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「日々の精進を重ねて芸を残していきたい」

木遣りの伝統を引き継ぐ市川市とび職組合相談役

 鈴木 三良 さん

 もともと、重い岩や木材などを大勢で運ぶときの掛け声として歌われていた木遣(きや)り。市川市とび職組合は、この伝統芸を行政の仕事はじめや消防出初め式、各地の祭りなどで、まといや梯子(はしご)乗りとともに披露している。
 
 木遣りを学び始めたのはいまから40年ほど前。約20年間、浅草から木遣り師を招くとともに、河川敷で一人で声出しの練習をするなどして修得した。
 
 一緒に習った4人の仲間はすでに他界しており、伝統継承への思いは強い。「木遣りは一日一日の精進。練習しないと人様の前で歌えない」と、組合員たちに指導を続けている。
 
 木遣りでは、「高い声を腹の底から絞り出すこと」が一番大切。お腹から絞り出す点は、都山流師範の資格をもつ尺八と共通している。おかげで、ここしばらくは病気知らず。傘寿を迎えたいまも、交通安全協会の指導員として精力的に活動。雨が降っていても、どんなに帰りが遅くなっても、毎日、2匹の犬の散歩で6千歩は歩いている。
 
 「こういうことができるのも女房のおかげ」と妻に感謝。「これからも組合の人たちとますます仲良くして、芸を一つでも残していきたい」。
 
 (2007年12月15日号)
 
  
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「資格を生かし工夫を重ねて地域に恩返し」

NPO法人・日本食育ランドスケープ理事長

 浮谷 王子 さん

  市川で生まれ育って42年。幼少から、庭で採れた旬の果物を食べたり、近くの畑で買った野菜の調理を手伝ったりして、食への関心は高かった。結婚して長男が生まれてから、野菜や果物の楽しさ、おいしさを伝えたい、との思いが強くなり、“野菜ソムリエ”の資格を2年ほど前に取得。「せっかく資格を取ったので、お世話になっている地域に恩返しをしたい」と、長男の通う平田小で食育を行うようになった。そこから、活動の場は他の小学校や幼稚園、保護者対象の家庭教育学級へと拡大。昨年10月には大勢の仲間とNPOを設立した。
  
  「『これが絶対に正しい』というものはない」が食育に対する基本的な考え。指導の際も、「情報を提供して一緒に考える」姿勢を貫く。ただ、「野菜が体にいいと知っても、簡単に食べてくれるわけではない」。そのため、野菜のおもしろい話をクイズにしたり、新鮮でおいしい朝採り野菜を食べたりして、野菜を好きになってもらう工夫を重ねている。
  
  この活動の一番の楽しみは、子供たちの「わー、そうだったんだ」という純粋な反応。今後も、企業や地域、学校と連携して活動の幅を広げながら、食育活動のできる人材の育成にも力を注いでいく。
  
 (2007年12月8日号)
 
  
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「歌を楽しみながらいきいきと長生きを…」

14年間チャリティーを続ける孝葉会会主

 有福 孝子 さん

  「歌でいきいきと、長生きをしてもらいたい」という72歳。婦人会役員をしていた約20年前、婦人会の楽しみとして歌うことを始めた。やがて、「個人的に教えてほしい」という声に応え、地域活動の気持ちでカラオケ教室を開いた。いまでは、会員宅を提供してもらい、自宅と合わせ3教室を構える。40代のころにプロの指導を受けた美声の持ち主だが、17年前には全国歌謡連盟の認定公認指導者の資格も取得して、みんなで歌の楽しさを味わっている。
  
  発足15周年を迎えた会員や関係者がステージで歌うカラオケ・チャリティー発表会は、今年で14回目。会員と自身の募金を合わせた10万円を、毎年市に贈り続けている。「私たちは、おかげさまで健康で歌を歌い続けている。その歌を通じて、みなさんの力になれれば」と、会が発足して半年で発表会を開いた。
  
  最初は「うまく歌えない」と言っていた人の「おかげで楽しく歌えました」という言葉が喜び。「歌をよく聴き、リズムに聴き慣れること。大きな声を出すこと」が、歌がうまくなる秘けつという。「丁寧に教えてくれる。きちんと歌えるまで人前では歌わせてくれませんが…」と指導も好評だ。  会員は50代から80代までの約25人。お腹から声を出すことは健康によく気分もよくなる。外出することで人と人との出会いにつながり、化粧をすることで心も身体も若々しくいられる。「歌を通じて出会う仲間が互いを大切に思い、心豊かになれれば」と願う。これからは、地域の老人施設や障害をもつ人の施設に出向き、一緒に歌を楽しむことを思い描いている。
 
 (2007年12月1日号)
 
  
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「誰かがつくる地域の歴史なら自分たちで」

地域パトロールに努める神輿愛好会「鬼神睦会」会長

 助田 隆穂 さん

  「子供が、生まれた地域を大事に思うまちにしたい」。鬼越・鬼高地域の鎮守・神明社の神輿復活と同時に発足して25年。地域活動は当初からと早く、夜間や盆踊りの警備、子ども会への協力と参加など“深緑の半てん”は地域に深く解け込んでいる。「鬼神睦会という歴史があるからこそ、いまがある。子供ができて“地域への恩返し”の思いが強くなった。いままでを引き継ぎ、時代に合ったものを取り入れていきたい」。
 
