市川よみうり連載企画
         土史研究家前田 智幸

語り継がれる闘いの歴史


浦安の歴史は今から四百年ほど前から始まった。徳川家康が江戸に居城をかまえると多くの漁民が紀州から移り住んできた。目の前には手付かずの江戸湾が広がっていた。記録によるとマグロやときには鯨まで回遊していたようだ。そこで、漁師たちは巻き網を使った漁を行い、天日で乾燥させて大阪に送る暮らしを始めた。そうした漁で生計を立てる生活が昭和三十年代まで続いた。
 漁民たちが海を追われることになった原因は、河川にタレ流される工場廃液である。とくに昭和三十三年に起きた本州製紙事件は漁民たちの漁への情熱を削ぎ取ってしまった。苛性ソーダを含くみ真っ黒になった廃液が江戸川に流されるようになって、たった二ヶ月で浦安近海は死の海になってしまったのである。
 このときの漁民蜂起は全国沿岸漁民の連帯をうみ、日本で初めての環境保護法である水質汚濁防止法を成立させた。
 鉄鋼団地やディズニーランドを誘致したのも、世界で最も厳しいドイツの排出ガス基準に合わせた清掃工場を造ったのも決して偶然ではない。自然環境を破壊する者とのいくつもの闘いの歴史が今日の環境負荷の少ない浦安を形づくっているのである。
 江戸時代から今日に至るまで浦安は移民の町である。漁師町に見られるような閉鎖性はない。むしろ開放的で明るくだれかれの隔てなく受け入れてきた。多様な価値観を持った人たちが集うことは町に活力を生み出す。思考の視野を広げることになるからである。
 だが、若者たちをたくましく育てるには、幾多の困難を乗り越えて今の町をかたちにした先人たちの苦労を、次の世代にも語り継がなければならない。子供たちへの郷土史教育は自立心を育てるのに不可欠なのである。郷土史の学習は自分の暮らすまちをより身近にする。人びとの苦労の足跡をたどることによって、信念をつらぬくことの必要性や、時として耐えなければならないことの大切さを学ぶことができる。
 本州製紙事件で海が死んでいったとき、漁民の収入は半分以下に落ち込み、多くの子供たちは休学を強いられた。朝早くアサリを仕入れて自転車にのせ、川口市や世田谷区の方まで売り歩いた。帰りに自分で稼いだお金で、少しばかりの駄菓子を買うことが彼らの楽しみだった。そうして家計を助けたのだ。だが、子供たちは明るさを失わなかった。家庭の中で自分のやるべき役割があり、大人たちにも期待されていたからだ。
 高校生に「将来独立を考えているか」と質問すると半数が「そうしたい」と答える。多くの子供たちが将来自立を考える時代になって来たのだ。
だからこそ、身近な郷土史なかから、事業をなしえるのに必要な家族の絆や希望をもつことの大切さ、苦境に立ち向かっていく克己心を学ぶ機会を提供することが大切なのである。
<2004年7月2日>

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化学物質から子供たちを守れ


平成十五年四月七日は江東区元加賀小学校のうれしい入学式だった。しかし、教室に入った直後から、からだの変調をうったえる子供たちが続出し始めた。九日、そのことに対する父兄説明会が開催された。
 元加賀小学校では冬休みを利用した屋上防水工事と、教室内の壁塗り替え工事が行われた。教育委員会は父兄に対し、工事後の測定では教室内の揮発性化学物質濃度は厚生労働省の環境基準値以下であり、安全であると説明したが、父兄間には動揺が広がっていった。この説明に納得できないPTAは、四月二十日に独自に濃度測定を行った。その結果、屋上に最も近い四階の普通教室のトルエン濃度は、教育委員会が父兄に説明した測定濃度の十倍以上の値を示した。
 特に差が大きかったのは六年一組の教室で、教育委員会が説明した数値の十四倍を超え、濃度は九二六マイクロc/立方b(μg/m3)を示した。この数値は厚生労働省が「室内化学物質の濃度指針値」の中で示したトルエン濃度指針値二六〇μg/m3の三・五倍にも達していたのだ。その後、竣工時の測定値は、窓を開けて、空気を入れ替えた直後の測定であることがわかり、父兄は不信感をつのらせていった。
 その間も不調をうったえる子供たちが増加の一途たどる。くしゃみ、なみだ目、頭痛、やのどの痛みなど。中には、鼻血が止まらなくなる子や顔が湿疹でただれる子まで出てきた。五月六日に行われた父兄への問診票では、全校児童数三百四十四名に対し体調が悪化した児童数が百六十八名にものぼった。原因は、屋上防水工事の溶剤として大量のトルエンが使用されたことにあった。一ヵ月後、教育委員会は学校統合で廃校になった白河小学校に児童を一時避難させることを決めた。
 浦安でも多くの小中学校が改装の時期を迎えつつあるが、工事に際しては、化学物質の放散が少ない素材選びが求められる。文部省は昭和60年「学校施設に木材利用のすすめ」の通達を出し、今年三月に文部科学省は幼稚園の木造化を推進する方針を決めた。
 実は、こうした健康校舎推進への取り組みは全国で始まっている。青森県や静岡県、和歌山県などは、改装に際して、床や壁を板張りする工事が行われている。その結果、冬の教室内の床面と天井面との温度差は、コンクリート(RC)十一度に対し、木造に改築後は四度差に改善された。RC校舎と木造校舎とで働く教師へのアンケート調査では、RC校舎の方が長時間立っているのが辛い、イライラすることがある、残響音が気になるなどの回答が多かった。
 また、子供たちへのアンケート調査では、木製の机や椅子がスチール製に比べてよいとの回答がほとんど。その理由は、落ちつく、温かい感じがするなどだった。木製の床については、転んでも痛くない、音がしない、みがくと光るなどをあげている。
 浦安は多くの学童を抱えている。だからこそ子供たちへ健康な教育環境を整えることが重要なのである。
<2004年7月16日>

