市川よみうり連載企画
         土史研究家前田 智幸

闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈11〉


   国会でのやり取りは、連日のようにマスコミで報じられた。そうした中で、浦安の漁民を支援し法の不備を正そうとする機運が高まってきた。最初に動いたのが千葉県の漁民たちだ。
 昭和三十三年六月二十四日、県庁公園広場において緊急漁民大会が開催される。集まったのは県下約百組合の漁師約千五百名。会場には「黒い水から浦安町民を救え」「悪水から漁場を守れ」というムシロ旗が立ち並んでいた。漁師以外にも支援に駆けつけてきた多くの労働組合員の姿があった。開会宣言後、壇上に上った柴田県知事は「県としても事態を深刻に受け止め対応してきたが残念な結果になった。現在のところ、工場廃水を規制する法律がないので、応急的に県条例を作って解決を図っていきたい」と挨拶したが、会場からは「てぬるい」というヤジもとんだ。県漁民大会では、廃液を垂れ流した本州製紙に強く抗議するとともに、被害を受けた浦安・行徳地区の漁民に見舞金を出すこと。水質汚濁防止法の早期実現を要求して闘うことなどの大会宣言を採択した。

 六月二十七日、東京でも緊急漁民大会が日比谷公園で開催された。東京の大会では、工場廃液による海洋汚染に加えてゴミの埋め立ても深刻な問題となっていた。浅瀬の海はゴミでつぎつぎと埋め立てられて、羽田や深川の漁師たちが海を追われようとしていた。そして六月三十日には港区の青年会館で緊急全国漁民大会が開催された。集まったのは全国の漁協幹部四千名。浦安漁民の闘いは、ついに全国漁民の連帯へと広がって行った。 挨拶に立った社会党の浅沼稲次郎書記長は「超党派で法整備を急ぎたい」と力を入れた。そのときの大会には漁民たちの悲壮な決意が込められていた。水質汚濁防止法の必要性は大正時代から叫ばれてきた。しかし、近代国家の建設を急ぐ国の方針の前に、その声は無視をされつづけてきた。工業優先の陰で犠牲を強いられてきた全国の漁民たちが、浦安漁民の決起をきっかけに、浦安地区の仲間を支援し、法の不備を正そうと連帯して立ち上がったのだった。

 第十三回通常国会を二本の法律が通過、昭和三十三年十二月二十五日公布された。一本は『公共水域の水質保全に関する法律』、もう一本が『工場排水等の規制に関する法律』だ。前者で河川や沿海の水質基準を定め、後者では工場などの排水処理施設の整備義務と排水基準を定め、改善命令などの処置を取れるようにした。これが『水質二法』といわれた法律で、それまで野放しだった環境汚染に初めて規制が加えられるようになった。浦安漁民の闘いが、広く国民に、自然環境は国民の共有財産であることを気づかせたのだった。
<2003年6月6日>

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闘争史に刻まれた浦安漁民蜂起〈12〉


工場側は、六月十日の事件発生直後、あわてて都や千葉県に事態収拾の斡旋を依頼したが、それ以後は漁民に誠意ある態度で接したとはいいがたい。何度も開かれた国会の調査特別委員会でも、工場側は他の工場複合廃液犯説や農薬犯説を持ち出し、自社工場からの排水が原因であることを認めようとしなかった。千葉県や都が実験に基づいて、工場排水と魚介類の死滅には強い因果関係があると証言したにもかかわらず、それでも認めようとしなかった。シビレを切らした調査委員会は十二月に入ると、工場排水が原因であると決めつけるほどだった。

 こんな状況なのだから補償交渉もこじれにこじれた。法律によって責任を問えないのだからなおさらだ。浦安・行徳の四つの漁協が要求した補償額は四億一千万円。過去の水揚げ高をもとにはじき出した。これに対し工場側が示した額がたったの四千万円ぽっきり。しかも、工場側は早く工場を操業させないとこの金額も払えなくなると揺さぶりをかけてきた。漁民側も話にならないと応じなかった。年末になっても平行線のままだったのだ。

 心配した友納千葉県副知事が調停にのりだし、結局、漁民側が譲歩するかたちで決着せざるを得なかった。その額は、五千百万円、漁師一人当たり一万円ほどという見舞金程度でしかなかった。工場側の損害が少なかった訳ではない。操業を認められたのが昭和三十四年の三月になってからだった。その間一日当たりの損害額は百万円ほどあったという。
 この闘いを作戦参謀として指揮してきた岡島は警察に非を認めさせ、水質汚濁防止法成立を勝ち取った。しかし、素直に喜べなかった。補償交渉が思うに任せなかったからだ。彼は漁民の声を政治に反映させるために県議会議員への出馬を漏らした。そして、昭和三十四年に行われた県議戦では浦安の有効得票数の実に九一%も獲得した。町民のほとんどが岡島に投票していた。昭和三十四年秋の千葉県議会で岡島は「江戸川のヘドロ沈殿によって漁場はさんたんたるもので死貝ふんぷんとして、その骸累々なるさまは、これが人間であったならば地獄絵であったろう。このさんたんたる漁業をうつろなるひとみをして呆然と眺むる零細漁民の浜辺に立てる姿は最後の審判(死刑宣告)を思わせる」とその惨状を訴えた。

 昭和四十年、後押しされて町長選に出馬する。大方の予想をくつがえして見事当選をはたした。しかし親分が首長ということで県からも国からもあまり協力は得られず、十分な働きはさせてもらえなかった。それでも、岡島は学校を一生懸命に造った。漁師の子供たちが満足な教育を受けられない現状を見てきたからだ。昭和四十四年の町長選で熊川好生との一騎打ちに敗れ、それ以降政治の表舞台から姿を消す。(昭和四十八年逝去)今でも元町に岡島ファンが多いのは、彼の実直な人柄を慕ってのことだ。
<2003年6月20日>

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海洋汚染の進行でノリに大きな被害


終戦後、東京湾の海洋汚染はますますひどくなっていった。昭和二十八年にはヒトデが大発生して養殖中の貝を食いつくした。タンカーから棄てられる廃油はボール状になって波間に漂い、それが風に吹き寄せられ、海苔網に付着するようになり、海苔は品質を下げることになっていった。海洋汚染の進行は浦安の主要産業である貝や海苔の養殖に大きな被害をおよぼし始めていた。環境汚染がひどくなる中で、昭和三十三年に本州製紙事件が起きたのだ。

 このとき垂れ流された工場廃液によって、養殖中の貝のほとんどが死滅してしまう。町民のほとんどが漁業関係の仕事に従事している浦安は、町そのものも失業状態になってしまった。多くの男子中学生は学校を休学し、わずかに取れるアサリを自転車に積んで東京に向かった。「アサリ〜、アサリはいらんか〜」と声を張り上げ町から町へと売り歩く。遠くは埼玉・越谷や川口、多摩までも足をのばした。こんな状況だから町民の多くが税金を納めることができなくなっていった。

 昭和三十三年ごろになると町の町税収入額は予額の七割ほどしかなくなり、会計予算を組むことさえできなくなってしまった。資金不足で銀行に融資を申し込もうとした財政担当者は、支店長から「支払能力ないところに貸せない」と融資を断わられ、銀行にも見放されてしまった。浦安町は財政的に破綻したのだった。何とか町債を発行しようと大蔵省を訪ねた町議員に、大蔵省の役人は「全国に六千四百の市町村がある。その中でも浦安は最も貧乏な町だ。そんな貧乏な町のことに国がかかわっていられるか」と追い返されそうになった。頭を床にこすりつけ、ようやく国の保証を得ることができた。

 役場の職員たちもかわいそうだった。納税のシーズンになると全員税金の徴収にまわり、寺のさい銭箱をひっくり返してまで税金を集めた。それでも給料日にまともに月給がもらえることはなかった。演劇亭や浦安劇場の入場税を前もって納めてもらい、それをもとに二回に分けて支給した。 浦安は市川、行徳、船橋、松戸、流山などとおなじ東葛群行政区に属していて、会議がたびたび松戸の東葛郡事務所で開かれた。ここに行くのに他の町の職員は乗用車を利用していた。浦安の職員は自転車で汗をかきながら出かけていった。町にあったのは使いこまれた二台の自転車だけだった。会議が昼にまたがると、他の町職員の席には弁当が並べられていったが、浦安の職員の席には置かれなかった。千葉県との連絡会の昼食代さえ予算を組むことができなかった。よほどみじめだったのだろうか、故金川義雄元助役は、若い頃のこの話になると決まって涙を浮かべた。
<2003年7月4日>

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浦安の米百俵


漁業一途の町にも転換がおとずれようとしていた。原因は海の汚濁による漁獲高の減少だった。昭和二十年代半ば、浦安町漁業協同組合(本組合)は堀江地先の湿地帯を埋め立てて農地を広げ、農業に活路を見出そうとしていた。この動きに反発した一部漁民は本組合を飛び出し、漁業に専念するための組織、浦安第一組合を結成した。昭和三十年代に始まった地盤沈下が止まらず、農地を整備しても塩水が入り込む心配が出てきて、農地整備事業計画は自然消滅した。しかし根深い感情的な対立が尾を引いていくことになる。