  祭りの華の神輿を仕切る会長。役目を全うするため、好きな釣りやゴルフも八年間、中断するが、「スポーツとは違う、気持ちの高ぶりがある」と、神輿を楽しむ四十四歳。育った鬼高にいまも住まうが、かみなりオヤジは思い出せても、神輿の思い出はない。会に入って「こんなものがあったのか」と驚いた。「すごい神輿が出る祭りがあることを知ってほしい。いまの子供にとって神輿がまちのいい思い出になる」。
 
  地域の結び付きのきっかけになる祭りも、先達が神輿を復活したからこそ。「歴史は誰かがつくる。なら自分たちでつくればいい。簡単じゃなくても難しくはない。そのやり方を考えていけばいい」。次の大祭は来年の秋だ。
 
 (2007年11月23日号)
 
  
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「美しいといわれるだけも顔がほころぶ」

ボランティア団体ローズオブ市川会長

 石橋 晃之助 さん

 もともと花は大好きだが、剪定(せんてい)や消毒などで手がかかるバラには興味がなかった。だが30歳くらいのとき、会社の先輩の勧めで始めてから、「こんなにキレイなんだ」と魅力に目覚めた。
 
 それからは、「バラのコンテストに勝ち抜きたい」とすっかり夢中。10年間はバラ優先で、会社を何日も休んだ。庭の草花もバラ一色。そのかいあってか、日本ばら会では初出品した昭和38年に未受賞者の1等賞、その2年後に最高峰の長春会杯1等賞に輝いた。
 
 仕事が忙しくなってからは自宅で楽しむ程度だが、近所の人からは「キレイですね」「上手に育てていますね」と声をかけられる。今年3月、そんな一言がきっかけで出会った市民大学バラ育成講座の受講生たちとローズオブ市川を結成。13人の会員で明るく楽しく、公園のバラの手入れや、勉強会などを行っている。須和田公園のバラは、植え替えて半年ほどで美しいな花を咲かせた。「キレイと言ってくれる人がいるだけでありがたい」と顔をほころばせる。
 
 14年間、正月や七五三などに、近くの日枝神社で総代を務めている75歳。「奉仕しているから元気でいられる。これからも健康第一で人生を送りたい」。
 
 (2007年11月16日号)
 
  
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「手作りが大好きで健康な食生活支援に力」

市川市食生活改善推進協議会会長

 後藤 麻理子 さん

 手作りの食べ物が大好きで、祭りずしやパン作りの教室に通い続ける。自宅では、愛知県在住時に学んだ八丁ミソや、梅干し作りを実践。市民農園を借りて、野菜も“手作り”を楽しんでいる。
 
 食生活推進員になったのは、参加していた料理講習会で誘いを受けたことがきっかけ。ちょうど、「何か料理に関するボランティアをやりたい」と考えていたころ。過去の講習会で推進員に親しみを抱いていたこともあり、快く引き受けた。
 
 推進員は、市民と保健センターのパイプ役。“食生活を通した健康づくり”を進めるため、相談や講演、料理講習会、健康づくりのための支援活動などを行っている。4年目の今年は会長に就任。推進員の平均年齢52歳より10歳近く若いが、年配の人もキャリアの長い人も協力的で、仲間との交流や市民との触れ合いを楽しみながら、仲良く活動している。
 
 現在の会員数は89人だが、仕事や家族の介護をしながら時間を作って頑張っている人も多い。「活動に興味があれば、時間の許す範囲でもいいので参加してほしい」と仲間を募っている。
 
 「市民全員に健康になってほしい」。その願いに一歩でも近づくため、推進員たちは活動に励んでいる。
 
 (2007年11月9日号)
 
  
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「人は情けのもとに住むを社会貢献で実践」

園芸ボランティアかたくり初代会長

 谷口 順房 さん

 「地域社会に貢献する~会社から外へ、地域に飛び出せ」。会社員時代、人事で社員を促したが、「さて、自分は終のすみ家の浦安でいったい何ができるのか」。すでにあるボランティアは女性ばかり。「男性ができるものは」と考えた時、会社での緑花事業と趣味の園芸を生かすことを決めたが、平成7年当時、県内に園芸ボランティアは確認できず、手探り状態で、花好きを集めて知り合いを紹介してもらい、草取りから取り組んだ。
 
 緑は多く植えられているが花の少ない浦安。「人を育て、活動してもらいたい。自分たちできれいにつくるまちづくり」と、講師を依頼された公民館の園芸講座も園芸ボランティア講座とすることを条件に引き受けた。小学校の児童園芸クラブや自治会などでの指導を通じて園芸ボランティアはさらに広がる。草だらけだった花壇が整備され、自分たちでまちに花を植える活動と、花を中心とした人の輪が広がった。
 
 喜寿を迎え「本当に年寄りになったんだなー」と実感するが、「アユは浅瀬にすみ、鳥は森の木にすみ、人は情けのもとにすむ」を座右の銘に、地域のために動き続ける。「そこに楽しみがある」。
 
 (2007年11月2日号)
 
