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「“大人の幼児化”は社会の随所に」

 今年初め、成人式をきっかけに注目してきた日本人に於(お)ける大人の幼児化は、さまざまなところにその兆候が顕在する。象徴的なのは、或(あ)る大手製紙会社の御曹司の人倫にもとる行為。グループ企業から100億円超の無担保借入をしてカジノに興じていたという。金額の多さではない。会長という立場を利用し、会社のカネを自分のカネと混同するはき違えた行為は、間違いなく自己中心的であり、幼児性そのものである。他にも、大手光学医療メーカーの損失隠しの粉飾決算、企業年金資産運用をする投資顧問による投資損失隠蔽など、挙げれば切りがない。
 
 カネに纏(まつわ)わる不祥事の背景には、心無いトップの「自分さえよければよい」という心の未成熟、自己中心的で稚拙な判断がある。
 
 企業に限らず、大人の幼児化は社会の随所にみられる。昔、政治家は天下国家を論じ、国や国民のために命を捧げる覚悟をもつ人達と学校で教わったが、今同じことを子供達に教えたたらどんな反応が返ってくるだろうか。国会論議では選挙の為(ため)の駆け引きに終始した損得ずくの言動、自分本位・無定見な言行が多過ぎる。
 
 教育界も同様。大津市のいじめ問題にかかわる教育委員会・学校の対応は論外だが、身近にもある。例えば数年前から校長OB間で醜行(しゅうこう)と言われながらも、教育委員会事務局のトップであった者が職を辞した後も、3年間にも亘(わた)って多額の報酬を受け取り続けたというもの。それも、形式的には相談員という肩書を持つものの相談事例は殆(ほと)んどないのに、その職に居座り続けたというのだ。良識ある教育者であればそのカネを受け取ることはまずあり得ない。昨今の自治体の厳しい財政事情を考えれば、その分の予算を耐震工事費や劣悪化が進む教育環境改善の為に振り向ける、或(ある)いは、深刻な問題であるいじめなどへの対応に補助教員を数人採用することもできた。
 
 これらの事実は、それぞれの絡繰(からく)りこそ異なるが、根っこにあるものは幼児性の特徴・自己中心性であり、非人間性の表れとみる。そんな大人を子供達は見て育っている。人を騙すな、責任逃れをするな、自己中心はダメだ・思い遣りが大切だと、今大人が言っても子供達は決して聞き入れることはない。子供達が大人を信頼し尊敬でき、人が人から学び、人が育つ社会を復活させたいと切実に思う。

  (2012年12月15日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「祖父母の教育力が子供に不可欠」

 「11月3日号の市よみを読ませて頂きました。(中略)
 今はなかなかこういう『若い時に苦労をせよ』というような話をしてくれる大人はいなくなったかもしれません。
 私には祖父母と暮らした経験がないので、勿論、祖父母の知恵を授かるチャンスは有りませんでしたが、幼い頃に聞かされた話というのは幾つになっても覚えていて、その人の骨格となっていくのですね。
 それで思い出したのですが、遠野で子守唄の伝承活動をなさっている阿部ヤエさんという方をご存知でしょうか。
 私は最近知って、遠野に伝わるわらべ唄の凄さに驚いています。
 わらべ唄は、人間らしい一人前の大人に育てるために体系だてられているのです。
 そして、そうやって子育てをするのは父母ではなく祖父母の仕事なのです。
 現在、大人になれない子供が多いのは、核家族になり祖父母の知恵を得ることができなかった状態で子育てが疎かになった結果と思えば当然の成り行きかもしれません。
 既に私らの世代でも幼稚な大人はいるし、私ら世代が祖父母になったとしても、昔のお年寄りほど教育力は持ち合わせていないのかもしれません。
 しかし、今からでも学習して孫が出来た時には、親にはできない祖母としての教育ができるように努力したいと思いました。
 孫ができて人としての大切なことを伝えられたらそれだけで人生大成功の様な気がします。
 そうやって命のバトンをつないでいけたら死ぬことは怖いことではありません」
 
 これは本紙読者Iさんからの手紙の一部を掲載させて頂いたもので、読んで共感する読者は多いと思うが、筆者もその一人である。
 
 何故なら、子供の人間形成に隔世伝承が不可欠なことへの認識に止まらず、将来生まれてくる孫の為に自らの人間性を磨き、祖母という質の高い教育力をもって孫の人間的成長にかかわろうと努力する意志と覚悟が伝わってくるからである。
 
 前出の阿部さんは語り手の会の巻頭エッセイで「子供を育てることは、人間らしい大人をつくることです。日本人としての魂を守ることだと思います」、NHKラジオ深夜便『明日への言葉』では「今はかつてのように祖父母を当てにはできないかもしれないけれど、頼れる親達がいたら、もっと甘えて子供を任せてもいいんじゃないかな。子供と親の距離は遠い方が逆に思い合えることがあると思う」と語っている。

  (2012年12月1日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「父母が手を携えてこそ子供は育つ」

 【絵師・等伯の息子、久蔵が父との諍(いさか)いで家を飛び出して三日たち四日が過ぎると、清子(母親)が次第に気を揉(も)みはじめた。捜しに行かなくていいのかというのである。等伯はそれを突き放した。表現者は孤独である。誰とも違う、誰にもまねのできない境地を目指して、たった一人で求道の道を歩き続けなければならない。久蔵はその境地を目指して、自分と向き合う旅に出たのだ。黙って見守ってやるしかないのだった。
 「そんな…、万一のことがあったらどうするんですか」
 「その時は、それだけの力しかなかったと諦めるしかあるまい。戦で討死するようなものだ」
 「何が討死ですか。お前さまは冷たいお方です。人の情というものがありません」
 「それならお前が捜しに行け。しかし、それで久蔵が喜ぶと思うなよ」
 等伯は思わず声を荒くした。
 
 本当は心配で心配で、居ても立ってもいられないほどである。この切所(せっしょ)がどれほど辛(つら)いか、身をもって分かっている。下手をすれば命まで取られかねないだけに、どこへなりとも駆けつけて手をさし伸べてやりたかった。
 
 しかしそれをすれば久蔵の芽をつむだけなのだから、冷たいと言われようが薄情と言われようが、じっと耐えて待つしかないのだった。
 
 (中略)
 