 そんなとき、京成電鉄の代理として藤生実太郎が一つの構想を町に持ち込んできた。当時、海苔を天日で乾かすのにヨシズが使われていたが、その原料となるヨシは町有地である大三角や東野に自生していた。ヨシズを作る者は、刈った量に応じて町に代金を納めた。昭和三十四年、藤生は大三角のヨシ切り場を埋め立て、そこに東洋一の遊園地と学園都市を造る構想を持ち込んできたのだった。この構想を考えたのは京成電鉄社長の川崎千春。その交渉を藤生に任せたのだった。

 また町は二つに割れた。大三角の売却は海苔の養殖事業の縮小をも意味していた。これまでの伝統産業を守っていこうとするグループと、町に新たな産業を誘致し、町民の働く場を確保しつつ子供たちの教育環境を整えていく必要があるとするグループだった。存続と開発に町は割れた。だが幾度となく自然環境を破壊させる者と闘ってきた苦い経験から、海や空を汚すような工場は絶対に造らないという点は一致していた。
 この案件を審議していた「町綜(総)合開発審議会」の議長であった大塚一郎は悩みに悩んだ。どの選択が百年後の子孫たちに幸せをもたらしているだろうかと。町は苦悩したが一つに意見を集約する事ができた。

 昭和三十五年八月十五日、町有地、大三角をオリエンタルランドに売却し、東洋一の遊園地設置を含めた学園都市構想の推進を決断した。町有地である大三角ほか十七万坪(約五六ヘクタール)を、一億二千五百万円で売却した。このお金は手をつけずにそのまま基金として積み立てられる。穴のあいたオンボロ橋も、貝ガラを石がわりに敷いたデコボコ道も直さず我慢して、積み立てた。浦安町が銀行に預金をしたのはこれが初めてという大ニュースでもあった。日頃は、どこからか歳入があるとすぐにどこかに消えていっていた。その後も基金はコツコツ積み立てられ、四十年を経たいま百億円をこえた。
 お客に出すお茶代にも事欠き、台風に備える砂袋さえ買えなかった苦い経験が、倹約の精神を育てた。基金は将来に備えた浦安の「米百俵」なのである。軽軽に手を付けてはならない。
<2003年7月18日>

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首長も議員も手弁当


昭和十四年、東京市が浦安に人糞処理施設を強引に造ろうとしたのを、漁師たちが実力行使で阻止した。このときの首謀者が逮捕され、罰金刑が言い渡された。町を救った者が罪に問われたことに心を痛めた田中常平町長は「戸籍から早く前科の文字を消せ」というのが口ぐせだった。
 昭和三十四年の本州製紙事件では、宇田川謹二町長が岡島多三郎とともに先頭に立ち問題の解決を目指した。昭和四十年代まで、浦安の首長になれる者は漁協の幹部に限られていた。その理由は、町長としての報酬は無いに等しく、他に生活費を稼げない者はなれなかった。だから、たいていの場合、町長には網元がなった。
 町議とて同じだ。議員報酬は月額にして五千円ほど、いまの金額に換算しても十万円程度だ。それもいつもらえるかわからなかった。役場の職員の給料を払って、残っていたら支給された。だから町議になる者も他に収入のあてがなければ務めることができなかった。醍醐金太郎は浦安に初めて幼稚園を建てようと駆け回り、その建築資金五十万円を大蔵省と直接交渉してもぎ取ってきた。大塚一郎は将来を見据えた町基本計画づくりの必要性を痛感し漁協との意見調整に汗をかき、漁協に漁業権放棄を決断させた。その議員たちも議会が昼になると、公費を切り詰めるために、食事をとりに家に帰った。浦安の基礎は首長も議員たちも、財産を家から持ち出し手弁当で築いたのだ。
  いま、議員報酬に調査費などをふくめると議員一人当たりのコストは当時の百五十倍以上、一千万円ほど。だが、この困難な時代のような気概を持つ者は見えてこない。具体的にいえば、創造性を育成する教育環境の整備、改善されない大気汚染問題、急増しつつある空き巣犯罪対策、破壊力を増している自然災害に対応した新防災計画、急速な高齢化が進む中での高齢者福祉政策など、どれ一つをとっても明確な方針を示せないでいる。もしかして議員のサラリーマン化があるのではないか。ならば、もう一度この町の原点に戻り、月額十万円ほどの報酬に減額し、他で納税義務を果たしている者しかなれないようにしてはという発想もうまれてくる。そうすれば、奉仕精神にあふれた人が現れるのでは。 それに最近の乱れにはほとんどの市民が心を痛めている。
浦安は、首長が人に施すことがあっても、施しを受けるなどなかったし、誰もが想像もしなかった。前熊川好生市長は、受託業者を市長室には入れなかったほど厳格だった。為政者は、法律論を持ち出して善悪を論じるのではなく、もっと高い倫理観によって自らを律してきた。それが浦安の誇りだった。早く、それを取り戻そう。
<2003年8月1日>
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難問に挑んだ新任町長


昭和四十四年、岡島多三郎から町長を受け継いだ熊川好生(故人・後に市長)は、就任早々から厄介な問題に直面した。浦安の地盤沈下が止まらないのだ。それが始まったのは昭和三十年代の前半ごろから。原因はハッキリしていた。江東工業地帯の製鉄のための工業用水くみ上げと、市川、船橋市域の天然ガスの採取によるものだった。ひどい所では年間に二〇センチも沈下し続けていた。
 そのため、昭和三十年に完成した堤防は大きく波打ち、何本もの亀裂が入り、そこから海水がしみ出してきた。境川ぞいでは、大潮の日は川から水が溢れ出し始めた。満月の夜に町は水びたしになった。それを防ぐため境川の両岸には六〇センチのミニ堤防が造られた。その効果もつかの間、やがて水が堤防の上からこぼれ落ちるように流れはじめた。そして、大潮の日はべか舟が道よりも高いところに浮かんでいるという、奇妙な光景になってしまった。
 昭和四十五年、千葉大学の川崎逸郎教授はショッキングな発表をした。「浦安、市川、船橋などの葛南地区の地盤沈下がこのまま続けば、十年後には三メートル、二十年後には七メートル沈下する」との予測だった。
 熊川町長は、堤防の補強や排水ポンプの設置、溢れ出た水を排水するための猫実川や堀江川の掘下げ工事に走り回った。寝る時はいつも枕元に防災服と雨合羽を用意していた。少し風が吹いたり雨足が強くなったりすると、何時であろうと見回りに出かけていった。その姿を見て育った息子の賢司は「使命感の強い親父を誇りに感じた」と語っている。
 昭和四十五年七月二十一日、熊川町長の呼び掛けによる「京葉広域行政連絡会議」が浦安公民館で開かれた。この会議は浦安、市川、船橋の首長らが、一つの町や市では解決できない広域にまたがる課題を、足並みをそろえて解決していくために設置された。この日のテーマは地盤沈下対策。出席者からは「このままでは郷土をすてて逃げ出さなければならない」とか「台風が近づいてくると、おちおち寝ていられない」などの意見もとび出した。
 会議では、地盤沈下は共通の緊急かつ深刻な問題であり、早急に対応策をまとめる必要がある―と一致した。そしてその年の十二月、東京都、埼玉県、神奈川県とも連携した地下水及び天然ガスの汲み上げを規制する条例が制定された。条例の効果が出始めたのは、それから三年後の昭和四十八年になってからだ。ようやく地盤沈下は沈静化していった。
 沈下が始まってから最もひどい所では二〇メートルも沈んでいた。取材のとき、熊川は「昔はちょっと雨が降れば町は水びたしになった。今は大雨が降っても浸水するところはどこもなくなった」と対策に追いまくられた日々をふりかえった。
<2003年8月15日>
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漁業の終焉


