市川よみうり連載企画
     


■§宗左近の戦争体験と縄文観§■
市川民話の会会員・根岸英之


  詩人で美術評論や翻訳なども手がけた、宗左近(そうさこん)さん(一九一九―二〇〇六)の作品は、「縄文」や「宇宙」といった壮大な広がりのある世界観に包まれていて、なかなか容易には理解しにくいと感じられるかたもいるだろう。
 そんな宗さんが、昭和二十(一九四五)年五月二十五日夜の東京空襲で、母を炎の中に亡くされたことは、本連載の50回に紹介した。宗さんはまた、学生時代の親友たちが戦死したことも、つらい出来事として記憶されていた。
 宗さんの「縄文」に対する独自の視点は、実はこうした戦争体験と重ねて見ることで、理解しやすくなるように思われる。
 宗さんのエッセイに、「見えない愛の……」と題する作品がある。
 〈市(いち)とは神との交易の場所のこと。市川市は歴史のむこうの縄文の都であったのではなかろうか。遺蹟が十指にあまる。堀の内貝塚には市川市立博物館がたっている。そして、中期から晩期の妖異の深鉢が、ずらずらずらりと百数十個も並んでいるではないか……。
宗さんの詩集の表紙にも土偶が配されている(『縄文連祷』1992年、思潮社)
 (略)しかし、恐ろしいものが、次に待っていた。縄文の土偶である。腹部が思い切りせり【せりに傍点】だしている。妊婦。おそらく豊饒(ほうじょう)の女神。そこまでは見知ったものに異ならない。だが、目をこらすと、違っている。強く正中線が刻まれている。なんと、腹部は同時にまた臀(でん)部なのである。しかも、わたしが目をあげると、顔はぼっきりもぎとられて、そこに無い……。
 それならこれは、三十六年前の空襲の火のなかで変容したわたしたちの母や姉妹と、いったいどこが違うのか……。
 縄文人は弥生人に虐殺されて地上から消えた、とわたしは憶測している。ときおり、その遺蹟と遺骨が掘り起こされて、学問の対象となる。しかし、その畏怖と祈念の形である土器と土偶は文明光線にさらされて、何の対象となっているのか。そして、当節の日本人と十五年戦争中の日本人との断絶の深さは、縄文人との断絶の深さとどれほどの相違がありうるのか……。〉
 (『縄文まで』所収より)
 市川市立博物館で見た土偶を通して、縄文人は、弥生人に虐殺されたのではないかと憶測をめぐらしている。史実であるかは、ここでは問わない。詩人としての感性として捉えておこう。
 そして、その沈黙の存在としての「縄文」が、実は戦争で死んでいった母や戦友たちと、同じ境遇なのではないかと、宗さんは見るのである。
 それゆえ、宗さんは、死んで言葉を失った母や戦友たちを想起することで、彼らの思いを感じとり、「詩」という「ことば」を紡ぎ出す。それと等価の身振りを、宗さんは、「縄文」にも向けていく。いわば、宗さんの作品は、死者との対話の産物といってもよい。
 近現代文学が、近代的自我を持った「個」としての「私」が中心となっているのに対し、それは自ずと、「個人」を超えた存在を問うものとなる。だからその作品は、「宇宙」だの「神」だのといった、人間存在を問う、哲学的な色彩をはらむものとなっていくのである。
 しかし、その原点には、宗さん自身の戦争体験が深く関わっていると分かれば、もっと近しいものとして、私たちの胸に響いてくるのではないだろうか。
 八月二十九日には、そんな宗さんの一周忌を祈念して、シンポジウム「宗左近から受け継ぐもの いちかわ文学の歴程」が、市川市生涯学習センターで開催される。生前から宗さんと交友のあった秋山忠彌、神作光一、近藤明子、葉山修平、能村研三の各氏が、宗さんの業績を振り返る機会となる。
 八月は、平和と戦争を考える絶好の季節。宗さんの業績を知ることで、その作品への関心が、深まることを期待している。
(2007年8月10日)

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■§八幡梨の祖・川上善六と李白の漢詩§■
市川民話の会会員・根岸英之


  市川の代表的な特産物として、誰もが思い浮かべる「市川の梨」が、今年、「地域団体登録商標」の認証を取得した。
 今でこそ、梨畑の光景は、大野町、柏井町、大町など市の北部を中心に広がっているが、そもそもの起こりは、市の中心地、八幡の葛飾八幡宮で、川上善六(ぜんろく)という人が始めた「八幡梨」が、その始まりである。
 善六さんは、江戸時代の一七四二(寛保二)年、八幡の大芝原で生まれた。大芝原の地名は今でも自治会の名前に残っているが、本八幡駅北口国道沿いの再開発ビルの辺りに住んでいたと伝える。
 当時の八幡は農村だったものの、市川砂州(さす)という砂地と、湿地に囲まれた土地だったので、村人の生活は楽なものではなかった。その上、善六(ぜんろく)さんの家は、借財もあり、八幡に適した産物はないかと、いつも考えていたという。
市民会館前の川上善六翁顕彰碑
 一説には、明和七(一七七〇)年、善六さんは、葛飾八幡宮のボロ市の露店で、中国の漢詩を集めた詩集を目にした。そこには、中国の詩人李白(りはく)の「梨花白雪香(梨の花が白雪のように咲いて香しい)」という詩が記されていた。それを見た善六さんは、梨栽培の研究に没頭するようになったといわれている。
 そして、美濃尾張地方で梨の栽培が盛んなことを知った善六さんは、寛政年間(一七九〇年前後)に同地方を訪れて、梨の作り方を教わり、梨の接ぎ穂を譲り受けてきた。接ぎ穂を枯らさずに持ち帰るために、途中の村々で大根を求めて差し換え、水を絶やさないように苦心したという。
 こうして、八幡に帰った善六さんは、葛飾八幡宮別当(べっとう)寺である法漸寺(ほうぜんじ)境内を借りて、梨園を開いた。数年後には立派な実を付け、江戸で高値で売れるようになった。
 善六さんは、梨栽培の方法を八幡の村人たちにも教えたので、やがて「八幡梨」として、盛んに作られるようになった。そしてのちには、「八幡、菅野にゃ歯みがき要らぬ。梨の芯棒(しんぼう)で歯を磨く」とまで歌われるようになったのである。
 晩年の善六さんは、村人に読み書きを教えるなどして、苗字帯刀を許されるまでになったが、文政一二(一八二九)年、八十七歳で亡くなった。現在、葛飾八幡宮境内の市民会館の前には、大正四(一九一五)年に建てられた顕彰碑が、遺されている。
 江戸時代に作られた『江戸名所図会』という観光ガイドには、八幡の梨園が描かれ、やはり李白の詩が引き合いに出されている。市川の梨と李白の漢詩に思わぬつながりがあることが知れ、こんな話を切り口に中国の人たちと国際交流を図るのも、面白いのではないだろうか。
 今年も葛飾八幡宮のボロ市に合わせて、「回遊展in八幡」が、九月十五日(土)から十七日(月・祝)まで開催される。
 十六日には、八幡宮参道、市民会館、脚本家水木洋子邸を巡りながら、市川民話の会による「やわた回遊民話めぐり」が予定され、善六さんのお話もする。十七日には市民会館で、すがの会による「市川民話の紙芝居」が予定され、善六さんの紙芝居も行われる。
 十七日には、同じく市民会館前で、新品種梨「あきづき」のPR無料配布も予定されている。
 市川梨に舌つづみを打ちながら、八幡の街をめぐり、またまた街の魅力を再発見してみてはいかがだろうか。
(2007年9月7日)

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■§幸田文と塩谷賛の家さがし§■市川民話の会会員・根岸英之


  明治の文豪・幸田露伴(こうだろはん)(一八六七‐一九四七)は、太平洋戦争当時、文京区小石川の「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名付けた家に、娘の文(あや)、孫の玉(たま)と暮らしていた。
 一九四五(昭和二〇)年三月、長野県坂城(さかき)に別居していた妻が死去、空襲が激しくなってきた露伴一家は、妻の暮らしていた坂城の家に疎開する。
 五月に小石川の家は戦災で焼失、八月で敗戦を迎えたものの、東京へ戻ることができず、九月下旬から静岡県伊東の旅館「松林館(しょうりんかん)」での仮住まいを余儀なくされた。
 露伴一家が小石川に住んでいた一九四二(昭和十七)年から、露伴の元には塩谷賛(しおたにさん)[本名・土橋利彦(どばしとしひこ)]という、出版社の編集者が出入りしていた。
 塩谷は下総中山駅に近い船橋市小栗原町に住んでいた。父を松林館に送り届けた文と玉は、九月下旬から塩谷の家に身を寄せ、家族で暮らせる家さがしを始めたのである。
 塩谷がのちに著した評伝『幸田露伴 下』(一九六八年 中央公論社)には、次のように記されている。
幸田文「渚の家」(菅野の記から)掲載の『中央公論』1950年新年号
 〈露伴はばあやに世話をさせて暮していた。文子・玉子の親子は中山の法華経寺に近い土橋の家に同居し、文子は家を捜し玉子は学校へ通った。(中略)
 文子は土橋の案内で比較的大きな家を見て歩いた。「よさそうなうちね」と言ったり「こういう家ならいいわ」と言ったりしたがどの家にももう人が住んでいた。終戦まえ知人が借りていたり噂であいているようなところを捜して歩いたのだが、大部分を焼かれた東京に隣(とな)るここらには借家は完全に失われていた。土橋は会津若松へ行った。八幡のはずれに家を三軒持っている知人がそこにいたからである。「まんなかの家がじきあくからよかったら使ってください。しかし露伴先生の住めるようなうちじゃないよ」と知人は笑っていた。そう言われて来た通りその小さな家ははいった人の気に入らなかった。ともかくそこへ文子・玉子は入った。〉
 (同書「蝸牛庵焼かれる」より)
 昭和二十年十月十九日、編集者の小林勇に宛てた文の書簡には、次のように記されている。
 〈家は漸々(ようよう)明日引き越しという事になりました 市川とこゝとの中間で「すが野」という処、八丈、四半、二畳という極々の借家、天井も畳も壁も、何も彼もかしやである標本みたようなうち、然しいま一戸一ト所帯でいられるのは有り難いのオンの字、ホームメードの食事の方がよいとならば父もこの八丈へ帰って来て貰(もら)うつもりでいます 勿論(もちろん)家さがしは続けて行き少しでもよい処があればすぐ移るつもりでいます〉
(『幸田文全集 別巻』より読みやすく引用)
 こうして、文と玉は、菅野の白幡天神社の北西に位置する菅野四丁目四番地の借家に、露伴よりひと足先に移り住んだのである。
 文の代表的な随筆「菅野の記」(『父―その死』一九四九年 中央公論社)では、こんな風に記されている。
 〈そのうえ住いは手狭だった。恐るべき住宅難のさなかだったから、二畳・四畳半・八畳三間の家は、父・子・孫の三人にはゆとりのある広さのものと云われる相場であり、人々の好意によって借り得た家だったけれど、明るいかわりに庇(ひさし)は深くなく、瓦は葺いてあっても檐(のき)は高いと云えなかった。東は青々と陸稲(おかぼ)の畑にひらけて、猛烈な朝日を遮るものはなく、南北の両隣は迫って風を塞(ふさ)ぎ、西を受けた台処は蒸れてものの臭いを沸きたゝせた。それでも一軒一家の住宅は当時奇蹟のようなありがたさで、父は何にも不平を云わず、私も間借り炊事の煩わしさから遁(のが)れたことを感謝していたし、孫も住み馴れた家の焼けたことに執着を残していなかった。〉
 この家に露伴が移り住むのは、昭和二十一年一月のこと。市川市文学プラザで開催中の企画展「幸田露伴生誕一四〇年没後六〇年記念 市川の幸田露伴一家と水木洋子脚色の〈おとうと〉」で、詳しいことが紹介されている。
(2007年10月12日)

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■§幸田文と水木洋子の柿の葉寿司§■
市川民話の会会員・根岸英之