  
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「子供の笑顔を何よりの励みにいつまでも」

ボランティア功労者おむすびの会代表

 赤田 秀子 さん

 宮沢賢治の学会や研究会4団体に所属し、共著も出している宮沢賢治研究家。5年前に55歳で運転免許を取得、ドライブに出かけて賢治作品に登場する鳥や植物の写真を撮り、ブログに公開して作品のイメージを紹介している。
 
 宮沢賢治にのめり込んだきっかけは児童文学。長男が幼稚園に通い、絵本への関心が高まっていた昭和54年、市川市信篤公民館で子供たちに絵本の読み聞かせなどを行うボランティアを始めた。日本で作られた児童文学を探しているうちに、「学校教育で教わったイメージとは違う宮沢賢治」を発見。ユーモアと表現のすばらしさにすっかり魅了された。
 
 ボランティア活動は、「子供の笑顔が何よりの励み」と現在も保育園などで実施。「おむすびの会」という名前には、「心と体のエネルギー源」というおむすびのイメージと、「人の心と心を結びたい」という思いが込められている。
 
 当初は子供たちのために勉強した児童文学だが、「話をしているだけで幸せな気分になる」というほど、いまでは自分も大好き。「派手なことはせず、子供たちが聞いてくれる限り続けたい」。厚労大臣から表彰を受けても、その姿勢が変ることはない。
 
 (2007年10月26日号)
 
  
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「写真は個人でできるが作品発表は難しい」

30回目の写真展を開いた写真グループ写友会会長

 津田 芳郎 さん

 21年目を迎えた写友会は現在、会員数27人。写真展のスペースを考えるとこれ以上人数を増やすことは難しく、「交通の便が良く、展示スペースの広い会場が市川にできてほしい」と望む。「写真は個人でもできるが、個人で写真展を開くのは難しいので、作品を発表するためだけにグループを作るのもいい」。昨年以降、同じ思いを抱く人たちと「デジタルフォトクラブ」「フォトほたる」という少人数グループを共同で立ち上げ、それぞれで写真展を開いている。
 
 写真を本格的に始めたのは60歳を過ぎてから。「一人で長続きできる趣味を…」と、当時最新のオートフォーカスカメラを購入した。だが、それまで30年間、家族のスナップ写真などを撮っていたのはマニュアルカメラ。使い方を学ぶため、講座に通って勉強した。
 
 その後、仕事の関係で「写す対象がたくさんあった」東北地方に3年間滞在。3年前からデジタルカメラに切り替え、風景や行事、人物など幅広い写真を、1年間で1万5千枚ほど撮り続けている。
 
 傘寿(さんじゅ)を迎えたいま、一番の狙いは「満月が海から昇って行く風景」。レンズの奥から、そのチャンスをうかがっている。
 
 (2007年10月19日号)
 
  
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「自分の将来を見ているようでお節介に…」

会話と食事楽しむなづな会代表

 八町 恵美子 さん 

 「この地をついの住み家に」と決めてから、近所で一人寂しそうにしている高齢者をよく見かけるようになった。「私の将来を見ているよう」。若いころに夫の転勤で転居を繰り返し、寂しい思いをした経験から、他人事とは思えなかった。
 
 平成3年10月、「地域の福祉を考えてみませんか」と一人でポスターを描き、自分の住んでいるマンションの掲示板に張って仲間を募集。当初18人だった会員は、いまでは約85人に増えた。支える人、支えられる人を区別せず、「お互いに支えあう」というのが基本的な考え。月に一度、自分たちで調理する手作りの会食会には、60人前後の会員たちが楽しみに集まる。
 
 趣味のカメラを始めたのは、20年以上続けている山歩きがきっかけ。「山に登ったときの感動を伝えたい」と写真学校にも通い、山に解け込んだ仲間の写真を撮ってきた。いまでは、かつての田園から変わってゆく近所の風景や、会員たちの生き生きとした表情をとらえ続ける。
 
 なづな会以外にも、子育てサークルのボランティアなど何にでも首を突っ込んでしまう自分を「お節介なだけ」と笑う68歳。だが、その“お節介”に救われている人は、決して少なくはない。
 
 (2007年10月12日号)
 
  
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「コーラスの魅力・難しさは心のハーモニー」

PTAコーラス10年ぶりのコンサート委員長

 安斎 美篠 さん

 音楽の盛んな小学校でコーラスを教わってから合唱が好きになり、進学後、そして社会人になってからも、部活や合唱団でコーラスを続けた。次男が市川市立三中に通っていた20年ほど前、友人と一緒にPTAで呼びかけてフリーアンティーズを結成。学校で週1回の練習を重ねながら、学園祭や市の音楽祭でその成果を発表している。
 
 「コーラスは音だけでなく、心のハーモニーが必要。心を合わせないと一つのものを作れない」。それが、コーラスの魅力であり、難しさでもある。毎年、仲間と開いている新年会や忘年会、暑気払いなども楽しみの一つ。10年前の初コンサートで沖縄の歌「花」を来場者と一緒に大合唱したとき、「会場が一つに解け合って良かった」ことも、忘れられない思い出になっている。
 
 「練習会場として学校が借りられるのはありがたい」「先生は度量が大きく、メンバーを包み込んでくれる」と恵まれた音楽環境に感謝する。「続けられるうちは、歌い続けたい」。そう願う73歳は、いま、13日に迫った10年ぶりのコンサートに全力投球。「みんなで張り切って若々しくやります。来てくれた人が喜んでくれるような楽しい音楽会にしたい」。
 