言い伝えによると、浦安に人が住み始めて九百年。漁業が始まったのは江戸時代の初頭。浅瀬の浦安海をクワで耕し、そこに幼貝をまく養殖漁業を明治時代には始めていた。また海苔の養殖は、江戸時代の中期には始まっていた。浦安海は、神の存在すら感じさせる豊穣の海だった。
 その海が工場によって汚され始めたのが、大正時代の初めごろになる。浦安海の汚染は年を追ってひどくなっていった。戦後、東京湾の海岸が埋め立てられ、そこに重化学工場が立ち並び始めると、さらに汚れが目立つようになっていった。昭和三十四年に浦安漁民の蜂起によって水質汚濁防止法が制定された。しかし、この法には汚染化学物質の総量規制が盛り込まれていなかったため、大量の地下水で希釈して排水し、法の網目をくぐりぬける工場が多くあった。
 この汚染の進行が魚に現われ始めた。昭和三十年代の後期になると、背骨が「くの字」に奇形したハゼや、皮膚に腫瘍ができたボラなどが江戸川や浦安海で網に掛かるようになってきた。農薬に含まれている有機水銀、メッキ工場からタレ流される廃液に含まれたカドミウム、トランスの絶縁材として大量に使われ始めたPCBなどが原因だった。
 昭和四十三年に地下鉄東西線が開通した。それまで、東京の日本橋に行くのはほぼ半日仕事だった。それがたったの二十分で行けるようになったのだ。もはや浦安は陸の孤島ではなくなった。このころになると、通勤の便利さから多くの人たちが住まいを移してきた。漁師の中には早くも漁業に見切りをつけて東京に勤めに行く者が現われ始めた。このころになると「こんなに海が汚れたのでは、もう漁はおしまいだ」と悲観的な見方をする漁師が増えていった。 それを見透かしたように昭和四十五年、千葉県は浦安漁業協同組合、浦安第一漁業協同組合に漁業権の全面放棄を打診してきた。漁業権は土地の権利と大きく異なる。土地の権利は手放しても買い戻すことができるし、代替地を手に入れることもできる。しかし、漁業権は手放してしまえば、もう二度と手にすることのできない、生活に強く結びついた権利なのだ。しかし、多くの漁師はもはや漁業への情熱を失ってしまっていた。
 昭和四十六年、二つの組合は県の提案を受け入れ、四百年続いた浦安の漁業は、ついに終焉の日をむかえた。漁業補償においては漁師たちの要求は値切りに値切られ、日の出、高洲などの漁民たちが四百年も守ってきた海の畑を、坪当たり三千円で取り上げていった。結局、漁師一人が手にした額は八百六十万円にしかならなかった。
<2003年9月5日>
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陸の仕事に戸惑う漁師


浦安の住民は直接漁業に従事していなくても、貝の加工や佃煮作り、あるいは商売などで、漁業とは切れない関係にあった。漁業権の放棄はそのまま町の失業をも意味していた。
 昭和四十六年、新米の熊川好生町長(後市長。二〇〇二年逝去)も漁民の失業対策に忙殺されることになる。漁協の中には臨時の職業あっせん所が設置された。また商売を創業しようとする者への低利融資、自動車免許証を取得しようとする者への一部補助、漁師家庭の高校生への奨学金の支給などきめ細かな対策が矢継ぎ早に打ち出された。こうした支援施策により、漁師の再就職は大方ではうまくいった。しかし就職先では漁師ならではの珍事もおきた。元漁師は仕事を済ませるとサッサと帰宅してしまうのである。退社時間にならないと帰れないという“陸の理屈”が理解できなかった。
 時間で縛られる仕事や上役に指示される仕事には不向きだった。また、字を書かそうとすると、とたんに、みんな強度の近眼になった。役所の窓口でも「アレ、メガネ忘れちまってよ」と職員に頼んだ。字を書くことも大の苦手だった。そんなことから選べる職業の幅は狭かった。飲食店を開店する者や築地河岸で卸売業を始める者も多くいた。もう一つ、漁師にピッタリの仕事が見つかった。東京都や船橋市の清掃の仕事で、パッカー車に乗ることだった。この仕事は街が眠りから醒めないうちから働くことになるが、早起きに慣れている漁師には気にならなかった。いやな上司の指示を受ける必要もなく、仕事が終われば家に帰ることもできた。しかも苦手な字を書く必要もなかった。そんなことから、東京や船橋の清掃車に乗る漁師も多く見られた。 浦安の清掃事業も、同じように元漁師によって始められた。加納輝義と飯田次男は仲間を誘って会社をつくり、町から清掃事業を受託することを考えた。昭和四十七年より以前には浦安には清掃事業はなかった。生ゴミは境川や運河に捨てられていた。ゴミ屋になるのを嫌い、仲間は集まらなかった。結局、加納と飯田の二人で浦安清運を設立した。人手の足りない分、妻たちに協力をお願いするしかなかった。
 はじめの頃は、紙のゴミ袋が破れ、頭からゴミをかぶることも度々あった。そのため真冬でも、水道の水で頭を洗いながらゴミの回収を行った。ご飯を見るとそれがウジ虫に見えてのどを通らなかった。それでも二人は「この事業が世の役に立つ立派な仕事だと言われるようにしよう」と誓った。今でも「一秒でも早く行ってゴミを回収し、道を安心して歩けるようにしろ」というのが加納の口ぐせだ。街は元漁師たちによって美しく保たれてきたのである。
<2003年9月19日>
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ディズニー誕生物語<1>


大三角に白羽の矢。いまディズニーランドやディズニー・シーやホテル群のある舞浜は、かつては大三角というヨシが自生している、湿地帯だった。この湿地は町有地になっていて、ヨシ切り料を役場に納めれば、誰でも自由にヨシを切り出すことができた。浦安の特産品である海苔を天日干しするのにヨシズは欠かせなかったから、大三角は浦安にとって大切な土地だったのである。
 戦後、東京湾内の汚染は年々、ひどくなっていった。昭和三十(一九五五)年ごろになると、タンカーなどから投棄される廃油が海苔網に付着するようになり、浦安の海苔の品質は低下していった。ジリ貧になっていく漁業に代わる産業を育てていこうという動きが出てきたのも、この頃からだ。昭和三十二(一九五七)年、新たな町づくりに向けて、町議全員と学識経験者による浦安町総合開発審議会が発足。議論の中心になったのは漁業の町からいかに脱皮していくかに絞られた。そんなときに藤生実太郎という人物が、学園都市構想と大型レジャーランド構想を持ち込んできた。 日本大学及び京成電鉄の代理人と自己紹介した藤生は、「この二つの構想を大三角で実現したいので協力を願いたい」と申し出た。藤生は意見の取りまとめを、岡島多三郎に依頼した。岡島は昭和三十三年の本州製紙事件で英雄的な存在になった。翌三十四年に千葉県議会選挙に立候補し、浦安の有効得票数の九〇%も獲得、県議会議員になっていた。
 発足から二年後の昭和三十四(一九五九)年、審議会は、学園都市構想とレジャーランド構想の前提となる町有地、大三角の払い下げと一部漁業権放棄を決定。その旨を「浦安町総合開発についての意見書」にまとめて千葉県に提出した。
 この構想を描いたのは京成電鉄の川崎千春社長だった。彼は米国や北欧のレジャーランドや公園を視察してきて、やがて日本でも、大人も子供も楽しめる公園機能を備えた大型レジャーランドの時代が来ることを直感する。すでに彼は、子供向けの遊園地「谷津遊園」をつくり、朝日土地興業の丹沢善利社長と力を合わせて船橋ヘルスセンター(現在のららぽーとの所)を成功させていた。川崎は、将来はもっと大規模にしなければ集客は難しいと見ていた。その大型レジャーランド(オリエンタルランド)構想を実現する場所として大三角に着目した。その理由として次の事が考えられる。
 一つ目は、大三角は直線距離で都心から一〇キロメートルしか離れておらず、直ぐそばに人口三千万人を抱える首都圏が広がり、道路と鉄道を整備すれば短時間でアクセスが可能となる。二つ目は、浦安は陸の孤島であり、土地が安く手に入る。三つ目は、漁業権は漁協に帰属した権利なので、交渉相手は二つの漁協で済む。川崎は、これまでの事業を通じてレジャー施設づくりのノウハウを学んでいた。
<2003年10月3日>
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ディズニー誕生物語<2>


昭和三十五(一九六〇)年、藤生実太郎は学園都市構想の具体案として日本大学系の教育施設整備案を示した。町議会に提出された設立趣意書には工業高校(普通科商業科も併設)、工業短期大学、日本大学教養学部、自動車学校などを置いた総合的な教育の場を整備することが明記されていた。計画には三十万坪の土地が必要となるが、用地確保に町の協力を頂きたいと藤生は伝えた。
 設立趣意書を受けて町議会は早速、検討に入った。といっても当時の議会はほとんど力を持っていなかった。決定権はあくまでも二つの漁協が握っていたのである。漁協幹部が議員となっていたから漁協の決定がそのまま議会の決定となった。 昭和三十五年六月二十二日の町議会は、町有地・大三角十七万三千二百二十九坪を一億二千五百万円で、随意契約により日本大学に払い下げる事を決定した。ただし、この売買契約にはいくつかの特約条項が付けられていた。
 1 大三角造成地に通じる道路は町の希望に協力すること
 2 汚水及び騒音の防止に留意すること
 3 土地造成に伴う土砂取り場については、漁協と協議して決めること
  4 学校への入学は、浦安在住の有資格者を優先して入学させること
 5 造成地には学校及びその運営施設以外は設置してはならない。もしこれ以外の施設を設置することが判明した場合、町は、ただちに払い下げ額で買い戻す事を了承すること
 6 転売を禁止する
 同年六月二十七日の「町有地払下調査委員会」に参考人で出席した藤生は次のように意見陳述をした。「今朝、山岡(萬之助)先生(日本大学名誉総長)から電話があり(払下げ条件)申し入れについて、折角のことだから承知したとの事でございました」。
 船山卯三郎委員の「無理して買って、支障のないように願いたい」との質問に対し、「来年一年で土地を造成して、再来年にはぜひ入学生を迎え入れたい」と述べた。日本大学は価格及び特約条項を了承したと議会は判断した。こうして、昭和三十五年九月二十九日、大三角は日本大学の代理人である藤生実太郎に払い下げられた。
 払い下げ価格を検討していた調査委員会の審議過程の中で、坪当たり七百二十円はあまりにも安すぎるという意見も強かった。しかし、町の将来のことや約束が守られなかった場合の買い戻しなどのことを考えた英断であった。また、日本大学の代理人が藤生、京成電鉄の代理人も藤生と、利権の話になると首を突っ込んでくる藤生に、一部の議員は警戒心をゆるめなかった。他にも浦安の町有地払下げを重大な関心をもって見つめている者がいた。東京地検特捜部である。
<2003年10月17日>
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ディズニー誕生物語<3>