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豊かな心を育むために


埋め立てたやせ地に草木が育つか、ケナフの栽培をつうじて確かめている人たちがいる。服部丈夫が代表をつとめる「エコフレンド浦安」の市民たちだ。平成十一年度に、明海大学南側の県の土地を借りた試みがはじまった。水はけの悪い砂地の土地を耕し種まきがはじまった。こんな土地では育たないだろうと見られていたが、たいした肥料も施さないのにすくすくと育ちはじめた。その発育を助けるため、何度も草取りに汗をかいた。それが夏には二b以上に背丈をのばし芙蓉に似た花をつけた。こんどは、平成十三年には、高洲海浜公園の一角を借り受け、少し規模を大きくし、潮風の影響などを調べた。このケナフ栽培を子どもたちの情操教育に役立てようという動きが全国的に広がっている。
  服部のところにも、学校からケナフの栽培方法を教えて欲しいという依頼がまいこむ。行くと、種まきから、紙をすくところまで、全部を手伝ってもらいたいというお願い。そんなとき服部は言う。「いっしょに育てましょう。きっとすばらしい発見がありますよ。ケナフといっしょに、子どもたちも大きく成長しますよ」と。
 こんなことがあったと服部は目を細める。子どもも先生もいっしょになってワイワイと耕し種をまく。一週間ほどすると、自分のまいた種が芽を出したと知らせが入る。それから、毎日のように、今日は何センチのびた、葉が何枚になった。今日は、自分の背丈をこえた。今日はじめて花が開いたと、嬉々とした子どもたちの声が届く。
 そのケナフもやがてもう一つの体験学習である紙づくりのために、切らなければならないときがくる。そのとき、そうすることを分かっていても、子どもたちは「かわいそう」と涙を浮かべながら自分が育ててきたケナフを刈る。その茎をミキサーで細かく砕き、煮て繊維を取り出す。その繊維に水を加え細かな網ですく。こうしてはがき大の和紙が出来上がる。子どもたちは、ケナフが和紙に姿をかえても、そこに命が宿っていることを知る。ものを大切にしようという心もうまれ育つ。服部は「命の大切さを体験した子は、人にもやさしくなれる」と言う。
 市教育委員会の「目標と方針」には「自ら学び自ら考える力と他人を思いやる豊かな心を育む教育への質的転換を目指していくことこそ市民の願いである」ことが高らかにうたわれている。
 富岡幼稚園、小中学校は地域の市民と協同して境川沿いに手づくりプランターを並べ、季節の花を植えて岸辺を飾って市民を愉しませてくれている。そのプランターの一つ一つに子どもたちの自然を大切にするメッセージが描かれている。「豊かな心を育む教育」とはこんな実践にあるように思う。
<2004年8月6日>
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海に近づけない漁業のまち


荒廃した自然をもう一度回復させていこうという動きは、全国的なネットワークを組みながら、ますます広がりを見せている。
 たとえば、漁民による植林活動だけでも、全国六十ヶ所を超えるようになってきた。豊かな海は、ブナやナラなどの自生している自然林によってもたらされていることが、もはや共通の認識となった。
 海にいる植物性のプランクトンや岩場茂る藻などの成長には鉄分が欠かせない。その鉄分は、雨によって溶かされ地中からしみ出てくる。だが、そのままでは、個々の粒子が大きすぎて植物は吸収することができない。そこに自然林のはたしている大きな役割がある。枝から離れて落ちた葉は地表に年間数ミリという厚みをくわえながら堆積していく。この積もった葉が、醗酵しながら腐敗していく過程でフルボ酸をつくりだす。フルボ酸と鉄イオンが結合し、鉄はフルボ酸鉄にすがたをかえる。こうなったとき初めて植物は鉄を吸収できるのである。
 漁民の植林活動には多くの子供たちも参加している。そして、この植林活動がきっかけとなって、海辺の子供たちを山里の子供たちとの交流も生まれているのである。  かつては、千葉県下トップの座にあった“漁業のまち浦安”でもあり、いまも三方を海に取り囲まれて暮らしている浦安が、このままでいいはずがない。川辺や海辺の小さな生き物たちのために水辺をととのえ、それにつづく鳥が羽をやすめ、子育てをする自然の回復力にまかせた森をつくることも、考えてみてはどうだろうか。
 農薬による環境破壊を告発したレィチェル・カーソン女史は、著書『センス・オブ・ワンダー』のなかで「消化する能力がまだそなわっていない子どもたちに、事実を鵜呑みにさせるよりも、むしろ、子どもが知りたがるような道を切り開いてやることのほうがどんなに大切であるかわかりません」と述べている。
 となりの市川では、春の植物観察会、浅瀬の生き物観察会、水辺の野鳥観察会、生きものの冬越し観察会など、季節に応じて自然のことが学べるよう、観察会が年間をつうじて三十回以上も行われている。
 一方、浦安の場合、充実ぶりは日本でトップの浦安図書館にさえ、子どもたちの浦安の自然観察や研究成果をまとめた資料は見当たらない。
 立派な施設をつくるよりも、自然とのふれあいのなかで、新たな発見やおどろきなど、子どもたちの感性をよびさますことができるとすれば、それに勝る教育施設はないように思う。一日も早く海辺に手が届くようにしてもらいたいものだ。三番瀬の掃除の日以外には海に近づけないというのは市政としてお粗末過ぎる。
<2004年8月20日>
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100年の森をつくろう


