市川よみうり連載企画
     



■§卯月八日の花祭§■ 文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

四月八日はお釈迦様の誕生日。潅仏会とか花祭とか呼ばれ、お寺ではいろいろな花で飾った花御堂を作り、その中の水盤に誕生仏を安置する。参拝の人びとは甘茶を仏さまにかける。甘茶は目の病に効くとか、甘茶で字を書くと字が上手になるといい、かつてはムラの人びとが一升瓶をさげてもらいにきたという。松戸・本土寺の花祭には張子の白象=写真=が花御堂の前に飾られる。それは、お釈迦様が生まれる時、母である摩耶夫人が、白い像に乗った神々しい方が自分のお腹の中に入る夢を見たという故事によるといい、東京・護国寺でも白象を引く稚児行列が出る。


 一方、民間ではこうした寺院の行事に対して四月八日を"卯月八日≠ニいい、この日山からツツジ、ヤマブキ、シャクナゲなどを摘んできて、長い竹竿の先にくくりつけて、庭に立てたり、軒先=写真・福井県三方町=に掲げる行事があり、この花のことを、テンドウバナ(天道花)とか八日花という。天道とはオテントウで太陽のこと。下総地方に多い天道念仏は、農作業が始まる春先、恵みを与えてくれる太陽を崇拝して拝む行事。広い地域で卯月八日は、山の神が田の神になって里に下りる日という伝承がある。「卯月八日に種まかず」ともいい仕事を休み、つつしんで神を祀る日であった。


 四月を卯月と呼ぶが、卯月の卯は初めてというウヒ(初々しい・初孫など)、産のウムなどと関わる音で、物事の始まりを示す言葉といわれる。稲の種をまく頃でもあり、かつて一年の始まりをこの月に認めた名残かともいわれる。日本では官庁も学校も民間の事業もほとんどこの月を新年度始めとしている。
 花祭にお釈迦様のお堂を花で飾るのは、仏教行事以前に民間行事である"卯月八日≠フ天道花が背景にあり、花を稲の稔りに象徴させているのではないかとも思える。甘茶で墨をすり「千早振る卯月八日は吉日よ 神さげ虫を成敗ぞする」と書き、柱に逆さまに貼り付けると、蛇や害虫を避けるというのも、この日に山から花に依りついて降臨した神さまの加護が得られることをいったものであろう。
(2004年4月2日)

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■§子育ての神になった手児奈§■ 市川民話の会会員・根岸英之


 

四月八日、九日は、真間にある手児奈霊堂の春季大祭である。八日は「子授け子育て祈願法要」、九日は「奉賛会会員身体健全祈願法要」が午前十一時から行われる。
 手児奈の伝承は、日本最古の歌集『万葉集』(八世紀頃成立)に記録されたことにより、千年以上の時を経て、二十一世紀の今日まで伝えられてきたものであり、市川の風俗伝承のなかで、もっとも代表するものといえよう。
 『万葉集』では、高橋虫麻呂や山部赤人、東歌(あずまうた)と呼ばれる民謡的な歌に手児奈は詠まれているが、すでに万葉時代に「昔こんな女性がいた」と伝説化しており、その素姓やどんな立場の女性だったのかは、伝承のベールに隠されてはっきりしない。
 一般には、「手児奈は真間の井で水を汲み、粗末な身なりをしていたが、どんなに着飾った娘たちよりもきれいで、多くの人が言い寄った。しかし、その身を慮り、真間の入り江に身を投げてしまった。今では奥つ城(=墓)だけが、その話を偲ばせている」という伝承の主人公として理解されているが、『万葉集』のなかでは、誰にも嫁がなかったとか、入り江に身を投げたとか、明示されているわけではない。
 民俗学的な解釈では、「真間の井」や「玉藻」などが結びついていることから、「水を司る巫女(ふじょ)的存在であったため、一般の男性との関わりを持つことがタブーとされていた女性だったのではないか」とされるが、これとて一つの解釈であり、本当にそうだったかは解(わか)らない。
 そんなわけで、現在に至るまで、手児奈はいろいろな女性として捉えられている。
 行徳の青山某という文人が記録した『葛飾記』(一七四九)には、〈手児奈は都の雲上人(が左遷され、この地で真間大納言と名乗った人の娘である〉とある。また、手児奈の俗伝として、〈弘法寺の開山上人が、今の手児奈霊堂のあたりを歩いていると、お産で亡くなった女性が現れ、「自分を供養し祀(まつ)れ」と告げたので、手児奈神として祀り始めた〉という伝承を記している。
 江戸時代の学者太宰春台(一六八〇〜一七四七)は『継橋記(つぎはしき)』という文章で、〈手児奈は継母に虐げられ、継ぎ橋から身を投げた〉と記している。この記録は、のちに永井荷風の目に止まり、彼の日記『断腸亭日乗』昭和二十二年六月三十日の条にも書き写されている。
 さらに、明治三十八年に弘法寺貫主によって記された『手児奈霊神略縁起』では、〈手児奈は葛飾の国造の娘で、ある国造の息子の許へ嫁いだが、両国に争いが起こり、子どもを身ごもったまま舟で流される。真間の地に逃れ着いたが、多くの男性に言い寄られたため、身の貞淑を保って真間の入り江に身を投げた〉と記される。ここに至って手児奈は、結婚もし、子どもを身ごもった女性となったわけである。
 もちろん、現在の手児奈霊堂の伝承では、この伝承は採用されず、〈文亀元年(一五〇一)九月九日、弘法寺の第七世日与上人の夢枕に手児奈のお告げがあり、以来、安産子育ての女神として祀られるようになった〉とされている。


 しかし、手児奈霊神が、弘法寺によって安産子育ての神として祀られるようになったのは、早くても十八世紀頃からのことと考えられ、さらに春季大祭が行われるようになったのは、明治以降のことのようである。
 このように、一つの伝承の背景にも、時代によってさまざまな変遷があることが分かる。
 現在は、四月は新年度の始まる時期でもあり、入学・入園を祝ってお参りに来る親子の姿も見られる。また、四月二十九日には、「万葉の里春の史蹟祭り」が催され、“真間の手児奈の心ね”をたずねるさまざまな行事が行われる。私も、『万葉集』の朗詠を披露する予定である。
(2004年4月16日)

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■§端午の節供と五月のまつり§■
文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

五月の風物詩ともなっている鯉のぼり。風薫る新緑を背景に青空にはためくさまは、勇壮でなんとも力強い。端午の節供が男児の節供として、「鯉の滝登り」にちなむ出世魚の鯉の鯉のぼり≠立て、鎧兜や武者人形を飾りだしたのは、江戸時代の武家社会からであった。『枕草紙』に「節は五月にしく月はなし、菖蒲・蓬などの薫りあひたる、いみじうをかし」とあるように、平安時代の端午の節供には天皇、群臣ともに菖蒲かづらを冠に付け、薬玉を身に帯び、また柱にかけたりして、その強い香りで邪気を払う風があった。それは中国の五節供の一つが名称とともに日本に移入されたものだが、一方、農村ではこの日を「女の日」といい、田植をする女たちが、屋根に菖蒲=写真・市川市国分=を挿し、菖蒲湯に入り身を清める日であった。


雨に恵まれる旧暦五月は田植の時期で、田植は田の神を迎えて行う神聖な行為であったため、苗を田に挿す早乙女は身の精進潔斎が必要であった。近松門左衛門の『女殺油地獄』に「五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」とある。
 五月をサツキというのは、サナエヅキ(早苗月)の略であり、田植前に田の神を迎える祭をサオリ、サビラキといい、田植終了の儀礼をサノボリ、サナブリという。サは田の神をいう。早苗を植える人はサオトメであり、五月に降る雨はサミダレという。花見といえば一般的には桜を見て楽しむことだが、かつては桜の花のつき具合でその年の稔りを予想した。サクラはサ(田の神)のクラ(鞍と同じ座る場所)で田の神の依り坐す樹木であった。


 端午の端は物の初め、午は午の日のこと。月の初めの午の日という意味だが後に五月五日になった。端午の節供は「菖蒲の節供」ともいわれるが、祓いの植物である菖蒲が、武家社会で武を尊ぶ尚武や勝負という言葉におきかわり、鯉のぼりや武者絵の幟を立て、兜や武者人形=写真・市川市北国分=を飾り、男児の立身出世を願う日となった。武者人形とともに鐘馗人形や絵がよく飾られるが、鐘馗さまは中国で疫病神を追い払うとされる神。笹で巻いたちまきやよもぎの草団子をたべるのは、笹もよもぎも祓いの効力がある薬草だからである。菖蒲で厄除けをした風習はこんなところに残っている。
五月五日は女の日であったのが男児の節供となり、今は子供の日となっている。
(2004年4月30日)

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■§じゅえむ話と田んぼ仕事§■ 市川民話の会会員・根岸英之


 

陰暦五月の異称「さつき」の「さ」は、早乙女(サオトメ)、早稲(ワセ)などからも分かるように、稲にまつわる言葉である。五月のころは、田仕事に重要な季節で、市川でも大正ころまでは、陰暦の五月(新暦の六月)ころに田植えが行われていた。今では、新暦の五月ころに、田植えが行われるようになっている。
 私が子どもだった昭和四十年代の市川には、まだ田んぼの広がる風景が当たり前にあった。市川の代表的な民話に、「いんねえのじゅえむどん」を主人公とする話があるが、この「じゅえむ話」にも、田んぼ仕事にまつわる話が多い。
 「いんねえのじゅえむどん」は、今の船橋市印内(いんない)に生まれた重右衛門のことで、力持ちで気が向けば人の二倍も三倍も働くが、へそまがりで、どこの奉公先でもうまく使えなかった。しかし、市川市北方(ぼっけ)の久兵衛(きゅうべえ)というお大尽のもとでは長く使われたとされ、北方を中心に東葛一帯にその笑い話が伝承されている。
 その話の一つ、「からすと田うない」。
 じゅえむどんが、初めて久兵衛の家に奉公に来たときのこと。久兵衛の旦那は、じゅえむに田うないを頼んだが、じゅえむはどこまでうなえばいいか分からない。ちょうど田の境にカラスが止まっていたので、「あそこのカラスのいるところまでうなえばいいんだ」と教えて旦那は家に戻っていった。
 じゅえむはさっそくカラスのいるところを目指して、一直線にうなっていった。ところが、カラスのそばまで行くと、カラスはちょっと先まで飛んでいく。じゅえむが追いかけてうなうと、カラスはまた先へ――。


 夕方になっても、じゅえむが戻らないので、旦那が田んぼへ来てみると、じゅえむはよその田んぼまでうなっていた。旦那が「何してるんだ!」と言うと、「だって旦那があのカラスのいる所までうなえって言ったから、カラスの所までうなってるんですが、いつになってもカラスの所までうなえませんやあ」と、とぼけて答えたと。これには、旦那も何も言いかえせなかったって――。
 「うなう」とは、田畑の土をクワなどで掘り起こしたり耕したりすること。市川辺りでは、田植えに先立って、四月の始めころまでに稲の切り株の残っている田を荒く掘り返す「一番うない」と、四月の終わりころに田に水を入れ田が硬くならないようにする「二番うない」が行われていた。この話は、そんな田んぼ仕事を背景にした笑い話である。
 次は「米の飯の弁当」という話。
 久兵衛のおかみさんは、米の飯の弁当を作って田うないを頼んだ。普段は麦飯を食っているから、おかみさんは「米の飯の弁当なら、クワでも田がうなえんべ」と言った。
 それを聞いたじゅえむは、田んぼに行くとクワの先に弁当を縛りつけて、寝転んでいた。そして、夕方になって家に帰ってくると、「弁当はちっともうなってくれなかった」と言ったと――。
 大変な田うないを怠けたいという願望や、米の飯の貴さなどが語り込まれた話だが、この話には、人遣いのうまいおかみさんのことを語る、次のような後日談が付くこともある。
 ――とぼけて答えるじゅえむに、おかみさんはかまわずに、「じゅえむ、田うないじゃ、骨折ったんべから、湯へ入れ」ってさんざん取り持った。そしたら、じゅえむは、明くる日は早起きして、二日分もうなったと――。


 久兵衛のおかみさんは、人を使いこなすのがうまく、じゅえむは三年も使われて泣いたという話まで伝わっている。
 いずれの話も、田んぼ仕事を中心とするかつての市川の農民たちの間で伝承されてきた〈話〉の世界である。田んぼ仕事が分からなくても、この〈話〉の面白さは今の子どもたちに伝えることはできるが、田んぼ作業を経験できれば、その話の面白さがより理解できるだろう。
 じゅえむ話の舞台北方の市民プールの前に「北方ミニ自然園」があり、五月八日には、子どもたちが田植えを体験していた   
(2004年5月14日)