浦安町がオリエンタルランド誘致を決めた昭和三十四(一九五九)年。まだオリエンタルランド(OLC)は設立されていなかった。設立されたのは大三角払下契約の二ヶ月前である昭和三十五年七月。資本金二億五千万円、株主構成は京成電鉄三六%、朝日土地興業(船橋ヘルスセンター)三二%、三井不動産三二%。設立目的は、浦安沖の埋め立て及び大型レジャー施設の建設並びに運営だった。OLCは、大三角が京成電鉄川崎千春社長の代理人である藤生実太郎の手に渡ることがハッキリした後に、登記設立された。
 大三角は藤生代理人から正式に、日本大学の名義変更されるはずであった。ところが、昭和三十七(一九六二)年八月十一日、日本大学ではなくOLCに名義変更されてしまった。譲渡禁止の特約事項は反故にされてしまったのである。町の矢島顧問弁護士は「なん人たりとも、第三者の手に渡った土地には如何なる特約がついていたとしても抗弁できない」と語った。
 あわてた町は、日本大学に経過説明を求めた。対応に出た高橋総務課長は小澤節夫町議に「日本大学理事会では、そのような(浦安での学校等設置に関する)決定はしていないし、それに関する理事会も開かれたこともない」と答えた。「この『協力方要望書』に捺してある『高橋』の印はあなたの印ではないのか」とつめ寄ると「誠にそのとおりでございます。理事会ではまだ決定を見ておりませんが、そのような書類を出してくれと言われて私がつくりました」と苦しい答弁をした。 大三角の購入資金を用意したのはOLCだったのだ。日本大学は単なるダミーに過ぎなかった。後に社長になる高橋政知(一九一三〜二〇〇〇)がOLCに入社してきたのは、この騒動の起きる一年前の昭和三十六(一九六一)年六月。上野アメ横入り口に戦火で壁がはがれ落ちたオンボロビルがあった。一階は雑貨店が入居、その上が京成電鉄本社で、事務所隅に人気のない机が三つ並べてあるところがあった。そこがOLCの本社だった。
 川崎OLC社長(京成電鉄社長兼務)は仕事仲間の三井不動産江戸英雄社長に至急、酒が強くて押しの強いのを一人回してくれと頼んでいた。江戸の紹介状をもって京成本社を訪ねた高橋に川崎は「浦安での土地の買い上げを手伝ってもらいたい」と伝えた。有無もない強引なやり方だった。高橋が入社して三日目、隣の席の「専務」の肩書きを持つ男が、東京地検特捜部に出頭を求められた。藤生実太郎だった。岡島多三郎に漁師たちの意見をまとめるための軍資金を渡したことが発覚したのだった。
 こうして、藤生と岡島は贈収賄容疑で逮捕され藤生の代理人としての生命は絶たれた。その後を引き継いだのが高橋政知だった。
<2003年10月31日>
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ディズニー誕生物語<4>


昭和三十三(一九五八)年、任侠の親分をリーダーとする浦安漁民闘争が起きた。このときの警察の警備行動に行き過ぎを感じた岡島親分は、法務省に人権侵害の疑いがあると提訴を指示した。国会で審議過程で警察は集中砲火を浴び、法務省から警備行動の改善を求める勧告を受けることになった。警察は岡島親分に完全に敗北したのだった。警察は岡島を執拗にマークして、その“借り”を返す機会をうかがっていた。一方の岡島は浦安の将来のことを考えていた。町が貧困から抜け出すには、何よりも教育が優先すると考えていた。だから藤生が示した学園都市構想にもろ手を挙げて賛成した。
 高橋政知のオリエンタルランド(OLC)での船出は、ひどいものだった。入社三日目に先輩専務が東京地検に引っ張られ、一週間後には地検の家宅捜査を受けた。仕事の引き継ぎもなく、書類も押えられているため何をする会社なのかも見当がつかなかった。とにかく漁師たちと仲良くなる必要があると感じ、焼酎ビンを担いで路地から路地へと飲みまわった。漁師たちは、酒の飲めない者を相手にしなかった。 時には、新橋や新富町まで繰り出した。浦安の漁師たちは飲みぷりがよく、売り上げを稼げるのでどこでも「浦安さんが来た」とモテた。あまりの額の多さに、OLC経理担当は支払を渋ったため川崎社長のサインが領収証になければ、お金が出なくなった。その豪遊は訳があった。昭和三十七年八月に藤生実太郎からOLCに大三角の名義が書き換えられたことに対する説明を求める、浦安町から矢のような催促が続いていた。大三角の払い下げ契約には譲渡禁止の特約事項がついていた。本来であれば、代理人から日本大学への名義変更が行われるはずであった。高橋は、OLCへの名義変更に反対しないよう漁師たちの根回しを急ぐ必要があった。
 昭和三十七年六月の岡島多三郎の釈放日には多くの漁民が出迎えに行った。その光景を見聞きした高橋は、任侠の組長をリーダーに持つ漁民との交渉を思うと汗がにじんだ。岡島の人気はいささかも衰えていなかった。翌三十八(一九六三)年三月二十日に開催された「工業高校設置に関する特別委員会」に参考人として証言に立った高橋政知OLC専務は「名義を変更したことについての他意はありません。名義替えは第三者に転売したような印象でありましたが、藤生イコールオリエンタルランドであると了解いただきたい」。江原助役の「(学校設置の)連帯保証人になってもらいたい」という質問にも「了解しました。第三者に転売することもありません」と答え、無難に切り抜けた。
 それから二年後の四十(一九六五)年に岡島は押されて町長に立候補し当選した。それは漁協幹部以外での初めての町長誕生でもあった。  
<2003年11月14日>
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ディズニー誕生物語<5>


昭和三十四年の一部漁業権放棄決定を受けて、千葉県は補償額を示した。漁家一軒あたり平均五十万円と、埋め立て後の土地百坪という買い上げ条件だった。逮捕される三ヶ月前の昭和三十六年三月、定例県議会で質問に立った岡島県議は「ひとかけらの農地もなく、漁業一筋に生きてきた漁師にとって示された補償額は、『わずか』という言葉そのものであり、漁民の落胆はとうてい筆舌に尽くしがたい」と算定根拠を示すように要求したが、開示されることも補償額が上積みされることもなかった。漁業権放棄の説得の先頭に立っていたことへの責任を感じていた。
 岡島は一部漁業権放棄に手早くまとめた。早く教育環境を整備したかった。その手際のよさには県もOLCも驚嘆した。岡島の受け取った額は、意見取りまとめのための活動費だった。その岡島の働きによってOLCも千葉県も、数千億円もの「利」を手にすることができたのである。
 千葉県による漁業補償が終わったのが昭和三十七年。翌三十八年五月十六日、県と東鉄連浦安鉄鋼団地組合との間で「土地分譲協定書」が締結される。<1>組合への分譲面積は二十万坪<2>分譲価格は坪当たり一万五千円、総額三十億円<3>代金は昭和三十九年五月から四十三年三月まで三ヶ月ごとに一億五千万円を納入する。ただし、初回の納入額は六億円とする。
 この契約に従い、鉄鋼団地に加入した中小企業二百社は、毎月十二万円を組合指定口座に積み立て、組合はこれをまとめて三ヶ月ごとに県に納付した。貧乏県の千葉県は鉄鋼団地に入居予定の会社に、海面のまま分譲を行った。県との契約が完了した翌月の六月二十八日、東海汽船の「あけぼの丸」をチャーターした見学会が開催された。そこは海面が広がっているだけで県担当職員の「ここです」という説明にも実感がわかなかった。
 埋め立てはOLCが元請となり、三井不動産、朝日土地興業、京成電鉄が下請になって県から請け負うことも暗黙の了解だった。そして埋め立て代金は、それぞれの企業が担当した埋め立て面積に応じる土地の現物支給に決まった。その支給面積は百十五万坪、価格は坪当たり一万五千円(総額百七十二億円相当)である。この、分譲地購入希望者に代金を前納させて漁業補償費に充て、請負企業には、工事代金に見合う分の埋め立て地を分譲する方式が「千葉方式」と呼ばれるようになり、全国にまねられていった。
 昭和三十八年十一月三日工事が始まった。沖のしゅんせつ船からパイプラインで運ばれてきた土砂水が、板囲いされた埋め立て海面に勢いよく噴出した。ところが、それから十二日後の十一月十五日の毎日新聞は、浦安の埋め立てに利権疑惑があることを報じた。
<2003年12月5日>
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ディズニー誕生物語<6>