三代将軍家光は上野に寛永寺を建て、江戸の安泰を祈願した。不忍池に浮かぶ中島は、琵琶湖の竹生島を模して造られた。これが上野公園の始まりである。
 明治神宮外苑は、かつては御料地や陸軍の錬兵場用地だった。武蔵野の森をそのまま公園にしたように思われがちだが、実は原野や畑だった所に造られた人工林なのである。大正四年から五年の歳月をかけ、全国から約十万本の献木と延べ十一万人の勤労奉仕によって植林造成されたのだ。
 都市にとって、いかに公園が大切かは、上野や渋谷、新宿の繁栄を見れば良く判る。
 毛利三十六万石の城下町として栄えた萩市は、平成二年には、歴史的景観と調和のとれた新しいまちづくりを目指し、景観条例を定めた。美しい自然と多くの歴史的遺産が調和した萩市固有の都市景観をまもり、育てるため、市民と市の一体となった取り組みを目指す内容だ。
 基本コンセプトを「庭園都市『萩』」としたところ、市民から多くの提案が寄せられたという。公園にはどこも、おだやかな暮らしへの願いが込められている。
 浦安市の一人あたりの公園面積は四・九平方メートル。千葉市八・七平方メートルの約半分ほどしかしかない。都市にとっての公園の重要性を述べたが、浦安でもようやく「緑の基本計画策定に向けての準備が始まり、本年一月一日号の『広報うらやす』に「(仮称)浦安市総合公園基本計画」は発表された。
 公園の整備には、浦安百年の計にたった基本理念づくりが大切である。その基となるのは、郷土史観である。浦安の歴史を一口に現すならば「自然と暮らしの調和」だと言うことができる。自然環境の復元は、市民にとって大切なことだが、それは、この地を棲家としている生物たちにとっても同じことである。エコロジー(生態学)的な発想に立てば、人間も地域を構成している一員に過ぎない。地域の生物たちとどのように共生していこうとするのかも明確にしておく必要がある。
 もう一つ重要な点は、子どもたちの自然環境教育の場としての位置づけである。身の回りの草花を集めた野草園や身近な海の水中生物を観察できるミニ水族館なども整備してほしいところだ。
 春に小さな紫の花をつける野草にキランソウ (金瘡小草)がある。この野草は別名「地獄の釜のふた」という。地方によっては「医者殺し」とも言われ、地獄の釜にふたをして病人を追い返すほど効く薬草として珍重されてきた。また、日陰の庭などに広がる野草にせり科の植物で「チドメグサ(血止め草)」がある。
 この野草も揉んで傷口にあて出血を止める薬草として民間療法に使われてきた。このような身近な植物を知る学習は、子どもたちの豊かな心を育むのには必要なことである。
<2004年9月3日>
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ミニ水族館をつくろう


今回は、公園整備の一環としてミニ水族館構想を提案してみたい。
 明治後期までは一三六平方キロメートルもあった東京湾の干潟は、その後の埋め立てによって、木更津地先の盤州干潟(ばんずひがた)と三番瀬を残すのみで面積も一〇平方キロメートルにまで減少してしまった。実に九三%が消えたことになる。
 昭和四十年代からの重工業の進展は海洋汚染をもたらし、浅瀬の海は漁場としての生産性を失っていった。その海面漁場をただ同然の補償額で漁師たちは手放さざるを得なくなった。日の出や高洲地区の補償額は一平方メートル当り千五百円にしかならなかった。  時代は変わり環境保全が叫ばれるようになると、浅瀬の海は漁場としてではなく、環境浄化機能を再評価されるようになってきた。
 私は浦安の海岸に付着しているカキの浄化能力を調べたことがある。
 カキがテトラポットに付着している個体数は一平方メートル当り約百五十個。カキのろ過速度(呼吸速度)は一〇リットル/時・個といわれている。これをもとに浦安の海岸線の長さを求めて算出すると、カキの浄化する水量は一時間当たり十万三千立方メートルにもなることが分かった。それによって、水中に含まれる有機物が年間約八〇トンもカキガラとなって固定される
 じつは、国立環境研究所が一九九八年に三番瀬行った調査でも同じような結果が出ている。それによると、三番瀬のシオフキガイ、バカガイ、アサリの三つの二枚貝だけで、一日あたり高さ四四センチの海水をろ過する。水深二メートル程度の三番瀬では数日の間に海水のすべてがろ過される計算になると、結論づけているそうだ。
 三番瀬の窒素除去能力は一日当たり九万七千立方bとなり、これは約十三万人に対する下水処理能力に匹敵するそうだ。
 そうした、環境浄化を果たしている水中生物を集め、観察できる場がほしい。それによって、学校においても、生物の観察・研究など、幅広い学習内容を提供できることにもなる。もし、ひとつのアサリが、一時間に三リットルの海水をろ過し、含まれている窒素の約七四% を体内に取り込み、固定化していることを知ったならば、きっと貝を大切にしようとする心が生まれるに違いない。中には、そのことをもっと知りたいという子どもも現れ、やがて、環境保全活動のリーダーになることもありうる。
 現在の浦安市は、確かに機能的で便利であるには違いない。しかし、環境教育の面から見るならば、ほとんど学ぶ場が無いといって過言ではない。
 だが、思いやりやいたわりの心を育てるには、自然環境と接することが大切だと思う。子どもたちは周りの環境すべてから学び、自らの価値観を形成していくのであるからこそ、“学ぶ機会の提供”は、大人に課せられた大切な使命であるといえる。
<2004年9月17日>
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境川沿いを親水公園に