  文豪・幸田露伴(こうだろはん)の娘・文(あや)さん(一九〇四―一九九〇)が、菅野四丁目の借家に、露伴よりひと足先に移り住んだのは、昭和二十(一九四五)年十月のこと。
 六歳年下の水木洋子さん(一九一〇―二〇〇三)が、八幡五丁目の佐藤家に身を寄せたのは、昭和二十二年六月のこと。
 文さんは、露伴が亡くなると、昭和二十二年十月に、父と暮らすはずだった文京区小石川の家に移っていくので、文さんと水木さんが、同じ市川に暮らしていたのは、五か月ほどということになる。その間、二人に交友があったかは定かではない。
 しかし、昭和三十一年に文さんが発表した自伝的長編小説「おとうと」が評判になると、それを元に水木さんが脚本化し、二人の交友は図られる。水木さん脚色の「おとうと」は、昭和三十五年の映画が有名だが、昭和三十三年にはテレビドラマと舞台演劇、昭和三十七年にはラジオドラマ、昭和五十一年にはリメイク映画と、五度にわたって脚色を試みている。
映画「おとうと」撮影現場での幸田文(中央右)と水木洋子さん(中央左)=市川市文学プラザ所属
 昭和三十年代は、市川ゆかりの二人の女性たちにとって、もっとも輝く時代であった。
 そんな二人の交友を語る水木さんの随筆に、「柿の葉と幸田文先生」(『日刊スポーツ』昭和五十五=一九八〇年一月十七日号)がある。
 〈秋深く柿の葉が激しく落ち始める頃、私はそわそわと枝を見上げて、まだ葉っぱが残っているなと、たしかめるのである。去年は台風がきて一夜に半分ぐらいを吹きとばしてしまった。あの葉のある間に私は腹を決めようと自分に言いきかせる。
 前年の初冬、突然幸田文先生が訪ねて来られて、高価なフランス製のカットグラスの花瓶と赤坂の笹巻寿司を戴いた。私には理由がわからなかったが、映画やテレビや、再映画化の「おとうと」の原作者として、私は昔から何度かお会いした。(略)
 「こんなにもスキのない女性は、男にとっちゃ、やりきれないだろうなァ」と或る上役達がつぶやいたのを聞いて、私は「そういう目で見られる女性はたまらないだろうなァ」とひそかに思った。それほど幸田さんはスキのない人に見え、人を安易に近ず(ママ)けないように思われるが、私の家へ時々訪ねて来られた原作者なんて一人もいないのである。それほど私は親近感と畏敬をもって、掃除一つもゆるがせにしない指の節くれ立ちを、達人の手を見るように、自分の節くれだった指と共に、先達(せんだつ)としての親しみを覚えるのだった。
 二年前、心臓のため講演の旅も今年限りと聞いて、私は柿の葉が血圧にも良いし柿の葉寿司を来年はつくって届けますと言った。近所の人がどうやって作るのかと聞くほど、この柿の葉に包んだ鯖の押し寿司は好評。
 秋が来て葉の繁るうちから私は三回ほど試食をした。人にも配ったが誰もが珍らしがった。柿の葉から何かエキスが出るに違いない。(略)私はコシヒカリの新米を待ち、それッと決し、デラックスな三倍もの大鯖(さば)を見つけて来て、いつもより一昼夜を十分に時間をおいて、厚焼玉子と二色の押し寿司を幸田邸に届けた。
 が、その夜老母と二人、家で食べて顔を見合せた。鯖の身が厚すぎ、酢でしまりすぎ、葉は枯草のように生気を失い、まるで田舎の祭り明けの、残飯だ。勿論、幸田邸から音沙汰はなかった。〉
 そんな二人の交友を知る機会として、十一月二十九日には、市川市文学プラザでギャラリートーク「水木洋子と幸田文」、十二月五日には、文学プラザ2階のベルホールで、二人の映像ビデオを見比べる〈崩れ〉〈なぎ〉の上映会、八日には、同じく2階のグリーンスタジオで映画〈おとうと〉の上映会などが行われる。
 水木邸も十一月二十四日、二十五日に一般公開され、二十四日には、サポータートーク「水木洋子の羽織」が予定されている。温暖化の今年、水木邸の柿の葉は、いつごろ色づき出すことだろうか。
(2007年11月9日)

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■§幸田露伴が興味を示した市川の風物§■
市川民話の会会員・根岸英之


  幸田露伴(こうだろはん)というと、明治時代の難しい文学者というイメージが強いかも知れないが、露伴は、いろいろな物事に興味関心を抱いた人で、それは、昭和二十一(一九四六)年一月に、市川市菅野に越して来た七十八歳の老齢になっても変わらなかった。
 そんな露伴の様子を、娘・幸田文(あや)さんが、老いてなお元気に暮らす露伴の姿を知らせようとつづった、「雑記」という随筆に描いている。
 〈雑談のうちに各々の専門の知識と語調を吸収してしまう。自分がそうだから私にもそうあることを望んで、道に知識を拾わないのは馬鹿だと云(い)い、石頭と来る。
 だから、ここ(菅野のこと―引用者注)へ落著(おちつ)いた時にはせわしない思いをした。近処(きんじょ)に何がある、何ができる土地だ、どんな道がついてる、どんな木が多いか。……八幡の藪(やぶ)知らずや中山の法華経寺はおもしろがらないが、中山名産の蒟蒻(こんにゃく)は気に入り、図よりほかに見たことが無いからその植物を捜して持って来いと云いつけた。拡大鏡で見て嬉(うれ)しがっている。植えといたが消えちまったら、「研究心の無いやつにかかっては何でもたまらない」とこぼされた。競馬にも意をとめて、馬のことをいろいろ聞かれたが、日曜毎にあふれる競馬場行きの人波をお惣菜(そうざい)買いの途中に見やるばかり。〉
『芸林間歩』昭和22(1947)年7・8月号 幸田文『雑記』掲載(市川市文学プラザで展示中)
 (『幸田文全集第一巻』より読みやすく引用)
 これは、『芸林阨焉iかんほ)』昭和二十二(一九四七)年七・八月号という雑誌に掲載された、文さんの初めての活字作品である。当初は露伴の存命中に出る予定でいたが、出版されたのは露伴の死去直後だったという因縁のある作品。
 これを読むと、寝たきりの露伴が、中山のこんにゃくや競馬などに興味を覚えて、文さんにあれこれ聞き尋ねている様子がうかがえて面白い。
 中山のこんにゃくは、江戸時代から名産として知られており、今でもきぬかづきとともに、中山法華経寺の参道で売られている。
 先の文章は、さらにこう続く。
 〈近処に乳牛十二三頭を置く牧場が二三軒ある。何種で飼料は何でと、こまかい。仔(こ)牛が生まれたなどと聞けば機嫌は上々になる。「仔牛はまぜ物無しの乳を飲むが」と云って、自分のコップを透かし眺め、「どの位の割に水を入れて売るか」とまじめである。
 いつもこうして鼻面を向けられあちこちするが、いまだに鞭(むち)無くして走るようにならないのは情無い。もっと情無いのは、その話を父の方は記憶し続け、私は報告終了とともに綺麗(きれい)に御破算にしてしまうことである。〉
 市川に牧場があったなどと、今となっては想像しにくい光景だろうが、戦後しばらくまで、菅野や北方辺りには牧場があった。八幡に住んでいた水木洋子さんも、境川(真間川)を越えて、北方の牧場に乳牛を買いに行った思い出を随筆に残している。
 文さんは、記憶力の確かな父に対して、自分はすぐ忘れてしまうことを嘆く。父と娘のきびのうかがえる名文といえよう。
 十二月八日には、市川市生涯学習センターグリーンスタジオで、露伴原作「五重塔」と文原作・水木洋子脚色「おとうと」の映画鑑賞会が予定されている。すでにチケットは完売しているが、市川の地で、父娘二代の映画が同時上映されるまたとない機会。
 また、十二月十五日、十六日は、市川市八幡にある水木洋子邸が公開され、十六日には、市民サポーターによる「耳で味わう幸田文と水木洋子作品」と銘打った朗読イベントも開催される。
 文さんや水木さんの作品に耳を傾けながら、師走を暖かく過ごしてみたい。
(2007年12月7日)

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■§幸田露伴・市川での最後の正月§■
市川民話の会会員・根岸英之


  幸田露伴(こうだろはん)は、終戦を迎えても、東京に戻る家を求めることができず、伊東の旅館に仮住まいを強いられていた。その間、娘の文(あや)が、船橋市に住む弟子の塩谷賛(しおたにさん=本名を土橋利彦・どばしとしひこ)の家に身を寄せながら、ようやく市川市菅野に借家を見つけることができた。
 昭和二十一(一九四六)年一月二十七日、塩谷が付き添って、伊東駅から東京駅直通の二等車両に乗った。途中、新橋駅で降り、紀尾井町で病床に臥す露伴の妹・延(のぶ)と対面し、一泊。翌一月二十八日に、市川市菅野へ移り住んだ。
 塩谷は延の家で露伴と別れたので、露伴が菅野の家までどのように来たかは分からないと断り、次のように記している。
幸田文『こんなこと』(1950年 創元社)昭和23年11月に書かれた「正月記」が所収される(市川市文学プラザで展示中)
 〈土橋に注意し声をかける人は一人もなく、土橋のほうも疲れて不機嫌になっていたから誰にもそう告げずに帰った。露伴が市川菅野の家へ行くのに白幡神社までは自動車が入るが、そのあとどうして運ばれて行ったか、そういうわけで土橋は知らないのである。その後文子は牛乳の一升壜(いっしょうびん)を持ったりして毎日のように紀尾井町へ行った。こうして露伴のほうで一時のつもりで住んだ菅野の家の生活がはじまるのである。〉
 (『幸田露伴 下』より)
 塩谷はさらに、露伴が市川で過ごした最初で最後の昭和二十二年正月の様子を、前年の昭和二十一年と比較しながら書き遺している。
 〈昭和二十二年。最後の年である。(中略)昨年は露伴が伊東の旅館にいて、佐々木茂索が届けて来た餅で正月を祝ったのであり、戦後のわが家で正月を迎えるのはことしがはじめてであった。しかし家には正月を迎える道具が何もなかった。露伴は寝ているから着物はいらないが文子も玉子も正月に着るものを焼いていた。毎年用いる屠蘇(とそ)の道具も焼けたからない。〉(同右より)
 同じ昭和二十二年の正月の様子を、文も「正月記」と題する作品に綴っている。
 〈昭和二十二年元旦の心覚えがある。
 曇(くもり)、氷雨(ひさめ)時々、寒し。父は八時に機嫌よく起きて、手拭(ぬぐい)・歯ブラシの新しいのを喜んでいた。(中略)
 九時。文子・玉子お相伴して祝い膳に対(むか)う。焼けてしまって道具が無いから屠蘇(とそ)は略す。祝儀の物だから私は随分気にしていたので、不行き届きを詫びた。大層な怠慢のように感じられ、申しわけの調子はわれながら、じくじくしていた。「まさかおまえ屠蘇の道具が欲しいんじゃあるまい?」どきっと、思いがけなかった。(中略)
 「あったものが無くなれば勝手違いだというんだろ。そこだ。勝手違いのさみしさなどにかまけていては、大切な若い勢いがそげてしまう。今は若さが大切だ。としよりのわたしをいたわってくれるために、僅かに残っているおまえの若さを削(そ)ぐことはつらい。屠蘇の習慣的なことを続けようと無理すれば、おまえは大苦しみをしても足りない。おっぺしよれてしまう筈(はず)だ。一向かまわないから伸び伸びやってくれ、時が来ているのだよ。」私にはだんだんと嬉しさがこみあげていた。〉
 (『幸田文全集第一巻』より読みやすく引用)
 若い時分から、家事をみっちり仕込まれた文にとって、露伴のこのことばは、どれほど安堵させるものであったろう。と同時に、戦災の後やっと迎えた市川での正月を、露伴はどんな想いで過ごし、こんなことばを託したのだろうか。
 一月十二日には、市川市文学プラザで「市民と語る市川の幸田露伴一家」と題する朗読とトークの会が計画されている。菅野暮らしの幸田一家の思い出を持つ市民が集まり、思い出を聞かせてくれる予定。昭和二十年代の菅野周辺の暮らしに思いを馳せながら、六十年後の今の世を見直してみたいものである。
(2008年1月1日)

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■§星野道夫さんの卒業アルバム§■
市川民話の会会員・根岸英之


  この春卒業を迎える子どもたちにとっては、受験をひかえ、落ち着かない毎日だろう。進路が決まってひと息つくと、卒業アルバムや文集づくりなどが待っていることだろう。
 写真家の星野道夫(ほしのみちお)さん(一九五二―一九九六)は、市川市南八幡に生まれ、平田小に通っていた。子どものころから、自然へのあこがれが強く、やがてアラスカの魅力を伝える写真家として、世界的に知られる存在となった。
 星野さんの魅力は写真だけでなく、文章も、多くの人の心を打つ。そんな星野さんの文章の片鱗(へんりん)をのぞかせるのが、平田小の卒業記念アルバムに書かれた寄せ書きのことばである。
 〈浅き川も深く渡れ〉
 深い哲学的なことばだ。すでに、星野さんの感性がうかがえるといえよう。
アラスカでの星野道夫さん(右上の自筆は平田小卒業記念アルバムより)=写真提供・星野道夫事務所
 星野さんは、平田小を卒業すると、電車に乗って千代田区の中学校へ越境通学をする。中学生のころの作文もまた、読むことができる。
 〈星野道夫「この世界」
 夕方、江戸川まで自転車で行った。小学生のころ、友だちと三日にいっぺんはきて、草むらに寝ころがって、いろいろな話をしたものだった。しかし、中学校にはいってからは、ほんの二、三回しかきていない。ほんとうにひさしぶりだ。
 家から江戸川まで、自転車をとばせば五分ぐらいでついてしまう。だんだん江戸川のがけがせまってくる。そのがけを一気に登りきると雄大な江戸川が、ゆったりと流れている。草むらには、くさりかかった小舟が、よこたわっている。そのまわりに散らばる名もわからぬ花。素朴である。ぼくは、自転車をゆっくりこいだ。冷たい北風が、ぼくの顔をたたきつけていく。向こうの空に沈もうとするまっかな太陽。ゆったりと流れる江戸川。夕やけ空に飛ぶ鳥たち。今、このように美しい自然の中にいるぼくは、幸せだ。〉
 これは、やはり市川市に住まい、今は町田市で暮らす児童文学作家・国松俊英(くにまつとしひで)さん(一九四〇=昭和十五生まれ)が、星野さんの生き方に共感して、家族や友人、編集者などに取材をして著したノンフィクション『星野道夫(ほしのみちお)物語―アラスカの呼び声』(二〇〇三年)に紹介されている。巻末の「参考にした資料」に、「今川中学校卒業アルバム1968」とある。
 国松さんは、本書の「はじめに―アラスカを旅した少年」で、次のように記している。
 〈私は、星野に一度も会ったことはない。(中略)私も市川市の住人だったし、野鳥や野生動物の観察を熱心にやっていたので、どんな人なのか興味を持った。(中略)
 星野の写真には、光のきらめき、原野を吹く風、草のそよぎ、動物たちの光る目、そうしたものがしっかり写しこまれている。ゆるやかな時間の流れと空間の広がりが見ているものを包みこむ。緊張しながらも、安らかで温かな気持ちにさせてくれる。
 文章には、写真とはまた別の魅力がある。アラスカの大自然を歩きまわって、いろんな風景と向き合い、人びとに出会い、動物たちを見つめてきた。そこで感じとり考えたものを、時間をかけて深めていった。それが文章となって溢(あふ)れ出ている。どうしても写真では表現できないもの、それを星野は文章につづった。〉
 平田小の卒業アルバムは、三月二日まで市川市芳澤ガーデンギャラリーで開催中の「市川の文化人展 星野道夫展」に、実物が展示されている。三月一日には、星野作品の朗読会が行われる。
 市川市文学プラザでは、五月二十五日まで「文章家 星野道夫 写真と異文化に魅せられた市川の文人たち」が開催され、二月二十一日には星野作品の読み語り、二月二十七日にはギャラリートーク、三月十六日には国松さんの講演会が、それぞれ予定されている。
 学年が替わる子どもとともに、星野さんの写真だけでなく、文章の魅力にも触れ、豊かな時間を過ごしてほしいと思う。
(2008年2月8日)