昭和三十八年十一月十四日、参議院決算委員会で公明党の黒柳明委員は「県と業者がグルになって建設省の許可条件を無視した土地造成を進め、許可を受けていない土地まで勝手に売買契約を結んでいる」と疑惑を追及した。黒柳氏は次の点を具体的に問いただした。 一点目は、「千葉方式」では土地が不当に安く評価されるうえ、土地の売買契約ではないので国税も取れず、国に損害を与える。二点目は、まだ建設省から埋め立ての認可が下りていないのに、沿岸の町有地(富岡地区堤防外のヨシ切り場)を埋め立てる代わりに浦安町に与えられる約八万坪が三井不動産に坪当たり一万八千円で譲渡するという覚書が三井不動産と浦安町との間で取り交わされている。三点目は、埋め立て後、漁業補償分として漁民に与えられる土地が坪二万円から三万円で売買されている。
 こうした点について建設省の監督責任を追及した。鉄鋼団地用地は三十八年に部分着工したが、正式に第一期埋立工事が始まったのが昭和三十九(一九六四)年。漁民に分譲される土地である海楽や今川も海面下だったため、県は約束手形として「土地分譲証書」を発行した。埋め立が始まると、そこに金儲けの臭いを嗅ぎ付け、多くの不動産業者が出入するようになる。「土地分譲証書」は坪当たり三万円の値がついた。町が七百二十円で払い下げしたのを知っている漁師たちの中には不動産業者に証書を売り渡す者も多くいた。
 千葉県は公有水面埋立法にもとづいて建設省に埋め立て申請を出した。A地区(美浜入船)とB地区(富岡今川)はすぐに許可が下りたが、C地区(舞浜)は「江戸川の流れの影響調査のうえ」と河川局が慎重な態度を取った。そのためにC地区の鉄鋼団地と学校整備計画にメドが立たなくなってきた。鉄鋼組合が必死の陳情をしたかいがあってC地区の鉄鋼団地分譲予定地はすぐに許可が下りたものの、C地区全体の埋め立て認可が下りたのは昭和四十三(一九六八)年になってからである。四十三年には鉄鋼団地予定地の埋め立て工事(B地区とC地区の一部)は竣工した。A、B、C地区全体の埋め立てが竣工したのは昭和四十六年になる。
 昭和四十四(一九六九)年に地下鉄東西線が開通した。日本橋に行くのは、それまで半日仕事だった。それがわずか十五分で行けるようになった。通勤に便利になったことから、多くの人たちが移り住んできて、浦安の人気が高まっていく。昭和四十六(一九七一)年六月、第一期埋め立て工事は竣工する。この年、浦安は漁業権の全面放棄を決めた。その翌年には第二期埋め立て工事が始まった。昭和四十六年、このとき生まれた地面の価格は既に坪当たり三十万円、漁業補償価格の百倍以上になっていた。「土地分譲証書」を持っていた者と手放した者とに大きな富の差が生まれたのである。
<2003年12月19日>
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ディズニー誕生物語<7>


町はオリエンタルランドに売り渡した以外にも町有地を持っていた。
東 野 五万六四七一坪
小三角 四万三七四〇坪
見 明 二万三五八六坪
沖の割九万七五三七坪の計二二万一三三四坪
 昭和三十八年三月、この町有地に関して浦安は県と土地譲渡に関する「覚書」を交わした。

1 浦安は町地先埋立造成事業に協力して土地を無償で譲渡する
2 埋立竣工後、県は浦安町に譲渡を受けた面積の三分の一を譲渡する
3 地価は等価とし、金銭の授受は行わない
4 県が譲渡する土地の位置、利用方法は双方で協議する

 という内容だった。この時点では、まだ埋め立ての認可が下りていなかった。
 「覚書」はオリエンタルランド(OLC)を入れてもう一通、取り交わされた。学校用地確保に関する内容だった。
1 OLCは県から譲渡を受ける四十万坪内に、浦安町が学校を建設するのに必要な土地を無償で提供する
2 場所や面積については県と町、OLCが協議して決める
 覚書を交わしたのは

千葉県開発局長 小斉弘
浦安町町長 尾頭三之助
オリエンタルランド代表取締役 川崎千春

 また、県がOLCに示した埋め立て計画では、県が工事代金分としてOCLに分譲する土地は二十四万七千坪と内示されていた。この覚書の内容を黒柳明議員が昭和三十八年十一月十四日の参議院決算委員会で取り上げたのだった。
 昭和四十(一九六五)年九月に行われた町長選挙で大方の予想に反し、岡島多三郎が当選を果たした。岡島は、教育施設の充実を選挙公約に掲げ、選挙戦を戦った。貧乏な町から脱却するには、教育の充実から始めなければならないというのが岡島の信念に近かった。しかし、当選してみると使える予算はほとんどなかった。
 昭和四十一年五月二十六日の「財政事情調査特別委員会」で岡島は「昭和四十一年度当初予算においてはゴミ焼却炉建設など必要額を除くと残額は一千数百万円であります。この少ない予算とは別に町民が要望される事業は累積しております。道路下水道の整備、小中学校、給食センター、地下鉄駅前の整備などは文化都市浦安をつくるうえでは、欠くことのできない重要事業と考えております。(中略)町独自で解決しなければならない問題が山積しております。埋め立て地に誘致する企業から大幅な税収が確保されるまでの間、何らかの方法で打開策を講じなければならないと決意しておる次第であります」と述べた。
 岡島は基盤整備のための財源の確保を考えていた。
<2004年1月1日>

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ディズニー誕生物語<8>


岡島町長は東野の埋め立てを完了した町有地・一万四千七百坪を払い下げた。入札ではなく随意契約で払い下げられことに東京地検特捜部も強い関心を示した。岡島は財源を確保するために、県に払い下げ額を予定額の一万五千円より高くして欲しい旨要望していた。その結果、県開発局の紹介により、三井不動産に坪当たり一万六千九百六十円、総額二億五千万円で払い下げた。地検は調査に入ったが贈収賄の痕跡は発見できなかった。昭和四十一年十一月の浦安小学校竣工式で岡島は次のように喜びを表している。その言葉には政治家岡島多三郎の強い使命感がにじみ出ている。
  「本日落成の運びになりました浦安小学校の建設計画は、前任者(尾頭町長)当時に計画されたものであります。…しかし、資金計画についてはメドが立たず、議会でも相当に紛糾したと聞いています。財政は年々困窮を極めており、小学校の建設は容易なことではありません。しかし、あらゆる犠牲を払っても、人間形成の根幹をなす児童教育の場を建設することが、町政を担当する者の責務であると痛感し、直ちに建築設計に着手し、町議会を始め各界の意見を求めました」
 「検討の結果生じた資金不足をいかにして調整するかが、残された問題でした。国に陳情いたしました結果、補助金を当初決定していた額より七百万円増額していただきました。更に敷地の売却につきましては県当局に懇願して、当初決定額より一千万円引き上げて頂いたのであります。我々は子孫の為、より良い町づくりをすることが責務であり、又町民一人一人の使命ではないかと思います」
 「幸いにして本町は、昭和三十七年漁業者の犠牲的精神により漁業権の一部放棄がなされ、本町地先の海面二百六十万坪の埋め立て工事が始まり、すでに百万坪の埋め立てが完了しております」
 「…一部にはいろいろなうわさ(贈収賄疑惑)も流れていますが、誰かが成し遂げなければならないこの仕事に、私は就任早々ぶつかったわけです。本校に続いて堀江小学校も間もなく完成します。本校の完成が将来の浦安を担う、いや国家の将来をその双肩に担う子供たちのよき教育の場として必ずやその価値を発揮するものと確信しております」と、教育への熱い思いを示した。その一方で、岡島は頭の痛い問題を抱えていた。
 昭和三十七年、岡島も先頭に立って走り回った大三角に工業高校を整備するという約束の期限は昭和四十年七月だった。岡島が町長になったときにはすでに、その期限から二ヶ月も過ぎていた。昭和三十五年七月に藤生実太郎と取り交わした土地売買契約書には、五年以内に実現できない場合は払下価格(坪当たり七百二十円)で買い戻すという特約条項がついていた。
<2004年1月16日>
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ディズニー誕生物語<9>