私が浦安に越してきた二十数年前の境川は、今頃になると、浅瀬をハゼがくまなく埋めていた。また、春になればミルクを流したように白魚で川面が白く染まり、初夏には川一面に小エビがはねていた。
 しかし、今は境川沿いに住む住民にとって、毎年夏ごろから憂鬱な時期が始まる。釣り人のマナーの悪さに、である。まだ夜が明けるかあけないうちから大声での会話。せっかくの休日もやかましくて寝ていられたものではない。
 手入れをしてきた川沿いの花壇は踏み荒らされ、去った後には、餌パックが残ったまま放置され、干からびて異臭を放つ。休日明けの岸辺は空き缶や弁当の残り、ほつれた針のついた釣り糸など、ごみの山だ。ひどいときには、バーベキューの残骸がそのまま放置される。ときにはガスボンベや包丁までもがそのまま置き去りにされる。危険極まりない。
 車のナンバープレートを見れば、ほとんどが市外から来たことが分かる。
月曜日の朝に、黙ってごみを拾う市民の姿を見かけると、何とかならないものかと考えてしまう。
 ハゼやカレイ、エビなどは幼児期を境川で過ごす。十年ほど前までは、この時期、麦の穂先ほどのハゼや桜の葉ほどのカレイをよく目にした。
 しかし、最近はとんと見かけなくなってしまった。川沿いに鈴なりになった釣り人が取ってしまうからである。
 そこで提案だが、境川を以前のように魚も安心して棲める川にする運動を進めてはどうだろうか。具体的には、全体を水中生物保護地域に指定する。
無論、釣りやアサリ採りは禁止。コンクリートの直線的な護岸から石や植物を配した環境共生型に造りかえる。そして、どこからでも水中生物が観察できるようにする。
 境川の河口から市役所脇の水門までは約三キロメートル。その両岸にはびっしりとカキが着している。このカキによって、境川の水が日に二回以上ろ過されている。
 豊かになった境川をのぞきこみながら親が子に「ほら、見てごらん。ここに付いているカキが川の水をきれいにしてくれているんだよ」という会話から始まり、生き物の大切さを伝えることができたとすれば、想像するだけでも、すばらしいことではないだろうか。
 平成十年に行った文部科学省の「子どもの体験活動に関するアンケート調査」では、自然体験が豊富な子どもほど、道徳観や正義感が身についている傾向があり、自然体験学習は子どもたちの「生きる力」を育むと結論づけている。
 体験学習の場や循環型社会を学ぶ分かり易い教材としても境川の再自然化は期待される。
<2004年10月1日>
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生活排水の浄化政策を


今年の一月に「三番瀬再生計画案」が三番瀬再生計画検討会議(円卓会議)から堂本知事に提出された。そのまえがきに「円卓会議は初めから荒れました。議論の基本が守られなかったり、同じ衝突が繰り返されたり」とあるように相当な難産であったようだ。しかし、目を通してみると広がりが感じられない。お叱りを承知で言うと、コンビニの店頭のように思う。
提言には、あれこれ盛りだくさん並んでいるが、どれも小ぶりに見える。その理由を考えてみた。まず気づくことは「目的」が明確になっていないことだ。浅瀬の海が脚光を浴びるようになってきたのは、海水の浄化機能だ。この浄化機能を高めていくことが再生の目的だと思う。三番瀬では、そこに棲む生物によって二、三日で、三番瀬の海水量に匹敵する量がろ過されている。
その三番瀬の生物たちの世話にならなければならないのは自分たち人間だ。このことを中心にすえた理論の展開が必要ではないだろうか。
 赤潮の原因ともなっている海水を富栄養化させている凶元は主に生活排水である。江戸川水系の下水の普及率は平成十三年の時点で六三・五%でしかない。四百万人以上の家庭排水が毎日六十万トン以上も未処理のまま江戸川に流されている。汚染物質量の四分の三が家庭排水に起因しているのである。
 この人間が汚した水をせっせと浄化しているのは三番瀬など浅瀬の海に棲む生物たちだ。その、水中生物たちを棲みにくくしているのも人間だ。大量に使用される農薬や除草剤などの薬剤に含まれている化学物質が汚泥とともに海底に堆積している。それが奇形や生殖器異常の原因でもある。三番瀬の機能を高めるには端末処理場の整備や江戸川支流の再自然化、減農薬農法の普及も重要である。それらは、千葉県だけで負えるものではない。東京都や埼玉県、栃木県、群馬県、茨城県も入れた江戸川流域の広域的・長期的な施策が求められる。
かつて、浦安近海は、工場の廃液によって、死の海の化したことがある。それを、今日の姿に再生させたのは人間ではない。水中生物たちなのだ。汚染源を減らし、あとは放っておくことが一番の再生になるのではあるまいか。
 「三番瀬再生計画案」は、一口で言えば「沿岸整備計画」のようなものだ。それを否定するつもりはないが、目的からすれば「枝」の部分でしかない。むろん、浦安では子どもたちに自然学習の場を提供することはぜひともやってもらいたいし、市川塩浜の四百年続き、庶民の生活を支えた塩焼きや竹を海苔ヒビに使う技術で生産量を飛躍的にのばした行徳の海苔づくりを学べる博物館も整備してもらいたい。
 しかし、三番瀬再生には、広域的な生活排水浄化政策など内陸側の改善も必要である。
<2004年10月15日>
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水の都市づくり百年の基を


少し前のことになるが萩市がまちづくりの基本理念を「庭園都市・萩」とした。そうしたら、市民から庭園都市にするためのアイデアが多く寄せられたという。都市の森づくりにはこのような分かり易いコンセプトと安定的な財源の確保が重要である。
 岡山県では、森林保全を目的に独自の環境税制十六年四月からスタートさせた。税率は個人が年額五百円、法人は規模に応じて千円から四万円。税の名称は「おかやま森づくり県民税」で初年度の税収見込み額は三億三千万と見積もっている。
それによって充実できる政策は以下の内容だ。
 <1>水源確保のための森林整備事業
 <2>間伐材や剪定時に出る枝などをチップ化して発電などに利用するバイオマス利用事業
<3>県民参加の植樹や
下草刈りを行う“森づくりボランティア”育成事業
 <4>森林環境重点校を指定し、そこでの人材育成を目的とした“エコハイスクールプロジェクト”や主に小学生が行う森林と水の調査を支援する“おかやま森と水の交流学習推進事業”。
 税の使途はこの事業に限定される。
 そこで提案だが浦安でも“水の都づくり市民税”とででもいう使途を限定した目的税を創設してみてはどうだろうか。
 税額は年額にして、市民一人当たり二百円、法人は規模に応じて五百円から一万円程度。そうすると二千数百万円ほどの税収になる。それによって次のような政策充実が期待できる。
 <1>江戸川や三番瀬沿いをウォーキング・サイクリングロードに整備・保全するための事業費。中期的には、それらをリンクした浦安周回遊歩道の整備。
 <2>周回遊歩道を市民の語らいの場にするための、ポケットパークの整備やベンチやテーブルの設置。
 <3>空き地などを利用して地域ぐるみで行う花壇づくりや清掃活動などへの助成。
 <4.幼稚園や小中学校などが水中生物との交流を通じて生き物の大切さを学ぶ自然交流推進事業
 <5>シルバー人材センターなどに委託しておこなう美しい町並み推進事業
 <6>市民参加型で植林や育林を行う森づくりや海辺のビオトープ(本来の生態系が保たれる自然環境)づくりなどの再自然化推進事業。
 <7>地域の動植物の大切さを指導するエコ・ガイド養成事業など。
 地方自治体の予算は単年度消化型のため、短期的に行う施設整備などには向いているかもしれない。
 しかし、この方法は長期的な政策の実施には不向きである。
 人工島である浦安では自然再生は五十年百年と継続して行う必要がある。それには、事業費の安定確保を図る目的税の創設も一考に価するのではないかと思う。
<2004年11月5日>
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原風景を取り戻そう