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■§真間街回遊展と「文学の道」§■
市川民話の会会員・根岸英之


  三月十五日〜十六日に、真間地域を舞台に様々な文化的催しが行われる「真間街回遊展」が開催される。「街回遊展」は、街を歩きながら地域文化を知り、その街の魅力を再発見しようという目的で開催されており、今回で十回目を数える。
 真間は、市川の文化の発祥ともいえる「万葉集」ゆかりの真間の手児奈(てこな)ゆかりの地であり、歌碑や句碑やギャラリーなども多く、文学散歩にも絶好の土地である。  今回はとくに、例年四月に行われる「春の史蹟まつり」と同時開催となり、見どころ満載の内容となっている。
改修前の「文学の道」説明板(2007年4月撮影)
 芳澤ガーデンギャラリーで「写真と俳句でつづる“市川俳見・真間大門通り”」、真間小学校で十五日に「市川の民話のつどい」、根本自治会館で十五日に「熊沢南水ひとり語り」、丸山能舞台で十六日に「能への招待」、手児奈霊神堂で十六日に「春の史蹟まつり」として万葉集の朗詠など、文芸関連のイベントもたくさん予定されている。
 注目したいのは、桜土手公園から手児奈橋公園にかけて設置された「文学の道」がリニューアルされ、回遊展に併せてお披露目されること。
 「文学の道」は、真間史蹟保存会の`島正次(はいじままさつぐ)さんの提唱で、市民の寄付を募りながら、一九八七(昭和六二)年六月十日に整備された。国文学者の神作(かんさく)光一さんの監修で、市川ゆかりの作家の説明板十五基が設置されている。
 内容は、@万葉集、A北原白秋(歌人)、B富安風生(俳人)、C阪井久良伎(川柳作家)、D三島由紀夫(作家)、E松本千代二(歌人)、F能村登四郎(俳人)、G永井荷風(作家)、H吉田冬葉(俳人)、I幸田露伴(作家)、J水原秋桜子(俳人)、K中野孝次(作家)、○13井上ひさし(劇作家)、M山本夏彦(コラムニスト)、N宗左近(詩人)である。
 一九九六(平成八)年には、日本画家戸田和夫さんを中心とする虹の会の人たちによる、「万葉集」ゆかりの草花の絵を添えた改装が行われた。
 二〇〇七(平成十九)年には、市川市に寄贈されたことを受けて、市で内容の見直しと改修を行い、今回で三代目の説明板のお披露目を迎えるに至ったのである。
 新しい説明板は、以下の通り。
 @万葉集から歌枕の地“真間”へ
 A江戸時代の真間の文学
 B北原白秋・吉植庄亮・松本千代二(歌人)
 C郭沫若(文学者)
 D阪井久良伎・吉田幾司・松沢敏行(川柳作家)
 E水原秋桜子・富安風生(昭和の俳人が詠んだ真間)
 F幸田露伴・幸田文(作家)
 G永井荷風(作家)
 H吉田冬葉・岸風三楼(真間に住んだ俳人)
 I能村登四郎(俳人)
 J水木洋子(脚本家)
 K中野孝次・山本夏彦(作家)
 L宗左近(詩人)
 M井上ひさし(劇作家)
 N神作光一・高野公彦・日高堯子(歌人)
 真間周辺の文学風土を理解する文学者や文学スポットの情報が充実した上に、水木洋子さんや神作光一さんなど、市川の文学を知る上で欠かせない新しい文学者も盛り込まれている。
 今回もまた、戸田和夫さんを中心としたメンバーによる、真間の四季の絵が彩りを添えている。回遊展の期間中は、郭沫若記念館で「文学の道説明板絵画本画展」が開催され、原画を鑑賞することもできる。
 また、三月十六日には、真間・文学の道回遊ツアーが、四月十日には、真間の句碑・歌碑めぐりが、四月二十四日には真間のギャラリーめぐりが、いずれも市川案内人の会と市川市文学プラザの案内で予定されている。
 桜が咲くのはもう少し先だろうが、ひと足早い春の真間を回遊する楽しみが、また一つ増えたことになる。
(2008年3月6日)

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■§脚本家/水木洋子の世界§■
市川民話の会会員・根岸英之


  脚本家の水木洋子さんが亡くなったのは、二〇〇三(平成十五)年四月八日のこと。市川市八幡五丁目の水木邸から、霊柩車は桜の舞い散る真間川に沿って、市川霊園へと進んでいった。
 その年の五月十八日には、市川市生涯学習センターと市川市文化会館で、「偲(しの)ぶ会」が催され、八月には、「第四回脚本家/水木洋子の世界」が、生涯学習センターで開催された。
 「脚本家/水木洋子の世界」は、二〇〇〇(平成十二)年から、水木さんの誕生月である八月に行われていたもので、逝去の翌年の二〇〇四(平成十六)年から、亡くなった月の四月に開催されるようになった。
文学プラザで水木さんのファイリング整理をする水木洋子市民サポーター

 九回目の今年は、四月十九日(土)に市民会館で実施される。内容は、映画評論家の佐藤忠男氏による「水木洋子の仕事」と題する講演と、水木さんが脚本を手がけた喜劇タッチの映画「婚期」(一九六一年 吉村公三郎監督)の上映である。
 水木さんの顕彰には、年を重ねるごとに、水木ファンの市民サポーターが参加するようになり、年々充実したものになっている。
 まず、水木洋子邸が、定期的に公開されるようになった。四月は十九日、二十日、五月は二十四日、二十五日がそれに当たる。三か月ごとにテーマが決められ、この四月から六月は、「昭和のオアシス―水木洋子邸の魅力」をテーマに、公開が行われる。
 何より大きな展開は、生涯学習センターに文学プラザがオープンし、常に水木さんに関する展示が行われるようになったこと。今は、上映される映画に併せて、「水木洋子の〈婚期〉と遺された写真から」という企画展が、五月二十五日まで開かれている。
 また、八幡市民談話室でも、「昭和のオアシス―水木洋子邸の魅力」と題したミニ展示が、四月二十日まで開催されている。この中身も、全て市民サポーターの手によるものだ。
 さらに、前回紹介した真間の「文学の道」説明板にも、水木さんの紹介板が新設された。そこには、水木さんの次のようなエッセイが引用されている。
 〈今から二十数年前、母と二人で里見城址や、真間の手児奈のお寺などを訪ね歩いたのだが、その後、いつでも行けるという気易さと、東京都内への仕事関係に追いまわされて、案外地元は、ひまがないと足がむかないで歳月を経た。〉
 これは、昭和四十年ころ出版された『伝統芸術手摺木版・廣重画 大錦名所江戸百景 第十九巻』(山田書院)という本に収められた「手児奈堂散策」と題するエッセイの一部である。
 水木さんの作品は、映画の脚本の一部は、本に収められて読むことができるが、エッセイなどの文章は、原典に当たらない限りは、これまで読むことができなかった。しかし、こうした資料も、市民サポーターの皆さんによって、文学プラザに行けば、読めるように整理されつつある。
 二〇〇〇(平成十二)年から始まった「市川手児奈文学賞」にも、水木さんを詠んだ作品が毎回寄せられている。
 秋澄むや水木洋子の稿に触れ 権藤信子(第二回)
 聞き覚えの水木シナリオに触れ秋思 成宮紀代子(第二回)
 水木邸松に行く道教えられ 根岸秋雪(第二回)
 水木邸公開の一日をはなやかに百日紅(さるすべり)咲く門をくぐりぬ 栃原久子(第三回)
 かなかなや納戸に洋子の鰐(わに)広帽 田口俊子(第三回)
 秋澄めり蔵書を覗く水木邸 新井みさを(第三回)
 シナリオになき虫の声水木邸 山田マサ子(第三回)
 虫の闇我が居につづく水木邸 渡辺輝子(第三回)
 真間川の桜の枝をゆらしつつ水木洋子の棺挽かれゆく 根岸秋雪(第四回)
 果樹茂り冬ばら凛と水木邸 近澤恵美子(第四回)
 真間川の桜水木の棺に舞う 根岸秋雪(第四回)
 表札の魚泳ぎさう水木邸 宮島宏子(第五回)
 梨棚に日の匂ひ充ち水木邸 野田まゆみ(第六回)
 花梨の実一つ拾ひぬ水木邸 柴田歌子(第七回)
 玄関に蚊遣のなごり水木邸 成宮紀代子(第七回)
 ひょっこりと大将来そう水木邸 小林正寿(第七回)
 こんもりと屋敷樹めぐらす水木邸在りし日偲び吊らるる白蚊帳 田邉かつ代(第八回)
(2008年4月11日)

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■§映画「墨東綺譚」と行徳§■市川民話の会会員・根岸英之


市川市八幡を終焉(しゅうえん)の地とした永井荷風の代表作「墨東綺譚(ぼくとうきたん)」は、荷風をほうふつとさせる小説家が、隅田川の東岸に位置する「玉の井」(現在の墨田区東向島)と呼ばれる女性たちが春をひさぐ街に、小説の題材を求めて通うなかで出逢った、お雪という女性との交情を描いた作品である。
 昭和十二(一九三七)年四月から六月まで、『朝日新聞』夕刊に連載小説の形で発表され、同年単行本化されている。
 この小説を原作に、豊田四郎監督・八住利雄脚本によって、荷風の死の翌年、昭和三十五(一九六〇)年八月二十八日に封切られた作品が、映画「墨東綺譚」(東宝)である。
永井荷風『墨東綺譚』1950年(六興出版)荷風の市川時代に出版(市川市中央図書館所蔵)

 映画「墨東綺譚」は、原作に比べ、山本富士子演ずるお雪を中心に描く形を取り、芥川比呂志演ずる小説家の設定も、原作の小説家と、作中の小説家の家族環境を置き換えて映画化されている。
 何より大きな違いは、お雪の義母が「歯根骨膜炎」という病にかかり、行徳の親戚の家で面倒を見てもらっているとされていることだ。お雪は、その看病の金普請のために、玉の井に身を落としたとされる。しかし、お雪が親戚に託した金は、使い込まれてしまい、結局、義母を救うこともできず、自らも体を壊してしまうと描かれていくのである。
 例えば、シナリオはこんな風に書かれている。
 〈47 行徳あたり
 水郷と呼ぶにはあまりにも押しひしがれた生活がその上に描かれているけしき。海につづく堀割りにつながれた小船の綱をとき、とびのる巳之松。その釣り舟には、背中に赤ん坊をくくりつけた女房のおりんがのっている。小舟はポンポンと音を立てて出て行く。
 おりん「あんた、お雪さんからまだ返事が来ねえなア?」
 巳之松「仕様がねえよ。お袋を表へ出すなよ」
 おりん「出ろったって自分から出ねえさ、あの病気じゃア・・・・・・」〉
 〈76 行徳あたり
 お雪が来る。
 「あっ!」と叫んで、足をとめる〉
 〈77 堀割り
 ポンポンと音を立てて出て行く小舟。それには巳之松とおりんがのり、二人の間には火葬場へ運ぶ棺桶がある。堀割り沿いの道、裾を乱して、夢中で追って来るお雪。おりんが気がつく。
 おりん「あっ、お雪さんだ!」
 駆けつづけて来るお雪。
 巳之松「お雪! お袋は死んだよオ!」
 がくりと膝をつくお雪。お雪と小舟の間はますます遠くなって行く。
 巳之松「(怒鳴る)今頃何しに来たア? 金も送って来ねえで、見殺しにしやがってよオ……お袋のために身イ売ったなんぞは大嘘だったなア」
 おりん「(憎々しく怒鳴る)おれたちを能なしと笑いに来たのかよオ?」
 その一言一言を声も出ない思いで受けとめながら、お雪は地に膝をついたまま、起き上ろうともしない〉
 船が盛んに往来したであろうかつての行徳の光景と、行徳弁のせりふが、重要なシーンに登場する映画「墨東綺譚」は、市川の、ことに行徳ゆかりの映画といってもいい作品なのである。
 小説「墨東綺譚」では、隅田川東岸の玉の井が、「陋巷(ろうこう)の地」として描かれているのに加え、映画「?東綺譚」では、その玉の井に身を落としたお雪の、さらに「押しひしがれた生活を象徴する地」として、江戸川東岸の行徳が描かれているといえる。
 隅田川から東へ幾筋か渡った、江戸川東岸の市川はまた、荷風の終焉の地でもあり、荷風の一周忌に封切られた映画としても、意義深いものがあろう。
 去る五月六日には、市川市グリーンスタジオで、荷風忌にちなんで、この映画の上映会が開催され、会場いっぱいの観客で客席が埋め尽くされた。
 こういう作品を、定期的に鑑賞できるまちであることが、市川の魅力を高めることになるのだろう。
 (前回紹介した田口俊子さんの俳句「鰐(わに)広帽」は、「鍔(つば)広帽」の誤りでした。お詫びして訂正します)
(2008年5月9日)