 (2007年10月5日号)
 
  
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「ボランティア24時間の心構えで生活支援」

サバイバル日本語の市川市開催に尽力

 中島 スザナ さん

  「DNAは日本人。ハートはブラジル人」―。ブラジルに移り住んだ日本人の両親の間に生まれた57歳。15年前に来日し、ボランティアの協力を得て日本語を学び直し、日本語能力検定1級を取得。「ボランティアに助けられていまの私がいる。来日している大人も子供も、一日も早く日本の社会に溶け込んでほしい」と、24時間の心構えでボランティアに携わる。
 
  地域や学校での通訳、病院の付き添いなど子供たちの生活支援に従事する。「いずれ母国に帰るからと勉強を疎かにすると、日本語、母国語などすべて中途半端で、セミリンガルにしかなれない。物は盗まれるが、学んだことは誰にも取られない。子供が望んだ仕事に就けるように、学びやすい家庭環境が重要」と説く。悩みをもつ外国人も多い。「友達になって、先生では担いきれないすき間を支えてあげたい」。子供の恋の悩みも聞く“第2の母”でもある。「子供たちに囲まれ、心から親近感を感じてくれていると感じられることが一番うれしい」。
 
  日本人の夫と暮らす自宅は、クリスマスが近くなるとデコレーションで色とりどりに瞬く。「今年のテーマはね…」と、忙しい合間を縫って、飾り付けの準備を始める。
 
 (2007年9月29日号)
 
  
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「多くの関心を集め40年の経験を社会還元」

NPO住まいのサポートセンター理事長

 梅野 節也 さん

 大学で建築を学び、大手建設会社に入社。「羽田空港ビルやホテルオークラなど用途の違う建物を造る楽しみ」や、「建物が後々まで残る生きがい」を味わった。
 
 平成17年には、「40年の技術と経験を社会に還元したい」とNPOを設立。「市民の立場に立つこと」を心がけながら、戸建て住宅やマンションに関する相談、診断、講演などを行っている。悪徳リフォーム業者に関しては「いい職人は街を歩き回ってはいない。訪問販売は家に入れず断ること」を勧めるとともに、マンション管理組合に関しては、「マンションがよくなることは、財産が目減りしないということ。役員は自分のために役目を果たしてほしい」と喚起を促す。今後は、「もっと多くの人の関心を集めたい」と、さらなる産学官の連携を図る。
 
 一級建築士であるとともに、市川真間駅前の料亭経営者という顔ももつ。経営を引き継いだのは60歳のとき。その数年後には、「板前の相談相手になれるように」と調理師免許も取得した。  地域でも商店会長や町会副会長、高齢者クラブ会長など多くの役職を担う79歳。「これが健康の秘けつ。元気なうちは全部続けたい」と生涯現役を貫く。
 
 (2007年9月22日号)
 
  
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「児童の元気な姿を見守るため立ち続ける」

子供の安全を見守り個人でボランティア

 清水 俊男 さん

 通学中の児童を守るため、道路に身体を乗り出して止める。「朝の通勤時間帯だからほとんどの車が急いでいます。交代で取り組む女性(保護者)だけで車を相手にするのは危険ですから」―。
 
 昨年の9月、同じマンションに住む若いお母さんたちが子育てに忙しそうにしているのを見て、「朝は時間に余裕があるから」と、子供たちの学校までの“送り”を手伝った。その初日、目の当たりにしたのが、浦安市立美浜南小南東角の交差点の交通量の多さ。「子供たちが巻き込まれないだろうか。ピークはほんの10分ほど」と感じた不安。黄色の横断旗やボランティアの帽子を用意して、翌日から交差点に立った。
 
 60歳の定年まで外資航空会社の整備部門で働いてきた。3交代制の職場は趣味を楽しむ時間の余裕ももたせなかった。定年後の10年前から、釣りやゴルフ、旅行などやりたいと思っていたことを始めたが、「いざ始めてみても、趣味にはならなかったです」と笑う。いまはマンション行事のスタッフや、興味があった園芸のサークルに所属して個人宅の庭木を世話するボランティアに従事。そして、元気に登校する児童の姿を見るため、交差点に立ち続ける。
 
 (2007年9月15日号)
 
  
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「理想の学校像実現と生涯学習に注ぐ情熱」

浦安市教育長に就任

 黒田 江美子 さん

  「子供たちの元気な姿を目に焼き付けたい」。就任した8月1日からさかのぼる7月22日、浦安市立浦安小学校の校長として、5年生の林間学校に参加。2年4か月の間、同小の子供たちと過ごした日々に別れを告げた。
  
  学校教育をはじめ、生涯学習やスポーツなどさまざまな分野を包括し、対外的な仕事も担う教育長。「私にできるのだろうか。子供たちのそばで過ごしたいという気持ちの整理をつけるのが大変だった」と戸惑いを隠さないが、「子供たちのために、私はまだ何かをしたい」と、放課後の過ごし方や子供の遊び場づくり、地域の積極的な学校への協力を広く結び付けることなど、理想の学校像の実現に情熱を注ぐ。生涯学習にもさらに力を入れ、「市民のみなさんが楽しみ輝いている姿を子供たちに伝えたい」と願う。
  