どこの漁師町にも共通する光景がある。風向きが悪くて船の出せない日でも漁師たちは港に出でてくる。そして、堤防に座り、じっと沖を見つめている。それが飽きないのだという。海や川のせせらぎに人は癒されるのだ。
 しかし、これまで海は経済的な価値観だけで見られてきた。魚影の濃い海は価値があったが、汚染がひどくなり魚のいなくなった海、海苔の養殖もできなくなった海には何の関心も示さなくなってきた。そして、海と陸地は高い堤防で隔離され、人は海に触れることさえしなくなってしまった。
徳川家康は江戸に居城を構えると同時に、関八州を川と運河で結ぶ大土木工事に着手した。代表的な事業は江戸湾に流れ込んでいる利根川(現在の江戸川)と銚子に流れ込んでいる鬼怒川(現在の利根川)とを結ぶ大削掘工事だった。この工事には伊奈家が三代にわたって担当したが百年の年月を要した。
 このようにして関八州が水路で結ばれたことにより栃木や群馬、茨城などから二百石船や三百石船で米俵を容易に江戸まで運べるようになった。船では八百俵を一度に運ぶことができるが馬車では十俵ほどしか乗せられないので、陸上輸送と比べると水上輸送のコストは百分の一ほどにしかならない。
 武蔵野の国、千代田村という寒村が百年足らずで世界最大の都市に発展できたのは運河の整備による物流システムが確立したからである。
 江戸時代には主流だった水上輸送もやがて鉄道輸送、そしてトラック輸送に移っていき川や運河も経済的価値を失ってしまった。
 しかし、最近になって、海や川を経済的な価値観だけではなく別の面で見直そうとする動きが出てきた。そのキーワードは「環境」「観光」「やすらぎ」などである。
「環境」という視点から、三番瀬の海水浄化機能の再評価と保全への取り組みが始まろうとしている。
また、海上輸送も「環境」「観光」面から再評価されつつある。その理由は陸上輸送に比べて燃料消費の少ないことがCO2削減や地球温暖化防止面から有効と考えられるようになってきたからである。特に横浜市や大田区は観光海上輸送ルート開発に積極的である。
 横浜、羽田、舞浜を結ぶ水上バスの就航も夢ではなくなりつつある。やがて、気軽に中華街で夕食を、という時代が来るかもしれない。
   米国ボストン市では美しい景観を取り戻すため川の上に造られていた高速道路を地下に埋める工事が行われた。日本でも日本橋川や大阪・堂島川の上の高速道路をトンネル化しようとする構想が現実味をおびてきた。経済性よりも市民が安らぎを感じる景観が重要視される時代に入りつつあるのだ。
 いずれにしても“水の都”としてのまちづくりには長期的な視点に立った方向性を明確にすることが重要である。
<2004年11月19日>
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どうする温暖化防止対策


現在、浦安はマンションラッシュである。日の出地区の空き地には次々と新たなビルが建てられていく。
 平成十年度の草や木の生えている面積(緑被面積)は一六%であった。緑被面積の計算には、その後、集合住宅として開発された土地も含まれているから、現在の緑被面積は一三%前後と推定される。
 この数値は都内新宿区や港区よりも少ない。
 国は、市町村の緑被率が三〇%以上であることが望ましいという指針を示している。それと比べると半分以下であり、今後緑被面積が減少することがあっても、増加は望めそうにもない。
 また、浦安市の炭酸ガス収支をみると産業活動をのぞく市民生活で排出される炭酸ガス量は年間二五万トン程度と予測される。これに対して、樹木により固定化される炭酸ガス量は多めに見積もっても、約一千トンにしかならない。発生量に対する樹木による固定化率は〇・四%に過ぎないのである。
 一九九五年に国際的に合意された京都議定書によれば、二〇〇八年から二〇一二年の間に炭酸ガスの排出量を、一九九〇年の値に対して6%削減することを日本は約束した。その後モロッコで開かれた会議(COP6)では六%の内、三・九%を上限として炭酸ガスの吸収固定を森林によって賄うことが認められた。
 ところが、炭酸ガスの排出量は増え続け、一九九〇年に比べると約八%も増加している。京都議定書の設定値を達成しようとすれば、現段階から一六%も削減しなければならなくなり、達成を危ぶむ声もあるのが現状といえよう。だから国は二〇〇八年のスタートに向けて、さまざまな政策を矢継ぎ早に打ってくることは間違いない。こうした国の政策を受けた浦安市独自の実施策が求められることになる。
 たとえば、省資源・省エネの推進、ソーラー発電や風力発電、コージェネ(発電時の余熱を冷暖房や給湯に利用)などによる新代替エネルギー開発促進。あるいは、樹木の多い公園緑地整備事業。屋上緑化や公共施設の木造化推進などが考えられる。
 現在、埼玉県宮代町では木造庁舎の建設が進められている。二〇四年七月に行われた見学会には行政関係者などを中心に三百名もが訪れ、関心の高さを示した。
 日本は炭酸ガス吸収固定目標量の三分の二を森林に頼ろうとしている。森林が生産する木材資源量は年二五〇〇万立方メートルだが、利用されているのは一六〇〇万立方メートルに過ぎない。残りの大半は間伐されたまま放置されているが、その分を吸収量から差し引いてカウントしなければならないことになっている。木材資源の活用促進が温暖化防止対策の重要なテーマになっているのである。この一つのことを見ても、温暖化防止策は森林資源生産量の多い町村と連携した広域的な課題であることが分かる。
<2004年12月17日>
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浦安も森林保全に無関心ではいられない