 浦安は自分たちの土地を奪っていこうとする者がいることを肌で感じていた。それは、ゴミ処分場として大企業や東京に狙われ続けてきた町の野性的な嗅覚でもあった。藤生実太郎が日本大学と京成電鉄の代理人として、学園都市構想や大型レジャーランド構想を持ち込んで来たときも、その警戒をゆるめる事はなかった。
昭和三十五(一九六〇)年に日本大学系の工業高校等を設置することを条件に町有地、大三角十七万三千坪を一億二千五百万円で藤生に払い下げたときもいくつかの条件をつけた。
○譲渡の禁止する
○学校施設及び関連施設以外の使途を禁止する
○達成目標期間を五年以内とする
○このいずれかに違反した場合は払下げ価格で買い上げる
しかし、名義は日本大学ではなくオリエンタルランド(OLC)に変更されてしまう。この説明を求めた浦安町にOLCは「藤生イコールオリエンタルランドであるから名義の変更があったが、それは譲渡ではない」と弁明し、その証として「念書」を提出した。
念 書
昭和三十七年十二月五日
貴町に対し、工業高等学校建設承認書を提出しましたが、これは、藤生実太郎が工業高等学校建設について負うところの権利義務を弊社に於いて継承し、その責任の所在を明らかにすると共に貴町の子孫教育に寄与することに致したものであります。
(後略)
昭和三十八年一月十日
浦安町長 尾頭三之助殿
オリエンタルランド代表取締役 川崎千春
 ところが肝心の埋め立て認可がなかなか下りなかった。OLCは、昭和四十年三月に二十四日付書面をもって県に埋め立てについて予定を問い合わせ、同日付で回答を得た。その内容は図で示したとおり。よほど切迫した事情があったのだろう。OLCは同日付の書面で浦安町に「完成年次の延期と設置場所の変更」を願い出た。本格的な内容の検討が行われたのは五月十七日の特別委員会。この日は県の職員の他、OLC側から高橋専務、福島、佐藤氏が出席した。議論の結果、次のように合意した。
 学校用地をB地区内に代替することを了承する大三角代替地十七万三千坪の中には県の計画した学校用地十一万二千坪も含まれることを了承するB(富岡)地区の竣工日から1年以内に藤生代理人と契約した内容の学校施設の建設を完了すること約束が履行されなかった場合は町に土地を返納する特約事項はそのまま生きていた。結局、C(舞浜)地区の埋め立てが認可されたのは昭和四十三(一九六三)年になってからだ。この工業高校問題が昭和三十五年からくすぶりつづけていた。
<2004年2月6日>
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ディズニー誕生物語<10>


浦安に大型のレジャーランドを造ろうという構想は、京成電鉄社長で昭和三十五(一九六〇)年に潟Iリエンタルランドが設立されると社長に就任した川崎千春のアイディアだ。
 昭和三十一(一九五六)年四月二十六日に「首都圏整備法」が公布された。この法律は、工業化の進展によって首都圏が無秩序に開発されていくことに歯止めをかけることを目的としていた。都心既成市街地より一〇`b圏内を近郊整備指定地帯に指定し、指定地帯内での工場設置を認めていなかった。この法律によって無秩序な乱開発やひどくなっていく首都圏の大気汚染を抑えようとしていた。
 造れるのは住宅、学校、公園、病院など。企業が施設を建設する場合も、倉庫やばい煙を出さない組立加工工場の限定されていた。浦安全域がこの近郊整備指定地帯に指定されたのである。川崎はレジャーランド構想と学園都市構想なら広大な土地を入手できると考えた。川崎は「オリエンタル」の社名が示すように東洋的なレジャーランドの構想を描いていた。昭和三十九年五月十五日に埋め立て工事起工式(ただし鉄鋼団地用地は既に着工済み)が盛大に行われた。
 川崎は六月に二十四日付け千葉日報で次のような構想を語っている。要約すると、「日本の花形産業であるトランジスターラジオやテレビ、おもちゃの組立工場、キャラメル工場などを建て、子供たちが楽しみながら見学できるようにしたい。それに併設して、家族で楽しめる大きな遊園地を造りたい。そこにはアメリカの『ディズニー』やオランダの『少年の街』などの良い所を取り入れ、そこに日本的な要素も加味し、昔の国、冒険の国、夢の国などを造ってみたい。また中心部には大木が茂るパリ、ブローニュの森のような公園もあり、周辺にはホテル群と広い駐車場を整備したい」と抱負を語った。また次のようにも言っている「海岸線を日本列島にかたどって日本各地の名所旧跡や特産品も紹介できるようにしたい」この構想の中にはテニスコートや植物園、鳥類園、ヘリポートなども入っていた。
 昭和三十七年、漁業補償が終わると時間をおかずに、この構想を実現するため川崎は高橋政知専務に百万坪の用地確保を命じていた。県との交渉で七十五万坪の用地を確保してきた高橋に対し「二十五万坪も値切られた」と不満を漏らした。「米国ディズニーランドでさえ九万坪なのに、なぜそんなに広大な用地が必要なのか」との高橋の言葉に「今から敷地が埋まってしまうようでは将来身動きが取れなくなる」と答えた。
 しかし、実現にはまだ超えなければならない難問があった。C(舞浜)地区は、鉄鋼団地団地用地の埋立ては昭和三十九年に始まっていたが全体の埋め立て認可はまだ下りていなかった。
<2004年2月20日>
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ディズニー誕生物語<11>


昭和四十四年、地下鉄東西線が開通した。同じ年、町長選挙が行われ、岡島多三郎と昭和四十年まで町企画課長だった熊川好生との一騎打ちになった。この選挙戦は今でも語り草になるほど壮絶な選挙戦だった。結果は熊川が四十歳の若さで当選した。昭和四十五年、浦安の二つの漁協は全面的な漁業権放棄を決め、四十六年には補償交渉もまとまり、二つの漁協は解散し漁業の町浦安に幕を引いた。これを受けて、同年第二期埋め立て工事がスタート。このときの埋め立て地整備基本計画では、昭和四十年の基本構想のときにあったA(入船美浜)地区、C(舞浜)地区の軽工業用地二十二万四千坪が消えている。
三十八年の分譲後も鉄鋼団地への入居希望が多く、二百社の分譲枠に収まらなくなった。そこで軽工業用地を鉄鋼団地用地に代えて三十万坪をE地区に確保するようにしたからだ。同年C地区の埋め立て工事は竣工をむかえた。
税収の安定化は歴代町長の悲願でもあった。熊川町長も街の基盤整理には、税の安定的な歳入は不可欠だと考えていた。そのためには、
<1>固定資産税収入の低い農地は残さない
<2>良質な住宅環境整備を行い、首都部のべ度ベッドタウンのしての機能を持つ
<3>学校、公園、公共施設道路などを目的とした土地は県から無償で譲り受け、土地の購入に要する社会資本整備コストを軽減する
<4>埋め立て地全体をいくつかのゾーンに分けて計画的に整備を行う
<5>企業誘致を積極的に行う。しかし、ばい煙や廃液を出す工場の進出は認可しない
こうした方針を街づくりに落とし込み、中流所得者層の取り込みをもくろんだ。
オリエンタルランド構想は税収の安定の面からも町として協力し、早期実現が求められていた。
昭和四十七年十月十二日、「大三角に関する協定」が町とオリエンタルランド(OLC)との間で締結された。内容は次の通り。
<1>昭和四十年五月の「覚書」で合意した内容にもとづき東野地区に東海大学付属高校を設置する
<2>この高校設置は、昭和三十五年九月二十九日、日本大学代理人である藤生実太郎と公正証書で交わした「工業高等学校及び自動車学校設置」とみなし、約束は履行されるものとする
<3>東海大学浦安校の敷地面積は一万七千坪と、大三角面積の十分の一の面積であるが差し引き面積の返還を求めない
<4>OLCはこの契約締結時に四億円の使途を指定しない寄付をおこなう
<5>高校設置に期限はつけないができるだけ早く開校すること
大三角問題がくすぶりつづけて十二年間、ようやく浦安市とOLCとの合意が成立した。この合意によってOLCは土地の含み益六百億以上を手にしたことになる。この含み益があったからこそ、ディズニーランドが成功したのである。
<2004年3月5日>
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ディズニー誕生物語<12>