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■§映画「墨東綺譚」と水木洋子§■
市川民話の会会員・根岸英之


   前号で、永井荷風原作の映画「?東綺譚」(昭和三十五=一九六〇年八月二十八日封切 東宝)について紹介したが、実は、映画化に当たって、やはり市川在住の脚本家・水木洋子さんがシナリオを担当したかも知れないというエピソードが残っていることを、引き続き紹介しておきたい。
 それは戦後、荷風の元に出入りした毎日新聞記者・小門勝二(おかどかつじ)がまとめた『浅草の荷風散人』(一九五七年 東都書房)という本に綴られたエピソードである。
小門勝二『浅草の荷風散人』=昭和32年 東都書房(市川市中央図書館所蔵

 〈「君、映画の『踊子』は見のがしてはいないだろうね・・・・」
 「もちろん見た。あの映画はたのしめた。また何か映画になるの」
 「うん、東宝が『?東綺譚』をやるっていって原作料を百万円届けてきているんだ」
 「それは面白い企画だね、先生は何ていっていた?」
 「先生の話だとね、まあききたまえ、こうなんだ――東宝はあんなことをいってきたって、映画なんか作りゃしませんよ。あれは映画になんかなりゃしません。それに焼けちまった玉の井なんか知っている人は、あそこにはいやしません。知らない人ばかりで、むかしの玉の井をやるなんていうのは、やってもらいたくないし、それができないからって、あの話をいまの鳩の街なんかに直しちまっちゃなお面白くないんじゃない? ・・・・そういっていたね」
 「でも、原稿料は貰(もら)ったんだろうね」
 「貰ったよ、間にはいる人がいたからね。その人が、とにかく一応は納めておいてくれと頼んだから、顔を立てたんだ」
 「それで、どういう人が映画化することになったんだい?」
 「監督は成瀬巳喜男さん。脚本は水木洋子さん、それで天然色映画にするんだというふれ込みだった・・・・」
 「それをきいて、先生は何といっていたの」
 「先生がいうには――脚色する人は女の人だそうですよ。女の人が玉の井を知っているんですかね。脚本が出来たら検査してくれといっていましたが、わたくしは見ませんよ。見たって見なくたって同じですよ。ああいうことには、なるべくわたくしはかかり合わないようにしています。他人の書いたものを自分で気に入るように直すなんていう仕事をするくらいなら、むしろ自分ではじめっからやっちまった方がいいくらいです。そういうことが、はじめっからわかっているから、向うさまのいいようにおやりなさいっていうよりほかにないでしょう。――こういうのさ」(中略)
 「あの話が持込まれてきたのは昭和三十一年の春のこと。それから夏がすぎ、秋になり、冬を越した。ところがかんじんの成瀬監督は『流れる』なんか作っちまって、『?東綺譚』には一向手をつけようとしなんだ。」〉
 実際に映画化されたのは、荷風逝去の翌年に、豊田四郎の監督、脚本は水木の師匠でもあった八住利雄によるものだった。
 この映画化を、水木さんがどのようにとらえたいたのかを直接示す資料などは、今のところ明らかになっていない。しかし、水木さんの蔵書には、荷風の著作も何冊か含まれている。
 現在、一般公開されている水木邸の書斎には、昭和二十六(一九五一)年発行の『永井荷風作品集』全九巻(創元社)が、『明治大正文学全集 第三十一巻 永井荷風篇』(一九二七年 春陽堂)、佐藤春夫『小説永井荷風伝』(一九六〇年)とともに納められている。作品集全九巻のうち、五巻に「?東綺譚」が所収されており、唯一この作品にだけ、水木さんによるものと思われる万年筆の傍線の書き入れが、少しだけあった。
 もし、水木さんが脚本を手がける話が実現していれば、丹念な取材で知られる水木さんのこと、玉の井についての調査はもちろん、同じ八幡に住む荷風の元へも取材に訪れたことだろう。
 六月二十八日、二十九日は、水木邸の一般公開日。実現しなかった荷風とのえにしに思いを馳(は)せながら、水木邸の蔵書をのぞいてみるのも、また楽しい。
(2008年6月13日)

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■§郭沫若〜須和田に別れる§■
市川民話の会会員・根岸英之


  中国四川省楽山(らくざん)出身の郭沫若(かくまつじゃく)(一八九二―一九七八)は、一九二八(昭和三)年から一九三七(昭和一二)年までの約九年半を、市川市真間と須和田に家族とともに住み、中国の古代研究や文学活動などを続けた文学者で政治家である。
 郭は、日本留学中に看護師・佐藤をとみと出会い、子どもをもうけ、中国と日本を何度か往復する形で暮らしていた。文学活動の傍ら、政治活動にも熱心で、一九二七(昭和二)年、中国の指導的立場にあった蒋介石(しょうかいせき)を批判したため、中国にいることが出来ず、一九二八年二月、家族とともに、日本に亡命してきた。
 村松梢風(むらまつしょうふう)という作家の紹介で、現在の真間郵便局の裏手辺りに、借家を借りることができ、市川での亡命生活が始まったのである。のち真間の継ぎ橋のたもとの借家に移り、一九三〇(昭和五)年には須和田の六所神社近くの地所を借り、一軒家を構えて暮らすようになる。
郭沫若著・小峰王親訳『日本亡命記』(1958年 法政大学出版局)=市川市中央図書館所蔵

 郭は、不自由な亡命生活の中で、金石文や甲骨文の実証研究を進め、『中国古代社会研究』『甲骨文字研究』などの学術書を発表するほか、自伝作品を執筆したり、様々な書物を中国語に翻訳するなど、意欲的な活動をしていた。
 しかし、一九三七(昭和一二)年七月七日、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに、日中戦争が本格化すると、郭は、祖国の現状を憂い、抗日戦争に参加するため、七月二十五日未明、妻と五人の子どもに何も告げず、日本脱出を決行する。京成電車で都内へ出、タクシー・電車を乗り継ぎ、神戸から船で上海へ向かったのである。
 その様子を、「日本から帰って」という自伝の中で、次のように記している。
 〈昨夜はよく寝つかれなかった。今朝四時半に起きでて、寝まきを和服にとりかえ、そっと自分の書斎にはいる。妻と四男一女に書置を書いて、彼らのいまだ就寝中なるをねらって、ここを去る決意をする。(中略)
 蚊帳(かや)をまくって、安娜(あんな―妻をとみの愛称)の額に口づけして、別れのしるしとした。彼女はもちろん私の意とするところはわかっておらず、目は、書籍からはなさなかった。(中略)
 庭のすべての景色にお別れをした。そして胸のうちで妻子たちとあらゆるものが平安であれかしと祈った。それから垣根の破れ目から畦(あぜ)道へとでた。表門は家屋の後方にあったのだが、私は表を通るのをさけた、家屋前方の垣根の外は一面の田圃(たんぼ)である。稲の長さはすでに三、四寸にのびていて、色は濃い緑。(中略)
 畦道の草の上には露が宿っていて、私の下駄をぬらした。
 街道へでて、一足歩く毎にふりかえっては、妻子たちの寝ている家をながめた。
 灯(あか)りが開けっぱなしになっている雨戸のところからもれているはきっとまだ読書しているにちがいない。涙がとめどもなく湧いてくる。(中略)
 沿道の人家はまだみな戸を閉めていた。道ばたの電気はまだ朦朧(もうろう)として夢みているような目つきだった。
 通りではただ新聞配達の人と出会っただけだった。新聞配達のなかには、えらくびっくりしたような目を私に投げたものもいた。
 電車はまだ通っていなかった。二駅歩くと、ホームに二、三人電車を待つ人の姿が見えた。私もホームに上った。
 子どもたちが目をさまして、私がいなくなったのを知ったら、どんなにか驚くことであろう。〉
 (小峰王親訳『日本亡命記』より)
 郭の来市八十年、没後三十年に当たる今年、市川市文学プラザでは、「日中文化ゆかりの市川の文人たち」と題して、郭沫若と市川の関わりを紹介する企画展が開かれている。
 七月三日には、郭の研究家・齊藤孝治氏の講演会「郭沫若と市川」が開かれ、七月十日には、「郭沫若ゆかりの回遊ツアー」が行われた。真間・須和田周辺には、郭沫若記念館や須和田公園内の詩碑、文学の道の案内板など、郭ゆかりのスポットがある。
 郭が家族を遺(のこ)して中国へ去っていった七月、郭一家の波乱に満ちた境遇に思いを馳(は)せるのも、感慨ひとしおというものだろう。
(2008年7月11日)

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■§「よみっこ運動」と市民ミュージカル§■
市川民話の会会員・根岸英之


  七月五日、作家・井上ひさしさんの講演会「読書のまちづくり〜ボローニャから市川へ」が、市川市菅野小学校の冷房のない体育館で開かれた。イタリア・ボローニャで取り組まれている、読書を媒体とした地域づくりを、ぜひ日本でも展開したいという井上さんの熱い思いを、市川市民に呼びかける内容だった。
 井上さんの提唱する「よみっこ運動」は、@夏休みなどを利用して、子どもが読みたい本を申告する、A地域の大人がサポーターになり、読めたらいくらかの金銭を支払う約束をする、Bその後、子どもは大人と本の内容について語り合い、しっかり読めていたら金銭を受け取る、C子どもは、受け取った金銭を寄付するなどの社会貢献に役立てる、D結果として、読書を通じて地域づくりが図れる、というもの。
 本を読んで金銭の授受が生じるということに、さまざまな意見もあるようだが、市川らしい「よみっこ運動」を模索して、二回目となる今年は、約四十人の子どもが、地域の大人サポーターとともに、八月三十日(土)、菅野小で発表会を行うことになっている。
昨年9月に行われた読みっこ運動発表会=市川市芳澤ガーデンギャラリー

 ところで、日程が重なってしまうが、八月三十日、三十一日に、市川市文化会館大ホールでは、市民ミュージカル「ASIAN BLUE〜アジアの青い空」が開催される。
 これは、子どもから高齢者までの三世代市民の文化交流と、地域のつながりを求めて、一年おきに市民手作りで行われている市民ミュージカルで、今年で四回を迎える。作・演出は市川在住の演出家・吉原廣さんによるオリジナル。
 行徳に作られた産業廃棄物の山・通称行徳富士≠フ地下が、アジアの迷宮都市へと通じていたという奇抜な発想を元に、ストーリーは展開していく。
 夏の夜、家出した友だちを追って、四人の子どもが行徳富士≠ノもぐり込む。「子どもだけで生きていこう!」と気勢を上げる彼らに、野良猫どもが誘導した世界は、南アジアの架空の発展途上国「ダッハレム」。そこには、貧しさゆえに学校にも行けず働く子どもたちや、ストリートチルドレンとの衝撃の出会いがあった。
 恐怖と混乱から市川へ逃げ帰った四人の後には、なんとダッハレムの大勢の子どもたちが着いてきてしまう。江戸川河口に、突然、子ども難民村が出現し、市川中が、日本中が、てんやわんやの大騒動になるという、スペクタル・ストーリー。
 演出の吉原さんは、「貧しいアジアの子どもたちと、豊かな日本の子どもたちの対比と共通点を探究し、子どもたちの交流と対立を通して、豊かさ≠ニは、℃qどもを大切にする≠ニはどういうことなのかを問いかけたい」と話す。
 現在、就学前の小さい子どもから七十歳を超えた大人まで、三百人近い市民が、冷房のない小学校の体育館を借りたり、少年自然の家に泊まりこんでの合宿をしながら、最後の追い込み練習に励んでいる。
 この市民ミュージカルは、子どもを真ん中に据えて、面白いと思えることを大人も一緒に取り組むなかで、地域の人のつながりを深め、「自分たちの住む市川ってこんないいところなんだ」と思えるような、市民の表現力とエネルギーを引き出そうとする目的をもっている。
 とくに今回は、子どもたちが、ミュージカルという表現の場を大人と一緒に作り上げるなかで、同世代のストリートチルドレンの現実へ、目を向ける契機となっている。  その意味で、井上さんの提唱する「よみっこ運動」と、目指す思いはつながっているといえよう。
 どちらも、子どもを中心に据えて、地域の大人も加わって、地域づくりを促そうとする、全国的にも注目される市川ならではの文化運動だ。この夏、ぜひ多くの人に共鳴してもらえたらと思う。
(2008年8月8日)