前回は森林保護について少し触れたが、今回はもう少し掘り下げてみたい。
 森林が大変深刻な状態になっている。実は国産木材資源の利用率が減少の一途をたどっており、森林荒廃が加速的に進んでいるのである。戸建住宅の大半が木造住宅であるのに不思議に思われるかもしれないがよく見ると、国産材の使用率は、低い場合にはゼロ、多くても三〇%程度。平均で国産木材の使用率は一三%に過ぎない。残りの八七%が北米や北欧、ロシア、アジア地域から輸入された材料である。
 今すぐ利用できる国内森林資源だけでも二百年から三百年分もあると言われているが、これが木材輸出国の環境保護団体などの強い反感をかっている。「日本は自国の森林資源を温存しつつ我が国の森林をハゲ山にしている」という鋭い指摘である。「木材を買ってくれ」と懇願されて買っても感謝されていない。
 一方国内に眼を向けると、安い外材に押されて林業は疲弊している。昭和二十年代、国策に沿って植林された杉やヒバなどは胸高直径四〇から五〇センチに育ち、伐期を迎えている。しかし、切るに切れない事情がある。木材価格の低迷である。三十年ほど前には一万円した立木は、今は高い地域でも五千円、場所によっては数ヶ月で育つ大根の値段よりも安い。
 仮に一本五千円で売れたとしても、同じ場所に再び植林しようとすれば五千円以上の費用がかかってしまう。五十年間、間伐や下草刈をしながら親子二代、三代かけて山を守ってきても手元にはわずかなお金しか残らない。しかも、再び植林しようとすれば、受け取ったお金に手持ちのお金を足さなければできないのだ。地域によっては、「これでは百年間ただ働きになる。子や孫たちにこんな苦労をかけたくない」と村ぐるみに山林を捨てるところも出はじめている。
 国は京都議定書の炭酸ガス固定目標値の内、七割近くを森林に頼ろうと伐期を五十年から八十年に延期した。しかし、これはまた新たな問題を内包している。木は五十年を過ぎると次第に炭酸ガスを吸わなくなり、八十年を超える老木になると枝枯れや幹の内部腐敗空洞化などにより、炭酸ガスの放出量が吸収・固定量を超え始める。さらに三十年間の植林ブランクはさらに林業を疲弊化させる恐れがある。
 「割り箸を止めましょう、古紙再生品を使いましょう」は、必ずしも適切とはいえない。なぜなら、誰も箸を作るために木を切り倒しはしない。端材を活かすのである。それでも、木材の有効利用率は五〇%に過ぎない。残りは炭酸ガス発生要因になる。また、パルプづくりにせよ定期的に伐採と植林を行わなければ森林は荒廃していく。
 最近における水害の深刻化の一因は山林の荒廃になるといわれている。
私たちは水の浄化、酸素供給、災害防止などで計り知れない森林の恩恵を受けている。
 だから、海辺の街に住む者として、現状を直視して、国産材活用を増やすために何ができるかを考えなければならないのである。
<2005年1月14日>
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財政を圧迫するペットボトル回収


浦安市議会は昨年二月から開催された定例会で「包装容器リサイクル法の見直しを求める意見書」を採択した。その意見書の一部を紹介すると「―リサイクルすることが免罪符となり、使い捨て型ワンウエイ容器の大量生産・大量消費の構造は見直されず排出抑制に結びついていないのが現状です。その一方で(中略)分別収集に積極的に取り組む地方自治体の財政を圧迫しています―」。
 全く同感だ。個人的には回収する必要はないと思っている。処分費に不公平感があるからだ。ペットボトル一本当たりの処理費は製造メーカーと飲料水メーカーがそれぞれ五十銭ずつ負担。これに対し収集・分別・保管を義務づけられている市町村の負担額は三十二円にもなる。
 ペットボトルをリサイクルするためには、溶かしてナフサに戻す必要がある。その試みは環境先進国であるドイツでも行われたことがあり、わが国に法整備が行われる前に大型のプラントが建設された。最近、日本でも同じような試験プラントが建設されつつある。しかし、実用化にはまだ道のりは遠い。ドイツのプラントも現在は休止している。理由はナフサの製造コストが石油から造るよりも高くつくことにある。
 繊維製品などでペットボトル再生品のマークを目にするが、多くの場合、バージン原料にわずかの回収原料を添加しているに過ぎない。そうしないと繊維が切れやすく使えないからだ。
 また、最近ペットボトルのリサイクル率が上がってきたように言われているがこれにも数字のマジックがある。
 以前は、古紙のように原料としての資源回収する「マテリアル・リサイクル」しかなかった。ところが大量に回収されたペット容器を処分するために「サーマル・リサイクル」が認められた。これは原料ではなく燃やして「熱エネルギー」として取り出し、発電や製鉄に利用してもリサイクルとして認められるようになったのだ。
 なんのことはない、浦安の清掃工場でもゴミを燃やした熱で発電をしているのから、そのまま燃やしても「サーマル・リサイクル」ということになる。その方が燃焼炉内の温度を上げることができ、ダイオキシン抑制の効果がある。燃やしても出るのは炭酸ガスと水だから環境負荷も少ない。しかし、清掃工場で燃やすのは「サーマル・リサイクル」にカウントされない。
 包装容器リサイクル法が成立したとき製造メーカーは小躍りしてよろこんだ。それまでは一g以下の容器を製造しないという暗黙の了解があった。
 ところが法の成立によって、おおっぴらにどんなサイズでも造れるお墨付きを国が出した。事実、包装容器リサイクル法施行前のペット製品の生産量はほぼ横ばいの一五万dだった。ところが施行五年目に三倍の四五万トンを超えた。
 「意見書」にも、販売時点で回収費をコストオンするデポジット方式が提言されているがそのとおりだ。受益者負担の原則に沿った改定に向けて、市長にも議会にも頑張ってもらいたい。
<2005年2月18日>
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アトピッ子を救済せよ