 一カ月後、帰ってきた久蔵は頬がこけ、目は落ちくぼみ、月代も髭(ひげ)も伸び放題で、裸足の足は傷だらけで、服は汚れて異臭を放っていたが画帳だけは真っ白、手垢(てあか)ひとつついていないものだった。そこに書かれていた絵に等伯は押し倒されるような迫力を感じたという。】
 (日経新聞連載『等伯』第400回から)
 
 江戸時代を代表する画家・等伯の、我が子を一人前の人間に育てようと心を鬼にした厳しくも辛い父親の心情と、心配で居ても立っても居られないという母親ならではの優しい愛情が溢れ出ている。
 
 子供が一人前の大人に育つためには父は厳しく、母は優しくという「厳父・慈母」が見事に描出されている。この言葉は今では死語同然になってはいるものの、現代でもその精神は生きている。学問的には父性と母性に置き換えられてはいるが考えは同じである。二つの異なった性の親が役割を果たしながら手を携えて子供に向き合い、成長を助けてこそ、子供は健全に育ち、一人前の大人へと成長していくことを、等伯は教えてくれている。

  (2012年11月17日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「若い時の苦労が将来に役立つ」

 《願わくば、我に艱難辛苦(かんなんしんく)を与えたまえ》
 戦国時代の武将、山中鹿之助が戦いの中で三日月に向かい手を合わせて祈った言葉とされている。筆者が子供の時、祖母から繰り返し聞かされた鹿之助の武勇伝に出てくる言葉であった。当時、鹿之助を凄(すご)い人だと思ったが、どうしてわざわざ辛(つら)いことを求めるのかは分からなかった。他にも祖母は、「獅子の子落とし」や「艱難、汝(なんじ)を玉にす」などの話もしてくれた。そして誰かの名前を出して「あの人は苦労したから」とか「辛かっただろうに良く耐えてきたから」とか言って、その後に必ず「一人前の立派な大人になった」と付け加えるのが常であった。要するに「若い時の苦労は買うてもせよ」で、人生に艱難辛苦はつきもの、若い時の苦労は自分を鍛えてくれて将来役立つ貴重な経験となるから、自ら進んで苦労した方がよいという事を教えてくれていたのだ。
 
 当時の時代背景もあり、これらの言葉は子供心に自然と深く沁(し)み込み、大人になってからは人生を支える言葉となった。今でも鎧兜(よろいかぶと)に身を包み三日月に向かって手を合わせる鹿之助の姿が目に浮かぶのである。
 
 文明化された現代社会では、人知が進歩し技術の発達によって物質的・経済的な豊かさや便利さを実現しているから、「艱難辛苦を我に与えよ」だとか「苦労を買う」などといったことは馬鹿げているとしか受けとめられないようだ。それよりも、人々は生活のすべてにわたって便利で容易、楽な方向を求め走るようになった。重厚長大から軽薄短小へという言葉が使われるようになったことは記憶に新しいが、この思想は人間の生き方や人間関係にも及んでいる。拍車をかけたのはパソコンや携帯電話であろう。
 
 しかし、だからといって文明の利器の所為(せい)にばかりはしていられない。このままでは自立できない儘(まま)に、ただ便利で楽な生き方しかできない人間再生産の連鎖が永遠に続くことになり兼ねない。
 
 ここに家庭教育の役割がある。時代や社会がどんなに変化しようとも、子供達に強く逞(たくま)しく主体的に生きる力を身につけさせ社会に送り出すのは、何時の時代に於(お)いても親・家族をはじめとした大人の務めではないだろうか。そのためには、子供の教育を学校の成績・入試など近視眼的に見るだけでなく、将来を見据えた教育を創造すべきだろう。

  (2012年11月3日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「失敗と学びの自由が成功への道」

 子供の頃(ころ)よく聞かされた『失敗は成功のもと』。失敗したら、失敗の原因をよく見極めて反省し、同じ失敗を繰り返さないように心がければ成功への道が開かれるというもの。
 
  当時は「若いうちは失敗なんか恐れていてはだめだぞ」という大人達の度量があり、子供には皆寛容であった。この諺(ことわざ)に続けて語られる発明王「トーマス・エジソン」の話は今でもよく覚えている。エジソンは子供の頃から好奇心や探究心が強く、学校でも「何故」を連発するので教師とはウマが合わずに小学校を中退し、自宅の地下室に実験室を作って蓄音機などの電気機械をいじっていたこと、彼が電球のフィラメントに京都の竹を使ったこと、豆電球の発明までに1千回もの失敗を重ねたことは、子供ながらに凄(すご)いと思ったものである。他にも、ヘンリーフォードが自動車会社を成功させるまでに何度も破産を繰り返した話も聞いた。
  
   昔から発明や発見には失敗がつきもの。最近ではノーベル物理学賞受賞の益川敏英氏とノーベル医学・生理学賞受賞決定前の山中伸弥氏との対談(週刊現代2月11日号)が注目される。「無駄と失敗が僕たちの財産です」と2人。山中氏は「一見無駄に思える中に未知なる発見が隠れている」「失敗には2種類ある。順番を間違える等技術的な単純ミス、もう一つが実験は正しくやったが結果は予想と違ったという失敗。しかし、どちらの失敗からも新しい発見につながることがある」という。
   
    学校生活も同様で、益川氏は中学まで勉強も宿題も一切やらない子だったというし、山中氏は教師から「勉強なんか出来て当たり前や。だから勉強だけやってたらアカンぞ、他のこともやれ」と言われて柔道をしたり、バンドを組んでギターを弾いたりしていたという。その時は無駄や失敗に思えるかもしれないことでも、それらの経験が後の成功を生む土壌となるのだ。
    
     画一に知育中心、失敗を許さない今の日本教育では、子供の宝である才能の殆(ほとん)どを押し潰しかねない。子供が大人となり独り立ちすれば、失敗、挫折は必ず経験する。それを乗り越える力を身につけておくことは大人の責任でもあるが、学力テスト、成績、学歴などに憂き身を窶(やつ)している大人達の元では、子供達の才能も人間性も開花、成長することは望めない。子供達に学びの自由と失敗奨励の教育を取り戻したい。

  (2012年10月20日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「いじめ対応に教員の余裕必要」

 文部科学省は「国主導で解決に取り組む」として、いじめ問題の総合対策を発表した。筆者が注目したのは、「教員がきめ細かく指導できるよう少人数学級の導入を進め、いじめ解決に力を入れる学校には教員を追加配置する」こと。遅きに失した感は有るが、欧米並みの少人数教育の実現は、いじめ問題に限らず、日本の教育現場が長いこと待ち侘(わ)びていた政策である。当面、いじめ問題でにわかにクローズアップされてきた「出席停止」制度の活用一つを取ってみても、教員不足の問題がある。出席停止措置期間中でも児童生徒に対する学習支援は欠かせない。その為(ため)の教員が必要になるからだ。