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■§「水の月」の祓い§■ 文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

六月の旧名は水無月という。六月といえば梅雨。梅雨は春から夏への移行期に冷涼なオホーツク海高気圧と高温多湿な太平洋高気圧の境目に発生する前線の停滞によっておこる。一年で一番長雨の時期なのになぜ水の無い月と書くのか。『広辞苑』によると、「水の月」で水を田に注ぎ入れる月の意とある。ちょうどつゆのころは、ふっくらとつややかに育った梅の実がたわわに稔り、収穫を迎える時期にあたるため、梅雨と書くようだ。この雨によって、日本人の食生活の中心である米も支えられてきた。
 一方、この雨はものに黴を生えさすので、「黴雨」とも書かれる。日本料理に欠かせない味噌、醤油、納豆などの発酵食品は黴を利用したものであるが、黴は食中毒を起こす元凶となる怖いものでもある。この時期は次第に暑さを増し、流行病や虫害が増えてくる。 


水の月であり黴の月でもある六月の晦日(30日)は、ちょうど一年の半分が過ぎた境目にあたる。半年間の、人々の災厄や罪けがれを祓い、これから迎える夏を無事過せるように、チガヤで作った輪をくぐりぬける「夏越の祓え」が各地の神社で行われる。市川市八幡の葛飾八幡宮=写真=では、竹に茅を巻きつけて作った茅の輪を本殿前にしつらえ、夕方六時太鼓の合図で神事が始まる。宮司さんの祝詞、お祓い、参列者の玉串奉てんと人形に自分の息を三度吹きかけての奉納などあり、その後宮司さんを先頭に氏子、参拝者が一列になり、茅の輪をくぐる。松戸神社や大宮・氷川神社=写真=の茅の輪にはヒトカタがつけられている。

埼玉の秩父地方には、同じ日、わら人形に長い木刀を持たせたものを大勢で送って川に流すマガゴト流しがあった。マガゴト(禍事)とは災難や凶事、災いをいう。「夏越の祓え」に出るヒトカタもわら人形と同じ役目といえよう。
 茅の輪くぐりは、ワゴシマツリとかワクグリ、オンパラ祭(御祓)といわれ、これをくぐることで身のけがれを払い落とすのである。くぐりながら「水無月の夏越の祓へする人は千歳の命延ぶといふなり」と唱えたりする。
 茅は生命力の強い稲科の植物であるため、田植えに先立ち三本の茅を植え、稲が丈夫に育つのを祈願したりもするが、特にけがれや災いを避ける力が強いと思われていた。それは茅の葉先が鋭く剣のような働きを認めていたからである。ふつうチマキといえば、笹の葉で巻いてあるが本来は茅で巻いたものが茅巻きであり、今でも阿蘇のお田植え神事では、祭りに参加する人たちすべてが、チガヤでおこわをくるんだチマキを腰につけ忌み慎んでいるしるしとしている。『備後風土記』逸文では、病気や災いを避けるには茅の輪(チガヤを結んだ輪)を腰につけよと、スサノオノミコトが蘇民将来に教える。輪を結ぶことでチガヤの霊力はさらに強まると考えられていた。古代は厄除けのために、各自の腰に小さな茅の輪をつけるのが一般的であった。
 東京都千代田区の日枝神社の「夏越の祓え」では、茅の輪をくぐるとき、茅の輪から茅を引き抜き、小さな輪にして自宅に持ち帰る古い風習を伝える。いわゆる正月の輪飾り(輪ジメ)もワラ縄以前には茅の輪を用いたと推測できる。
(2004年6月4日)

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■§水神さまときゅうりと天王さま§■ 市川民話の会会員・根岸英之


 

市川は、地名に“川”が含まれる通り、川と密接な関わりをもつ地域であるが、これからの季節、川にちなんだ行事も多い。
 行徳駅前のバス通りを江戸川に進むと、江戸川堤防沿いに、湊(みなと)の水神宮がある。六月三十日の夕方になると、近在の子どもたちが、この祭礼に集まってくる。子どもが水難事故に遭わないようにと願う祭りから、今では広く子どもの無事な成長を祈願する行事となっている。


 参列は数百メートルにもなり、自治会やPTAの方たちの世話ぶりも見られてほほえましい。祠の前では即席の神主が、笹竹で参拝者を祓い、子どもには菓子袋が配られる。  堤防の無かったころは、江戸川がすぐ見える位置にあったという。昔は、水神さまをきれいにしてから、初めて川で泳ぐことが許されたといい、この日が、初泳ぎの日でもあった。
 真間川が江戸川に注ぐ根本水門の近くにも、やはり水神さまが祀られている。こちらは、七月一日に祭礼が行われる。元々は、真間川を行き来して物を運ぶ船を持つ人たちが祀っていたものだが、今では根本近隣の人たちによって守られている。
 どちらの水神祭でも興味深いのは、カッパに供えるためにきゅうりを川に流す風習が見られたことである。湊では、子どもが水難事故に遭わないようにと、きゅうりの初物を川のカッパに供えたという。根本でも、きゅうりに子どもの名前を書いて、「カッパにあげる」といって、川に流したという。


 水神祭ではないが、きゅうりの初物が成ったとき川に流したという風習は、北方でも聞かれた。北方の場合は、今の大柏川(地元ではオオカワといった)に、やはり川でカッパに引かれないようにと願って流したという。
 現代の市川からは、カッパ(河童)の伝承があったなんて信じられないが、川が生活の中にあったかつての市川では、水神にも通ずる河童の存在が信じられていたのである。
 きゅうりが河童と結び付くのは、夏に採れる非常に水分の多い外来植物であり、それが、水神の依り代、あるいは水神への供え物として、重宝されたからだと想像される。
 民俗の中のきゅうりは、河童ばかりでなく、天王さまとも結び付いている。
 曽谷・柏井辺りの旧家では、「天王さまの紋に似ているからきゅうりを作ってはならない」とか、「きゅうりをまっすぐに切ると天王さまの紋に似るから、斜めに切らないといけない」などの禁忌が伝えられる。神さまゆかりの物をみだりに用いることの戒めである。
 天王さまとは牛頭天王(ごずてんのう)のことで、これを祀れば災厄からまぬがれると信じられていた。京都の八坂神社がその代表であり、七月に行われる祇園祭は、夏の風物詩となっている。市川周辺では、船橋市印内の八坂神社の祭礼(七月二十三日)が有名であった。
 八幡の葛飾八幡宮の奥にも、八坂神社が祀られており、今でも門前の氏子たちによって、七月十五日に祭礼が行われている。


 陰暦六月の異称「みなづき」は「水の月」の意で、全国的に川祭りが多く見られる。これは、田植え終了後のみそぎの風習や、水難に遭う機会が増える時期であること、疫病などが流行りやすい時期で、その災厄を川に流すことが求められたなど、いろいろな要因から形作られたものと考えられている。市川の水神信仰や天王信仰の背景にも、こうした季節観がひそんでいるといえよう。
 今、市川では「街かどミュージアム都市構想」というのを進めていて、国府台の江戸川堤には、市川関所跡が復元されるという。大きなモニュメント作りもいいが、ここに紹介したような街かどのちょっとした祠や、それにまつわる風習にも目をこらして、市川の魅力を再発見していきたいものだ。
(2004年6月18日)

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■§「七夕」は盆のはじまり§■
文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

「七夕」は七月七日の夜、天の川を隔てて別れ別れになっている牽牛(けんぎゅう)(彦星)と織女(しょくじょ)(織姫)が年に1度だけ会うことができる日とされている。また、この日に五色の短冊に願い事を書いて笹竹に吊るすと願い事がかなうともいわれる。シチセキ(七夕)と書いてタナバタと読むのは少々解せない。これは中国の七月七日の星祭・乞巧奠(きこうでん)が、奈良時代にわが国に入り、それまでにあったわが国古来の民俗行事の名称に七夕という字がかぶさったと思える。
 七月七日には必ず水浴をするとか髪を洗うなどと伝えるところは全国的に多く、牛馬までも洗うといい、この日雨がふると良い、必ず雨が降るともいう。七夕の日に、星祭とはまるで異質な、水に関する伝承が多いのはなぜだろう?
 タナバタの解釈の一つに「棚機つ女(タナバタツメ)」がある。水辺のかけづくりの棚で機を織りながら水神の訪れを待つ乙女、その乙女と水神の聖婚をモチーフとする古代祭儀があったとする。いま一つは盆の棚(タナ)に祖霊がやってくる標識の旗(ハタ)をつけることから生じた名称という。
  市川も含め千葉県内のいたるところで、七夕に馬と牛を作る。材料からマコモ馬とか、カヤカヤ(茅)馬というところもあるが、一般的に七夕馬と呼ぶ。七夕馬を迎え馬と呼ぶ地域も多い。一体何を迎えるのか? 実は盆にこの世を訪れる仏様を迎えるのだ。盆棚にきゅうりと茄子(なす)の馬と牛を飾るが、それと同じ意味合いを持つ。七夕の日の早朝、子供達が馬や牛を引いて家の近くに草刈りに行き、その草を馬や牛に乗せ家まで戻り草を下ろしてから庭先や軒下に飾り、迎えてきた仏様の供物として赤飯や季節の野菜などを供える。その後この馬や牛を屋根にあげたり、屋敷神に供えたり川に流したりする。


市川の須和田=写真=では、牛馬に朝は小麦粉の団子、昼はご飯やうどん、かぼちゃとインゲンの煮物などを供え、仏様がご馳走(ちそう)を食べ終わるのを待ちかねた子供達が、馬の鼻、牛の首に縄をつけ庭中をひっぱって遊びまわったという。マコモが田の埋め立てとともに少なくなり、七夕馬を作る人が少なくなったが、いまでも「マコモさえあれば作りたい」という声が聞かれる。
 このように日本古来からの七夕は、実は盆の始まりの日であった。盆は仏教の影響を強く受け、一般的には仏教行事であるかのように思われているが、元来は仏教渡来以前からの、わが国固有の信仰に基づく先祖祭であった。七夕に雨が必ず降るというのも、水浴をするのも、祖霊(精霊)を迎えてもてなし、送るという大切な盆行事の前段階としてのみそぎを意味するものであった。七月七日に井戸さらいや墓掃除、仏具磨きなどするところは多く、この日をナヌカビ・ナヌカボン・ボンハジメと呼ぶ地域が多い。
 青森のねぶたは、人形の張り子燈(とう)籠(ろう)で人形ねぶたともいい、夏の観光行事として全国的に知られる。しかし、江戸時代までは竿の先につけた四角な灯籠が主体でそれにいろいろな飾りがついた素朴なもので、「ねぶた流れろ、豆の葉はとどまれ、イヤイヤイヤヨ」とはやしながら灯籠を川に流した。ネブタとは睡魔のことで、睡魔を海や川に流し、豆息災に健康を保とうというのである。七夕に灯籠を流す「眠り流し」の行事は実は全国的にある。信州のネンブリナガシ、群馬のネブトナガシ、武蔵のネボケナガシ、三河のネブチナガシなどいずれも睡魔を防ぐことである。ねむの木をネブタと呼ぶ対馬では、七夕にねむの木の枝を海に流す。黒石市のねぶた祭は、かつて七夕祭と呼んでいた。秋田の竿灯(かんとう)は大正時代まではネブリナガシと呼ばれた。現在のように、長い竹竿の横木に沢山(たくさん)の提灯をつけ、腰や額に乗せしならせながら操る曲芸風のものは新しい。


 七夕の日に雨や水に関する伝承が多いこと、ご先祖様の迎え馬を作ること、睡魔を流す行事があるなどは、タナバタが盆の祖霊の迎え日で、水で体を清め慎んで盆の準備をする日であったことをあらわしている。短冊を吊るす笹竹ももとは盆にこの世を訪れる仏様のよりしろであった。仙台の七夕の笹飾りにヒトカタ=写真=がついているのも、タナバタが盆の祓(はら)いの日の名残をうかがわせる。青森のねぶた、秋田の竿灯、仙台の七夕は東北の夏を彩る三大祭として、観光の目玉となっているが、実は盆の始まりのみそぎから発展した行事といえる。
(2004年7月2日)