  小学校6年生のころに『二十四の瞳』を見て、「子供に慕われ、子供と一緒に過ごせる仕事っていいな」と感じ、35年間の大切な年月を過ごした59歳。思い残すのは卒業証書を手渡せなかったこと。残念なのは6年生も同じ。「じゃ、僕たち、私たちがあげちゃおう!」と、逆に手渡された卒業証書と、全校児童343人、一人ずつからもらったメッセージが宝物だ。
 
 (2007年9月8日号)
 
  
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「災害発生時の基本は“自助”と“共助”」

市川市地域防災推進担当副参事

 阪中 登 さん

 昭和42年に陸上自衛隊に入り、主に高射部隊で活動。三宅島の噴火や、スマトラ沖地震の際には救助部隊の一員として現地に赴き、自治体の対応や被災者の状況を目の当たりにした。  今年2月に定年退職すると、「自衛隊で受けた教育や計画立案能力、組織を動かすノウハウが生かせる」と市職員への道を志望。4月から、市川市で第二の人生をスタートした。
 
 災害対応能力を高めるには、「行政と市民の意識、どちらか一方でも欠けてはいけない」と、市と市民が一体となる必要性を強調。実際に災害が起きた場合、行政による“公助”が組織的に行われるまでには時間がかかるため、「市民には自分のことは自分で守る“自助”と、地域住民同士で助け合う“共助”が求められる」からだ。そこで大切になるのが、「日ごろから近所との付き合いをして、情報をもっていること」。自身も休日には、地元の自治会活動に積極的に参加している。
 
 和歌山県有田川町出身の55歳。市川市には、「北部には緑があり、海や江戸川、歴史もある。交通も非常に便利でいい所」という印象を抱く。「地震や台風などの災害だけでなく、テロや大事故など、危機に強い市川市をつくりたい」。その思いを胸に、日々、業務に励んでいる。
 
 (2007年8月24日号)
 
  
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「自ら発信できる市と職員にならなければ」

浦安市副市長

 中村 健 さん

  「仕事は一人じゃできない。コミュニケーションが重要」。行政の最終判断は、市長などがするもの。一般職員ならば頼ることができるが、副市長に就任し「職員の時とは違う責任の重さを感じている」。ただ、元職員だからこそ、「市民、市長、職員のつなぎ役をまっとうしたい」と自負がある。
  
  目指し続けてきたのは、「浦安に住んでよかった―と言ってもらえるまちづくり」。地域や自治会などを担当し、市民と話し合ってきた経験を生かして、「物事が起きている現場に時間のある限り出ていきたい」。説明責任よりも、説得責任が重要―を掲げる。「事が起きてからではなく、施策の策定段階から市民に納得してもらわなくては。庁舎にこもって判を押していればいいのではない」。
  
  北海道苫小牧出身の60歳。昭和42年、千葉在住の兄を頼って、当時の浦安町役場に入り、2年目には町の基本構想の策定に携わった。「町のすべてにかかわる仕事で大変だったが、やりがいがあった。最高の喜び、誇りを感じた」。
  
  職員には、「『仕事は自分で探せ』と伝えたい。小さな町ならば、ほかのマネをしていればいいが、浦安は自ら発信していける市、職員にならなければならない。人は宝」。職員出身だからこそ、人を育てる役割も求められている。
 
 (2007年8月17日号)
 
  
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「健康のために始め世界大会での成果に満足」

中国武術大会(太極拳・女子)で銅賞

 山田 千賀子 さん

 還暦を過ぎてからの挑戦。「健康のために始めた太極拳で世界大会に出られて、成果まで出せた。背中を押してくれる人がたくさんいたので出場できた。『行ってこい』と応援してくれた夫は『オレのおかげだ』と喜んでくれている」。
 
 太極拳を始めたのは、1歳の時に長崎で被爆し、身体を悪くしていたため。15年ほど前、靴下を履くことさえもつらい、突然の足の痛みに苦しんでいた時、偶然通りかかった原爆症に詳しい医師が勧めてくれた。99ある形を1年かけて覚えるうちに、足の痛みはなくなり、体調もよくなった。「小学生でがんになり、その後もいろいろな病気にかかり苦しかった。でも、あのころ太極拳を始めていなかったら、いまの私はない」。今後は、技術をさらに高めるとともに、「お年寄りの力になれるよう、健康をテーマに太極拳を広めたい」。
 
 気分転換は夜中に集中して描く水墨画。中国拳法の世界や被爆の様子なども描く。市川被爆者の会や交友関係で語り部も努めている。「原爆の怖さ、戦争の悲惨さを風化させちゃいけない。体験者は減っている。若い世代に話を聞いてもらい、語り部を受け継いでもらいたい」。
 
 (2007年8月3日号)
 
  
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「きれいでおいしいケーキがつくりたい―」

パティシェール(女性パティシェ)・コンクールで優勝

 工藤 望 さん

  「単純に、おいしいものがつくりたい」―。コンクールでこだわったのは、「シンプルに味を引き立てる」こと。さらに、「風や音が聞こえてきそうな」美しい作品づくりで、“味が6割”といわれるコンクールを制した。最終審査は、その場でデザートづくりの技量を試される実技。「優勝できたのは、作品づくりでアドバイスをくれた先輩など、支えてくれた周りの協力のおかげ」と振り返る。
 