子どもたちの慢性疾患にはアトピー性皮膚炎(先天性皮膚過敏症)、喘息、食品アレルギー、アレルギー性鼻炎などがある。たいていの場合、いくつかの合併症となることが多い。
 こうした子どもたちを持つ親の苦労は並たいていのものではない。平成十六年六月にまとめた「NPO・アトピッ子地球の子ネットワーク」による『慢性疾患を持つ子どもの療育実態調査』に、ある母親は次のような意見を寄せている。
 『…生後二ヶ月ごろから湿疹がはじまり、五ヶ月からの食事療法の開始とスキンケアーの日々は大変でした。夜中にずっとかゆがるので母親は眠れません。母乳を与えるため、限られた食品しか口にできず、なれない食材に食欲もわきませんでした。眠れない、食べられない、子どもに母乳を吸い取られるで一、二週間で体重が七`cも落ちてしまいました。一日の平均睡眠時間が一時間の日々が三ヶ月も続きました。実家の母がときどき助けてくれたので何とかなりましたが、精神的にも肉体的にもギリギリのところでした。食事療法だけはまだ続いていますので、これからの小学校入学にあたり、学校に理解を求める説明をする予定です』
 子どもの療育は母親に大きな負担となってのしかかってくる。通常の家事に加えて、食事の管理、薬の塗布や服用などが加わる。夜になると、湿疹のかゆみが増す。子どもが皮膚に触れないように気をつけていないと、かきむしって血だらけになってしまう。時々起きてさすってやらなければならないので、ほとんど寝ることができなくなってしまうのである。医師に「仕事を辞めて療育に専念しなさい」といわれても、治療費のことを考えるとそうもいかず板ばさみに悩む母親も多い。
 多くの子が小学校を卒業する頃(ころ)までには完治するが、浦安市では慢性疾患の子をできるだけ支援していく体制がとられている。保育園入園に際しては、先生・看護士らによる綿密な聞き取り調査が行われる。アレルギー反応を起こす食材の種類、過去に起きた発疹やひきつけ症の頻度や病状、緊急時の連絡先など。苦悩する親の姿に、問診を行っている先生方ももらい泣きすることがあるという。親への精神的なケアも重要なのである。
 市内小学生の中で特定食物にアレルギー反応を示す子の割合は約二%の百五十名ほど。アレルギー反応を示す食品で最も多いのは卵と牛乳であり、これを除くことにより、半数の子の症状を軽減することができる。
 平成十八年四月から稼動する新給食センターでは、卵や牛乳製品を用いないで、見た目は普通食と変わらない特別メニューを提供する体制がとられる予定である。浦安市にとって老人介護対策は重要であるが、慢性疾患の子に対するサポートはそれと並ぶ重要なテーマである。
<2005年3月4日>
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自然災害への備え<1>


これから何回かに分けて自然災害対策について考えてみたい。
 浦安の歴史は自然災害との闘いの歴史でもある。江戸時代から昭和三十年代まで、ほぼ五十年周期で地震や台風による高波で壊滅的な被害を受けている。
 元町が密集しているのは、浦安の中でも命が守られる地域は限られた狭い範囲だけだったからである。災害が起きたときに、まず行わなければならないのが、地域対策拠点の設置と住民相互の安否の確認。次に手分けして所在不明者を探し出すことと救出を行うこと。
その次は水と幼児用のミルクの確保。それと同時に仮設トイレの設置も行う必要がある。その次にはメーン道路の後片付けなど。
 これまで誰もが経験したことのない事態に手分けして迅速に対応していく必用が出てくる。新しく越してきた人の大半は、自分は災害には無縁だと考えているだろう。しかし、浦安の歴史をみると少し安心できるようになったのは埋め立てが完了した昭和五十年以降事なのである。
 本当にそうだろうか。
 十年ほど前のことになろうか、高層住宅街のもろさを露呈した事故がおきた。積雪で送電線が切れて浦安市内は丸一日停電した。電気という文明の力が途切れた瞬間から、暖を取ることができなくなった。そのときスーパーはポータブルガスコンロを買いに殺到した人でたちまち品切れになった。
 次にポンプで水をくみ上げる事ができなくなったから、すぐに断水した。風呂に残り湯があった家はそれを使って流したが、そうでない家庭ではトイレを流すことができなくなってしまった。
 しかも、高層階にある我が家に、重い食料品や水を抱えて息を切らしながら登り降りしなければならなくなった。
 電気が止まっただけでこうなるのだ。確かに耐震設計は進んできるから以前のような家の崩壊事故は少ないに違いがない。しかし、家は無事でも食料や水がなければ砂漠の一軒家と何ら変わることはない。自然災害への対応は、必ずくることを前提として日頃から心掛けておく必用がある。
 災害発生時に最も頼りになるのは隣人たちだ。
浦安では、隣人とのコミュニケーションを築くために自治会が組織されている。
 過去の浦安の歴史を見ると、災害時に速やかに対応できたのはしっかりとした自治会が組織されていたからだ。怪我人の手当て、支給される食料の分配、消毒活動などは地域の自治会が中心になって行った。
 分かっていても自治会役員に進んでなる人は一人もいないが、そのときのネットワークは必ず災害時には役に立つ。未加入の方はいざという時に備えて、加入されることを望む。
<2005年3月18日>
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自然災害への備え<2>