 更(さら)に、現在、教員は学校でいじめがあるかどうかを最大の関心事としているが、いじめ問題で忘れてはならないのは、いじめる側の子供達のことである。いじめっ子は、人の痛みが分からない、想像力が無いなどと批判するのは容易(たやす)い。しかし、彼らにも彼らなりに将来への不安、緊張などからくるストレスがある。彼らの心に寄り添い、いじめ行為を止める心の状態にまでもっていくには、対応する教員の心のゆとりと、じっくり対応する時間的余裕が必要である。

 いじめ問題に真剣に取り組み、著しい成果をあげている学校に共通するのは、いじめをする子供達が抱える心の問題に真正面から向き合い、彼らの悩みを理解し、解決に向けて一緒に、親身になって努力する教員の姿があること。実践した教員達は異口同音に「多くの子供が家庭でのストレスを抱えている。そのことを受けとめた上で子供達の良いところを認め、伸ばしていこうと励ますことで、捨て鉢な心の状態から抜け出せる」と言い、「彼らが涙をこぼした瞬間がその時」ともいう。

 このような事例はごく少数で、一般的にはいのちの教育、環境教育、キャリア教育などという付け足し教育に加え、保護者からの要望・批判、行政からの課題などに忙殺され、その対応で手一杯というのが正直なところ。

 学校という場でいじめ問題に直接かかわるのは唯一教員。その教員が多忙で余裕すらない状況では、対応にも自ずと限界がある。それに、原因が学校だけにあるとは限らない。全てのいじめ責任を学校に求めていては本質的な解決にはならない。いじめ問題は大人全体の問題。子供は大人の鏡、大人が変われば子供も変わる。

  (2012年10月6日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「人間性豊かに育むことでいじめは減る」

 いじめを対策だけで減らすことはできない。しかし、いじめによる子供の自殺は無くさなければならない。

 ある調査によれば、子供時代にいじめを受けた人は90%にも及ぶという。最近ではインターネットによって、増加の一途をたどっているとも言われる。元来、子供のいじめは大人には分からないようにするものであるから、インターネットの匿名性は極めて都合がよく、気軽に誰でも参加できる。それがいじめの広がりに火をつけたのかもしれない。

 だからと言って等閑視していいものではない。その解決策を大人社会全体で考えていかなければならない。誰が悪い、誰の責任だと言っていては解決しない。子供のいじめが何に起因し、なぜ深刻なまでに至ったかを、大人がそれぞれの立場で真剣に考え、その総力を挙げて解決策を探すことが今求められる。

 平成6年の愛知県西尾市における中学生のいじめ自殺から、18年も経っているのに一向に減る気配もなく、むしろ増加してきているという現実を大人一人一人が重く受け止め、いじめに対する意識を変えていかなければならない。

 家庭・学校・地域の我々大人達は、あれから何をしてきたのかと振り返ってみる必要がある。家庭では人としての生き方やマナーを教えてきたか。学校は集団生活の場として、また学びの場としてルールや互いの個性・能力を認め合う大切さを教え、学ばせてきたか。親は地域や親戚の人々との交流が自分を育ててくれる極めて大切な存在であることを教えてきたか。子供が一人前になるには多くの人々の力を借りなければならないことを、大人が身を持って示してきたか。

 もう一つ大事なことがある。「自然との断絶がいじめを生む」。筆者がこの言葉に出合ったのは今から20年も前のこと。以来、自然を単にいじめとの関係だけではなく、子供の成育と教育環境との関係で見つめてきた。すると、自然と教育は密接な関係があることに気づく。自然から遠ざかるほどに情の発達が妨げられ、豊かな情操や感性、そして知性の発達の遅れへとつながっていることが分かってきたのである。

 このような子供の健全な育成を阻害している要素を除去し、豊かな教育環境を大人の務めとして取り戻し、良い教育環境の中で人間性を豊かに育むことによって、初めていじめは減るものである。

  (2012年9月15日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「いじめを生む競争と画一規制」

 言い古された言葉に、子供の姿は親の鏡とも社会の鏡ともいうものがある。それは確かであって、大人社会の変化は養育や教育に投影され、子供の姿に表れる。その一つが「いじめ」である。いじめの原因はいろいろ考えられるが、多くは不安や不満、多忙などからくるストレスで、背景には競争と画一規制という日本の教育があることは否めない。
 
 「一番頼れるのは親だと思っていたが、学校へ行くと言ったらにっこり笑った」。この言葉からは、勉強ができなくてはならないという大人の唯一の物差しに従い、「いい子」になっている辛(つら)さと、日常的な極度の緊張感が伝わってくる。そのプレッシャーがストレスになる。また、受験のために小学校段階から学校が終わればすぐに塾へ行かなければならず、帰ってくるのは子供にとって寝る時間を過ぎていることも珍しくない。これは人間形成上、子供にとって最も大事な「子供同士外で群れ遊ぶ時間」が全くないという異常事態である。これを単なる「多忙」と片付けることはできないが、現実にはこうした生活を子供達は強いられている。これがストレスの増幅につながる。
 
 学校もまた、子供達のストレスを溜(た)めこむ場になっている。特に国際学力調査の結果を受けて学校は、人を育てるゆとり教育の場から学力中心主義の教育の場へと逆戻りしたこの数年、教育には馴染まない数字による競争社会へと再び変えられてしまった。このことによる弊害が子供達の人間形成に影を落としているのも事実である。加えて、いじめ調査なるものによる学校への圧力が管理強化につながり、子供達がのびのびと生活し、個性を発揮できる学校からは、かなり遠いものとなってしまった。それだけに子供たちのストレスも相当溜まっているのではないかと危惧する。
 
 一方、国・地方の教育行政は、いじめの数で現場を競わせ、いじめを無くすという消極的で、しかも、およそ達成不可能な目標を掲げ努力しろというが、学校は犯人探しの場ではなく、教育の場であるということすら忘れているのだろうか。対策も必要だが、自殺まで追い込まれる子供を出さないという強い決意と覚悟のもとに人間を育てるという教育の原点に立ち返り、子供達の心を温かく受けとめ包み育てる教育を、行政と学校・地域が一丸となって取り組むべきではないのか。