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■§水木洋子邸の団扇§■
市川民話の会会員・根岸英之


 

 市川市八幡5丁目の屋敷街に遺された水木洋子邸は、脚本家・水木さんの仕事場であると同時に、生活の場でもあった。
 戦災に遭い、母の姉の嫁ぎ先の愛知県江南市に疎開をしていた水木さんは、昭和22年6月、父の仕事仲間だった佐藤家を頼って、八幡5丁目に移り住んで来た。最初は佐藤家の2階を間借りしての生活だったが、1年ほどで、道を隔てた北側に建つ社員の住んでいた借家を借り、そこで暮らすようになる。これが今の水木邸である。

 やがて、水木さんはこの家を買い取り、また増改築を重ねながら、1993(平成5)年、療養生活で自宅を離れるまでの半世紀近い歳月を、ここで過ごしたことになる。
 2003(平成15)年に亡くなると、生前からの遺志で、自宅をはじめとする一切の遺品が、市川市へ寄贈されることになった。自筆原稿、台本、蔵書は言うに及ばず、調度品、着物、食器、果ては薬箱や箸(はし)、入れ歯や下着に至るまで、数え切れない数の遺品が、市川市のものとなった。

水木邸に飾られた八幡周辺の商店の団扇

 これらは、水木洋子市民サポーターの会の会員が、定期的に資料整理に当たっており、資料整理のできたものを、水木邸の一般公開や、文学プラザの企画展で展示紹介している。
 9月は、回遊展in八幡に合わせて、13日から15日が公開日で、「水木邸 夏のしつらえ」をテーマに、さまざまな遺品が展示されている。中でも興味深いのは、八幡周辺の商店で配られた団扇(うちわ)の数々が、簾(すだれ)を利用して、きれいに飾られているものだ。


 旭屋(酒屋)
 石塚商店(八幡マーケット・化粧品・雑貨)
 ういきや(呉服店)
 小川米店
 亀清(果物屋)
 川上食料品店
 末広園(銘茶屋)
 鈴木時計店
 大黒家(蒲焼)
 田中タンス店
 三由(かばやき)
 山口ラジオ
 八幡タクシー

 大黒家・三由など、今でも水木さんが通ったことを耳にする営業中の店もあれば、本八幡駅北口のショッピングビルのところにあった亀清など、ひと昔前の八幡を知っている人には懐かしい店もある。
 山口ラジオは、京成百貨店西側入口近くの八幡横丁にあり、長年、水木さんのお宅に出入りしていた電器屋さんだが、現在は店の面影もなく、2年前に当主も亡くなり、近いうちに引越しをすると聞いている。
 水木邸は、失われゆく昭和の暮らしをしのぶことのできる生活資料の宝庫でもあるのだ。

 市川市では、できるだけ水木さんが生活していたままの雰囲気を味わってもらいたいと、月に数日だけ公開している。もっと公開してほしいとの要望もあるようだが、まだ整理の済んでいない生活資料がそのまま残る家を、できるだけ手を加えずに体感してもらいたいという、水木洋子市民サポーターの方々の理念を大切にしたい。

 市民サポーターは、交代で公開の当番に当たり、来館した方をまるで自宅へ迎え入れるかのように案内してくださる。また、サポーターが中心となり、さまざまなイベントも行われている。8月は手品や布ぞうり作りなど、子どもも楽しめる催しが行われた。
 9月は、13日に「水木洋子の八幡を歩く」と銘打って、水木さんが通った八幡の商店などを回遊するツアーが行われる。15日には、回遊民話めぐりとして、水木洋子脚本作品「はげやまちゃんちき」の原話となった民話の語りや、水木作品の朗読が、二胡の演奏とともに行われる。

 まだまだ残暑の残るこの季節、水木邸の団扇を見やりながら、水木邸に吹きぬける少しだけ秋の気配を、のんびりと感じてみてはいかがだろう。
(2008年9月13日)

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■§“健康都市”文芸としての真間の手児奈§■
市川民話の会会員・根岸英之


 

 市川市は、WHOの提唱する「健康都市」を目指した取り組みを行っている。10月は、健康都市連合国際大会が、市川市で開かれることもあり、さまざまな行事が目白押しだ。「健康都市」の考え方は、個人の健康だけでなく、人を取り巻く環境も含めて、あらゆる分野を健康という視点で捉えなおすことを目指している。

 「健康都市」と「文芸」というと、全く関わりのないように思われるかも知れないが、今回は、市川を代表する「真間の手児奈(てこな)」を、“健康都市文芸”という視点で読み直してみたい。

今年8月には“手児奈”を描いた新しい絵本「市川の民話 真間の手児奈」(中津攸子/文 唐沢静/絵 すがの会/制作)が発行された

 『万葉集』に収められた高橋虫麻呂(むしまろ)の長歌では、手児奈の美しさが次のように詠まれている。
 〈錦綾(にしきあや)の 中につつめる
 斎児(いつきご)も 妹(いも)に如(し)かめや
 望月の 満(た)れる面(おも)わに
 花の如(ごと) 笑みて立てれば〉
 手児奈は麻の粗末な着物を着て、髪も梳(と)かさず、靴も履かないのに、錦や綾の中に包まれた箱入り娘も、手児奈にはどうして及ぼうか。満月のように整った顔立ちで、花のように微笑んで立っているので、多くの男性が手児奈に言い寄ってくるというのである。
 また、山部赤人(やまべのあかひと)の長歌では、
 〈倭文機(しずはた)の 帯解きかえて
 伏屋(ふせや)立て 妻問いしけん〉
 と、手児奈が着物の帯を解いて、伏す小屋を建てて男女の交わりを交わしたと詠まれている。

 手児奈がどういう女性だったのかをめぐっては、第39回「手児奈伝承から見る市川の環境」で紹介したように、「水を司(つかさど)る巫女(ふじょ)的な女性だったのではないか」とする見方がある。神事を行うときには、清純な女性が巫女として神に仕えた。ほかの男性の求めには応じず、神とのみ一夜を共にする巫女のイメージが、手児奈像の根底にあるのではないかという解釈である。この説は、八幡小学校の校歌を作詞した折口信夫(おりくちしのぶ)という国文学者が、「真間・蘆屋の昔がたり」という論文で説いている。

 市川では、詩人の宗左近(そうさこん)さんが、手児奈は大和朝廷に支配される前の、土着の民族の女性で、その異国的な美しさが、多くの男性の注目されるところになったのではないかとの説を展開している(『縄文発信 日本発見』)。

 いずれにしても、真間の手児奈の物語は、女性の魅力が主題となった文芸であり、それはいわば、“健康に関わる文芸”として読むことができると、私は考えている。

 また、こうした歌がどういう経緯で歌われたかは確証がないが、『万葉集』の中では、旅先で滅びたものや人を詠むことは、その土地を讃えたり、滅びたものの霊魂を鎮魂するにより、旅の無事を保証する意味合いを持っていたと考えられている。

 非業の死を遂げた手児奈が、虫麻呂や赤人といった都の歌人によって詠まれたことは、手児奈の鎮魂と、旅人の旅の安全を保証するものでもあったわけで、その点からも、手児奈の文芸は、“健康に関わる文芸”であると言えるのである。

 さらに、これらの歌が『万葉集』という都の書物に収められたのは、当時、市川に下総国の国府があったからであり、市川が古代から「都市」としての機能を持っていたともいえる。

 そして、以降、手児奈は、時代に応じてさまざまな文芸に扱われ、やがて、安産や子育てという“健康”に関わる霊神として、多くの信仰を集めるようになっている。

 まさに、手児奈は“健康都市いちかわ”を象徴する存在と言ってよいのである。

 10月19日に山崎製パン企業年金基金会館で行われる真間史蹟保存会の文化歴史講演会では、神作光一さんの「源氏物語を楽しむ」講演に先立って、ここで紹介した内容を前座として話させていただく予定である。


(2008年10月11日)

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■§国分の民話と石造物§■
市川民話の会会員・根岸英之


 

 市川に伝わる民話を聞き取り、次世代に継承していくことを目的に、市川民話の会が発足したのは、今から30年前の昭和53(1978)年のことだった。翌54年度には、市川市による民話の収集事業が予算化され、国分、北国分、行徳、南行徳地区で行われた成果が、『市川の伝承民話第一集』(1980 市川市教育委員会)として発行された。

「腹切様」(国分2の23路傍)

 国分地区では、狐(きつね)に化かされた話がたくさん伝わっていた。
 〈狐はね、今の中国分の商大の高校あるあたりで、よくいたですよ。新田、今の北国分の方の結婚式に行って来たってね。行って、御馳走貰ってきたら、狐に化かされて、御馳走きれえにとられちゃって、蕎麦(そば)畑入って、川のつもりで、
 「おお深(ふけ)え、おお深え」
 って歩いてたって。
 (話 関口はつ・国分)〉
 〈実際に私の経験ではね。小学校に入学したころですが、本来は、お月さまはですね、東からでるのがあたりまえでしょう。
 ところが、丸いお月さまみたいに大きな明るい玉が、南の方から上ってきたんですよ。
 すーっと上ってきたのにはびっくりしましてね。
 子供のころのことですから、あわてて家のなかに入って、家のものに話したところ、「それは、お前、狐っ火(ぴ)だっぺ」と教えられたことがあります。
 (話 伊藤儀一郎・国分)〉

 このほか、「桃太郎」「花さか爺」「舌切雀」のような本格昔話や、一般には市川市北方に奉公した「いんねえのじゅえむどん」の笑い話が、国分に奉公した話としても語られていた。

「延命地蔵」(国分3の28路傍、左は天明3年=1783年、右は明治10年=1877年)

 また、国分寺にある「三人地蔵」や、国分の日枝神社にある「道祖神様」や「力石」、「じゅん菜池」の大蛇や龍や水天宮などにまつわる話も記録されている。
 国分寺から日枝神社に向かう坂の途中にある「腹切様(はらきりさま)」のいわれは興味深い。
 〈そこ、家出るとすぐ、電柱の所に小さな神様があるんでしょ。あの神様、なんだか、昔の侍が、酒飲んで腹刺したって。だから、腹切様って……。
 そして、風邪ひいて、咳出んでしょ。そすんと、その神様に7回続けてお参りして、お願いして、治ると、竹このくらいに切って、半分こうやって酒入れて、燈(あかり)をつけて、そうやってあげたの。
 私ら小さい時分には、年中あがってたもんです。今でもね、信心深い人は、こう湯飲みでお酒あげて、1週間お願いすると、どんなひどい咳でもなおっちゃうんですよ。
 (話 関口はつ・国分)〉
 その後も、市川民話の会では、民話の収集を続け、『市川の伝承民話第八集』(2004 市川民話の会)にも、国分3丁目の「延命地蔵」の話などが記録されている。
 〈ここいらが飢饉なって子どもがえら(えらく)死んじゃったらしいですね、栄養失調みたいで。ね。栄養失調みたいでえら死んじゃって。ほれでどうしょうも、このブラクでもどうしょうもねえってって、この、坂の角へ、この角へですね、地蔵さまを二体こしらえたわけですよ。
 (話 山崎正三郎・国分)〉
 今、市川では市川市史の編纂事業や、「水と緑の回廊構想」、「街歩き懇談会」など、さまざまな事業に取り組んでいるが、こうした民話や石造物のような地域資産も視野に入れて、事業が進んでほしい。
 歴史博物館では、11月30日まで、「市川の石造物」展が開かれ、11月30日には、市川民話の会が発足当初から開催している「第31回市川の民話のつどい」が、西部公民館で予定されている。
 地域に伝わる民話や事物にまつわるいわれは、地域の人が語り継いでいかなければなくなってしまう貴重な文化資産であり、一人でも多くの人が、関心を持っていただければと思う。

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■§市川の文人の健康ライフ§■
市川民話の会会員・根岸英之


 

 10月に市川市を会場に開催された「健康都市連合国際大会」も終わり、ひと段落した感があるが、師走に入り、風邪やインフルエンザの心配など、健康に対する気遣いは、変わることがない。
 現在、市川市文学プラザで開催中の企画展「市川の文人の生活スタイル」は、市川ゆかりの文人の健康ライフがうかがえる、ユニークな内容である。

1947年ごろ永井荷風が使用していた薬品一式(市川市文学プラザ所蔵)

 〈入って目を引くのが、永井荷風(かふう)が、戦後の市川暮らしで愛用した、下駄や眼鏡や裁縫用具など。中でも、疥癬(かんせん)という病気にかかったときに用いていた薬品類は、逸話も含めて興味深い。荷風は当時、いとこの杵屋五叟(きねやごそう)一家や、フランス文学者の小西茂也一家と同居生活を送っていた。疥癬を治そうと、ムトウハップと呼ばれる硫黄(いおう)を含む薬品を、一番風呂に入れて入浴していたため、同居一家は、硫黄くさくて、随分迷惑を被ったそうである。
 荷風が使っていた飯盒(はんごう)も展示されているが、荷風は、にんじんのみじん切りをご飯に雑ぜたものをよく自炊で作っていたようで、これは何でも、荷風がにんじんの栄養価の高さにほれ込んでのことだという。
 荷風と同じ時期に菅野で生涯を閉じた文豪・幸田露伴(ろはん)については、娘の文(あや)が、父の看病をし、最期を看取った様子が、文の克明な随筆を通して、紹介されている。露伴の看取りをつづるなかで、文筆家・文(あや)が誕生したさまがよく分かる。
 また、脚本家・水木洋子の健康ライフに光を当てた展示もとてもユニークで、『酒』という雑誌の「映画界酒徒番附」(1958年4月)、「文壇酒徒番附」(1961年1月)に、彼女の名前が掲載されている部分が展示されたり、若い頃に通った料理教室のテキストや、水木邸に遺された薬箱、運動用自転車なども展示されている。