環境庁・国立環境研究所が研究成果をまとめた「海面上昇データブック2000」に、巨大化した台風が東京湾をおそったことを想定した「東京湾に対する台風の被害」というシミュレーション結果が示されている。
 予測では、中心気圧九四〇hpa(ヘクトパスパル)の伊勢湾台風規模の台風が地球温暖化の影響を受けて中心気圧四二五hpaに発達し、伊豆七島に沿って北上するコースをたどり伊豆半島に上陸したという条件が設定されている。このコースは浦安に甚大な被害を及ぼしたキティ台風のたどったコースでもある。
この予測では、図に示すように浦安の潮位は通常値よりも二メートル以上上昇するとされている。これは温暖化が進んだ場合の仮想台風での予測値であった。
 ところが、仮想上の台風が現実に出現したのだ。二〇〇三年九月に発生した台風14号の中心気圧は最大で九一五hpaまで降下した。仮想台風よりはるかに大きな台風が現実になったのである。瞬間最大風速七四・1メートル/秒。これを時速に直すと二六七キロメートルとなる。新幹線並のスピードだ。
 さらに昨年夏にはこれに匹敵する台風が16号、18号と相次いでやってきた。しかもこの二つの台風は時間降雨量が一〇〇から二〇〇ミリにも達する、局地豪雨による深刻な爪あとを残していった。
 さて、話を浦安に戻そう。浦安の元町地区の海抜はゼロメートルだから、雨水はポンプで江戸川や東京湾に排水している。猫実川や堀江川、市役所横の水門で仕切られた本町側の境川の水位が低く保たれているのは、集中豪雨時の調整池的な役割を待たせてあるからである。建設省は河川の整備を行う上での最大雨量を五〇ミリとしていた。浦安のポンプの排水能力もこの数値をベースに決められてきた。
 しかし、台風の巨大化によって大きな防災上の問題が発生してきた。その一つが予想を超える高さの高潮の発生であり、もう一つが、長時間続く想定雨量をこえる集中豪雨発生である。昨年に襲来した台風16号、18号の上陸時点の最大風速は45メートル以上もあった。こうした台風の巨大化に備えた防災設備の再点検が必要である。
 たとえば、元町地区の河川の調整水量および排水能力は現状のままで良いのか、停電時におけるエンジンポンプだけで対応できるのか。さらには、満潮時に水位が二メートル以上にも上昇したときに耐久年数を過ぎたカミソリ堤防で万全なのか、日の出地区三番瀬沿いの堤防の高さはあれでいいのか、などだ。
 キティ台風時、東京埠頭には四メートルまで測定でき高潮測定装置が設置されていた。しかし、それが破損して測定不能になったため、波頭までの高さは四メートルとされているが実際にはそれ以上の高さだった。
 浦安の最重点テーマは、災害対策であることを決して忘れてはならない。
<2005年4月1日>
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自然災害への備え<3>


浦安の歴史は自然災害との闘いの歴史でもある。
『浦安町史』によると、永仁元年(一二九三)大津波が襲来し、多数の神社、仏閣、民家などが流出し、当代島村が全滅してしまった。元禄十六年(一七〇三)十一月二十二、二十三日、地震と同時に津波が来襲し、多くの死者が出た、と記されている。あまり聞きなれないが「川地震」による被害も記されている。
 万延二年(一八六一)江戸川と境川で川地震が起こり、川水の動揺がはなはだしく、波浪のため川岸につないだ船と船とがぶつかりあい、多くの船のもやい綱が引きちぎれた。中には川岸から数間の所まで打ち上げられた船もあったが、陸地は微動だにもしなかった。記録には日にちが記されていないが、この年の十月二十一日に起きた宮城沖地震の影響が考えられる。
 浦安は硬く締まった砂れき層の上に、堆積した軟弱地盤層がのった地層になっている。例えれば、厚さ四〇メートルもある豆腐状の地層の上に造られた街だともいう事ができる。
地震波は硬い地層と地表との間で反射を繰り返しながら波頭と波頭との間隔の長い、ゆっくりとした地震波に増幅されていくので人体には感じにくくなる。これは長周期振動と呼ばれる地震波で、二〇〇四年に起きた十勝沖地震では、苫小牧の石油タンク火災を引き起こす原因となった。
 「川地震」はこの長周期振動だったと考えられる。長周期振動は軟弱地盤に建つ高層ビル上層階の揺れが大きくなることや、河川の両岸では大きな波が押し寄せることの危険性が、指摘されている。
 自然災害への備えの基本は、地域住民による相互扶助の精神を確立することにある。
 浦安の昭和四十年までの人口は一万二千人ほどだったが、それから四十年を経た現在の人口は十二万人を超えた。十人に七人までが他の街から移り住んできた人たちである。
 こうして新たに形成された地域では、実体験がないこともあり災害時に互いに支えあうという心の準備は十分とはいえない。
 しかし、元町の人たちは三百年以上も前から、隣組制度で近所との絆を強めてきた。お互いに助け合わなければ生命さえ守れない危険性と隣り合わせで生きなければならなかったからである。今も伝統は自衛消防団に引き継がれ、災害に備えている。多くの若者たちが消防団員に選ばれたことを名誉と感じ、自らの仕事を犠牲にし、夜遅くまで厳しい訓練を繰り返しているのである。
 家族を守ることと、隣人と助け合うこと、地域を大切にすることとは同意語なのである。
 浦安の自然災害との闘いの歴史はそれを教えてくれている。
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 今回を持ちまして連載を終了させていただきます。
 読者の方々の温かいご支援があったからこそ三年間も連載することができました。心から感謝申し上げます。
<2005年4月15日>
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