  料理やお菓子づくりが好きで、調理師を目指し地元・徳島の専門学校へ進むが、「見た目がきれいでおいしいものがつくりたい」と、パティシェールに転向してレストランへ就職。社会の厳しさを目の当たりにし一時は退職の道を選ぶが、「私にとってパティシェールは一番大好きなこと。やっぱり、これしかない。普通においしいケーキがつくりたい」と復帰。先輩のつくる試作を味わい、おいしくなっていくデザートの過程を改めて学んだ。「まわりが見えるようになりました」。
 
  パティシェール歴5年の26歳は、友人にバレンタインやクリスマス、誕生日のデザートをつくってあげたり、つくり方を教えてあげたりする。「今後もずっとパティシェールを続けたい。ケーキってあったかい、楽しいものですよね。将来は、自分のお店も出してみたい。自分のつくったケーキで、身近な子供たちに喜んでもらいたい」とはにかむ。
 
 (2007年7月27日)
 
  
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「市議会全体を通じて市民の福祉向上に―」

第15代浦安市議会議長

 秋葉 要 さん

  「一兵卒として市民の声を議会で実現したい」という53歳、市議5期目。前副議長職も含め、「図らずも就かせてもらった」が、発言できない物足りなさも感じている。一議会を終えても「緊張します。これからも緊張しっぱなしかも」という議長職。「新人八人を含め市議20人を取りまとめるのが議長の仕事。市民の福祉向上を一市議の立場からではなく、市議会全体を通じて結び付けたい」と、襟を正す。
  
  浦安に思い描いているのは「市民を一つにしたい」「きれいな東京湾の自然を復活させる発信基地に」の二つ。「市内を元町、中町、新町とゾーニングすること自体一つじゃない証拠」。出身の新潟や東京の下町で味わった人情深さを取り戻すとともに、自然環境の復活も重視。「東京湾サミットを開き、昔のようなきれいな東京湾を目指す拠点を果たしたい」と願う。
  
  高校生のころ、全国で盛んだった学生運動を見て、「運動で何が変わるのか。それよりも政治家になれば変えられる」と、政治の道を意識。「いろいろな人にお世話になった。その人には返せないが、これから出会う人に返したい。浦安で骨を埋める覚悟」。趣味と健康づくりの海釣りとウオーキングはいつしか、市内の現場に目を配る“ついで”になってしまった。
 
  (2007年7月20日)
  
  
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「内助の功に感謝しながら消防団活動49年」

市川市消防団長

 祖山 晏宏 さん

  「みんなでやらないと訓練にならないので、『訓練に出なくていい』という気持ちにはならない」。その強い結束力で49年間、消防団を続けてきた。平成元年から18年間は副団長を務め、「分団長と違い、23個分団をまとめないといけない」という大変さを実感。「内助の功がないとできない」と妻の支援に感謝する。
  
  高校時代は、地域の子供たちの面倒を見る青年団で活動。卒業後、先輩や友達たちがそうしていたように、“当たり前”の感覚で消防団に入った。当時の消防団には、さまざまな職人たちが集まっており、「一個分団で家が建つ」と言われたほど。火事だと聞けば、遠くの現場にも駆けつけたという。
  
  今年はついに団長就任。「だらしのない格好はさせない」と団員の規律を重んじる。知人に「いい所」と言われる市川を「安全で安心な街、災害に強い街にしたい」。そのためにも、自治会と連携し、地域住民と密着した消防団を目指していく。
  
  休日には、江戸川や三番瀬でハゼ釣りを楽しむ67歳。「自分で釣った魚はおいしい」と目を細める。妻とよく行く二泊三日の旅行も、今年の大型連休には行けなかった。「いずれ慣れてくればどこかに行ってみようかな」。それまでは団長の任務に専念する。
 
 (2007年7月13日)
 
  
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「昔の「日本の良さ」にちょっと戻っても」

市川市議会議長

 松井 努 さん

 議員として3期、9年目を迎えた59歳。「地域の人が喜ぶ顔を見ると、この仕事をやらせていただいて非常に良かったと思う」と振り返りつつ、「これからも市川全体はもちろん、地域の人たちの役に立ちたい」と意欲を見せる。
 
 高校・大学時代に建築を学び、24歳のときから、建築設計事務所と不動産会社を経営。政治家になることなど、まったく考えていなかった。転機が訪れたのは8年前、自身が後援会事務局長を務めていた市議の引退。周囲から後継者として強く推され、悩んだ末、地域の代表になることを決意した。
 
 議員になるまで、PTAや消防団、ロータリークラブなど地域で活動していたこともあり、「無報酬で頑張っている人たちがいることを忘れてはいけない」と、議会では当初から議員報酬や議員定数の削減を提案。また、「病気や障害がある人を手厚く支援するのは当たり前だが、まじめに働いても困窮している人にスポットを当てることも必要」という視点での弱者救済を訴え続けている。
 
 教育への関心も高く、特に協調性や礼儀作法、あいさつなどを重要視。「昔のよい部分があればちょっと戻ってもいい」。失われつつある“日本の良さ”が取り戻されることを願っている。
 
 (2007年7月6日)
 