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■§子どもの遊びとわらべ唄§■ 市川民話の会会員・根岸英之


 

間もなく夏休み。子どもたちものびのびと遊ぶことのできる季節であろう。今回は、市川の昔の子どもたちの遊び風景を眺めてみよう。
 市川民話の会では、古くから地元に住む方から聞き書きした内容をまとめた『市川の伝承民話第8集』を、つい先ごろ刊行した。そこに紹介した国府台の田中正光さん(明治四十五年生まれ)の小さいころの遊びの様子はこうだ。


 〈あたしらときにはねえ、とにかく小づかいもらえねえんですからねえ、お金を使って遊ぶってゆうことはいっさいないでしょ。ですから、あのメンチ(メンコ)だとか、山から内緒でもって、格好のいいあのネンボウっつって、先をとんがらかして、いくらか土を水まいてやわらかめにやっといて、そいでお互いにこうネンボウでもって、相手の棒、倒しっこしたりなんかして。せえからまあ、ベエゴマなんぞが、一番多かったんじゃないんすか〉
 〈それからあのう、夕方んなんとねえ、コウモリの群れがよく飛んでくるんですよ。小学生のころのねえ、国府台の表通りのね。昼間、牛か馬車、それぐらいしか通りませんから。夕方んなって表通りでもってみんなね、はいてる下駄(げた)やなんかをね、「おれ一番あの電線よりかも高く、放り投げんからなあ」なんて、下駄やなんか持ってきて、電線の高さぐらいパーッと投げると、こうもりがね、それをババババババーッと、追っかけてくんですよ。で下駄が落っこってくると、五羽も六羽も、羽ばたきしながらパタパターッと落っこってくんです。それがおもしろくて〉
 〈トンボってよりかもヤンマっていいましたねえ。一ぴき棒の先へ糸、飛べるだけの範囲ぐらいな、あの長さの軽い糸でもってゆわいといてね、こうやりながら畑の中入ったり、あぜ道出たりしてやってると、その内に、相手のトンボがあの目につくと、すうっと飛んできてね、でからんでくんでしょ。すうっと下ろしといて、そいで帽子(ぼうし)乗せるか、笹っぱか何かでもってすうっと。よくとりましたよう〉
 このやんまつりのときには、唄もあったそうで、田中さんは「おらが やんまは なんとか」と唱えながら遊んだそうである。
 やんまつりの唄は、地域によっていろいろな歌詞が伝わっている。
 やーんまほんじょ やんまのほんじょ
 やんまつり けしけし 
 これがほんとの おんなのやんまだーから
 こーよこーよと やんまのほんじょ(宮久保 五関静子さん)
 やんまあ ちょろやんまあ
 つるみーちょろ
 おんじょ(女)やんまに かーかれよ(行徳 花見薫さん)
 このように、昔の子どもの遊びには、しばしば唄が伴っていた。
 このわらべ唄の魅力を現代の子どもたちにも伝えようと、今年の九月に上演される「第二回いちかわ市民ミュージカル 手鞠うた 風にのって」は、市川のわらべ唄を多く取り入れた作品になっている(作・演出 吉原廣氏)。
 市川で唄われていた「手まり唄」「まりつき唄」「数え唄」「縄跳び唄」「鬼遊び唄」などばかりでなく、舞台となる昭和二十年代に若者たちの心をとらえた流行歌も、たくさん盛りこまれている。


 芝居に参加する子どもたちは、わらべ唄を使った遊び型ワークショップを通して、昔の遊びの楽しさや伝承的な唄の持つ魅力を体験しているようだ。大人たちも、昭和二十年代の流行歌や労働唄を、楽しそうに練習している。
 かつては生活の中に、歌が力あるものとして宿っていたに違いない。コンピュータゲームやカラオケもいいが、人と人が触れ合い、生の歌声を通して心が通い合う、昔ながらの唄のよさを、今の世代の人たちにも体感してもらいたいと思う。
 興味を持たれた方は、『市川の伝承民話』や、ミュージカルの練習の様子をのぞいてみてはいかがだろうか。夏を楽しく過ごせるはずだ。
(2004年7月16日)

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■§親しみをこめて迎える仏様§■
文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

八月といえば、月遅れの盆である。故郷を遠く離れていても、盆になれば墓参りのために帰郷する人びとは多く、高速道路の渋滞や、超満員の新幹線の話題にこと欠かない。先祖の墓参りは、自分の存在が過去からの長い血のつながりの中にあることや、家族の絆をより深く確認する場ともなり、現在でも日本人の心のよりどころとなっている。この時期お坊さんの檀家周りも大忙し。お寺の墓参りやお経といえば、盆はてっきり仏教行事と思いがちだが、元来は仏教渡来以前からのわが国固有の信仰に基づく先祖まつりであった。
 市川北部の農家には今なお生き続けている昔ながらの習俗をみることができる。新盆の家では、盆月に入った早々の八月一日、=写真=庭先に高灯篭を立てる(市川市国分)


早朝から親戚や近所の人が集まり、真竹を十字に組み、竹の先には杉の青葉をさし、紐で灯篭を吊り下げる。高灯篭は仏様が帰ってくる目印とされ一日から二十四日まで、毎日火を灯す。今は電気がつく灯篭を買ってくるが、昔は手作りで毎日灯篭を上げ下げして、ローソクに火をつけていた。
 東金地方では、この高灯篭の竹の根方に、仏様が足を洗う水といい、水を入れた洗面器と新しい履物を置き、手拭を竹に引っ掛けておく。市川の北国分でも十三日の仏迎えの日、家から持っていった提灯のローソクに墓で付けた火をつけ、仏様を我が家に迎える折に、家の入り口に、洗面器に入れた水と手拭、新しい草履を整える。迎えてきた仏様は足を洗い、草履をはいてあがられるという。洗面器の水をあける前に、この仏様の水で目や手足を洗うと病気にならないという。=写真=迎え火に手を合わせる(東京・佃島)


提灯を家に持ち帰る途中で火が消えると、仏様が迷子になるといわれているので、提灯を揺らさないようそうっと歩く。ホウロクにオガラを乗せ火をつけ、仏様の目印にする迎え火の習俗はまだ都市近郊でも見られる。先月号でタナバタ馬について書いたが、あの馬も盆に迎える仏様の乗り物であり、盆棚に飾るきゅうりとナスの馬と牛も、仏の送迎用で、迎えのときは駆け足の早い馬を、送るときは名残を惜しみゆっくり歩く牛で送るといわれている。一方、茅やワラで作った蛇を盆綱といい、仏様の乗り物とする地域も多い。=写真=茨城県利根町では、盆綱を子供たちがかついで墓地に行き


「乗れ、乗れ」と叫び、初盆の家の庭で「降りろ、降りろ」と叫ぶ。小川町では盆綱の蛇ワラを盆棚が設けられた座敷まで担ぎ込む。
 かつて幾たびか私も訪れた、三島由紀夫の『潮騒』の舞台、三重県神島では、笹の葉で舟を作り、「ご先祖様、みな仲良く乗っといで」といいながら、海に流す。
 盆に仏様を迎える習俗だけとって見ても、仏様は割合に送り迎えの容易な近距離にいるものと思われていたことがわかる。仏教で説く西方浄土は十万億土のはるか彼方にあるとされるが、「草葉の陰で見守る」という言葉もあるように、仏様はいつも我々の身近にいて、子孫の幸せを願い、見守っているのだ。
 マコモと竹で作ったガンガラと呼ぶ棚を十二日に墓場に仮設するが、仏はその日からそれに腰かけて、迎えに行くのをいまかいまかと待っているとされ、迎えはなるべく早くいくという。十五日の仏送りは送りの団子を供えて、盆棚のローソクの火を提灯に移し、墓場にもって行き消して帰るのだが、遅ければ遅いほど良いといわれ、真っ暗になってから送りに行く人が多い。一年に一度の滞在をせかしたくないという優しい思いが感じ取れる。供物にしても十三日の朝はお茶、昼はご飯になすとかぼちゃの煮物、おやつにソーメンかうどん、夕方はお迎え団子というように、心をこめてもてなしをするので、盆の期間中仏様のお供えもの作りで大忙し。「仏様は三日間のうちに一年中の食べ物を食べていかれる」と、送り団子を丸めながらふとつぶやかれた方の姿が忘れられない。日本人固有の盆のありようがそこに見える気がする。
(2004年8月6日)

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■§“袖かけの松”悲話§■ 市川民話の会会員・根岸英之


八月は、旧盆、原爆忌、終戦記念日など、死者へ思いを馳(は)せる機会が多い。そのため、「聖霊月」と唱えることを提唱する学者もいる(色川大吉『昭和史世相篇』小学館)。
 今回は、戦後復興期の宮久保で起こった「袖(そで)かけの松」の悲話を紹介したい。
 本八幡駅北口から、まっすぐ北へ伸びる道を進むと、バス停宮久保坂下と坂上の途中の高台に、宮久保の鎮守(ちんじゅ)、白幡(しらはた)神社がある。その石段の傍らに「袖かけの松」の石碑が二基建っている。
=写真=大正のころの宮久保坂(下貝塚・松丸巳之助氏提供)


 今でこそ舗装されたこの坂も、かつては、もっと勾配(こうばい)がきつく、関東ローム層と呼ばれる泥土のため、とても滑りやすい坂だった。いつの頃(ころ)からか、「この坂で転ぶと災難がかかる。その災難から逃れるためには、着ている着物の袖を、白幡神社の境内から伸びる松の枝にかけるといい」といわれるようになった。
 〈袖かけの松んとこの道は、悪かったですよ。浅い田んぼよかひどくってね。八幡さまのお祭(葛飾八幡宮のボロ市)に行く時なんか、前の晩から髪をゆってね、朝早くから出たんですよ。坂にさしかかると、下駄(げた)ぁ持って、はだしになって、滑らないように通ったもんですけど、坂下の井戸や、わきのみぞで足を洗って下駄をはいて行ったんです。袖かけの松はでっかい松でね、その下の道が悪くって転ぶ人が多かったんですが、そこで転ぶと災難があるっていうんで、袖をちぎってかけたんですよ。〉(曽谷・竹内かんさん)
 (出典は『市川の伝承民話』市川市教育委員会より。以下同じ)
 石碑は、明和三年(一七六六)の「妙法袖掛松」と昭和四十三年の「袖掛松之碑」の二基があり、江戸時代中期には、この松への信仰があったものと考えられる。
 袖かけの松の始まりについては、こんな話も伝わっている。
 〈この袖かけの松ってのはね、お宅の娘(曽谷のキヘイという旧家)がいてね、それが縁遠(えんどお)くてね、あの坂で転んだって。そして、長袖、片袖もいであげたって。それで「袖かけの松」って名前をつけたって。その娘は宅の二代目ぐらいの人じゃないですかね。〉(曽谷・加藤清さん)
 ところが、この松も、昭和二十三年に道路拡幅工事が持ち上がり、伐(き)られることになった。松の大木が倒れるとき、小学校に上がる直前の女の子が巻き込まれ、亡くなったのである。
=写真=昭和50年ころの松の切り株と石碑(市川市提供)


 〈袖かけの松というのがあって、それは太さが二かかえもあって、まるで盆栽の松を大きくしたみたいに姿がよくて、それが神木だけど、道路の関係で切るといったんですよ。ところが、神木だから切れないといって、当時の浮谷市長が地元の宮久保で、住民の意向調査をしたんですよ。ところが、結果的には、切ってしまったんですがね。今残っていたら、市川の名所になったんじゃないかと思いましたよ。その時、子どもを一人、だきこんで行きましたけどね。袖は無造作にかけられていてね。風雨に打たれているので、不気味な感じがしましたよ。夜なんか気持ち悪いですよ。〉(宮久保・加藤包太郎さん)
 この袖かけの松のいわれは、神聖な場所に生える巨大な樹木には神霊が宿っているという信仰や、坂や峠のような境を越えるときは、行路の無事を祈って神に幣(ぬさ=神に供える布や紙)を供える風習などを背景に、生まれたものといえよう。
=写真=舞台に再現される袖かけの松(いちかわ市民ミュージカル実行委員会提供)


 そうした貴重な松が開発によって伐られ、少女を一人犠牲にしてしまったという実際の事件が起こり、新たな「現代民話」として語り伝えられるようになったのである。
 九月十二日に市川市文化会館で開催される第二回いちかわ市民ミュージカル「手鞠(まり)うた風にのって」は、この袖かけの松をテーマにした作品である。
 市制施行七十周年を迎える今年、市川の発展の陰に犠牲になった少女への思いを馳せ、今日の市川の有りようをもう一度、見つめ直してみたいものである。
(2004年8月20日)