  (2012年9月1日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「いじめに対する大人の姿勢は変わっていない」

 18年前の平成6年11月27日深夜、愛知県西尾市立東部中学校2年の大河内清輝君(13歳)が自宅裏の柿の木で首をつり自殺した。死後見つかった遺書からは、悲惨ないじめの事実が分かり、社会に大きな衝撃を与えた。以下は、その時の子供たちの声と専門家の意見を筆者が集録しておいたものの一部である。
 
 「大人は信用できない」「先生が入ると複雑になる」「大人に期待していない」「一番頼れるのは親だと思っていたが」(NHKテレビ番組より)。これが事件後のいじめ問題に対する中学生の声。
 
 次は、いじめを受けた経験をもつ高校生・大学生の声。「親の自尊心を満足させるための道具になっている。大人のいじめがあるのに子供のそればかり取りざたされている。敏感な子はそうした大人の矛盾に気付いている」「自分は親だから子供には何をしても良い、何を言ってもいいと考える大人が、自分たちの抑圧された気持ちをそのまま子供にぶつける」「核家族化していて第三者の意見が入らず、子供は自分を表現する言葉をもっていないため親のいいなり。そういうやり場のない気持ちのはけ口がいじめだと思う」「学校から帰ると塾、勉強でストレスの発散の場が無い。だから弱い者いじめに走る気持ちは分かる」(東京新聞平成7年5月26日朝刊)。
 
 また同じ紙面で、東京家政大の樋口恵子氏は、いじめ問題について次のように論じている。「この50年、得たものより失ったものの大きさに気付いたのが子供の問題です。いじめは昔もあったし、いつの時代も子供は残酷だと思いますが、昔の子供は逃げ場があった。子供が主人公になれる自然環境や具体的なものや、人と触れ合う機会などですが、そういうものが子供たちの周辺から無くなってきたことと、いじめの深刻化は無関係ではない」。
 
 これらの記録を読み返してみた時、今回表面化した大津のいじめ自殺に関する子供たちの声から感じられるのは、大人たちの対応が平成6年当時と殆(ほとん)ど変わっていないことである。そのことは、この間、子供たちの貴重な声が大人社会に生かされてこなかったという証しでもある。しかも、この期に及んで、責任のたらい回しをしている大人たちを子供は確(しっか)りと見ている。いじめを大人の問題としてとらえ直し、子供たちに信頼される大人社会の実現に努力したい。

  (2012年8月18日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「教育現場にもある“大人の幼児化”」

 大人の子供化・幼児化は教育の現場でも例外ではない。家庭と同様に、子供の教育の場である学校での大人の幼児化は、子供に深刻な悪影響を及ぼすことが火を見るより明らかである。
 
 教育現場でこの事に気付いたのは今から30年程前のこと。教育委員会等の学校視察や保護者の授業参観の折、学年主任が自分の学習指導案やクラスの教室環境整備を最優先するという事実を知った時のことである。それまで、学年主任は学年の教員リーダーとして学年内で起こる問題の解決、若年教員からの悩み相談に応え、時には励ますことなどを通じて学年をまとめ、より良い学校教育をするために腐心してきたものである。従って、自分のことより学年内の教員や子供への気配りを最優先し、教室環境の整備一つをとっても他教室を優先し自分の教室は最後、というのが通例であり常識あったので、驚きであった。
 
 それから、暫(しばら)くして教委で教員や管理職の人事異動業務に携わった時のことである。毎年、校長と教委の人事に関する面接が行われる。その際、自校教員を育てるという校長の使命を果たさず、必要な人材を全て他校から求めるという校長がいたことには唖然(あぜん)とした。教職員に聞くと、優れた教員はいるが、感情的で好悪が激しい校長と信頼関係が築けないという。そういう校長のもとでは、教職員がどんなに優れた資質・能力を持っていても力量を発揮できない。
 
 その後、県・市教委内でも同じような現象が起こってきた。教頭や校長の選考にあたり、市教委が県教委に候補者を推薦するという制度がある。或(あ)る年の事、市の上位推薦者が県で不合格になったので調べてみると、受験者が県教委時代の評判が悪かったという理由で落とされたことが判明した。ところが県教委は、市教委の推薦が悪かったからだと本人に説明、それを聞いた受験者が市教委への不信感を募らせ意欲をなくしたのである。この場合は両者とも責任を他者の所為(せい)にしていた。自己の責任を逃れるという幼児の行動特性であって、大人のすることではない。
 
 これらの事実はいずれも自己中心性の象徴的な出来事であるが、いくら大人の幼児化といっても、子供たちの教育をつかさどり、教育全体に責任を持つ学校や教委で起きてはならないと思うのだが、現実は厳しい。教育の立て直しが急がれる。

  (2012年8月4日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「“人間教育中心”へ方針転換を」

 「特養での虐待増加―10年度、06年度比1・5倍― 厚生労働省によると、特別養護老人ホーム職員らが入居する高齢者を虐待するケースが増えている。2010年度の虐待は06年度と比べて5割増え、介護施設別の割合では最も多かった。介護施設職員らの虐待に関する相談や通報の件数も増えている。10年度は506件で、06年度(273件)の2倍近くに増加。虐待の内容では拘束など身体的虐待が68件で最も多く、次いで暴言など心理的虐待が35件だった」(日経新聞、平成24年1月8日朝刊)
 
 この記事からも、大人になりきれていない子供のままの大人の姿が読み取れる。元来、虐待は人間や動物などをむごく扱うことで、残酷性の残る幼児の特徴的行動である。その先にあるのがいじめ。学童期を中心に表れる行為で、弱い者を大勢で寄ってたかって苦しめ、辛(つら)く当たるという人間性未成熟の行動様式である。よく、いじめは昔もあったというが、筆者が子供の頃(ころ)のいじめは今とはまったく違い、弱い者いじめではない。一緒に遊ばない、自分勝手な振る舞いをする、成績が良いのを鼻にかける―のように、仲間意識に欠ける者などが対象で、最終的には仲間に引き入れるための行為だった。従って、シカトするとか、嫌がらせをするような陰湿さはなく、徹底してみんなでいじめることはなかった。子供特有の一時的でさっぱりした行為で、いじめる主体が見えない陰湿で残酷な今のいじめとはまったく異なる。何より、当時の子供の間には、弱い者いじめは軽蔑すべき行動とのモラルすらあった。
 