  
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「多くの課題に検討よりも早い取り組みを」

浦安市初の女性部長

 大塚 久美子 さん

  「“産んでよかった、生まれてよかった浦安市”にしたい」―。
 
  少子化や虐待、核家族、子育てに煮詰まりやすい専業主婦、障害など、子供の置かれている環境に課題は多い。「ゆっくりと検討している時じゃない。すぐに取り組まなければ」と、これまで分散していた零歳から18歳までの子供を支える担当をまとめた「こども部」の初代部長に就任。子供を総合的に支援できるからこそ、「広い視野で子供や親を見つめながら、細かい気配りをしたい」。そのためには、ネットやデータではなく現場に出向き、子供や親たちが何を求めているのかを知り、職員が課題や情報を共有化することが必要―と、とにかく子供のために走り、指揮を執る。子育てを担っているのが母親だからこそ、子育て経験のある女性職員の経験が生きる。「子どもの悩み、自分の生き方、親としての自己実現など、いつでも気軽にこども部に相談に来てほしい」。
 
  発展する街の熱意にあふれる浦安市に、大卒で奉職した54歳。最初の上司の現場主義を受け継ぎ、広報や総務(市史編さん)などで多くの市民との触れ合いを軸にした業務に携わった。
 
  課題に対して真剣だからこそ、まずは寄せ集め所帯でも発足したこども部。「子供が育つよりよい環境って、浦安で育った子供や子育てをした親が、いい思い出をもてることでしょ」。目的地のイメージははっきりしている。
 
 (2007年6月22日)
 
  
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「相談から改修まで“血の通った支援”を」

NPO・安全で安心なまちをつくる会理事長

 益子 安正 さん

 高校から建築を学び、大学卒業後、市川市職員に。南行徳中やクリーンセンターの建設に携わるなど、「建物ができ、この世に残っていく楽しみ」を味わった。
 
 だが、平成16年度に異動した建築指導課で「耐震化」の問題に直面。NPOや学校の教師らが主催する耐震フォーラムなどのイベントで勉強を重ねるうちに、「私も何かやりたい」と心に火が着いた。
 
 「60歳になってからではできない。体が動くうちに、31年間お世話になった市川市に恩返しがしたい」と53歳の今年、退職してNPOを設立。家族からも「やりたいことがあるなら、体の動くいまのうちにやったほうがいい」と後押しを受けた。
 
 公平性の面から業者を紹介できない行政に対し、「設計業者や施工業者などを会員にすることで、相談から改修までトータルにサポートできる」ことがNPOの強み。家具の配置や手すりの高さなどをそれぞれの家のニーズに合わせるなど、“血の通った支援”を心がけていく。
 
 毎年、夏休みには愛犬と妻と一緒にキャンピングカーで気ままな旅に出かける。お気に入りの場所は、「空が澄んでいて星がキレイ」という美ケ原高原。「いつかはキャンピングカーで日本一周」。そんな夢を思い描く。
 
 (2007年6月15日)
 
  
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「何も知らなかった自分が恥ずかしかった」

戦争の遺物に光を当てた写真集『パラオ』を出版

 田中 正文 さん

 海中の美しさを紹介するため、20年ほど前に著述家から写真家に転身。パラオ近海の海にも何度も潜ってきた。だが5年前、同国大統領夫妻とのダイビングで目にしたのは、太平洋戦争時の旧日本軍の戦艦や航空機が海底に横たわる光景。「日本人としても、カメラマンとしても知らなかった自分が恥ずかしかった」と大きな衝撃を受けた。
 
 「俺たちはここにいる」という、英霊たちの声に突き動かされて撮影を始めたが、当初はレンズが真っ二つに割れたり、原因不明の高熱で入院したりと、警告を受けるような出来事が多発。現地の人からも「日本兵が怒っているからやめなさい」と忠告された。だが、「やめなさいと言われているのではなく、本気でやる気があるのか試されている」というのが、自問自答を繰り返して得た答え。撮影の後半は、驚くほど順調に進んだ。
 
 5年間に及ぶ作業を通じ、写真家の仕事は「自分が美しいと思う被写体を選んで撮るのではなく、本当は被写体が語りかけるものを、写真というメディアに翻訳すること」だと気付いた。現在47歳。これからも太平洋戦争の遺物を追いかけるとともに、絶滅したニホンアシカや三番瀬の生き物など、“あまり人に見られないもの”に光を当てて行く。
 
 (2007年6月8日)
 
  
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「人に恵まれて周りの人に支えられた34年」

市川市消防局長に就任

 鈴木 定廣 さん

 昭和22年生まれの59歳。昭和42年に、生まれ育った上総亀山から行徳に移り住んだ。当時の行徳は、お金のないときに近所で食事をもらうなど、人間味がとても豊かな街。「局長に任命されたのも周りの人に支えられたから。人には恵まれた。それは間違いない」。
 
 消防官になったのは25歳のとき。その理由は、「『ありがとう』と言われる仕事に就きたい」という思いだった。いまでも、「心と心のつながり」を最も重視。「真心を持ち、相手の身になって対応することが一番大事」と、市民の期待と信頼に応えるよう心がけている。
 
 消防での34年間は、主に危険物施設の許認可や消防用設備の検査などの予防業務に携わってきた。「こうしておけばよかった」と思うような些細な失敗は毎日してきたが、「それも勉強のうち」。なかなか失敗が許されない時代になったが、「若い人も許される失敗をして一人前になる」と、職員の成長を見守っている。
 