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■§収穫を感謝するお月見§■
文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

「月の中で兎が餅をついている」と聞いて育った人も沢山いるに違いない。
 満月になると月の表面に影のような模様が見られる。その模様から国により時代により、月に住む動物に違いが見られる。日本には中国の臼を搗く兎が移された。
 中秋の名月をめでる風習も、平安時代に中国から入ったもので、醍醐天皇の時、初めて月見の宴を催し、その後詩歌、管弦の会なども行われるようになった。民間では江戸時代から農作物を供え、月に感謝するお月見と言う行事が行われるようになった。市川北部の農家では、十五夜には米の粉で作った団子と、茹でた里芋を十五個ずつ一升桝に入れ、すすき、かるかや、おみなえしなどを一升びんにさし、縁側や庭に出した机の上に飾る。家によっては、団子と里芋を合わせて十五個にするとか、各々十五個ずつを味噌仕立ての汁に入れた里芋団子汁を、柿、栗、梨などの果物とともに飾る。細長い竹竿の先に縫針を付け、それを垣根の隙間からそっと差し入れ団子を取る習俗が全国的にあった。「団子突き」という言葉があるのも、「月見団子は盗まれたほうが良い」という伝承すら聞かれる。子供達のいたずらが公認された形である。スリルと技を競え合える格好のチャンスであったろう。
=写真=すすきや団子、果物などを供えてのお月見(市川市)


 国分地区には月見の時、「十五夜の月の心を持つなれば、暗くはあるまい後の世までも」と歌いながら月を拝んでいた人もいた。国府台地区では昔から月見をしない家があるという。それは国府台合戦で里見方が負けたのは、里見方が月見をしていて、敵方の夜襲を受けたからという。
 ところでなぜ八月十五夜を中秋の名月というのか。実は暦には現在使われている新暦(西洋暦)と明治五年までの旧暦があり、一カ月以上のずれがある。今は秋といえば九月・十月・十一月であるが、旧暦では七月・八月・九月をさす。中秋というのは秋の真ん中の意味だから八月の十五日に当たる。旧暦では月末の晦日は月の無い闇夜で、翌日は月が立つ意味の朔(ついたち)、十五日は望(もち)で満月となる。月に一度は十五夜があるわけである。なぜ八月の十五夜だけが特別視されたのであろうか。丁度その時期、大陸から乾燥した冷たい空気が流れ込み秋晴れに恵まれ、大気の澄んだ季節となり、満月もことさら美しく見えるのである。またこの時期は畑作物の収穫の時期でもあり、月に芋や豆など収穫物を供え、収穫儀礼としての性格も見られる。鳥取県では八月十五夜を芋神様の祭りと呼んだり、芋の誕生日などともいう。東北地方では、豆名月、豆の月見などといい豆の収穫祭としているところが多いが、宮城県名取郡では、八月十五夜を稲草祭といい、赤飯と枝豆を供えることをみると稲作とのかんけいもあるようだ。
 十五夜には月に供え物をするだけでなく、収穫祭に伴う綱引きや相撲もある。
 =写真=中央のわら小屋の中の子供の掛け声で輪になって踊る(鹿児島県知覧町のソラヨイ)


 鹿児島県知覧町のソラヨイという十五夜の行事は、藁で扮装した子供達が輪になって「ソラヨイヨイヨイ」の掛け声にあわせ、相撲の四股を踏むような動作をし、大地の実りを祝福する。
 現在は夜でも街灯が赤々と灯り、夜と昼との境があいまいとなり、月の満ち欠けに気を止めることもなさそうだが、漁師の世界では今でも月の満ち欠けがもたらす満潮と干潮、大潮と小潮の情報は重要である。子供の誕生は満潮のときで、亡くなるのは引潮の時ともいわれる。地球の引力と人間の生理が関係するのであろうか。海亀や牡蠣、さんごなどが産卵や受精を行ったり、月下美人の開花が満月の夜だけにかぎられるという話にも、月の神秘さを感じる。ちなみに今年の中秋の名月は九月二十八日である。お月様を眺めて民俗に思いをめぐらせるのもまた楽しいかもしれない。
  (2004年9月3日)

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■§八幡のボロ市今昔 §■市川民話の会会員・根岸英之


 

市川の九月の祭事といえば、八幡の葛飾八幡宮の農具市(十五日〜二十日)を外せない。通称、「はちまんさまのボロ市」で知られる祭りである。
 「ボロ市」と呼ばれるのは、かつて古着を商う露店が多く軒を連ねていたからで、今風にいえば、フリーマーケットやリサイクル市のようなもの。遠くからも多くの人が、この祭りに足を運んだものだった。=写真=今でも農具(刃物)を商う店が出る


 江戸時代、行徳の名主が記した『葛飾記略』(文化七年頃=一八一〇)という地誌には、次のように記されている。
 〈祭礼。八月十五日、十六日なり。国中第一の大市にして、呉服屋を始め麻苧(あさお)、古着屋、並びに小道具、小間物、その他よろずの諸商人、二通り、三通りに仮の見世店をしつらえ、ひさぐ(販売する)こと誠に喧(やかま)し。貴賎老若男女の参詣限りもなく、八幡祭とて世に名高し。生姜(しょうが)、これまたこの市の名物とするなり。放生会(ほうじょうえ)もあり。〉=『房総叢書』を元に読みやすく引用
 八幡さまの祭は、元々八月に行われたもので、現在、九月になっているのは、月遅れで行うため。「八幡祭」とあるのは、地元の言い方で「ヤワタマーチ」と言っていたものに当たる。「マーチ」というのは、「祭る」「待ち」「町」につながることばで、いずれも、神の訪れを待つにぎやかな時空を意味することばである。
 面白いのは、このぼろ市には、生姜が付きものだったとあることで、江戸時代のぼろ市は、しょうがが名物として知られていたようである。
 また、放生会といって、生きた魚や鳥を池や林に放って、殺生(せっしょう)の罪をつぐなう神事も行われていたことが分かる。この放生会は、宇佐八幡宮や石清水(いわしみず)八幡宮などで行われてきた。
 ところで、この『葛飾史略』には、「八幡三不思議」があるとして、次のような話も記されている。
 〈八幡知らずの森。諸国に聞こえて名高き杜(もり)なり。魔所なりという。また、平将門の影人形、この所へ埋めてありともいう。また、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のとき、八陣を敷きたもう跡ともいう。予、古老に詳しく尋ね聞きけるに、この所、昔仮遷宮(せんぐう)の神なり。故に敬して注連(しめ)を引き、みだりに入ることを禁ず。不浄を忌む心なり。八幡三不思議、杜、一夜銀杏(いちょう)、馬蹄石(ばていせき)、これをいう。〉
 「八幡知らずの森」は、いうまでもなく、市役所の向かいに遺された「やぶ知らず」のこと。入ることが禁じられた聖地で、そのいわれを説く話がいろいろと伝承されている。=写真=改修前の藪知らず(1997)


 「一夜銀杏」というのは、社殿東側にそびえる天然記念物「千本公孫樹(いちょう)」のこと。『葛飾史略』とほぼ同時期にまとめられた『江戸名所図会(ずえ)』という地誌には、〈この樹のうつろの中に小蛇棲めり。毎年八月十五日の祭礼の時、音楽を奏す。その時数万の小蛇、枝上に現れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす〉とある。祭りのときに白蛇が現れるという話は、戦後になっても聞かれた。
 「馬蹄石」というのは、社務所の後ろにある「源頼朝(よりとも)公の駒止め石」のことで、頼朝が戦勝祈願に訪れた際、乗っていた馬のひずめの跡がここに遺ったと伝えられる。
 昭和二十一年から市川に住み始めた文豪永井荷風も、その年の九月に、早くもボロ市に足を運んでいる。
 〈昭和二十一年九月十六日、晴、八幡町八幡神社祭礼、簑笠(みのかさ)農具の市立つ、見世物もあり、群集雑沓(ざっとう)〉
 今年は、新たに神楽殿が竣工され、十五日にこけら落としが行われた。また、十月五〜十一日には「回遊展IN八幡」、十月九、十日には、「八幡ふれあいまつり」も開催される。
 時代とともに変わりゆく祭りではあるが、その地域のいわれや歴史を見直す絶好の機会であることには変わりがない。
(2004年9月17日)

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■§行ったり来たりする神§■文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

私が市川の民俗探訪を始めた二十五年前ころには、市川の北部にまだカマドが見られ、オカマサマの行事が残っていた。いまでは都市ガスが普及し、カマドを見ることもなくなったが、古くからの家の台所には必ずといってよいくらい荒神様が祀られている。カマドの近くの柱や壁に小さな神棚をしつらえ、神札や幣束を納めて祀る。
 一日、十五日にはご飯や水を供え、荒神松といって月の晦日には松の枝を上げる家もある。田植えが終わった祝いのサナブリには、三把の苗をお神酒、あんころ餅とともに荒神様に供える。=写真=荒神様に三把の苗を供える(市川市北国分)

その苗をオカマ苗と呼び、そのオカマ苗を盆の七夕馬のたてがみに使うという。稲刈りが終わったカッキリにはカッキリボタモチと洗い清めた鎌を荒神様に供えるという習俗も千葉県下には広くみられた。
 荒神様は「おかまさま」とも呼ばれ、女の神様であるという。家の中心である火所を主婦が守るせいか、荒神様を女性とみなすのはほぼ全国的であり、嫁入りの際、婚家の荒神様にまずお参りする例もある。
 家を再興することを「カマドをおこす」、分家することを「カマドを分ける」というが、カマド神は家の神としての色合いが強い。=写真=オカマサマに着物のヒナガタを付けたシメを張る(栃木県・湯西川)

火の神であり、火伏せの神であり、田の神としての一面も持つ。その他にかつては広く行われていた「行きおかま」に「帰りおかま」の行事から、縁結びの神でもあることがわかる。
 いつどこに何をしに行くのか? 十月晦日に出雲に出かけ、縁結びの相談をし、十一月晦日に帰るのである。この両日、米の粉を丸めた団子を盛れるだけ一升枡に盛ったものや、里芋と大根の味噌仕立ての汁に団子を沢山入れた団子汁を一升枡に入れ荒神様に供える。荒神さまに供えるこの団子は「おかま団子」と呼ばれ、「おかまの団子は数ばかり」という言葉は、市川市内にもまだ聞くことができる。
 おかまの団子は大きくするものではなく、小さくて数多くするのが良いという。それは、おかまさまは子供が三十六人もいるなどと伝えるところもあり、子沢山と考えられているからであろう。子沢山ということは生産力の多いこと、つまり豊穣を意味する田の神の表現でもあった。おかま団子を供えるのは、いい嫁を迎えられるからといい、後家になってはいけないので、荒神様に供える団子は必ず一つの手で二個一緒に丸めるという。おかまさまが出雲に出かける日と帰る日に未婚男女が氏神様にお参りし、おこもりをする例もある。
=写真=東北地方に多い仮面のカマド神

 行ったり来たりする家の神様はオカマサマの他にもおいでになる。福の神として馴染み深いエビス様である。一月二十日はエビス様が働きに出る日で、十一月二十日は帰ってくる日という。おかまさまはひと月で帰るが、エビス様は、一年のほとんどの期間出稼ぎに出ていることになる。鯛を小脇にかかえ、片手に釣竿を持ったあの姿からもわかるように、もともとエビス様は漁業の神であったが、エビス様のご利益も広がり商売繁盛の神となり、家々にお金をもたらす神ともなった。
 エビス様は高い所に祀ると居すわりになってしまい働けないから低いところに祀るという。エビス様の祭りには、そろばんの上に置いたエビス様に、そばや山盛りご飯、尾頭付きの魚二匹などと共にお金を入れた一升枡を供える。働きに出る日は、お金があまり多いと途中で道楽するからと少しにし、帰ってくる日は家中のありったけのお金を供える。あまりにも人間の勝手さが感じられる。
 こうした家の神々が行ったり来たりする背景には、田の神の去来という考えがある。農業神としての田の神が、田畑の作物を守護するために春、田畑へ降臨してきて、収穫が終わった冬の初めに山の彼方か、天の方へ帰って行く。神様はいつも同じところにいるわけではない。必要な時にやってくるものであった。
(2004年10月1日)