 現代のいじめが昔のいじめとは質を異にするならば、この特養での虐待をどう解釈すればよいかは明らかである。特養以外にも、大人のいじめや虐待はよくあると聞く。家庭内の虐待、企業、役所、学校、病院などのいじめである。これら大人の虐待やいじめが、感情や行為を自分で制御(セルフコントロール)することができない状態で行われている場合、それはまさしく幼児性そのものである。
 
 特養ホームの経営者は、専門家を招きケアやサービスの向上に向けて自ら勉強会を始めたというが、子供のままの大人が相手ではかなりの困難が予想される。成人教育も必要だが、これから成人する子供の教育を人間教育中心へと方針転換することの方がもっと大事ではないか。

  (2012年7月21日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「他者に依存する国民に未来はない」

 自分で考え行動し、その結果を自分で責任を負うのが大人である。ところが、自分では考えず他者に依存し、結果が悪かったら他者を責めるという大人とはいえない人々が意外と多い。
 
 東日本大震災からの復旧・復興の進捗(しんちょく)状況にも、自治体の自立と依存で差が表れた。国が、県がと言っている間に、自分たちで何ができるか、何をすればいいかと地域住民が立ち上がり行政を動かした町村があったが、これこそ大人の集まりといえるのではないか。
 
 モンスターペアレンツも、幼児或いは〝子供大人〟の行動特性といってよい。本来、学校は学習、集団生活をする場である。子供には、そのための最低限のしつけをし、心構えを身につけさせておかなくてはならない。その責任を負うのが親であり、保護者である。従って、学校生活になじめないとか学級崩壊というような子供の状態について、一方的に学校・教師を責めればいいかどうかは考えれば分かることであり、担任を変えるとかクラス替えをすればよいというものではない。保護者と担任・学校が共に心を開き、子供たちの幸せの為にはどうすればよいかをじっくり話し合うことが先ではないか。一方的にクレームを付ける、自己主張で対立する、激昂(げきこう)するなど話し合いにならないとすれば、幼児性の残った子供大人の集まりである。
 
 判断、行動が自分中心、利己的であるなど「他者の感情に対するあらゆる配慮のなさは幼児性の行動特性である」(K・ローレンツ)ということを以前書いた。我々世代から見れば、このような人間が周囲に増えていると感じるが、世代が違えばそのことに全く気付いてさえいないのかもしれない。
 
 幼児や小さな子供は、周りに配慮するという脳の働きが未発達といわれる。周りの人・物・動物など全てが自分中心に存在していると思っている。しかし大人はそうではない。ところが、大人になっても幼児のままで自己中心的な言動をする、これが子供大人であり大人の幼児化である。
 
 今、「自分では何も決められない日本人」という言葉が巷で飛び交っている。自分で決めるということは責任が伴うので、失敗した時が怖い。だから何から何まで人に決めさせるというのである。学校依存、役所依存、政府依存から親への依存まで、自立できていない国民では国家の自立という未来もない。

  (2012年7月7日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「“縁”が芽生えさせる
子供の自立心と希望」

 最近よく「縁」(出会い)を考えるようになった。これまで出会った多くの人達に私を育てていただいた。私だけに限らず、人は皆「相互に依存関係を持って生まれ、そして滅している」(仏陀)。身の回りにある全てが、他の種々の因縁に助けられて生成したり、消滅したりしているというのだ。穂高で生活を始め豊かな自然の中にいると特にそれを感じる。
 
 現代社会は血縁、地縁、社縁が希薄となり、無縁社会になりつつある。そして孤独死、孤立死が大きな社会問題となっている。その一部対応として疑似家族共同体マンション、シェア住宅が注目されている。現代の長屋、新たなセーフティーネットとして話題を呼び、構造的に人との縁を創出している。一方、子供達が接する大人は両親と学校・塾の先生などの少数に限られてきた。
 
 子供は好奇心の塊で、いろいろなものに興味を示す。そして多様な資質や能力を秘めている。それらを引き出し伸ばしてやるのが大人の役目だが、それには限られた僅(わず)かな大人と接するのではなく、多種多様な大人と触れ合う環境をつくることが第一。大人からのアドバイスも必要だが、様々な職種の大人と接し、子供自身が自分の資質・能力に目覚めるのがもっと大事。つまり、自ら「気づく」ことで己を知るのが重要と思う。なぜなら、そこに子供の自立心と未来を意識する希望が芽生えてくるからである。
 
 「縁」を軸に始めたのが市川市のコミュニティ・スクールでありナーチャリングである。いずれも地域の人達が子供を想う、熱く優しい心の繋(つな)がりで支えられてきた。体験した子供達は大人になった時、同じように子供と関わる活動を行う。市川市内で実際に事例がある。子供時代の出会いは一生消えることなく、地域の人達の愛情が時を経ても置き火の様に心に残る。この事業は大人同士の縁も結んだ。地縁の復活、「縁」を強く意識した時でもあった。
 
 私事になるが、この度、思いがけなく春の叙勲で瑞宝双光章を受章した。5月31日、妻同伴で受章式に出席。天皇陛下に拝謁し、お言葉を賜り、感激の極みであった。受章は私個人の力ではなく、教育に携わった市川市での46年間、ご縁のあった子供達(当時)、地域の方々、諸先輩など多くの人々に私を育てて頂いたからと心から思い、この小欄を借りて感謝を申し上げたい。

  (2012年6月16日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「幼児的行動特性が残る
“子供大人”」

 子供のままの大人、子供大人とはどういうものか。幼児の特徴的な行動特性から見るとよく分かる。幼児性は人間の本質、特性ではあるが、成熟した人間の行動規範ではない。従って、このような幼児的行動特性が残っているならば、大人とは言えないからである。

 幼児性の行動特性の一つに衝動的行動が挙げられる。不安や不快を満足させるために無意識的、本能的な欲求を無反省、突発的に行動に移そうとする傾向で、発作的に乱暴する、性急な要求をするなど、いずれも盲目的で原始的な衝動反応である。残虐性を持ち合わせていることにも注意したい。二つ目に、あらゆる責任の欠如である。自分を含めて身の回りに起こるあらゆる出来事、行為を自らの責任とはせず、誰かの、何かの所為にするという所謂責任転嫁の行動特性である。三つ目に他人の感情に対する配慮のなさ、つまり他者への思いやりがない、即ち人間性に欠けるということである。

