や肩を包帯で巻いた漁師たちで一杯になった。これ以後開かれる調査委員会のどれも、傍聴席は浦安の漁師でうまった。いずれも岡島の意向がはたらいていた。調査委員会は冒頭から警察が追及された。「警察の被疑者の扱いに不適切があったのではないか」という質問、法務省人権擁護局長は「留置された佐藤金蔵さんの扱いに健康留意面で遺憾な点があった」と答弁した。

 また、「機動隊が工場に待機していた。そのことによって騒ぎが大きくなったのではないか」という追及に警視庁警備局長は「こんな事態になることは予想していなかった。改善すべき点については改めたい」と改善の余地を認めた。つづいて多くの漁民が負傷した原因の調査を求める質問があり、現地調査が行われることが決まった。

 六月二十日、参議院決算委員会で、加瀬完委員(社会)は血で染められたワイシャツを手に「後頭部や背中に怪我を負った負傷者が八十五名中七十三名にものぼるが、警備行動に問題はなかったか」と問いただした。法務省刑事局長は「ご指摘の点は警視庁に連絡して遺憾のないようにしたい」と警備行動の行き過ぎを認めた。

 六月二十三日、浦安町堀江の大蓮寺における法務省の聞き取り調査。負傷した漁師七十名が集まった。皆口々に「脳天めがけて警防が振り下ろされた。逃げると後ろからやられた」と証言した。怪我の多くは警棒によるものだということをこの証言が物語っていた。

 六月二十六日、参議院法務委員会は「警察側の警備行動などに不適切な点があった」と結論を出し、これを警視庁側に伝えた。警視庁側は「ご指摘の点について了解した。ただすべきはただしたい」と改善を約束した。こうして昭和三十三年十二月六日、東京法務局長名で警視総監あてに「警察行動ほかの善処を求める勧告」がなされた。
 この後も、漁民と工場との鋭角化した闘争がたびたび起きるが、多くの負傷者のでる事件はなくなった。
<2003年5月16日>

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