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■§荷風も訪れた鎮守の秋祭り§■ 市川民話の会会員・根岸英之


 

十月は、多くの神社で秋祭りが行われる季節である。
 十月は、稲作を始めとする農作物の収穫が一段落する時期で、元来、自分たちの住んでいるムラ(鎮守)の氏神さまが、田の神として働いて、豊作をもたらしてくれたことに感謝し、神送りすることを目的に行われたものである。
 今の市川では、農業を営んでいる家のほうが少ないが、商工会議所主催の新しい「市川産業まつり」も十月三日に行われたように、この季節に祭りをするという観念は、現代社会にも引き継がれているといえよう。
 市川で代表的な秋祭りといえば、三年に一度行われ、今年の十日がその日に当たる、「行徳五ケ町祭礼」(本行徳周辺)や「行徳四ケ町祭礼」(欠真間周辺)などが思い浮かぶが、市川の各地の神社で、秋祭りは行われている。
 『墨東綺譚(ぼくとうきたん)』や『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』などで知られる文豪の永井荷風(かふう)が、東京での戦災の後、あちこちを転々し、京成菅野駅と国府台女子学院の間の閑静な菅野(現三丁目十七番地)に移り住んだのは、昭和二十一年一月のこと。
 “失われゆく古き東京”に愛着を持っていた荷風は、東京にほど近いこの市川を、その日記『断腸亭日乗』の中で、「門外松林深きあたり閑静すこぶる愛すべき処あり、世を逃れて隠れ住むには適せし地なるがごとし」(昭和二十一年一月二十二日)と記している。
 そして、“散歩の達人”荷風は、市内の古跡にも足を運んだ。そんな荷風の目を引いた一つが、神社の秋祭りだった。『断腸亭日乗』には、次のような記述がある。  〈二十一年十月九日 市川真間祭礼〉
 〈二十二年十月十九日 日曜日。近巷諸処(きんこうしょしょ)の神社祭礼なり。菅野の白旗(しらはた)天神。平田の胡禄(ころく)神社。新田の春日社いずれも社頭に幟(のぼり)を立つ。たまたま春日社の幟を仰ぎ見るに「慧眼(けいがん)輝光同好一乗之妙法」となせし下に、「関東鵬斎(ほうさい)亀田興休手拝書」とあり。鵬斎の楷書(かいしょ)を見るは珍し。〉
  (『荷風全集』岩波書店より読みやすく引用)
  荷風が市川に移り住んだ年の十月に訪れたのは、真間の祭礼であった。現在、真間の祭礼は、「手児奈まつり」「真間稲荷神社祭礼」、さらには「市川まつり(旧市川北口まつり)」などが一体となって、今年も十月十日に開催された。新旧の祭りがうまく融合しており、市川らしい秋祭りとなっていて興味深い。
  翌二十二年に荷風が訪れた菅野の白幡天神社=写真=(左)

は、荷風が喧騒(けんそう)をのがれて、しばしば足を運んだところ。今年は、十七日に神輿渡御が行われる。
  「平田の胡禄神社」とあるのは、平田には諏訪神社しかないことから、新田一丁目の胡録神社のことと思われる。新田には、五丁目に春日神社=写真=(右)

もあり、現在は「新田神社奉賛会」として、両社を合同で祀っている。今年は、十六日から十八日が両社の祭礼で、神輿渡御が十七日に行われる。
 荷風の記録で興味深いのは、この新田の春日神社に、亀田鵬斎(ほうさい)(一七五二−一八二八)という江戸時代の儒学者の手になる幟があったという点である。
 市川博物館友の会の斉藤喜一氏が、管理する白幡天神社の鈴木啓輔宮司ほかに尋ねられたところ、この行方は定かではないとのことだったという。
 鵬斎の揮毫(きごう)による道祖神の石碑(一八二三)は、葛飾八幡宮にも遺されており、もしこの幟が見つかれば、世紀の大発見となる。氏子の方々に探していただければと思っている。
 なお現在、市川市中央図書館では、「健康都市をめざして」という本の特集展示に合わせて、「晩年の荷風の健康展」を開催している(十一月末まで)。
 荷風に導かれながら、祭りで賑わう秋の市川を再発見してみる、絶好の時節であろう。
(2004年10月15日)

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■§人生の旅立ち・七五三§■
文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

十一月十五日は七五三で、十五日前後の土曜、日曜ともなると、三歳・七歳の女の子、五歳の男の子がそれぞれ晴れ着に身をつつみ、子供に勝るとも劣らず着飾った両親や祖父母に連れられ、寺社に詣でる姿が見られる。それまでの成長の無事を感謝し、お守りや破魔矢などをいただき、お祝いを下さった人に千歳飴を配り、記念撮影や家族での祝いの食事をしたりする。現在見られるこうした都会風の七五三の祝いは、明治以降、東京を中心に流行りだしたもので、全国的には戦後になってからである。
 七五三=写真=宮参りで、獅子の祝福を受ける子供(東金市)

という呼び名は新しいが、子供が成長する段階ごとに、三歳や五歳、七歳に祝いをすること自体は昔からの習慣であった。特に七歳は男女を問わずヒモトキとかオビトキと呼ぶ七つの祝いをする地域は多い。以前は、里方から付け紐をつけない四つ身の着物を贈られたことから、ヒモトキ、オビトキの名称がついたようである。八千代市では、箕に紅白の餅を置き、その上に7つになった子供・ヒモトキッコが乗り、子供の着物に結んだ紐を解くという儀式が今でも行われる。
かつてヒモトキの祝いの膳に招待する人には、事前にカゴモチが配られた。籠に重ね餅を入れたものである。十年ほど前に取材をした白子の細谷家のカゴモチは想像を絶するほど大きな物であった。母親の実家に届けたカゴモチの籠は直径二メートルほどの大きさで、仲人や親戚に配った物も九〇センチメートルほど。中に入れる餅を搗き、丸めるのに十人で夕方から翌朝までかかった。籠に大小の紅白の餅=写真=(長生郡白子町)(右)

を入れ、その上を杉の葉で覆い、縄で亀甲紋に編んで、中心に杉の葉を立てる。
  餅が子供の成育儀礼に欠かせないのはヒモトキばかりではない。生まれて三か目の三つ目のぼた餅や初誕生の餅背負わせ・餅ふませなども餅が登場する。実は丸餅は魂を象徴する。赤子の魂は不安定でくしゃみをしただけでも体から飛び出すのだ。出て行った魂が戻らねば赤子は死んでしまう。魂が安定することを願って儀礼のたびに丸餅が必要とされる。百日目のお食初めに歯がため石として丸石が皿に盛られるのも、丸餅と同様に赤子の魂の強化が目的と考えられる。
 現在は生後二週間以内に出生届を出し、戸籍に登録するが、かつては地方によって差があるが七歳になって初めて人別帳(昔の戸籍簿)に記載するところが多かった。それだけ赤子の死亡率が高く、生き残れるものが少なかったといえる。七歳までは人間界にありながら、なお確実な一人前の人間ではなく、不安定な存在であると考えられていた。七歳までに死亡した子は子墓・童墓とよばれる専用の墓に埋葬し、葬式をおこなわなかった。
 「七歳までは神の子」という言葉があるが、七歳まではまだ神の世界にあるが、七歳過ぎるとようやく村の一員として認められるのだ。千葉県のほぼ全域で七つの祝いは盛大に行う。母の里から贈られた晴れ着を着て氏神参りをした後の宴席の盛大さは、まさに婚礼と見まがうほど。この時、初節供に仮親となったトリアゲジジさま、トリアゲババさまより、「七歳まで無事に育ったので後はお父さん、お母さんがしっかり育てなさい」という子返し=写真=(長生郡白子町)(左)

の儀式が行われる地域もある。
 七歳までは子育ての経験者に後見になってもらうのだ。健康に育つようにと坊主頭にしていたのを、七歳になると髪を伸ばし始めたりする。「男女七歳にして席を同じうせず」と言われてきたが、現在の小学校入学の年齢はまさに「七つ子祝い」が示す年齢感覚を継承していると言って良い。
 七五三の祝いが年々派手に行われるようになり、ホテルを借りて客を呼び、子供が着物からドレスにお色直しをするという場面も見られる。本来の七つの祝いの意味を忘れ、デパートや商店の営利政策に踊らされるのはいかがなものか。
(2004年11月5日)

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■§お会式と泣き銀杏§■ 市川民話の会会員・根岸英之


 

日蓮宗の開祖日蓮聖人は、鎌倉時代半ばの一二八二年十月十三日に、武蔵国池上(今の大田区本門寺)で入滅した。日蓮宗の各寺院では、十月または月遅れの十一月に、日蓮聖人の忌日(きじつ)法要として「お会式(えしき)」が行われる。
 文豪・永井荷風(かふう)も、中山法華経寺のお会式を見て、その日記『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』の中に記している。
 〈二十二年十一月十七日 陰。午後中山散歩。法華経寺境内今日も御会式にて雑沓(ざっとう)す。軽業(かるわざ)手踊りを見る。木戸銭(きどせん)大人二十円、子供十円。大入の景気なり。四時過ぎ曇りし日早くも薄暗し。帰らんとする時、火消しの講中、三、四組、各金箔(きんぱく)の纏(まとい)を打ち振り来るに遭う。物売る露店の娘の見て笑うもあり。〉
 (『荷風全集』岩波書店より読みやすく引用)
 お会式を一段と華やかにするのは、「万灯(まんどう)」の練り供養である。万灯は、中央に日蓮聖人の絵や「南無妙法蓮華経」などの描かれた五重塔が組み上げられ、その回りに、白や桜色の和紙でできた花を、しだれ桜のように飾り垂らしたもの=写真(右)=立正佼成会の万灯行列(中山・法華経寺参道)

 日蓮が亡くなったとき、十月だというのに、大地が鳴動し、時ならぬ桜が一斉に咲いたという。また、日蓮の一周忌のお逮夜(たいや=忌日の前日)に、信者たちが手に提灯を持って集まり、寺院に桜を飾ったともいい、これが、万灯供養の起源とされている。
市川では、十月の日曜日に立正佼成会市川教会による万灯行進が、中山法華経寺から鬼高一帯を練り歩く。十一月十一日には、妙典の妙好(みょうこう)寺の万灯行列が、妙典一帯を練り歩く。
 若宮の領主富木常忍(ときじょうにん)が日蓮入滅後に出家し、日常(にちじょう)と改名して開祖となった法華経寺では、十一月十五日から十八日がお会式。十七日の夕刻に、下総中山駅から奥之院まで、ライトアップされた万灯が、団扇(うちわ)太鼓に合わせた題目に伴われて、街なかを練り歩く。
 法華経寺の五重塔の南側には、道路をはさんで「泣き銀杏(いちょう)」と呼ばれる大きな銀杏がある =写真(左)=泣き銀杏(中山・法華経寺)

 日蓮の三回忌法要が営まれたとき、日常の養子でもある日頂(にっちょう)は、鎌倉で他宗の僧を相手に法論していたため、法要に間に会わなかった。日常は日頂を追放し、門内に入ることを許さなかった。日頂は、堂の傍らの銀杏のそばで、涙を流して許しを乞うて泣いたことから、「泣き銀杏」と呼ぶようになったとされる。
 一説には、日常の危篤の際、日頂は真間山弘法寺から日参して、この銀杏の樹の下で義父日常の快復を祈願し、日常に会うことを願い出たが許されず、日常の遷化(せんげ=死)を聞いた日頂は、形見に与えられた小袖を首に巻いて、木の下で臥(ふ)し転び、声を放って悲嘆にくれたともいう。
 やはり、十一月のお会式の頃に、寺院にある日蓮像の頭には、綿布が掛けられる=写真(右)=綿帽子をかぶる日蓮聖人像(北方町・妙正寺)

これは、一二六四年十一月十一日の夕刻、安房国東条の郷の小松原(鴨川市)で、日蓮が襲撃に会い、眉間(みけん)に傷を負った際、真綿でその傷をいたわったという故事に基づいている。
 このとき、槙の大木に鬼子母神(きしもじん)が顕(あらわ)れ、日蓮を守ってくれたともいい、中山で傷の養生をしながら、自ら掘り上げたのが、法華経寺の鬼子母神だと伝える。法華経寺には、このとき手にしていた「太刀受けの数珠」や「血染めの袈裟(けさ)」も遺されている。
 市川市内には、このほかにも、「鏡が池」「星の井」「竜王池の雨乞い」など、日蓮にちなむ伝説地が多くある。十一月二十七日に、中山文化村旧片桐邸で、「中山の民話のつどい〜日蓮伝説の郷をたずねて」という催しが予定されており、市川周辺の日蓮伝説を知ることができる。
 なお、十一月二十六日には、法華経寺妙見(みょうけん)堂の「酉(とり)の市」も開かれる。
(2004年11月19日)