 自己中心性も幼児の特性であり、小さい子供だけに許される行動規範であるが、大人になってもそれが抜けないでいる人間は、間違いなく子供大人と言ってよい。このような観点から現代社会を見ると、幼児的行動特性を持つ大人が如何に多いかが分かる。

 幾つか実例を挙げてみよう。一つには、親と子は友達であるという友達親子なるもの。子供を育て、教育し、一人前の大人にするという親の責任を棄て去り、親子は仲間であり、仲良しだという概念なのだろうか。こうした親子関係では、父親の権威などは殆ど無く、子供が間違ったことへの叱責すらできない。当然、大人になるための教育、厳しい社会に船出した時への心構えを教えることもない。これでは、子供が一人前の大人になれるはずはない。このような親も子供大人と言ってよい。キレる子供が友達親子の家庭から多く出ることにも相関がある。

 もう一つ、会議や討論の場などでのこと。話し合い途中で突如として自分の欲望を満足させようと性急な要求を持ち出し、思うようにならないと声を荒げる、怒鳴り立てる、時には暴力で自分の意を通そうとするなど、これも幼児性行動の特徴であるが、こんな大人がいるのも事実である。また、誰かが発言中にもかかわらず、自分の言いたいことを被せて発言する大人がいるが、これも子供レベルと言ってよい。

  (2012年6月2日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「子供が憧れ、尊敬できる
本物の大人に」

 大人になりきれていない大人が増えてきたのは何時頃からか。少なくとも1960年代を境に増えていることは確かである。それまでの大人は、誰もが当然のように自立していた。自立しているからこそ、どのような境涯に置かれても、仕事も人生も自らの責任とし、力強く生きていた。

 50年代半ば、筆者が社会人になった頃の先輩は皆、信頼でき、尊敬できる大人で人間性も豊かであった。その頃の大人には子供や後輩への思いやりを感じ、人が育てられているという実感があった。保護者や地域の人々も自立した大人であったから、若輩者でも安心して社会人の仲間入りができたのである。

 新任教員時の校長・教員、保護者とのお付き合いが60年もの長きにわたり続いているという事実がそれを裏付けている。当時教頭だった大先輩から、筆者の教育長就任を古い仲間と祝杯をあげて喜んだと手紙をもらった。その時筆者を新米教員として温かく迎えてくれた先輩達とも「あんたが教育長だなんてまさしく世紀末だ」と悪たれ口をたたき合えるほど、当時の人間関係は豊かであった。

 ところが70年代に入ると人々の様子が一変する。子供達は勿論、大人達にも次第に自己中心主義的な振る舞いが目立ってくるようになる。子供は親や周囲の大人を見て人間性を育み人格形成をしていくものであるから、大人達の影響がもろに出てくるのは避けられない。『子(子供)は親(大人)の鏡』である。

 その後、社会問題化したのが、いじめ(による自殺)や不登校(最初は登校拒否といった)、加えて非行として括られた校内・家庭内暴力、暴走族、万引き、深夜徘徊等々であるが、これらの責任を大人社会は自ら取ろうとはせず、全てを子供や学校の所為にしてきた。それを見て子供は、自分がダメなのはお前(親)の所為だと言い始めたのである。所為にするということは、子供の特性である依存に他ならない。いずれにしても、この事が子供の自立を遅らせてきたと言ってよい。

 子供の成長にとって身近に憧れの大人が存在することも欠かせないが、現代では残念ながら芸能人やスポーツ選手などにしか憧れを見出せないでいる。「子供が子供を育てる」「大人の幼児化」などという汚名を払拭するには、大人がその条件を備え、子供が憧れ、尊敬できる本物の大人になることであろう。

  (2012年5月19日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


被災した青少年に明るい展望を見る

 「宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。
 被災された方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、今も当時のことや亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている方がたくさんいます。
 人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。
 しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。
 だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を。
 我々高校球児ができること、それは全力で戦い抜き、最後まであきらめないことです。今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」。石巻工高・阿部翔人主将の力強い選手宣誓だ。

 家族を亡くすなど津波の災禍は野球部員にも及んだ。石巻工高も津波・浸水の被災校であり、グラウンドは瓦礫やヘドロでとても野球などできる状態ではなかったが、除去に一か月も費やすなど多くの苦しみや悲しみを乗り越えての出場、選手宣誓である。

 皆で考えたという宣誓は、被災者でなければ表現できない心の言葉で綴られている。それだけにストレートに想いが伝わり、胸を打たれるものがある。テレビ中継を見た人々の中には涙する人、勇気をもらった人、自分達も頑張らなければと心に誓う人などがおり、多くの人々が心を動かされていた。それは未曽有の震災経験から少年達が得た自然への畏怖、命の尊さと儚さ、感謝と助け合うことの大切さなどを凝縮した心の叫びへの共鳴であったのかもしれない。

 この1年、被災地の子供達の声に耳を傾けてきたが、いずれも末頼もしいものであった。自らも被災し、つらく悲しい心情を心の奥底に秘めながらも、他者への思いやりや感謝の念を言葉にしている健気な姿に感動すること屡であった。この様な若者の姿に被災地の大人達もどんなにか励まされ勇気をもらったことか。被災地の青少年の心の成長を垣間見るにつけ、日本のこれからに明るい展望が開けるとの確信を持つに至った1年でもある。

 彼らは必ずや豊かな人間性と知性と感性をもち、決して他人の所為などにはしない自立した立派な大人となり、リーダーとして活躍すると期待できる。

  (2011年4月7日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「身につけさせたい『責任逃れしない度量』」

 東日本大震災で人災といわれた福島第一原発の事故の対応を巡って、当時の政府と東電、原子力安全・保安院の三つ巴の責任転嫁合戦がメディアで話題になった。考えてみればこれも責任逃れで「所為にする」という典型であった。津波や震度が「想定外」というのも一種の責任転嫁であり、自然現象を想定すること自体が人間の自然に対する驕りでもある。あの時、この国は誰も責任を取らなくなったのではないかと絶望的にさえなった。1年経った現在でも、復興どころか復旧の見通しさえ立てられずにいるのはその証しでもあるだろう。人間は予想だにしていなかったことが起こった時、有るが儘の姿・人間性が咄嗟に表れるというが、震災はまさにそういう瞬間ではなかったかと思う。