昭和五十年ごろから約十年間の浦安は、西部劇に出てくる砂漠の金の鉱脈が発見された町に似ている。一期、二期埋め立て工事が竣工した昭和五十年、四百二十九万三千坪の砂漠が出現し、面積は一挙に三倍になった。十年間でその埋め立て地に集合住宅八千四百五十戸、戸建住宅四千七百三十戸建設の計画が発表される。そのほか、鉄鋼団地に二百五十八社が進出を決め、大規模な総合レジャーランドが建設されることが決まっていたのである。
 道路やガス水道などの社会的資本の整備を含めると、十年間の総投資額は軽く一兆円を超える。このころの浦安は“利権の町”として頻繁にマスコミに登場するようになっていった。これだけのお金が動くのだから致し方ない面もある。
 大三角問題に決着がついて、ようやく本格的にレジャーランド構想が動き始める。
 図のオリエンタルランド基本計画がOLC関係者から発表されたのが、昭和四十八(一九七三)年七月十三日の浦安町議員協議会の席だった。
 このプランは、米国ヒューストンにある「アストロドーム」の日本版ともいえるもので、昭和六十年度のオープンが予定されていた。プランはレジャーランドというよりもスポーツランドに近い。
 だが、この構想には川崎OLC社長が描いていた構想とも大きな隔たりを感じる。この案がどのようにして作成されたかは不明だが川崎は、この構想では年間一千万人の入場者を確保するのが難しいと感じていた。そこで社員を手分けして世界のレジャーランドを調査する。その結果、年間一千万人以上の集客力を持つのはディズニーランドしかないとの結論に至った。
  昭和四十九(一九七四)年、川崎は三井物産ロスアンゼルス支店を通じてウォルトディズニープロダクション(WDP)に日本進出を打診した。その結果WDPも真剣に日本進出を検討しているのと感触を得た。同年十二月、ドン・テイタム会長を先頭にWDPの首脳陣が日本進出の可能性を見極める調査に訪日する。調査対象になった所は浦安のほか富士山麓や大阪などであった。
 ヘリに乗っての上空調査の結果、浦安が最も有望視された。浦安町役場を表敬訪問した調査団一行に熊川町長は「もし、浦安に進出をされる場合は町民をあげて歓迎するとともにあらゆる協力を惜しみません」と伝えた。
 この後、OLCとWDPは採算可能性調査を行う契約にサインした。
WDPは次のような条件を提示してきた。
<1>資金調達は全て日本側で行う
<2>ロイヤリティーは売り上げの一〇%
<3>契約期間を五十年とする
 川崎は「それ以上譲れないというのなら」と了承した。
 このころ三井不動産の社長は江戸英雄が退いて坪井東の交代していた。江戸は大型レジャーランド構想に協力的だったが、坪井新社長は否定的だった。
<2004年3月19日>
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ディズニー誕生物語<13>


昭和四十八(一九七三)年秋に始まったオイル原油の高騰は買いだめ、売り惜しみなどの消費行動を引き起こし、それが引き金になって、消費財のインフレと土地価格の下落するデフレが同時に起きた。京成電鉄は多額の不動産投資が資金繰りを悪化させていった。上野駅前にオープンした京成デパートも赤字垂れ流しとなり、本業の鉄道部門では労働争議が激しさを増していた。
   足元に火のついた川崎千春はとてもオリエンタルランドづくりに構っていられなくなっていった。川崎はオリエンタルランド(OLC)社長を辞任したが、社長席を空席にし、後を三井不動産社長の坪井東に託した。坪井は一千億円も投資を必要とする巨大な遊園地の成功に悲観的だった。
   また、なんのリスクも負うこともなく、五十年間も売り上げの一〇%のロイヤリティを支払うという条件も気に入らなかった。ウォルトディズニープロダクション(WDP)と既に合意していた条件だった。坪井はこの条件を安政の日米和親条約以上の屈辱的な条件だと言いつづけた。
   このため、WDP側とは基本合意には達したもののその後の進展はほとんどなかった。WDPとの交渉に臨んだOLC社員は、具体的な交渉に入ろうとすると、そんな短い期間では結論が出ない。親会社に伺いを立ててからでないと返事できない。もう少し金額を落とし、規模を小さくできないかと繰り返し、会議は空転した。坪井が裏でブレーキをかけていたのだった。
   そんな日本側の態度にドン・テイタム会長は決裂やむなしで腹をくくり、交渉に当たる者に絶対にネゴに応じるなと指示を出した。ディズニーランド実現の雲行きが怪しくなってきたのを浦安町も心配していた。このままでは流産しそうだと感じた熊川好生町長は、全議員によるアナハイム市視察を議会に提案した。表面の目的はディズニーランド進出による経済、交通、犯罪などの調査だが、本当の目的は、WDPの日本進出決断を促すことあった。
   昭和五十三年二月七日午前九時四十分、羽田を飛び立った一行には、熊川町長のほか市議七名、事務局員三名、OLC側から堀常務が加わった。
   熊川の胸には、ディズニーランドの誘致を選挙公約に当選を果たした川上紀一県知事のドン・テイタム会長に宛てた「私は、四百五十万県民を代表し、貴社の浦安町への進出を心から歓迎するとともに、この計画が一日も早く実現し、成功することを祈念するものであります」という親書が収められていた。
   不安と期待が入り混じるたび立ちだった。 
<2004年4月2日>
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ディズニー誕生物語<14>


 昭和五十三(一九七八)年二月七日深夜ロスに到着した。その翌八日から視察団の精力的な調査が始まる。アナハイム市との会議は、朝八時に朝食を取りながら開催された。調査項目は、雇用に与える影響、市財政にもたらす効果、防災上の留意点、ゴミの対策、多くの観光客が来ることによる犯罪対策など多岐にわり、会議は夜ふけまで続く。
 そして、二月十日午前十一時三十分、いよいよウォルトディズニープロダクション(WDP)首脳との懇談会が始まった。スタネック東京担当役員は「…ディズニーランドのノウハウはいくらお金を積んでも買えるものではありません。私どもには世界のあらゆる国から進出の要請が来ております。しかし、アメリカ以外でビジネスを行う約束をしたのは、今回が初めてのことです。私どもは浦安という有利な地を得て、そこに東京ディズニーランドをつくることを確約したします。浦安はアジアの、いや世界の観光都市になる事は間違いありません。そのことは地元の皆様にとりましても自慢できることになると確信しております。これから、フェーズ3の建築段階に入るわけですが、私どもは、東京ディズニーランド(TDL)計画に強い自信を持っており、百%成功させる支援体制をとります」。
 自らの生活の場だった漁場を放棄してまで、このプロジェクトのためにスペースを提供してくれ、東京ディズニーランドのできるのを心待ちにしている浦安町民の代表が県知事の親書をもって訪ねてきたことが、彼らのフロンティア・スピリットを燃え上がらせた。
 WDPの首脳は、浦安町民に向かって直接、計画を前進させることを表明したのだった。後に熊川市長(当時は町長)は「ドン・テイタム会長もよほど感動したのだろう。彼のオフィスで、一番目の着くところに川上知事からの親書が額に入れて掛けられていた」と話してくれた。
 この浦安視察団との話し合いで、WDP側の決意は固まる。
 問題は、やはりOLCの内部にあった。同五十三年八月、高橋政知はOLC社長に就任した。米国に交渉に発つ高橋に坪井社長は「これをテイタム会長に」と手紙を託す。それを読んだWDPの首脳はカンカンなって怒った。三日間の会議は白けっぱなしだった。最後の日「今晩パーティーに招待します」と誘われた。それは「最後の晩餐(ばんさん)」を意味していた。坪井はまたロイヤリティの話を蒸し返し、一〇%を五%に値切ろうとしていた。坪井の意図は、WDP側から契約解消を言わせたかったのだ。
 もう一方で三井不動産は、熊川町長に遊園地用地を住宅地に変更できないかと、働きかけも行っていた。
<2004年4月16日>
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ディズニー誕生物語<15>


三井不動産の舞浜地区全体を宅地に地目変更できないかとの打診に、熊川町長は「もし、そのようなことを企てるのなら、全体を一種住宅専用地域に指定し、道路、学校、公園、その他公共施設の全てを開発行為で負担させ、儲(もう)からないようにする」と警告した。
 アメリカから帰った高橋はその足で川上紀一県知事を訪ねた。話を聞いた川上も激怒し、坪井を呼びつけた。「もし、実現できなければ、払い下げ契約に特約されているように坪当たり一万六千八百円で県が買い戻す」とクギをさした。もしそうなれば、オリエンタルランド(OLC)の二千億円の含み益が消えることになる。このことを持ち出して坪井の退路を絶とうとした。
 高橋OLC社長の粘りづよい交渉の結果、ロイヤリティー対象地域を六十三万坪の半分にした。また赤字経営に陥った場合はロイヤリティーの支払を免除するという項目を加えた。何度もの親会社の妨害行為に高橋社長も「どんなに困難があろうとも、必ず実現させてみせる」と誓う。
 残る問題は資金調達だった。ここでも坪井はブレーキをかけてきた。このときの株主構成は京成電鉄五二%、三井不動産四八%だった。坪井は「建設資金一千億円のうち四八%分の債務保証しかできない。あとは自分たちでやれ」と突き放した。その頃(ころ)の京成電鉄は債務保証できるだけの体力はなかった。
 昭和五十四年二月、高橋は、川上知事の命を受けた沼田副知事と二人で三井銀行、三井信託銀行と融資のお願いにまわったが、色よい返事がもらえなかった。買い戻し特約の付いた土地に担保価値はないという理由だった。
 ウオルトディズニープロダクション(WDP)との契約は二か月後の四月にせまっていた。それまでには資金調達のメドをつけておく必要があった。三井系の銀行に断られた翌日、日本興業銀行に菅谷隆介副頭取を訪ねた。
 高橋はプロジェクト全般を説明し、沼田副知事は「千葉県が全責任を持ち、金融機関に迷惑をおかけする事はありません」と千葉県としても強い支援体制をとっていることを強調した。その言葉が菅谷の心を動かした。聞き終えた菅谷は協力を約束し「融資額が巨額になるので当行が幹事銀行になった融資団にする」と約束した。二人は「地獄で仏」の思いだった。
 後で分かったことだが、坪井は、三井銀行、三井信託銀行に「行っても、話しに乗ってはならん」と指令を出していたのだった。
 昭和五十四(一九七九)年四月三十日、OLCとWDPは基本契約に調印した。翌五十五年一月、千葉県とOLCとの間に「東京ディズニーランド事業推進に関する覚書」が取り交わされた。県が止むを得ないと認めた場合は、遊園地用地のうち三十一万坪の土地利用制限を解除するという内容。資金的に厳しくなった場合は、宅地に転用し売却できるお墨付きだ。県は全面支援をこの「覚書」で表した。これで資金面での心配も消えた。
<2004年4月30日>
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ディズニー誕生物語<終>