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■§お年玉は新しい年の魂§■
文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

十二月に入ると、デパートではお歳暮合戦が始まり、商店街には早くもクリスマスのイルミネーションが飾られ、いやおうなく慌ただしさに引き込まれる。十二月を師走(しわす)と呼ぶのは、師=先生が走るくらい忙しい月という説が、平安時代末期の辞書に載っている。
 正月とは、本来は年神様や歳徳神と呼ばれる正月の神を迎える神祭りの神事なのである。すす払いや大掃除をし、門松をたて、注連飾りをして神様を迎える準備をし、節日(祭りの日)に食べる御節(御節)料理や餅を正月様に供え、家族もともに食べることで、新しい年の運気と生命力が与えられるのである。
 お年玉とは、正月子供にあげるお金のこと。しかしお金に代わる前は新しい年の魂(たましい)、年玉のことであった。それは日本人の霊魂観による。人間の肉体は、卵の殻というようにカラという容器に魂=タマが入ってカラダとなる。魂は丸く、熱を帯びたエネルギー源でもあり、体の穴、例えば目・口・鼻・耳、あるいは関節などから自由に出入りすると考えられていた。生まれたばかりの赤ちゃんは、タマが非常に不安定で、くしゃみをしただけで魂が鼻から飛び出すと考えられた。そのため、生後七日間は、くしゃみをするたびに糸を結ぶタマユイというまじないをして魂がカラダから出て行くのを防いだ。杉並区井草にお住まいの中村さん宅の仏壇の引き出しには、「鼻結びの麻糸」と呼ぶもの=写真(右)=がしまってある。この糸は明治二十六年、神田で生まれた中村さんのお母さんがくしゃみをするたびに傍にいる人が慌てて結んだもので、七日間で二十六個の結び目がある。びっくりした途端に魂が体から飛び出し消えてしまうことをタマゲル(魂が消える)といい、魂消ると書く。何もする気がない人はヌケガラになったようだというが、カラダからタマが抜けた状態をさす。完全にカラダから魂がなくなると、死んでしまいナキガラとなる。魂が無くなると、熱も無くなり冷たくなる。
 魂のエネルギーは月日を重ねるごとに消耗し、体も弱くなり、病気にかかったり不都合がおこる。そこで新しい強力な魂を新しい年には補充しなければならない。それがお年玉なのである。
 鹿児島県の西海岸を遠く離れた甑島では、大晦日に年神様が年玉を配るトシドン(年殿)という行事がある。鬼のような面をつけ、鼻は高く、頭にシュロの葉をさし、腰に蓑をつけた男性の若者数人が、子供のいる家を訪れ、トシダマである丸餅=写真=を配って歩く。トシドンはトシトリサマともいわれ、トシダマはトシトリモチともいう。トシダマは新しい年の強力なタマ(魂)が込められていると考えられている。秋田県の男鹿半島では、これをニダマ(新玉)と呼び、能登半島の輪島あたりではトシノミ(年の実)と呼ぶ。ともに年玉と同様の意味である。男鹿のなまはげも今は観光化しているが、元来はトシダマを配って歩く訪れ神であった。
 年齢を言うとき、今でも「数え年でいうと」という言い方がある。若い人は何のことかわからないのではなかろうか。それはこのトシダマと関係があるのだ。昭和二十五年ころまでは、正月になるとすべての人が一斉に一つ年齢を重ねた。
 現在は生まれて一年めで一歳になるが、かつては生まれた時点で一歳、正月を迎えると二歳になった。正月にトシダマを貰うことで、誰もが1つ年齢を重ねることができたのであった。こうした年齢の数え方が数え年である。実は正月様にトシダマを与えられて年をとるのは人間に限らない。日ごろ使用する臼や農具のスキ・クワ・カマなど大事な道具それぞれに鏡餅や丸餅を供え、人とともに道具も年を取り、正月様の恵みを受ける。これを道具の年取りという。牛馬の年取りもある。
 正月を前にしてお年玉の額に頭を悩ませている方々、是非お年玉についての話をお子さんやお孫さんにしてみてください。その結果がどうなるかは知りませんが…。
(2004年12月3日)

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■§風呂にまつわるじゅえむ話§■ 市川民話の会会員・根岸英之


 

寒い毎日が続くと、温かい風呂が恋しくなる。一年の内で昼間の長さが一番短い日を冬至(とうじ)といい、今年は十二月二十一日がそれに当たる。冬至には、古来から太陽の再生と生命の復活を願って、いろいろな風習が見られたが、この日に「柚子(ゆず)湯=写真=北国分萩原法子さん宅に入ると風邪を引かない」という風習は、市川でも行われてきた。
 風呂に入ることは、身体を清めるミソギに通じるものであり、柚子は、その香りや成分が、体にいいとされたのだろう。今では、市内の銭湯でも、柚子湯を仕立てる所が多いようである。
 ところで、船橋市印内(いんない)の出身で、市川市北方(ぼっけ)の久兵衛(きゅうべえ)というお大尽(だいじん)の家で奉公していたとされる、「いんねえのじゅえむどん」の笑い話の中にも、風呂にまつわる民話がいくつも伝わっている。
 その中の一つ「たくわん風呂」。
 むかし、じゅえむが朝、お茶を飲もうとすると、熱くて飲むことができなかった。久兵衛のおかみさんが、「お湯が熱いときには、たくわんのお香(こう)こを一切れ入れれば、たくわんの冷たさが伝わって、お湯が早く冷めんぞ」と教えてやった。
 その日の夕方、じゅえむが田んぼ仕事から帰ってくると、久兵衛の旦那(だんな)が、風呂の中から「お湯が熱いからうめてくれ」と言いつけた。じゅえむは、台所に向かったかと思うと、漬物樽=写真=北国分の農家のからたくわんを何本かつかんできて、風呂の中に突っ込んだ。
 「何をするんだ」とどなる旦那に、じゅえむは、「今朝お湯を冷ますには、たくわんを入れればいいって、おかみさんに教わりました。まだ熱けりゃもっと入れましょうか」と、とぼけて答えたと。旦那はしばらく、ぬかくさくてたまらなかったと。
 昔の風呂のことだから、お湯を沸かすのは薪(まき)であったろう。それをうめるにしても、蛇口をひねればすぐ水が出るといったものではなかった。疲れて帰ってきたじゅえむが、いささか反抗心を働かせたくなるのも無理からぬことであったろう。
 たくわんを家庭で漬ける光景も、今では少なくなったが、この話には、「たくわんを入れればお湯が冷める」という、生活の知恵も織り込まれているといえよう。
 続いての話は「代官様より先に入浴」。
 むかし、久兵衛の家に、江戸から代官さまが来ることになった。旦那はじゅえむに、「代官さまの入る風呂を沸かし、ちょうどいい湯加減にしておくんだぞ」と頼んだ。
 やがて、様子を見に来ると、じゅえむはなんと風呂に入っているではないか。「代官さまより先に入るやつがあるか」とどなりつけると、「ちょうどいいかどうかは、入ってみなけりゃわかんねえですよ。ああいい湯加減だった」と平然と答えて、風呂から上がったと。
=写真=むかし使われていた五右衛門風呂  この話からは、風呂を立てて、一番に入ってもらうことが、大事なもてなしであったことがうかがえる。しかし、村人たちにとって、代官を迎えることは、相当の負担だった。この話の裏には、そんな人々のうっぷんを晴らす思いが込められているようにも感じられる。
 似たような話に「鷹匠(たかじょう)をひっぱたく」という話もある。
 むかし、将軍さまの鷹の世話をする鷹匠が、じゅえむの仕える名主の家に泊まることになった。じゅえむは、鷹匠がえばりくさっているのを見て、夕方になって、鷹匠が最初に風呂に入ろうとすると、「鷹匠さまみたいにえらい人より先に入るとは何ごとだ」といって、鷹匠をなぐりつけたと。
 鷹匠は「鷹匠はえらい」といっているので、どうすることもできず、翌年からは、もうこの村に来ることはなくなったと。
 じゅえむ話には、いろいろな話があり、市川周辺では、誰もが聞いたり語ったりすることのできる民話であった。一つでも覚えて、風呂に入りながら、子どもに語ったりすれば、体だけでなく、心も温かくなること請け合いである。
 なお、十二月十九日には、中山文化村旧片桐邸で、市内の小学生たちがじゅえむ話を語る会も予定されている。
(2004年12月17日)

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■§太陽を射るおびしゃ…年始めに季節の安穏を祈る…§■
文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

新しい年を迎え、誰しもが願うのは、日々の穏やかな暮らしではなかろうか。昨年は、夏の猛暑から台風、水害、地震と天災に見舞われた年であった。自然の恐ろしさに、人々はなすすべもなかった。科学万能の現代ですら、暖冬や冷夏の野菜の値上がりは、日々の生活を直撃する。まして古代の人々には、天候の不順は作物の出来、不出来に関わり、生死にも関わる一大事であった。現在は一年といえば、正月から大晦日をいうが、古代の一年は刈り入れから翌年の刈り入れまでで、刈り入れ後が正月であった。トシは年であり、米、稲の稔(ミノリ)もトシと読む。今でも沖縄などは、南島正月といって麦や粟、稲など穀物の収穫のずれによって島々で正月の時期が異なる。人間が生きていく上で最も大事なことは、作物が実ることである。そのためには、 夏の輝く太陽、梅雨時の雨はもちろん、日々の穏やかな気候が何にもまして大切である。
 おびしゃは利根川沿岸に多く分布する年頭に行う神事で、大野には市川市の文化財に指定されているニラメッコオビシャがある。本来おびしゃには弓射神事が伴っていたが、現在は消滅した所も多い。民俗学の父とも呼ばれる柳田國男は、おびしゃの目的は「年占」といい、当たるとその年は良い、当らなければ悪いという吉凶を占うことだとした。その説は大正初めから九十年も定説として全国に定着していた。しかし、私は市川に住み始め、ニラメッコオビシャを皮切りに、各地のおびしゃを見るごとに、その定説への疑問がふくらんできた。
 十四年前、私は三本足のカラスを的に描いて射る=写真=三本足のカラスを射る(千葉県・沼南町高柳)オビシャに出会った。的の絵は鬼や黒丸、同心円が一般的である。一体これは何であろう? おびしゃの謎を解くキーワードになると直感した。三本足のカラスは実は太陽なのである。天皇が即位する折の礼服や幟(のぼり)、寺院内の仏像のうち日光菩薩の持ち物、民俗芸能、祭などの中にも多く出てくる。日本サッカー協会のシンボルマークにもある。
 おびしゃで太陽を射る意図はなんであろう。その背景には中国の射日神話=写真=射日神話の絵が描かれている吉田家文書(福島県・滝根町)と招日神話がある。古代中国では日毎に昇る太陽はそれぞれ異なり、十個あり、どの太陽にも三本足のカラスが住んでいると考えられていた。毎日順番に一個ずつ天空に出ていたが、ある時一度に十個の太陽が立ち並び、地上の動植物は焼け死んでしまった。そこで天帝は弓の名人に命じ、太陽を九つ射落とさせた。これが射日神話で、残った一つの太陽は恐れをなして岩屋に隠れてしまった。そのためこの世が闇となった。そこで鶏の鳴き声で太陽を呼び戻す話が招日神話である。日本では後段の招日神話だけが独立した形で、天岩戸神話として知られているが、本来は一続きの話であった。この射日神話と招日神話を、三本足のカラス=写真=三本足のカラスが浮き彫りにされている幟(隠岐・日月陰陽和合祭)を的にして射るというかたちに儀礼化した神事がおびしゃである。年頭に太陽の順調な運行を願い、豊かな実りを祈る、それがおびしゃの目的であった。十年前福島県・滝根町で発見した古文書には、射日神話を語る文と絵が書かれていた。今まで注目されることがなかった射日神話が、日本に浸透していたことが知れる。三本足のカラスが太陽を象徴するものであることが忘れ去られ、ただのカラスや鬼や同心円に変化し、害鳥や鬼退治が目的だとするおびしゃが増えている。しかし、三本足のカラスの的は、数十例ほど確認していて、探せば探すほど出てくる。 
 災害は忘れたころにやってくるというが、自然の厳しさを毎年、年はじめに確認した昔の人々の英知に学びたい。
(2005年1月1日)