 一方、学校・地域社会や会社・役所など各種組織においても、日常的に責任転嫁、所謂所為にするという行為は見られるものである。何か事故や事件が起こると責任が何処にあるのか誰にあるのかを追及し合い、どう責任を取るのかが疎かにされる。時には責任者が他に責任転嫁をすることもある。

 こんな責任転嫁もある。管理職の選考試験などでの自分の失敗を教委の所為にする、人事権者が代わった時に起こる身の振り方で前任者に切り捨てられたなどといって栄達を求め、新しい権力者に乗り換えるというものなど。いずれの場合も周囲の評価は冷ややかなものになるが、当人達は言い訳をして自分を守るという目的が達成できさえすれば満足なのだ。このような言行は裏切り、恨み、怒り、嫉妬などを伴うから、他者から信頼を失う、人格を疑われるなどして組織の人間関係悪化の原因になる。

 人間関係の基本は相互信頼・相互尊敬であり、自立・自律した人間同士の関係であるから、自分と相手の双方にとって良いことであり、相互の幸せが達成できる関係でなければならない。従って、自分の利益や私欲を求める関係では決して長続きはしない。人間関係をより良く長続きさせるには、感謝の念と謝罪の気持ちを心から伝える、言い訳をしないなどを心がけることが大事であるが、それ以上に責任から逃げない度量が必要である。

 人間関係を深め、人と人の絆を強くするには「所為にする・責任逃れ・責任転嫁」などはしてはならないということを、子供時代に身につけておきたい。

  (2011年3月17日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「庇護されて育つと大人になれない」

 大人になっても人の所為にする人間は子供時代を単なる甘やかしで育てられた結果だということは、今では心理学では定説になっている。自分の思うようにいかない時、親や社会など周囲が悪いからだと他罰的・他責的感情を抱くのが特徴という。大人になっても親を憎んでいる人間がいるとしたら、まさに大人になりきれない大人というべきであろう。

 自我の芽生える思春期に自立のための反動として、親への憎しみや恨みを多くの人が経験する。しかし、大抵は大人としての心が育つにつれ、産み育ててくれた親への感謝を抱いていくものである。

では、なぜ大人になっても親に敵意を持ち続けるのか。それは子供時代の養育・教育にある。戦後、暮らしが豊かになった或る時期、「過保護・過干渉が子供をダメにする」という言葉が生まれたが、時代はこれを無視した。結果、子供達は親や周囲の大人達の安全・安心・豊かさに守られ、何ひとつ苦労せず、子供時代を庇護され過ごしてきた。昔の子供達の多くが経験した辛さや苦労や悲しみ、失敗や危険に向き合うこともない。そのため、豊かで安全・安心が当たり前。そうでなくなれば不満を募らせ要求するだけ、自分では何もしない、出来ない。こうして、幼児性から抜け出せないまま年を重ねる。これでは当然、社会に出て行けない。例え出たとしても、うまく人間関係を作ってはいけない。そのため、家に引きこもり、再び親に依存して生きることになる。

 この原稿を書く直前に、偶然にも『ラジオ人生相談』を聞いた。「47歳の息子が働きにも出ず親の脛かじりをしているが、どうしたらいいか」という老いた母親の質問に、カウンセラーは「あなたの気持ち次第ですが、老人ホームに入りなさい。そうすれば彼は自分で全てをしなければならなくなる。まさかホームまでついて来るわけにはいかないでしょうから」。母親は明るい声で「そうします」と答えた。極めて的確なアドバイスである。

 『多くの若者が今日の社会秩序に対して敵意を感じており、また自分たちの両親にも敵意を持っている。そうした姿勢にもかかわらず、彼らがこの社会と子の両親に養われることを当然だと思っていることからも、彼らが無反省な幼児であることが分かる』(ローレンツ著『文明化した人間の八つの大罪』から)。

  (2012年3月3日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「大人の心構えを教えないことが問題」

 毎年1月、多くの自治体は成人式が無事に終わるとほっとする。しかし、何か事が起こると四方八方から容赦なく責められる。その非難の多くが主催者側だけを一方的に責めるという所謂、責任転嫁や所為にするという類であるから、必ずしも正しい世評とは言えない。ただ、企画・運営する側にしてみれば、そうは言っていられず、絶対に失敗は許されないという厳しさが要求される。騒ぎを起こさない、席を立たない、私語を減らすなどという「式」の本旨からみれば瑣末な問題に傾注せざるを得ない。実はこのことが成人式の質を劣化させているということに、どれだけの人が気づいているだろうか。

 成人式をその趣旨から考えてみれば、純然たる「式」であることは紛れもない事実である。若し「式」というならば、一定の体裁、或いは決まったやり方・作法・方式に従って多くの人が集まって行う改まった行事であり、式のマナーがあり、規制があるのは当然である。式に参加するからには、それに従わなければならない。会場内でしゃべったり騒いだり、自由に出入りするなどという勝手な言動は慎まなければならず、それが嫌なら始めから参加しなければいいのである。このような式に対する考え方を企画・運営する側、参加する新成人、参加させる親の三者が認識を共有して成人式に臨めば、此れまでの様な混乱は避けられるはずである。

 その為には子供の時に、成人式を迎えるに当たっての教育が必要であるが、それをしてきてはいない。大人になるということはどういうことかを家庭、地域、学校、社会が教えてこなかったことが問題なのであって、成人式そのものの良し悪しを評価することではないと思う。若し評価するのであれば、新成人の人生観・世界観・勤労観や大人としての覚悟と決意等の表明を評価し、励ます成人式にするべきではないか。全国的にはその方向での取り組みが始まり、各地に広まってきている。小学4年生(10歳)での1/2成人式や中学生の立志式、新成人が村人への感謝を踊りで表現する成人式などがある。家庭でも、大人としての心構えは最低でも教えておかなくてはならないのは当然である。

 大人がそれぞれの立場で教えず新成人の態度や行政を非難するというのは、どう考えても道理に反している。

  (2012年2月18日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「“成人式”にも見られる大人の幼児化」

 人間の幼児化、それが象徴的に表れているのが成人式。江戸時代の元服や裳着(もぎ)などの儀礼に始まる。戦後は埼玉県蕨町(現蕨市)で昭和21年に実施された青年祭「成年式」の全国的な広まりを受けて国が「成人の日」を「国民の祝日」として制定、同23年に公布、施行された。現在は平成12年の法律改正に伴い1月第2月曜日を成人の日と定めている。