水木洋子が所蔵していた式場隆三郎・渡邊實編集『山下清放浪日記』(1956年、市川市文学プラザ所蔵)

 市川にはまた、医業のかたわら文学活動を続けた文人も多くおり、それらの経歴や作品が紹介もされているのも面白い。
 式場隆三郎(しきばりゅうざぶろう)(1898〜1965)は、昭和11(1936)年に精神病院国府台病院を設立した医者で、精神病理学の立場からゴッホの研究書を多く出したほか、随筆集『微笑亭夜話』などに、病院での光景を描いている。顧問をしていた八幡学園で知り合った山下清(1922〜1971)を、放浪画家として世に送り出した功績も大きく、水木洋子が映画「裸の大将」の脚本を手がけたこともあり、3人が一緒に写った写真も展示されている。
 吉田機司(きじ)(1902〜1964)は、昭和12(1937)年に京成真間駅近くに病院を開業した医者だが、詩人の草野心平が中学時代の同級生だったため、草野も一時、市川に住み、吉田の病院に通院したことが紹介されている。吉田は戦後、「川柳手児奈吟社」を創刊主宰し、川柳のほか随筆なども著した。荷風の検死をしたことでも知られている。
 今泉宇涯(うがい)(1913〜1998)は、昭和16(1941)年、市川駅近くに市川医院を開業した医者だが、戦前から句作を始め、戦後は、能村登四郎(のむらとしろう)の俳句結社「沖」に所属し、地域での俳句指導に尽力した。
 このほか、妻の看病のため、国府台病院に仮寓した作家の島尾敏雄の作品や、詩人・宗左近(そうさこん)や、演芸評論家・小島貞二の食卓風景など、作家の親しみやすい健康ライフが紹介されている。

 12月18日には、「健康都市は文学都市だ」と銘打った、一風変わったギャラリートークが開催され、市川の文人の生活スタイルを、「健康」という観点から見直す企画が用意されている。年末の締めくくりに、文人の健康ライフを顧みて、自身の健康ライフを見つめ直してみてはいかがであろう。


(2008年12月13日)

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■§牛のいた光景―幸田露伴一家と水木洋子と§■
市川民話の会会員・根岸英之


 

 昭和21年から22年までの晩年を、市川市菅野に送った幸田露伴(ろはん)は、寝たきりの動けない身でありながら、持ち前の好奇心から、娘の文(あや)に市川の様子をいろいろ尋ねた。第57回(2007年12月号)でも取り上げたが、丑(うし)年にちなんで再度紹介したい。
〈近処に乳牛十二三頭を置く牧場が二三軒ある。何種で飼料は何でと、こまかい。仔(こ)牛が生れたなどと聞けば機嫌は上々になる。「仔牛はまぜ物無しの乳を飲むが」と云(い)つて、自分のコップを透かし眺め、「どの位の割に水を入れて売るか」とまじめである。〉 (幸田文「雑記」『幸田文全集 第1巻』より)
牛乳試験場

 露伴の孫、青木玉さんも、2004(平成16)年4月に、市川市市民会館で開かれた講演で、次のような思い出を話された。
〈家から五分ぐらいのところに乳牛を飼っている人がいて、一升壜(いっしょうびん)を持って朝早く買いに行くのですが、牛の機嫌によって乳の出るときも出ないときもあります。一升壜を持ってもらいに行くことに、祖父は「牛の子どもになったようで牛の乳で命を繋いでもらっている」と笑っていました。機嫌の悪い時は出てくれないので、今日も学校は遅刻だなと思いながら牛乳を待って玄関脇の小さい四角い木の椅子に座っていたことがいまだに私の記憶の中にはあります。〉
(『市川の幸田露伴一家と水木洋子脚色の〈おとうと〉』市川市文学プラザより)

 また、文の「牛と桃」と題する1950(昭和25)年に発表された小品は、次のように書き始められる小説風短編作品である。
〈桃の花ざかりだった。店屋のある家並をはずれ、小学校を過ぎ鎮守様を越すと、いっぽん通った村道の両側には、ところどころに茅葺(かやぶき)の屋根を挟んで田圃(たんぼ)・畑が開ける。申しあわせでもしたように百姓家の庭にはきっと桃が咲いていた。(中略)  うらうらとした陽を受けて十人ばかりの子供たちが、ちょいとしたよそ行きの赤いジャケットやスカートに粧(よそお)って上機嫌で、その道をどんどん遠く行った。広い広い牧場へ行きついた。(中略)〉
 市川と明示されているわけではないのだが、私は何となく、八幡小の前の商店街を通り、菅野の白幡天神社を過ぎ、昭和学院の辺りへと続く光景を、重ね合わせてみたくなるのだが、これはいささか贔屓(ひいき)目に過ぎるだろうか。

 露伴の亡くなる2か月ほど前に、市川市八幡に移り住んだ水木洋子も、戦中戦後の市川で牛乳を売っていた思い出を、1986年ころ書かれたと思われる未発表エッセイにつづっている。
〈戦時中総武線のホームで牛乳を売っているのに目をまるくした私は、金物屋の店先にステンレスの鍋や薬缶がピカピカ並んで、ソバ屋は自由に食べさせるし、市川から叔母さんが銀色の光る鰯(いわし)を時々東京の家が焼けるまで持って来てくれた思い出と共に、あの中山街道に、コンニャクやキヌカツギを売っていた夕暮れの風景が目に浮かび、何という味わいのある土地だと、母親のフトコロに抱かれたような、なつかしい印象で、家を失った母と子は市川に身を寄せたのである。
水木洋子の手書き原稿

 市川は町なのに、すぐ裏の川べりに牧場があり、朝起きると、私は牛乳を買いに四合瓶を抱えて木の橋を渡った。遠くから「モウー」と鳴く牛の声を聞き、土手の桜並木の下を歩く牧歌的な風景、梨や桃や葡萄畠の空にさえずる鳥の声。私は若い母と共に仕合せだった。〉 (『脚本家水木洋子と日本映画の黄金時代』市川市文学プラザより)

 水木洋子脚本の映画「純愛物語」で、主人公の中原ひとみと江原真二郎が牧場でデートするシーンが出てくるのも、市川での光景を踏まえてのことと思われる。
 先日、市川公民館の雑学大学の皆さんに、露伴のエピソードを紹介したところ、「私も昭和学院の近くの牧場に、一升壜を抱えて買いに行きましたよ」と話してくださる方があり、露伴のエピソードが、一気に身近に感じられた。

 今の市川で、牧場があったことなどなかなか想像できないが、こうした光景も、後世に語り継いでいきたい市川の大切な歴史であろう。

 (前回「疥癬」の読みが「かんせん」とありましたが、「かいせん」の誤りです)


(2009年1月3日)

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■§手児奈文学賞に詠まれた手児奈§■
市川民話の会会員・根岸英之


 

 西暦2000年紀を記念し、市川の魅力を広く市内外に知ってもらおうと始まった「市川手児奈(てこな)文学賞」。今年度で9回を迎え、2月8日に、市川市グリーンスタジオで贈賞式が行われ、入選作品集が発行された。

第9回市川手児奈文学賞贈賞式でのトークセッション(2月8日市川市グリーンスタジオ)

 手児奈は、多くの男性に慕われつつも、誰に寄り添うことなく、真間の入江に身を投げたとされる伝説のヒロインで、日本最古の歌集『万葉集』に歌われている。手児奈が、賞の名前に冠されているのは、市川の文化発祥のシンボル的存在と見なされるためである。

 手児奈文学賞は、市川の魅力を短歌・俳句・川柳に詠んでもらうことを趣旨としているが、手児奈が詠まれた作品も多い。手児奈を詠んだ先行作品としては、次のような作品がある。

 短歌
 桃梨やしみ咲く畑に葛飾の少女ら見れは手古奈し思ほゆ 伊藤左千夫
 葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花 北原白秋
 真間の里手古奈の社をろがみてわれや待てるを妹の訪ひ来ぬ 吉井勇
 摩滅せし貝の光りて浜砂に遠き手児奈の古へ偲ばゆ 西川日恵
 『万葉』の手児奈を詠める虫麿呂(むしまろ)の歌を説きつつ渡る継橋 神作光一

 俳句
 連翹(れんぎょう)や手古奈が汲みしこの井筒 水原秋桜子
 継ぎ橋に手児奈とまがふ秋袷 中津攸子
 手児奈思ふ芙蓉の花のくれなゐに 鈴木貞雄

 川柳
 葛飾や真間の手児名のアッパッパ 阪井久良伎
 初産の嫁と手児奈へ来る養子 松沢敏行
 手児奈文学賞に詠まれた手児奈は、これらを受け、市川の新しい文学的資産となってくれる作品といえよう。

 短歌
 そよ風が帯のようだと言う妻は手児奈の歌を口ずさみおり 石川県金沢市 神馬せつを(1回)
 うろこ雲手児奈も見しと思ふ間に秋の湾岸とばし過ぎゆく 千葉県船橋市 増田啓子(2回)
 人々に愛され続ける手児奈姫片葉の葦にモーゼを見たり 千葉県浦安市 榑松奈々美(6回)

 俳句
 手児奈池枯れも華やぎ片葉芦 市川市新田 伊藤京子(2回)
 溢るほど手児奈に摘まむ野紺菊 神奈川県横浜市 守屋典子(4回)
 蝉時雨娘(こ)らにそれぞれ手児奈像 市川市真間 山梨民江(7回)

 川柳
 手児奈娘(ご)の心の深さはかる海 千葉県流山市 春日美恵子(2回)
 安産の祈り手児奈の帯を巻き 千葉県習志野市 川崎火呂志(2回)
 涸れ井戸に添えば手児奈も千の風 市川市鬼高 森冨士子(8回)
 今年度の一般の部の入賞作品には、手児奈を詠んだ作品はなかったが、子どもの部にすてきな作品が寄せられた。

 手児奈はねとても優しい女の子どんな人にも優しい手児奈 森田恵理佳 平田 小学5年
 手児奈ひめ今はお空のお星かな 進藤祐希 真間 小学6年
 真間の井戸手児奈の神秘つまってる 中村創 真間 小学6年

手児奈文学賞入選作品集(市川市発行)

 今年度の入賞作品展は、市川市文学プラザで5月まで開催されており、入選作品集を購入することもできる。同プラザでは、「てこな―その姿をもとめて」と題した企画展も同時開催され、手児奈に関するいろいろな側面を知ることができる。

 関連イベントとして、講演会「手児奈の歌と古代の交通」(2月14日)、上映会「映像でたどる手児奈」(2月15日)、講座「市川手児奈文学賞に詠まれた手児奈」(3月1日)など、手児奈を知ることのできる催しも目白押しである。
(2009年2月14日)

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■§江戸時代の「縁起」に記された手児奈§■市川民話の会会員・根岸英之


 
大正時代の手児奈霊堂の縁起(左)と現在の縁起=市川市文学プラザ

 市川市真間の手児奈(てこな)霊堂に祀(まつ)られている手児奈について、皆さんがご存知の話はどんな内容だろうか。

 現在、手児奈霊堂は、日蓮宗弘法寺が管理しているが、現在の寺で作成している「縁起」(寺仏の来歴を伝えたもの)には、次のような内容が紹介されている。

 〈真間山弘法寺は奈良時代、天平九年(七三七)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの地にお立ちよりになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われました。(中略)この薄命の手児奈を『良縁成就』『孝子受胎』『無事安産』『健児育成』の女神として祀ったのは、当山第七世日与上人(にちよしょうにん)で、文亀元年(一五〇一)九月九日、上人の夢枕に霊神からのお告げがあり、感受されたことから、爾来(じらい)、産み、育て、生きる素晴らしさを守護する女神として多くの信仰を集めています。>

 弘法寺は、明治二十一(一八八八)年に火災に遭い、古い縁起も、残念ながら消失してしまった。

船橋市西図書館所蔵の手児奈大明神略縁起(慶応3年再刻)=同プラザで4月2日まで特別展示

 ところが、船橋市西図書館には、文政十三(一八三〇)年に発行された『手児奈尊霊略縁起』という版本が所蔵されている。そこには、先に引いた日与上人の霊夢説話が記されており、少なくとも、江戸時代後期には、こうした縁起が、伝承されていたことが分かる。

 同図書館には、さらに興味深いことに、慶応三(一八六七)年再刻と記された『手児奈大明神略縁起』という版本も所蔵されている。そこには、実に変わった縁起が記されている。