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■§ムラ境に行われる辻切り§■ 市川民話の会会員・根岸英之


 

市川市には、市指定民俗文化財が二つある。一つは、一月十七日に国府台で行なわれる「辻切り」、今一つは、一月二十日に大野町で行なわれる「にらめっこおびしゃ」である。
 どちらも、テレビなどでも報道される市川を代表する年中行事である。にらめっこおびしゃは、前回、紹介されたので、辻切りを取り上げる。
 国府台病院の前から里見公園に向かう丁字路の一角や、じゅん菜池の西の坂の登り口の木などに、わらの大蛇がにらみを効かしているのを、見たことはないだろうか。
 辻切りは、ムラの境の辻に、わらで作った大蛇やお札をかけ、ムラに災厄が入るのを防ごうと行われる行事である。
 文化財に指定される五年前の昭和四十九年度に、市川市教育委員会による調査が行なわれ、『国府台に伝わる「辻切り」=写真=と「獅子舞」について』という報告書が出されている。そこから、以前の様子を引用してみたい。
 〈かつては朝早くから部落の人たちが当番宿の家に集まって、大蛇を作ったが、現在では天満宮境内で行うようになった。不思議と、この日には雨が降ったことがないという。
 各自の持ち寄ったワラで、頭(かしら)を作る人、胴を作る人に分かれ、現在では頭を作れる人が少なくなっている。胴は境内のケヤキの枝にナワをかけ、胴の一端を結びつけて引きあげながら掛声も勇ましく三ツに分けたワラをねじりながら、2メートルほどの長さに作りあげる。
 頭、胴ともに四体を作り、頭はくちの中に二枚の舌をとりつけ、胴に結びつける。
 (略)できあがると神前に並べ「おみき」を吹きかけて魂入れをしたのち、四辻の木の上に頭を外に向けてからませる。こうして蛇は翌年まで風雨にさらされながら、村内安全のために目を光らせるのである。
 (略)残念なことに、この行事がいつの時代からこの地域で行われるようになったのかは不明である。〉
 この調査から三十年経た今でも、行われ方は、ほぼ同じである。
 ただ、最近は、関心を持って見学に来る人や、郷土学習の一環として訪れる子どもたちの姿も増えた。いわば、ムラ内だけの行事から、ムラの外から見られる行事、学習される行事という性格が強まってきたといえよう。文化財に指定され、市川の代表的な行事であると紹介されつづけることで、新たな意味合いが付与されてきたのである。
 実は、こうした行事が行われるのは、国府台だけの特許というわけではない。
 堀之内=写真(右)=堀之内の辻切りでは、一月二十日に集会所でわらの蛇が作られる。辻にはお札を立て、蛇は、歴史博物館に納められ、展示物として一年間の役目を果たす。
 市川根本=写真(左)=根本の辻切りでも、かつては、わらの蛇が作られ、国府(こう)神社境内の木に掛けられていた。
 わらの蛇は作らないが、ムラ境に札を立て、災厄からムラを守ろうとする行事は、市内各所で行われていた。
 須和田では、一月五日に「辻切り」といって、お札をムラの角々で立てた。
 柏井では、一月十六日の「ムラギト(村祈祷)」のときに、庚申(こうしん)塚の建つ辻などを拝んで回ることを「辻切り」といった。
 北国分では、一月二十四日のおびしゃのとき、お札をムラの辻に立てた。
 (以上は、『市川の伝承民話』による)
 ほかに、萩原法子さんの『いちかわ民俗誌』によれば、本塩や新井などでも行われていたし、千葉県立房総のむらの『平成8年度企画展示 災いくるなV』によれば、行徳一、三丁目でも行われていたことが記録されている。
 歳の変わり目でもある冬は、太陽が衰え、風邪(かぜ)などが流行りやすくなる時期である。そうした時期に、お札や蛇の力を借りて、ムラを守ろうとする思いは、切実なものであったろう。
 今は、国府台の蛇を作る辻切りだけが目を引いているが、それぞれのムラで行われていた行事にも、目を向けていきたいものである。
(2005年1月14日)

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■§福をさずける鬼<1>§■ 文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

節分はもと、季節の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の前日をさしたが、現在は立春の前日だけをさし、年により二月三日か四日になる。「福は内、鬼は外」といいながら、豆をまき鬼を追い払う行事が一般的であるが、「福は内」だけしか唱えないところもある。たとえば、市川の中山法華経寺では、鬼子母神を祀っているからといい、成田山新勝寺では、ご本尊のお不動様の大慈悲の前では鬼ですら調伏させられてしまうからという。
=写真(左)=ご馳走にあずかるナマハゲ(秋田県・男鹿半島)  こうした理由ではなく、「福は内、鬼も内」と唱えるところや、節分の日、鬼をわざわざ自宅に招き、接待する「鬼の宿」と呼ばれる家もある。小平市小川町の小山家では、床の間に灯明をつけ、サンダワラの上にのせた小豆ご飯とお神酒を鬼に供える。夜中十二時を過ぎると鬼を送り出すため、その家の主人が床の間に上げたサンダワラを持って、近くの十字路に置いてくる。こうした「鬼の宿」は、小平市に十軒ほど見られるほか、山形市にもあり、「鬼はござんしょう(よくいらっしゃった)」と唱える。節分の日に鬼退治をするという一般的な習俗とは正反対とも言える習俗があるのはなぜであろうか?
 石川県内浦町では、節分の夜に鬼の格好をしたアマメハギが出る。アマメは冬に働かないで火にばかりあたっていると脛(すね)にできる火斑(ひだこ)のこと。つまり、鬼が怠け者のアマメをはぎに家々を訪れ、祝福を与える。有名な秋田のナマハゲも、アマメと同じ「ナマミ」(火斑)をはぐ「ナマミハギ」がつまったもので、やはり祝福を与える訪れ神であった。「節分」という狂言に出てくる鬼は、ほれた女に宝物の隠れ蓑・隠れ笠、打出の小槌(こづち)をだまし取られ、蓬莱(ほうらい)へと逃げ去る気のいい鬼である。
=写真(右)=病気治しのため、鬼に背中を踏んでもらう(愛知県の花祭)  もともと、オニは隠れるという意味のオンから出た言葉で、人の死を隠れるというように、目には見えないものをさし、死者の霊魂をいった。成仏してあの世に行くと、霊魂は祖霊となり、この世の子孫を守る神となる。古代、オニとカミは同義であった。それが仏教、道教、陰陽道(おんみょうどう)、修験道などからさまざまな影響を受け、さらに御伽草子(おとぎそうし)や説話文学、民間伝承などの口承文芸に取り入れられるなかで、鬼の姿や性格はさまざまな展開をとげた。
 現在、鬼といえば悪者と思われているので、節分には、豆をぶつけて鬼を追い払うというのが定着しているが、先にも見たとおり同じ節分の行事の中にも、日本の古い鬼の姿、つまり祝福に各家々を訪れる祖霊=神であるオニが見られるのである。鬼にぶつける豆はもともとは鬼に供える供物であった。
 節分を市川市の北部では今でも年越しという。かつて立春が正月だった頃の名残で、全国的にみられる。三重県の神島をはじめ、各地に大晦日の晩に豆まきの習俗があるのもうなずける。豆を自分の年より一つ多く食べるというのも、正月に年を一つ重ねるのに通じる。また大晦日に、鬼の姿で新しい年の魂を象徴する丸餅を配って歩く鹿児島県のトシドンという行事や、節祭にくば笠をかぶり、くばの蓑を身にまとった神が、各戸を訪れ祝詞を唱えてまわる、沖縄・石垣島のマユンガナシ=写真(左)=各家を祝福してまわるマユンガナシも、節分に登場する古代の神としての鬼と同じである。目に見えない神の姿を見えるようにする呪具が蓑笠なのである。
 中部・三信遠地方や南九州の神楽に多く出てくる鬼は鬼神と呼ばれ、五穀豊穣を図ったり、病気治しや悪魔退散など人々に幸いをもたらす頼りがいのある鬼なのである。「鬼ごっこ」という子供の遊びは「鬼事」のなまった言葉で、コトは神事のコトである。鬼に追いかけられることで災厄払いをする習俗からの変化であろう。 
(2005年2月4日)

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■§平将門ゆかりの地を求めて§■市川民話の会会員・根岸英之


 

 平将門(たいらのまさかど)といえば、平安時代の中頃、時の朝廷に抗い、関東を支配下に治めていった武将として知られる。しかし、自らを「新皇」と名乗り、朝敵と見なされたため、討ち滅ぼされてしまったのだが、討ち死にした日が、天慶三(九四〇)年二月十四日のことと伝えられている。
 市川には、この将門ゆかりの場所が多くある。
 一月二十日に市指定民俗文化財「にらめっこおびしゃ」が行われる大野町四丁目の「駒形大神社」=写真(左)=も、将門ゆかりの地の一つである。
 その昔、駒形大神社の南の台地上にある日蓮宗法蓮寺の住職の夢枕に、騎馬武者が三人現れ、「我らを祀れば、この土地の守護神になるぞ」と言ってかき消えた。翌朝、境内には、蹄の跡が残されており、跡を辿ってみると、林の中に消えていた。檀家(だんか)衆を集めて相談したところ、「それはきっと将門さまに違いない」ということになり、足跡の消えた辺りに作られたのが駒形大神社の始まりだという(『市川の伝承民話』より)。
 駒形大神社のご神体は、白馬に乗った若武者像である。駒形大神社にはまた、恨みをもって亡くなった魂を鎮める「御霊神社」も合祀されており、そこにも、将門の姿をだぶらせてみることができる。
 大野町に将門伝承が遺されているのは、法蓮寺の台地から谷を隔てた南側の高台に、将門の出城があったとされるためである。現在の市川五中の辺りを「城山」と呼ぶのがそれである。校舎の裏に将門=写真(右)=にまつわるとされる祠も祀られている。
 校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。毎月二十四日がおこもりで、二月二十四日も、昼頃から地元「御門」(三丁目の古い呼称)の女性たちが集まるという。
 大野町一帯には、今でも、「将門は俵藤太秀郷という武将に、南天の木で作った弓矢で射殺されたから、南天の木を植えてはいけない」とか、「将門は桔梗姫という女性の密告によって滅ぼされたから、桔梗は植えてはいけない」とか、「成田山新勝寺は将門調伏祈願のために建てられた寺なので、お参りにはいかない」などの戒めが、まことしやかに伝えられているのである。
 これに対して、菅野には、将門と敵対した朝廷側の伝承が伝えられている。
 菅野には、都から遣われた菅野道信という侍が館を構え、将門と戦っていたという伝承がある。菅野の妻は、夫を助けようと、一人で将門の元へ近寄り、御代の前という側室となった。御代の前によって、将門の内情が伝えられたため、将門を討ち取ることができた。しかし、心の晴れない菅野夫妻は、仏門に帰依して、将門の菩提を弔った。二人の心根を憐れんで、二人が庵を構えた辺りに祀られたのが、菅野の京成リブレの隣りにある「御代の院」=写真(左)=の始まりだという。
 三月二十七日には、菅野の不動院の住職同席のもと、「御代の院まつり」が行われる。
 この菅野の「不動院」には、新勝寺と一木で作られた不動尊が安置されたという伝承も残されている。
 このほか、市役所の前の「八幡の藪知らず」は、平貞盛が、将門討伐のため陣を敷いたところだとか、将門の七人の影武者の霊が消えていったところだとかされ、入ってはならない場所とされている。
 また、大和田の兜大神社は、将門が逃れる途中に兜を落とした場所だという伝承もある。
 現在、市川公民館では、将門の命日に因んで、「平将門伝説〜将門誕滅伝説と将門ゆかりの祭り〜」が、二十七日まで開催されている。
また、三月十九日に須和田の六所神社で「須和田・国分街回遊展」の一環として開催される「市川の民話のつどい」では、すがの会による「平将門と御代の院」の紙芝居の上演が、予定されている。
(2005年2月18日)

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■§桃の節供の起源§■文化庁文化審議会専門委員・萩原 法子


 