昭和五十八(一九八三)年四月十日、コンクリートの床にはいつくばった雑巾がけが深夜まで続いた。明日十一日はいよいよ開園披露日をむかえる。その最後の準備が従業員総出の園内雑巾がけがだった。
 東京ディズニーランド(TDL)開園式典には、安部晋太郎外務大臣、瀬戸山三男文部大臣、沼田武県知事、熊川好生市長(浦安は昭和五十七年から市に)など多くの来賓が出席して盛大に行われた。翌十二日、十三日、ディズニー側はこれまでの協力に感謝して浦安市民全員を招待した。
 TDLの建設費は当初の見積り額一千億円をはるかに超え一千八百億円にも達した。それでも事業費を調達できたのは、千葉県の支援があったからに他ならない。
 テーマパーク十四万坪、九千台の駐車スペース八万坪、サービスエリア三万坪、計二十五万坪。米国ディズニーランドの総面積九万坪と比べても関係者の熱の入れようが分かる。しかし、巨額の投資額と高いロイヤリティーに、多くのマスコミや民間研究機関はTDLの先行きを不安視していた。だが、一年目の入場者数は目標の一千万人をはるかに超える千三百万人に達していた。一年目にして、本家米国ディズニーの来場者客数千百五十万人を抜く。客層として想定したファミリー層に加えて若者たちの支持も得たのである。
 TDLの成功は、単に一企業の努力だけでは語れない。海のものとも山のものとも分からない大型レジャーランドの実現のために、自分たちの生活の場を提供した浦安漁民。漁民をたばね、大三角に将来国家繁栄の基となる健全な教育の場を創るために先頭に立った岡島多三郎。真っ白な浦安の地図に赤鉛筆で線を引き、グランドデザインを描き、町民あげての協力姿勢を示した熊川好生、日本に家族で楽しめるレジャーランドを創るためリーダシップを発揮した川崎千春。開拓者魂に燃えTDL実現をサポートしたドン・テイタム会長をはじめウォルトディズニープロダクションの首脳たち、TDL実現を行政側から強力に支えた川上紀一。渋谷にあった千六百坪の邸宅を処分してまでデイズーランド建設につぎ込み、切り込み隊長として数々の難題を突破した高橋政知。その多くはすでに故人となった。
 東京ディズニーランド実現の動きは昭和三十四(一九五九)年に始まり二十四年間の歳月を経て昭和五十八(一九八三)年にオープンした。TDL基礎を固めたのはこのような先人たちである。
<2004年5月14日>
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きれいな海はみんなの願い


浦安で三番瀬をきれいにしようという運動がスタートしたのは一九九九年秋のことである。
 上野菊良は、三番瀬の岸辺に打ち上げられたゴミの帯を見て、もう少しきれいにしたいと思っていた。それも、子ども会や自治会活動の一環として自分たちの手で何とかならないかと考えていた。そのことを横山清美に相談した。
 横山は熱心な自然環境保護活動家だ。彼女には分からないことがあった。江戸川は上流域から下流域までいくつもの環境保護グループがネットワークを組み、環境保全のための清掃や野鳥観察会などを行っているのに、海辺にはなぜそうした活動がないのか不思議でならなかった。本当に海辺の人は自然に興味を持っていないのかを知りたくなった横山は、浦安の若い母親と子どもたちを近くの三番瀬の干潟に連れ出した。水の引いた砂に手を入れると、面白いように顔を出すアサリやシオフキに子どもたちの目が輝いた。十年以上も浦安に住みながら、親たちは、すぐ近くに、こんなに豊かな自然があることを知らなかったのだ。
 このとき、彼女は、本当に環境教育の必要なのは親たちだと思った。親の自然環境への無関心さが、子どもたちの感性が育つ障害になっていることを痛感する。そして、自然環境を大切にする心を育てるには、子どもたちと大人たちとが同時に学習できる場づくりが必要だと感じた。上野からの相談に、自分の思いを肉付けして、二人で大野伸夫のところに相談に行った。
 大野は環境関係にかかわる仕事をしたくて浦安市の職員になった。ごみ減量に陣頭指揮をとっていたところに、上野と横山の三番瀬クリーンアップの構想を持ち込んできた。大野は市民の環境意識を高めるにはいい機会になると考え、市としても全面的に協力することを約束した。
 これに、「自分たちの海辺をきれいにする」という趣旨に賛同した市民が次々と参加し、「浦安三番瀬クリーンアップ大作戦実行委員会」が結成された。実行委員会のメンバーは会社員、主婦、市の職員、自営業、自由業など職業も年齢もまちまちだ。打ち合わせは、みんなのそろう夜間や休みの日を利用して行われた。
 「浦安三番瀬クリーンアップ大作戦」は今年で六年目を迎えた。
 いまでは参加人員も四百名をこえる市民活動になった。子どもの手を引いた若い夫婦や、先生に引率されて参加して子どもたちも増えた。数名の思いで始まった運動は、大きな輪となって広がっていった。
 こうして、浦安の自然環境を大切にしてきた姿勢は、新しい市民に、そして若い世代に受けつがれつつある。
 これからは「環境」をテーマに考えていくことにする。
<2004年6月4日>
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高慢な人類への警鐘


三年前に亡くなった内田仁助の口ぐせは「境川にアシを植えよう。アシが人を助けてくれることがある」だった。
 千葉工業大学教授の小原二郎は著書「木の文化をさぐる(NHKbooks)」の文中「国土庁事務次官を務めておられた的場順三氏は『座して待つのか日本人(ブック、2000)』の中で、いま私たちが使っている言葉の中で、一番間違っているのは『地球に優しく』だと述べておられる。私たちはアメリカ流の収奪経済にどっぷりと漬かっているために、自然から根こそぎ資源を略奪する行為を繰り返している。アフリカや東南アジアの人たちの生活には、自然に対する畏れがあって、自然と共生していく知恵が身についている。日本では経済人のほうが科学者よりも、はるかに謙虚さを失ってしまった。その例は『地球に優しく』である。これは人間が主人公で、地球を従属者の立場に置いている。だが、実際はその逆で、私たちが地球によって生かされている。その恩を忘れているのではないかと警告されている」
 ホモ・サピエンス(生物学上のヒト)という一種だけで地球緑地面積の三分の二を占有し、食料を生産しているのである。
かつての浦安は水辺にはアシが茂り、そこから続く遠浅の海には、貝類をはじめとする多くの水中生物が棲み、魚たちの産卵の場でもあった。その動植物の棲家は、人間の都合によって埋め立てられていった。そして、人間だけの棲むのに適したかたちに造り代えられていった。海に続く湿地帯には、江戸時代は鶴や白鳥も飛来して空を舞う“舞浜”でもあった。その鳥たちも埋め立てによって追い立てられていったのである。
 漁師町であった人々の暮らしも自然に融けこんでいた。境川の水で顔を洗い、米をとぎ、遠浅の海はクワで耕し、そこにアサリやハマグリの幼貝を蒔いた。秋になれば、浅い海一面に海苔網を張り、貝が大きくなるのを、海苔が海を黒く染めるのを待った。そこに江戸川の肥沃な清流が流れ込み、貝や海苔を育てた。暮らしの中には、豊饒の海への感謝と祈りがあった。
時代がかわって、春になると三番瀬には、多くの人間が貝を掘りに繰り出す。中にはバケツ一杯の貝を持ち帰る者もいる。
また、秋になると、境川の岸辺には家族連れでパラソルを開き、ハゼつりに熱中する光景が見られる。自分たちの楽しみだけのために、いとも簡単に貝や魚の命を奪ってしまう。
 漁は生き物の命を自分たちのからだに宿す業であるから、漁師たちは水神に祈りをささげた。
投網漁師だった内田仁助翁が境川にアシを蘇らせようとし続けたのは、彼らの棲家を押しつぶし傲慢になっていった自分たち人間への警鐘があったように思える。
<2004年6月18日>
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