 〈(要約)允恭(いんぎょう)天皇の時代(四一二?四五三年)、何某(なにがし)の朝臣(あそん)という都人が、真間の地に左遷されてきた。その娘は、大変心優しく、美しい人だった。しかし、父が亡くなると、多くの男たちが言い寄ってきたので、貞操を守るために、真間の入江に身を投げてしまった。人々は、操を守り結婚せずに、「チゴ(手児)」のまま亡くなったので、この娘を「チゴナ(手児奈)の神」として祭った(「ち」と「て」は音韻が通じる)。疱瘡(ほうそう)やお産に関して霊験が顕(あきら)かなのは、「児(ちご)」に因んでみどり子をいとおしく思うからである。〉

 再刻というのは、それより以前に刊行されたものを再刊したことを意味し、似た内容が、『遊歴雑記初編』(文化十一=一八一四年)という地誌に記されており、文化年間ころには、こうした縁起があったものと考えられる。

 慶応版の縁起には、次のような伝承も記されている。

 〈都見が鼻(とみがはな、またはみやこみがはなか)―手児奈社より東松原の末にあり、何某の朝臣がここではるか都の方を見やったのでこの名がついた。〉

 〈泪川(なみだがわ)―都見が鼻の下にある小川で、何某の朝臣が都の方を見て嘆き涙を落としたので、この名がついた。〉

 こうした伝承は、いまでは忘れ去られた伝承であり、船橋市西図書館が、こうした資料を収集してくれたことの意義は、大変大きい。

 現在、市川市文学プラザで開催中の企画展「てこな―その姿をもとめて」では、この縁起が特別出展されている。船橋の図書館資料を市川の文学プラザで間近に見られるめぐり合わせを、改めてかみしめたい。

 図書館や文学館は、地域の文化資産を収集保存し、後世に継承していく、文化の根幹を支える基幹であることが分かる。図書館はただの貸し本屋でもなければ、文学館も税金を無駄遣いする贅沢(ぜいたく)なハコモノではない。それは、過去の文化と未来の文化への投資でもあるのだ。

 市川の図書館や文学館が、どのような方向に向かうのか、それこそ、「文化都市」を標榜する市川市民の“品位”に関わる問題でもある。

(2009年3月14日)

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■§市川で荷風忌を!〜文化人の呼びかけで§■市川民話の会会員・根岸英之


 
1990年ごろの大黒屋=『荷風の散歩道』(市立市川歴史博物館 一九九〇年)から

 去る三月三十一日、市川市にふさわしい文学館のあり方を検討してきた「市川市文学館検討委員会」の年度最後の会議が開かれ、夕刻、京成八幡駅近くの大黒家で慰労会が行われた。

 大黒家といえば、永井荷風が、昭和三十四(一九五九)年四月二十九日に、ここでいつものようにカツ丼と日本酒を注文し、翌三十日未明、自宅で一人亡くなっていたことで知られる、荷風なじみの店である。

 宴(うたげ)もすっかり深まったころ、東洋大学教授の神田重幸氏が、「今年は永井荷風の没後五十年に当たるのに、市川では何もやらないのか。(東京)荒川区の浄閑寺で毎年、荷風忌をやってはいるが、終焉(しゅうえん)の地・市川でこそ、荷風忌を開催すべきではないか」と、熱く説き始めた。

 隣りにおられた作家の葉山修平氏や、江戸史研究家の秋山忠彌氏がこれを受け、「なるほど市外に住む先生に、そのように言われて、何も行動を起こさないのは、市川市民として恥ずかしい。急なことではあるけれど、例え少人数でも、市川の地でやることに意義がある。ぜひやろうじゃないか。」ということになり、少し離れた席にいた私も、その輪に呼ばれた。

『渡り鳥いつ帰る』試写会用パンフレット(一九五五年)=『荷風の散歩道』(市立市川歴史博物館 一九九〇年)から

 「命日の三十日にやれれば一番いいが、前日の二十九日なら祝日だし、集まりやすいのではないか」
 「大黒家で誰かが話をした後、食事などできればいいが」
 「何人集まるか分からないので、とりあえず文学プラザを会場に集まりを持ち、その後、希望者が大黒家に移って食事などするのはどうだろう」
 「大黒家の女将さんにもぜひ発起人になってもらおうじゃないか」
などと、話はとんとん拍子に進んでいった。

 大黒家だけでは話し足りない面々は、写真家の星野道夫さんが通ったことでも知られる喫茶店・螢明舎に座を移し、歌人の神作光一氏らも交えて、さらに具体的な内容が話された。

 こうして、四月二十九日午後二時から、市川市文学プラザを会場に、「市川・荷風忌」を開催することになった。秋山忠彌氏による「永井荷風と江戸文芸」をテーマにした卓話、詩集「珊瑚集」の朗読(演者交渉中)と、随筆「葛飾土産」の朗読(根岸が担当)の後、参列者同士で荷風についてあれこれ語り合おうという予定である。

 神作氏も、「こんな画期となることが話し合われただけでも、今日は大変意義深い日になった。文学館整備に向けての、市民への関心づくりにもつながるだろう」と、満足気な顔をされた。
 私も、何か大きな節目の中にいるような、そんな気分の昂まりを胸に、帰路に着いた。
 荷風の生まれは明治十二(一八七九)年なので、今年は生誕一三〇年の年でもある。

 市川市文学プラザでは、この記念すべき年にちなんで、さまざまな催しを企画している。
 四月十八日には、JR市川駅から京成八幡駅に向かう形で、「荷風ゆかりスポットツアー」が行われる。
 五月二日には、荷風原作映画「渡り鳥いつ帰る」の上映会が、文学プラザの2階のグリーンスタジオで開催される。荷風生前の昭和三十年に作られた映画で、荷風の市川時代に書かれた「にぎり飯」「春情鳩の街」「渡鳥いつかえる」を元に映画化された。「にぎり飯」の原作は、映画では省かれているが、市川が重要な舞台として描かれている。
 また、六月十三、十四日には、市民オリジナル演劇「荷風幻像〜老愁は葉の如く」の公演も予定されている。市川市在住の吉原廣氏の作・演出で、戦後市川での荷風の失意と再生の軌跡を、公募で集まった三十余名の市民が上演するオリジナル作品である。

 市川が誇る荷風の足跡について、一人でも多くの市民が見つめ直し、市川でどのような文学顕彰のあり方が望まれるのか、夢を託していくきっかけになればいいと思う。


(2009年4月11日)

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■§永井荷風『にぎり飯』〜文学から映画へ§■市川民話の会会員・根岸英之


 
『にぎり飯』ほか所収する『永井荷風作品集 第6巻』1951(昭和26)年=創元社(水木洋子旧蔵書=市川市文学プラザ提供)

 四月二十九日、生誕百三十年・没後五十年を迎える文豪・永井荷風を偲(しの)んで、「市川・荷風忌」が、市川市文学プラザ(市川市生涯学習センターメディアパーク市川内)を会場に開催された。

 企画の話が起こってから実施まで、ひと月もない開催であったにも関(かか)わらず、実に七十名に及ぶ熱心な参列者が集い、氏の業績を偲ぶことができた。

 五月二日には、荷風原作映画「渡り鳥いつ帰る」の上映会が、文学プラザの二階にあたるグリーンスタジオで開催された。こちらも、二百六十名の定員いっぱいの観客でにぎわった。

 「渡り鳥いつ帰る」は、荷風生前の昭和三十年に作られた映画で、荷風の市川時代に書かれた「にぎり飯」「春情鳩の街」「渡鳥いつかえる」を元に、久保田万太郎が構成、八住利雄の脚色、久松静司の監督により映画化された。

 映画のあらすじは、森繁久弥演じる伝吉が戦争中、妻千代子(水戸光子)と生き別れ、馴染(なじ)みの女おしげ(田中絹代)に引き取られ、鳩の街(現・墨田区向島)という、女性が春を売る街の店の主人となる。伝吉の店には、さまざまな境遇の女性が働いている。

 一方の千代子は、善良な由造(織田政雄)に救われ、おでん屋を開いていた。伝吉と千代子は再会するが、伝吉は自分の立場を悟って、離婚届を渡し、酒に酔った勢いで、川で溺死(できし)してしまう。伝吉の店の女性たちも、苦しい人生を歩む―といったストーリーである。

 原作のひとつ「にぎり飯」は、昭和二十二年十一月に脱稿され、昭和二十四年一月の『中央公論』に発表された短編小説で、市川が重要な舞台となっている。

 深川の荒物屋・佐藤は、昭和二十年三月の東京大空襲で、荒川放水路まで逃げ延びたものの、女房子どもと生き別れてしまう。葛西橋のたもとで、同じく焼け出され、これから行徳の知り合いを頼って避難するという若い女性(千代子)と出会い、炊き出しのにぎり飯を分け合うと、自分は市川の知人を頼って生活を送るようになる。

 その後、二人は再会し、終戦後、所帯を持ち、市川駅前におでん屋を開くことになる。翌年、二人の店に千代子の夫が、偶然来店するが、互いの境遇を察して無言のまま別れ、千代子はやがて、佐藤の子どもを身ごもり、中山法華経寺の鬼子母神へ安産祈願に向かうというストーリー。

水木洋子『浮雲』や永井荷風原作・八柱利雄脚本『渡り鳥いつ帰る』ほか所収する『年鑑代表シナリオ集』1955(昭和31)年=三笠書房(水木洋子旧蔵書=市川市文学プラザ提供)

 小説の中から、佐藤と千代子が再会を果たす場面を引用しておこう。

〈「わたしも御覧の通りさ。行徳なら市川からは一またぎだ。好い商売があったら知らせて上げましょうよ。番地は……。」
「南行徳町□□の藤田ッていう家です。八幡行のバスがあるんですよ。
それに乗って相川ッていう停留場で下りて、おききになればすぐ分ります。百姓している家です。」??(『荷風全集第十九巻』より読みやすく引用)

 映画では、伝吉が「にぎり飯」の千代子の夫に重ねて造型化されていることが分かる。

 ただし、映画では、千代子が店を構える場所は、「渡鳥いつかえる」の場面設定を踏まえて、曳舟あたりになっており、市川でなくなっている。

 しかし、映画を見ただけでは分からないのだが、シナリオを読むと、伝吉と千代子が再会を果たす場面は、行徳辺りと指定されていることが分かる。

 以下は、シナリオのト書きの引用である。

〈18行徳の町(夕暮)千代子が疲れ切った様子で帰って来る。
19海岸近くの道千代子が来る。ギョッとした顔で立止る。伝吉が立っている。
千代子は、サッと身をひるがえして急ぎ歩き出す〉

 このように見てみると、映画「渡り鳥いつ帰る」も、やはり市川ゆかりの映画ということができる。

 現在、市川市文学プラザは、同じ建物の映像文化センターと一体化して、文学と映像を合わせた新しい文学館に整備していく計画を進めている。荷風の「にぎり飯」は、まさにこうした展開を見通す上でも、意義深い作品といえよう。
(2009年5月9日)

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■§『荷風幻像』〜市民オリジナル演劇§■
市川民話の会会員・根岸英之


 
演出をする吉原廣さん(左)

 六月十三日、十四日の両日、市川市生涯学習センターのグリーンスタジオで、文豪・永井荷風を描く、市民オリジナル演劇「荷風幻像〜老愁は葉の如く〜」が上演される。

市川市在住の吉原廣氏の作・演出で、戦後市川での荷風の失意と再生の軌跡を、公募で集まったり三十余名の市民が、キャストやスタッフとなって上演するものである。

この原型は、五年前の二〇〇四(平成十六)年三月に市川市文化会館で上演された、市川市芸術文化団体協議会創立三十周年記念舞台公演「荷風幻像〜芸能でつづる永井荷風と市川〜」。当年は、荷風の生誕百二十五年・没後四十五年であり、市川市が主催する「市川の文化人展」で永井荷風が取り上げられることもあり、荷風をテーマにした舞台公演が実施された。交響楽団・オペラ・合唱・三曲・吟剣詩舞・洋舞踊・長唄など、さまざまな団体が、荷風にちなむ作品を上演し、その間をつなぐように、市川の荷風を描く芝居が演じられた。

本番を直前に練習に励む出演者

今回の公演は、生誕百三十年・没後五十年に当たって、市民参加型の顕彰事業を考えていた市川市文学プラザが、吉原氏と検討の結果、このときの台本を大幅に書き改め、上演の運びとなったものである。

芝居の副題は、荷風の代表作「?東綺譚(ぼくとうきたん)」に由来する。以下、台本からご紹介しよう。

荷風 老愁は葉の如(ごと)く、掃(はら)えども尽きず…
中村 ??(そうそう)たる声中、又秋を送る…?東綺譚の後書きですね…老いたる身は掃けども尽きぬ落ち葉のように、愁いとともに生きていくしかない。
荷風 今の僕は、もう死を待つばかりですぜ。>

芝居は、戦災で一切を失い、市川に流れ着いた荷風の老醜から描き始められる。

しかし、市川を散策する中で、次第に元気を取り戻し、「葛飾土産」などの名文が、書かれていく様子が演じられる。

凌霜  「葛飾土産」。荷風の市川散策記です。
どうです。昭和二十年代の素朴な光景ばかりでなく、散策する荷風の吐息まで聞こえてくるような文章じゃありませんか?
私はね、荷風を思う時、いつも川をイメージするんです。(中略)
荷風 水の流れの見える所が好きなんですよ。水は果たしてどこへ流れていくのか、見届けられる所まで見届けたいな。人の見ない遠い先まで見届けたいな。ぼくは。(中略)
小村 しかし荷風先生は、市川という土地を随分小まめに歩いておいでですね。
荷風 ハイ、川沿いの光景、横丁、路地、裏町の女、日陰者…そういうのが好きなんですねえ。こうしたぶらぶら歩きから、「畦(あぜ)道」「或夜」「羊羹(ようかん)」などの短編も生まれました。
小村 先生は、市川をこんな風に楽しんでいたんですね。ぼくら住民には殺風景な田舎にしか見えなかった光景が、先生の筆にかかったら、途端に桃源郷か何かに見えてくる。作家ってすばらしい仕事なんですね。〉