三月三日は桃の節供。女の子の健やかな成長を祈る可愛(かわい)らしいお祭り。いつまでも飾っておくと、縁遠くなるといわれ、早々と仕舞ったお家もあろう。
 段飾り雛(ひな)人形は、江戸時代の半ば以降、それも江戸などの大都市から流行りはじめ、庶民の間に普及したのは明治以後のデパートの宣伝に乗せられてのこと。
 観賞用の雛人形は新しいもので、鳥取の流し雛=写真(左)=に見られるように、雛人形はもとは毎年流すものであった。流し雛は竹の骨に赤い和紙を貼(は)り、土を丸めた頭をつけた男女一対の雛をサンダワラの上に乗せ、桃や椿、菜の花を飾り、菱餅(ひしもち)やあられを添えて川へ流す。
 人形はもとは草やワラ、紙で人の形を模して作ったヒトカタであり、クサヒトカタとかナデモノと呼ばれた。ヒトカタでわが身を撫で、身のけがれをヒトカタに移し、これを海や川に流して災厄を払う祓いの具であった。こうしたヒトカタは、やがて幼児の形に似せ、中に綿を入れ、白絹で縫いぐるみにした天勝(あまがつ)とか這子(ほうこ)という幼児のお守り=写真(右)=あまがつ・ほうこにもなった。幼児の枕もとに置いて、幼児が寝ている間に体内から魂が抜け出さないように守る役目を担った素朴な人形である。一方では、貝殻をつぶして作る胡粉(ごふん)で顔を塗り男女の区別もでき、衣装も美しい比々奈(ひひな)と呼ばれる玩具に変化し、貴族の子女は比々奈遊びを楽しんだ。比々奈は雛と同じで小さいもののこと、人間の雛形をいう。雛人形はこの比々奈が時代と共に精巧になったものである。
 なぜ三月三日にヒトカタを流したのであろう。
 旧暦の三月上旬というのは農作業を始める大切な時期にあたる。穀物の出来、不出来は生死に関わる重大事であるため、農事始めはことさら身のけがれを祓う必要があった。海や川に行き祓いのヒトカタを流したり、水によるみそぎをしたのである。三月三日に浜や磯で潮干狩りをしたり、磯物とりをして終日楽しく飲み食いして遊ぶ風が今でも全国にみられる。これを浜おりとか磯遊びと呼ぶ。
 平安時代、貴族たちが水辺に集まり流れに杯を浮かべ、和歌を詠んだ「曲水の宴」は、中国で行われていた三月初巳の不浄を祓(はら)う風習が移入されたものである。『源氏物語』の「須磨」の巻に、光源氏が須磨の海岸で陰陽師を召して祓えをさせ、等身大の形代(ヒトカタ)を海に流し「巳の日の祓い」をしたとある。三月初巳の日を後に三月三日に定めた。
 十数年前、日航のジャンボ機が激突し炎上した御巣鷹山のふもと、群馬県上野村の神流川沿いの集落では、月遅れの四月三日にお雛粥という雛節供がある。早朝から男の子=写真(左)=男の子も楽しむカナンバレ・長野県北相木村も女の子も古雛や天神様を家から持ち出し、河原に作った丸い石垣の上に飾り、かまどで煮炊きした粥などを供え、自分たちも食べながら一日河原で遊ぶ。上野村に接する長野県側の南佐久郡北相木村では、同日、河原にかまどを築き、各自が持ち寄った小豆と餅でお汁粉を作り、お雛さまに供え、みんなも一緒に食べたあと、お雛さまをサンダワラに乗せて川に流す。この行事をカナンバレといい、家々の災難を人形に託して流すから家難祓いであるとか、川遊びをする子供達の川難祓いだともいう。
 『日本歳時記』という江戸期の本に、雛祭りの食べ物として桃花酒、よもぎ餅とあり、桃花酒は病を除き、厄除けとある。今は白酒に変化しているが、桃は神話の中でも祓いの具として知られているもので、桃の花を雛壇に飾るのも、薬草でもあるよもぎで作った草餅を供えるのも、雛祭りが祓いの行事に起源したことの名残といえよう。
(2005年3月4日)

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■§国分寺周辺のお彼岸回遊§■市川民話の会会員・根岸英之


 

三月二十一日の春分の日を中日とする七日間は、春の彼岸である。お墓参りなどで寺を訪れる人も多いだろう。
 『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)によれば、寺院での彼岸法要は日本独自のもので、八〇六年に「諸国分寺の僧をして春秋二仲月別七日、金剛般若経を読ましむ」(『日本後記』)とあるのが古い記録だという。
 市川にも、この国分寺があり、国分の地名の元になっている。私の親類の墓も、国分寺の並びの宝珠(ほうじゅ)院にあるため、以前は、墓参りの折りに国分寺周辺に足を運んだものである。
 三月十九日〜二十日は、この国分寺を始めとした様々な会場で「須和田・国分街回遊(まちかいゆう)展」が開催される。今回はこの周辺に目を向けてみよう。
 国分寺=写真(右)=左・三人地蔵、中・国分五郎胤通供養塔、右・毘沙門天像は、奈良時代(七四一年)の聖武(しょうむ)天皇の勅願(ちょくがん)により建立された寺で、行基(ぎょうき)菩薩が建立に力を尽くしたという伝説がある。境内には、かつての伽藍(がらん)を想像させるように、礎石が遺されている。
 現在、大河ドラマで源義経(よしつね)が取り上げられているが、義経の兄頼朝(よりとも)は、房総へ逃れ、千葉を本拠地とした千葉常胤(つねたね)を頼みとし、市川にも滞在し、再起を図った。
 常胤の五男は、国分五郎胤通(たねみち)と称し、国分周辺に館を構え、一帯を治めた。国分寺境内には、この胤通の供養塔と伝える「宝きょう印塔」(ほうきょういんとう)が遺されている。大河ドラマと市川をつなぐ歴史の一こまが、国分にもあったわけである。
 国分寺には、このほか、大正時代に江戸川の水難事故で亡くなった湯島小学校の児童を祀(まつ)る「三人地蔵」、川柳中興の祖とされる阪井久良伎(さかいくらき)の句碑、岸田日出刀(ひでと)設計の本堂、新しい見どころとしては、水の落ちる音を楽しむ「水琴窟(すいきんくつ)」などがある。
 境内裏には、国分寺と宝珠院の墓地が広がり、古い集落だけに、歴史を感じさせる墓石を目にすることができる。
 回遊展の行事として、国分寺では、考古博物館学芸員による説明会、琴・尺八合奏、市川の民話などの朗読会ほかが開催される。
 国分の見どころで、知っておきたいものの一つに「鏡(かがみ)石」がある。
 国分寺から郭沫若(かくまつじゃく)記念館や須和田公園へ続く道は、古代からの道と考えられており、「仙元宮」(せんげんぐう)の祀られている「水汲(く)み坂」(「石塔坂」とも)と呼ばれる坂を下りて、じゅん菜池から続く川(現在は暗渠(あんきょ)になっている)を渡るところに、かつては「石橋」がかかっていた。今、石橋下公園の名前にその名残が残されている。
 その石橋のそばに、「鏡石」と「夫婦(みょうと)石」と呼ばれる石があった。「鏡石」=写真(左)=京成市川真間駅に複元されたは地中深く入り込んでいたので「要(かなめ)石」ともいい、「夫婦石」は掘り返すと血の雨が降ると言い伝えられていた。これらの石は、国分寺を作ったときの石とも、石棺とも、古代信仰の名残とも言われるが、昭和初期に掘り出され、今では京成市川真間駅に複製が遺されている。
 また、この近くに「ひとせ畑」と呼ばれる畑もあった。市川の民話の主人公「じゅえむどん」が、国分のある家に奉公したおり、雑煮に入れる小松菜を取りに行くことになった。じゅえむは、背負い籠いっぱいの小松菜を「一背」(ひとせ)に背負ってきたとも、「一畝(せ)」(面積の単位で約三十坪)分もの小松菜を採ってきたともいい、それからこの畑を「ひとせっぱたけ」と呼ぶようになったという。
 これらは、国分から須和田にかけての魅力を再発見する、重要な回遊スポットといえよう。
 こうした、須和田から国分周辺の見どころを民話を通して紹介する催しが、回遊展の一環として、須和田の六所(ろくしょ)神社で開催される。十九日午後三時からの「市川の民話のつどい」、二十日午後一時三十分からの「須和田・国分のちょっと昔を語る会」である。
 六所神社も、国府にゆかりのある由緒ある神社。春彼岸の時期、ぜひ足を運んで歴史の風を感じてほしい。
(2005年3月18日)

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■§桜の霊場・妙正寺§■市川民話の会会員・根岸英之


 

市川は、里見公園、真間川、法華経寺など、桜を愛でるスポットが思いのほか多い。
 サクラのサは、「サオトメ(早乙女)」「サナエ(早苗)」「サツキ(皐月)」などに通じ、「稲霊」を示す。クラは、「イワクラ(磐座)」「タカミクラ(高御座)」などのように、そうした霊的なものが寄り付く所を示すとされる。桜は、農事に先立って花をつける植物であり、桜の花見は、豊かな農事を願う心意が込められていた。
 江戸時代になると、ソメイヨシノが普及し、桜を愛でる花見は、庶民の娯楽として広まった。
 明治以降、富国強兵の時代になると、お国のために桜のように散ることが潔いとされ、軍施設に桜が植えられるようになった。国府台に残る桜は、そうした軍都市川の歴史の証人でもある。
 ところで、市川で古くから「桜の霊場」として知られる寺=写真(左)=が、北方町四丁目の「妙正(みょうしょう)寺」である。
 ときは、日蓮聖人が活躍した鎌倉時代のこと。日蓮聖人が、若宮の法華堂で百日の説法をすることになった。衆人に交じって、どこから来るのか分からないが、一人の女性が熱心に通い続けた。満願の日、女性は日蓮の前に進み出ると、名号と法華経八軸を所望する。日蓮が、「妙正」の名号を記した曼荼羅と、法華経の軸を与えると、女性は喜んでその場を立ち去った。
 人々が不審に思って、女性の跡をつけていくと、女性は千束池に忽然と消え、池のそばの桜の枝に、曼荼羅がかかっていた。
 のちに、池のそばに社を構え、この女性を「妙正大明神」として祀ったのが、妙正寺の縁起とされる。
 江戸時代になり、疱瘡(ほうそう=天然痘)が大流行した明暦(一六五五)のころ、ある寺僧の霊夢に、「妙正尊神に祈願し、霊桜を削って霊符にすれば、疱瘡が治まるだろう」というお告げがあった。そこで、妙正寺の桜を削った霊符を病人に与えたところ、たちまちに病が癒えたので、それから後、疱瘡除けの「桜の霊場」として、広く信心されるようになったと伝える。
 今でこそ、疱瘡は死の病ではなくなったが、かつては、恐ろしい病気で、宮久保白幡神社、大野町三丁目天満宮など、市内のあちこちに、妙正大明神を祀った祠(ほこら)が遺されている。
 桜は一般に、薬草としての効能も認められ、皮を煎(せん)じて飲むと、腫(は)れ物や風邪、解毒作用などがあるという。妙正寺の信仰は、そうした桜の持つ力によっても培われてきたのだろう。
 妙正大明神は、元は寺の裏に遺る千束池の主(水神)的な存在であり、そうした民間信仰を日蓮宗が吸収し、今のような形になってきたものと思われる。
 女神であるゆえに、子どもを守る役目が与えられ、「乳母神(うばがみ)」とも称された。近くにある「姥山(うばやま)」貝塚の地名も、この妙正大明神によるものだろう。=写真(右)=妙正寺・犬猫供養堂また、妙正が若宮から千束池に向かった道を、今でも「曼荼羅小路」とか「へび小路」などといい、途中で法華経七軸を落として行ったために、かつては、その途路に「七経塚」という塚が築かれていた。今は、宅地開発のため、石塔だけが妙正寺に移されている。
 ところで、最近の妙正寺は、動物供養の寺として、信仰を集めている。本堂と池の間に「犬猫供養堂」が設けられ、飼い主によって手厚く葬られた動物たちが眠っている。その中に、脚本家水木洋子さんの愛犬三体の遺骨も納められている。
 水木さんが亡くなった日は、二〇〇三年四月八日、まさに桜の咲き乱れる時節であった。水木さん自身は、父母や妹とともに、台東区のお寺の墓地に祭られているが、妙正寺に行けば、水木さんの愛した犬たちに思いをはせることはできる。
 現在、中央図書館では、「水木洋子と成瀬巳喜男」と題した追悼展が開催され、葉桜になる四月二十三日には、映画「おかあさん」の上映会も予定されている。
(2005年4月1日)

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