 時代と共に呼称や年齢は変遷するが、趣旨は蕨町・成年式のように、子供から大人になった自覚を持ってほしい、そして戦後の荒廃した国を立て直すために力を貸してもらいたいとの先人の願いが込められた儀式であったことは確かである。国民の祝日に関する法律でも、成人の日を「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」としている。

 ところが成人式の実態はどうだろうか。会場に入らず友人と談笑する、会場内では私語が多く挨拶・話などを聞かない、クラッカーを打つ、中には暴れまわって式を妨害するという事態も起きている。これではどう見ても成人の集まりとは言えない。

 これらの行動を許している大人の側にも問題が無いとは言えない。本来、成人となることは両親や周りの大人達に保護されてきた子供時代を終え、自立した大人の社会へ仲間入りすることを自覚するための儀式のはずであるが、今では成人式は親の庇護(ひご)継続の中での単なる親の感慨や自己満足の為(ため)のものになってしまったように思える。

 式を主催する側も同じことが言える。出席率を高めようと、アトラクション重視の企画や市長の歌や踊りのパフォーマンスで人寄せをするなどと、およそ式の趣旨とは掛け離れたものとなっている。これでは大人としての自立を自覚する成人式とはとてもいえず、時代への迎合であり、大人の幼児化とみられても仕方がない。本当に自立した若者は馬鹿らしいと、これらの成人式不参加を表明しているという現実がある。

 大震災に見舞われた被災各地で行われた今年の成人式が報道されたが、いずれも心に残る成人式であった。殆どがボランティアや地域の人々の手作りであり、新成人の表情、代表の挨拶、個々のコメントは地域の復興に対する決意や新しい地域づくりに賭ける意気込みが伝わってくる頼もしいものであった。これが本来の成人式ではないか。

  (2012年2月4日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「家庭教育の欠落が「人間の幼児化」の原因」

 人は何故(なぜ)こんなにも何かの『所為(せい)』にするようになったのだろうか。一言でいえば自立していない人間、言い換えれば大人になりきれていない人間が多くなったということ。つまり、人間の幼児化である。その原因の多くは、広い意味での教育、特に家庭教育にあると専門家は言う。

 家庭教育の基本は「躾(しつけ)」と「善悪の判断力を付けること」。躾は、礼儀・作法・決まりごとなど社会の基本的な行動様式・態度や食事・睡眠・排泄(はいせつ)・着脱衣などの基本的生活習慣を身につける営みである。従って、一定の型にはめるもので、制約や厳しさがつきものである。ところが、戦後日本では、教育は子供の自発性を尊重すべきであって強制である躾は良くないとの間違った認識により、子供はまともに躾られないまま学齢期を迎える事になる。そのため、周囲に心配りをするという他者への思いやりの心が育たず、幼児の特性である自己中心的な子供が多数を占めるという結果となる。善悪の判断力も同様で、家庭で身につけることなしに学校(園)に入学してくる。,br>
 このような子供達は集団生活の場である学校(園)にはなかなか馴染めず、不登校や学級崩壊という行動につながることも多い。大人達はこうした子供達の行動の原因全てが学校(園)・学校(園)教育にあるとするのが常である。まさしく責任転嫁で、人の所為にするという他罰的・他責的な考え方であるが、それを間違いだと批判することすら憚(はばか)られるというおかしな時代である。これでは、子供が自立した大人に育つ教育環境とはとても言えない。

 此処(ここ)で久し振りに、コンラート・ローレンツに登場を願う。著書『文明化した人間の八つの大罪』に次のような記述がある。

 「社会的な行動規範の成熟の遅滞の為(ため)に幼児の時代にとどまっている人間は、当然のこととして社会の寄生虫になる。彼は大人からの世話を受け続けるという子供にしか権利の無いことを期待する」「文明人の進行する幼児化や増加する青少年犯罪が…、私達は重大な危機にある」、また「善悪の判断力を近代人から奪っている」とも。そして、この状況を阻止するには人類共同体に必要な配慮、礼儀、善行を重んじ、感情を抑えることができればよいという。これが1972年のローレンツの予告メッセージであったのだが。

  (2011年1月21日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト


「『お蔭様で』の心育む環境を」

 昨今、日本の風潮で気になっていることがある。それは「所為(せい)にする」ということ。人の所為、物や事、社会の所為にするなどかかる例は枚挙に遑(いとま)が無い。教育界に例をとれば、文科省や教育委員会は学校の所為にし、学校は教育委員会の所為にする。家庭は学校・教員の所為にし、学校は親や家庭の所為にする。このような自ら責任を取らない大人達を見て育つ子供達は当然のことながら誰かの所為にするようになる。また、自立できないでいる依存的な人間ほど何かの所為にするものであるから、このような風潮は教育だけにとどまらず社会にとっても好ましくない。

 「所為」は好ましくない結果を生じさせる理由に使うが、その対極にある言葉が「御陰」である。こちらの方は、ある好ましい結果を生じさせる理由で、神仏あるいは他者が与えてくれる恵みという意味がある。この〝おかげさまで〟という言葉は儒教から来たもので日本人の心である。日本人の『精神の鎖国主義』について論じた東京大学名誉教授の木村尚三郎氏は次のように書いている。「世間様があるからこそ、自分がこのような生き方ができるんだという気持ちは、昔は日本にもあった。〝おかげさまで〟という言い方がそうである。これは神、仏のおかげでということなのだが、神、仏の背後には事実上、世間様というものが表現されていた。(中略)昔から日本にもあった『謝恩の観念』は、今やすっかり忘れられてしまって、自分たちの努力だけで経済大国を実現したかのごとき思いあがり、独りよがりの考え方を世界にまで及ぼそうとしているかのように見える」。論文は現代日本の痛烈な批判であるが事実でもある。

 長野・安曇野では、この〝おかげさまで〟という日本人の心が今尚多く残っている。「お陰様で元気です」「お陰様で幸せです」などと会話の頭は必ずといっていいほどこの言葉から始まる。また、この地方では、人や作物、それに自然に対しての謝恩の観念も深い。「お大工さん」「お菜」など暮らしを支えてくれるものへの感謝の念を表現している言葉も現存する。これらの言葉の背景にはこの地を切り開いた先祖や先人たちへの感謝の心、〝おかげさまで〟という日本人の心が流れているといってよいだろう。

 「所為にする」時代だからこそ「お陰様で」という心を育む教育環境が必要ではないか。

  (2012年1月3日号)TOP PAGE 「教育の理想と現実」リスト