やがて、浅草通いが始まるが、終焉(えん)も近づいてくる。幕切れ間近には、次のようなせりふが語られる。

荷風 世の中には酒もあれば、女もいる。立派な芸術もありますよ。そういうものを上手に使い分ければ、どんな孤独でも平気ですごせるものです。ぼくは自分の生涯を孤独で塗りつぶしたから思想が沸いた、仕事ができたといえるんですよ。>

吉原氏の台本は、荷風の「断腸亭日乗」を始めとする市川時代の作品や、多くの荷風研究の成果を、巧みに取り込みながら、老いていく作家の晩年を、見事に描いている。

また、仕事を持ちながら練習に励んだ市民の熱意にも脱帽する。プログラムや協賛金集めまで、市民が自ら行ったこの取り組みは、まさに市民が主体となった荷風顕彰として特筆に値しよう。

難しい研究書を読むよりは、この舞台を見てほしい。そんな謳(うた)い文句がぴったりの催しといえよう。

(2009年6月13日)

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■§宗左近の校歌と学校賛歌〜子どもへの温かいメッセージ§■
市川民話の会会員・根岸英之


 
宗左近「宇宙」(県立市川西高等学校校歌)詩碑拓本(市川博物館友の会拓本部会の制作)

 市川を代表する詩人の宗左近(そうさこん)さんは、一九一九(大正八)年五月生まれなので、今年は生誕九十年に当たる。二〇〇六(平成十八)年六月に逝去され、丸三年が経った。

 宗さんの詩は〈縄文〉だとか〈宇宙〉だとか、壮大すぎて難しいと思われがちだが、とてもユニークな校歌を作った詩人として、若者の見るインターネットサイトなどでは、知られた存在でもある。

 千葉県立市川西高等学校の校歌「宇宙」も、そんな一つである。一九八五(昭和六十)年三月の作で、三善晃さんの作曲になる。


〈空はなんのために青いのか
呼びかけてくる朝のそよ風
あけようよ真っ白いノート
ここは湧きでる泉のふるさと
ぼくたち(わたしたち)
裏切りはしない
自分自身を
どんなに願いが崩れても
遠い夢は必らず花をひらく
空はなんのために青いのか

虹はなんのために咲きでるのか
呼びかけてくる晝(ひる)の太陽
めくろうよ爽やかな楽譜
ここは市川西高等学校

ぼくたち(わたしたち)
裏切りはしない
愛の明るさを
どんなに嵐が狂っても
ひろい地球は必らず晴れてゆく
虹はなんのために咲きでるのか

人はなんのために生きるのか
問いかけてくる夜の銀河
祈ろうよ新しい明日
ここは噴きでる生命のふるさと
ぼくたち(わたしたち)
裏切りはしない
光の未来を
どんなに闇が深くても
大きい宇宙は必らず美しい
ああ人はなんのために生きるのか〉
(宗左近『あしたもね』所収)

市川市文学プラザで展示中の宗左近の自筆原稿

 難しいどころか、こんなすてきな校歌のある学校が、なんとうらやましく思えることか。

     ◇

 二〇〇〇(平成十二)年一月に発表された「市川小学校子ども讃歌永遠無限」も、校歌とは別に、愛唱される歌をという地域の人の依頼で作られた、やはり三善晃さんの曲が付いた作品。


〈市川くん曙ちゃん
星からの使い星への使い
夢と現(うつつ)の二つを生きる
きみわたし新しい両生類
そうだよ
生れたばかりの生命(いのち)のきらめき

宇宙ちゃん未来くん
天使が友だち友だちが天使
生きるって光りあうこと
泣いたって 必ず虹が出る
夜になっても炎え立つ太陽
無限光年のそのむこう>
(宗左近『透明の蕊の蕊』所収)


 二十代の多感な時期、大切な母や学友を戦争で亡くした体験を持つ宗さんならではの、生命に対する絶対的ないとおしみと、広い宇宙のなかに生きるすばらしさが、子どもの心にも、まっすぐに届く詩ではないだろうか。

     ◇

 現在、市川市文学プラザでは、そんな宗さんの生涯と作品世界を展望する企画展「詩(うた)平和への響き〜宗左近・永井荷風によせて」が開催されている。今回紹介した作品の自筆原稿は元より、昭和二十年の戦争中に書かれた日記が、初公開されている。七月十七日の講座「永井荷風の詩作と偏奇館炎上」につづき、八月七日には、「朗読で味わう戦争詩」の催しなどがある。梅雨明けの空を想いつつ、宗さんのことばに耳を傾けてみたい。

(2009年7月11日)

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■§地域の民話を次世代に伝える§■
市川民話の会会員・根岸英之


 
手児奈の紙芝居を演じる筆者(2009年2月、市川市文学プラザ)

 市川には、万葉集にも記された「真間(まま)の手児奈(てこな)」をはじめ、たくさんの民話が語り伝えられている。

 都市化された現代では、なかなか耳にする機会がないが、地域に伝わる民話を記録し、次世代に伝えていこうと活動しているのが、市川民話の会である。

 一九七八(昭和五十三)年に発足し、地域に長く住んでいる方から話をうかがい、『市川の伝承民話』という資料集に記録する一方、自らも語り伝えていく活動を続けてきた。

 ここ数年は、年に数回、「市川の民話を語る会」という主催事業を開催している。

 さる七月十一日には、市川駅南口にできたIリンクタワーで、「ちょっと昔の市川駅あたりの話」をテーマに、つどいを催した。

 「真間の手児奈」は、若い女性会員による紙芝居で、国府台の里見公園に伝わる「鐘ケ渕」伝説は夫婦の会員による掛け合いの語りで、ヤマトタケルとこうのとりにまつわる「国府台」の地名由来伝説と弘法寺の石段に伝わる「涙石」の伝説は私の語りで聞いてもらった。

 また、総武線が高架になる前の市川駅周辺の様子を知っている会員からは、南口に宝酒造という工場があり、独特のにおいがしていたこと、北口には小商いの店が立ち並び、にぎわっていたこと、大野の梨をりんごの木箱に詰め、市川駅に集荷していたことなど、ちょっと昔の話が披露された。

 後半は、参加した方から、お話をうかがう時間を作り、貴重な話をうかがうことができた。

 戦後すぐ、小岩の警察に勤務していた方からは、市川橋の両側で買い出しの取り締りが行われており、市川側は取り締まりが厳しく、小岩側はそれほどでもなかったことから、「地獄の市川、仏の小岩」といわれていたという話を聞かせていただいた。

民話を語る民話の会会員(2009年3月、高谷・二俣街回遊展)

 また、真間の木内ギャラリーのそばで子ども時代を送っていた人からは、かつて、木内別荘の敷地の中に大きな洞(うろ)のできた大木があり、その中に入って遊んだなどの話を聞かせていただけた。

 市川民話の会では、このようなちょっと昔の思い出話なども、次世代に語り伝えていく市川の大切な話ととらえ、聴き耳を立てている。こうした話なら、読者の皆さんも、ご自分なりの市川の民話を語り継いでいくことが可能ではないだろうか。
      ◇

 八月二十二日(土)には、市川市真間の木内ギャラリーで開催中の企画展「日本のおばあちゃんの手仕事展―伝承のちりめん細工―」の会場で、午後二時から民話の語りを催す。
 手作りのちりめん細工に囲まれながら、真間周辺の民話や、着物が出てくる市川の民話などを聴いてもらう予定。

 また、八月二十四日(月)には、市川市南八幡の市川教育会館で、市川の民話についての講義や語りを聴いてもらった後、参加者と一緒になって語りの練習をする会を予定している。
 午前十時から講義、昼をはさみ、午後一時半から、語りのワークショップを行う予定。午前のみ、午後のみの参加も歓迎なので、夏休みのひとときに、市川の民話に耳を傾けてみてはいかがだろうか。

 伝統的な語りの場がなくなっている現代では、こうした新しい民話の伝承の場が、求められている。
 九月以降も、十九日の回遊展in八幡での「八幡の民話回遊ツアー」など、いろいろな催しを計画している。

 一人でも多くの方に、市川に伝わる民話を知ってもらい、伝承の一端を担ってもらえたらうれしい。
(2009年8月8日)

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■§戦後詩を切り開いた市川の詩人―福田律郎と鳴海英吉§■
市川民話の会会員・根岸英之


 
福田律郎『終と始』(理論社)=市川市文学プラザ提供

 市川市文学プラザで、十月十二日まで開催中の企画展「詩(うた) 平和への響き―宗左近・永井荷風によせて」を見ると、市川には、戦後詩に大きな足跡を残した詩人が、何人もいることが分かる。

 宗左近さんもその中の一人で、本連載でも折りに触れて紹介してきた。今回は、今まで市川であまり触れられてこなかった、二人の詩人を紹介したい。

 一人は福田律郎(ふくだりつろう)という詩人。福田は一九二二(大正十一)年に浅草で生まれ、戦前は全国詩誌「日本詩壇」で活躍していた。

 一九四五(昭和二十)年三月十日の東京大空襲で、婚約者の槇子(まきこ)が大きな負傷を負う。結婚した二人は戦後、市川市中山法華経寺参道で店を開いていた姉の近くに暮らし始める。

 一九四六(昭和二十一)年、戦後詩の出発点ともいえる詩誌『純粋詩』を創刊し、戦後の若い詩人たちの拠点としようと私財を投じた。『純粋詩』には、小野連司(おのれんじ)・秋谷豊(あきやゆたか)・鮎川信夫(あゆかわのぶお)、田村隆一(たむらりゅういち)、村松武司(むらまつたけし)らが参加し、福田の家は、若い詩人たちのサロンとなったという。

 また、中山の日本毛織労働者のサークル誌を主宰したり、一九五二(昭和二十七)年の真間川病院入院中に、サークル誌「ママ川」を主宰するなど、多くの同士を育てたが、一九五五(昭和三十)年以降、結核のため国立千葉療養所での入院生活を余儀なくされた。

「鳴海英吉全詩集」(本多企画)=市川市文学プラザ提供

 もう一人の詩人、鳴海英吉(なるみえいきち)は、一九二三(大正十二)年に上野で生まれ、戦前から「日本詩壇」など多数の詩誌に参加。北朝鮮で終戦を迎え、シベリヤ抑留を経て、一九四七(昭和二十二)年に帰国。

 横浜大空襲で焼け出された両親や家族が、市川市中山の日本毛織の近くに住んでおり、そこに身を寄せ、婚約者ふさ子が横浜大空襲で死んだことを知る。

 一九五一(昭和二十六)年、自宅近くに住んでいた福田と出会い、一緒に『生活詩集』編集を開始、後の代表詩集『ナホトカ集結地にて』の草稿となる作品を書き上げた。

 市川中山人形劇団フーセン座にも入り活躍、一九五八(昭和三十三)年に結婚し、印旛郡酒々井町に転居するまでを、市川で暮らした。

 二人に共通する点は、戦災に遭った婚約者を詠(うた)った激烈な詩を書いていることである。

 福田の詩集『終(おわり)と始(はじめ)』(一九五七年)に収められた「風V」は、次のような散文詩である。

〈(前略)まだ結婚まえの娘なのに、となんども繰返しながら母親はいうのだ。マキコの顔は火ぶくれで歪(ゆが)んだ、瞼(まぶた)や頬(ほお)の皮膚が溶けて胸まで垂れ下ってしまったのです。そうか。マキコの五本の指はみんなくっついて縮んでしまったのです。そうか。――そうか。いや、それでもわたしは耐えることができる。マキコが生き残ってくれた。(中略)ここに、そう、この廃墟の中にこそ、かつてわたしの指をからませたあのマキコの美しく繊い指がある! (後略)〉。

 鳴海の「焼き殺されたふさ子」(一九五四年初出)は、『鳴海英吉全詩集』(二〇〇二年)から引用する。

〈(前略)「オッパイが裂けたとき ふさ子は女の子だったと私達はハッと息を呑(の)みました」両親の話 ふさ子はやがて海のような炎に包まれる 近くの直撃弾で人の手を借りずに ふさ子の遺体を風のような力でうつ伏せにしてくれた 人に恥ずかしい姿をかくしてくれた その背中の上に焼けた灰がふり注ぎ積ってゆくと 横浜市は全滅した(後略)〉

 どちらも、壮絶な絶唱ではないか。

     ◇

 九月十六日には、市川学園高校の卒業で、二人とも縁の深い、詩人の鈴木比佐雄氏による講演会「戦後詩を切り拓いた市川の詩人たち―福田律郎・鳴海英吉・宗左近の鎮魂詩の歴史」が、同プラザで開催される。この稿も、鈴木氏のご教示に拠るところが大きい。

 市川ゆかりの詩人が、どのような戦争体験をし、戦後、市川でどのような作品を書き上げたのか、今まで明らかでなかった新たな歴史が、語られるはずである。


(2009年9月12日)

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