 昨年6月に住宅火災警報器の設置を義務づけるよう、火災予防条例が改正され、現在、設置促進に向けた活動を強化している。「市民の生命・身体・財産を守るのが消防の最大の使命。人材の育成と知識技術の向上を図り、高度な消防サービスを提供できるように頑張っていきたい」。
 
 (2007年6月1日)
 
  
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「大きな財産となった地域の友達と楽しく」

ISG塩浜運営会代表

 矢口 弘 さん

  昨年4月から総合型地域スポーツクラブ・市川スポーツガーデン塩浜の設立準備運営委員会代表に就任し、オープンまでの1年間で40回の会議を重ねた。競技種目と会費の決定、指導者と場所の確保など難しい課題も、献身的な運営委員と協力して解決。勝利を目指すものや健康志向のものなど、子供からお年寄りまでが参加できる九種目をそろえた。
 
  今後は、全種目を1か所で行うイベントを開いて会員同士の交流を促進するとともに、昨年復活した行徳マラソンをクラブの主催にするなどして活性化を図る予定。「会員が一人でも増え、地域住民に喜んでもらえるよう、スタッフ一堂努力していきたい」と意気込む。
 
  学生や会社勤めのときは、水泳やバレーの選手として活躍。69歳のいまでも、ソフトバレーやユニホッケーを楽しむ。ジャズを聴くのも大好きで、特技の“トランペットの口マネ”を披露して“宴会部長”と言われたこともあるという。
 
  行徳に住み始めた30年ほど前から、こども会会長やボーイスカウトの隊長、体育指導委員など、地域や子供たちの活動を続けている。これらの活動を通してできた地域の友達が、自身にとっての大きな財産。これからも、「普通に生活して、いい友達と楽しくやっていきたい」。
 
 (2007年5月25日)
 
  
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「世界で活躍できるデザイナーになりたい」

ホームソーイング作品コンクール高校生優秀賞

 詫摩 侑美 さん

  「小学生のときから大好きだった洋服をデザインする仕事に就きたい」と、和洋国府台女子高被服科(現・ファッションテクニックス科)に入学。多く出される課題に取り組みながら普通教科も学び、ファッションの基礎だけでなく、一つのことに頑張って取り組む精神力を身につけた。「この3年間がなければいまの自分はいない。自分の人生において大事な3年間」。高校生活をこう振り返る。
  
  3年間の集大成として初めてデザインから自分で取り組んだワインレッドのワンピースが、全国で優秀賞を受賞。「誰かに認められ、すばらしい賞をもらったことで自信になった」と、表彰式後から受賞の実感が沸いた。4月からの進学先は、洋裁の名門・文化服装学院。「入選作品は、自分のもっている知識だけで作ったもので、独学の部分が多い。服の原理を一から学びたい」と気の緩みは一切ない。
  
  きれいなものを見るのが好きで、お気に入りは「夕方の高校の中庭」。休日には美術館やバラ園などを訪れる。
  
  日ごろから描きためたデザインは、すでにファイル2冊分になった。「世界で活躍できるデザイナーになり、誰にでも着てもらえる服を作りたい」。大人びた18歳の少女には、大きな可能性が秘められている。
 
 (2007年5月18日)
 
  
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「日本代表コーチをしなければ終われない」

車イスバスケット日本一を目指す

 及川 晋平 さん

   市川・中山生まれの36歳。16歳の時に骨肉腫を発症した“バスケ少年”は、5年間の闘病生活へ。三度の再発、20回以上の手術を超えて来られたのは「ガンになった母のためにも、自分は死ねない」という気概だった。
   
   「自分はどう生きていくべきか。障害を背負ったという自分の殻を脱ぎ捨てたい」と打ち込めるものを探すなか、車イスバスケットに誘われた。「なぜ車イスに乗ってまでバスケットを」との思いをよそに、そこには「ずっと夢中になっていたバスケット」があった。 車イスバスケットを題材にしたマンガ「REAL」に“現場のいま”を提供する。影響は大きく、「障害者や病院関係者から一般に交流が広がった」。
   
   「結果を出すため、目標に向かって一つひとつ」。チーム全体を考える監督肌。選手だが、資料づくりや選手へのアドバイスを考える作業に追われる。「自分だけうまくなるのではなく、頑張っているみんなの可能性を最大限に引き出したい。突然何が起こるか分からない体だからこそ、確実につかんでいきたい」。
   
   「日本代表のコーチがしたい。これをしなきゃ終われないですね」という笑顔は少年時代の面影をのぞかせる。
   
   (2007年5月4日)
   
  
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「生き物とかかわり合う大切さを伝えたい」

文科省「地道にがんばっている先生」表彰を受賞

 越川 重治 さん

 ただ教科書をなぞるだけでなく、自分の目で生きる姿を見させたい―。
 
 51歳、「生徒は自分の鏡」という県立国分高校の生物教諭。「自分が頑張れば生徒はちゃんと反応してくる。お金じゃない報酬、こんな職業はほかにない」と教諭の道へ。だが生徒は10年後、授業で学んだことを忘れる。「自分の授業って何なのか」。こうして始まったツバメの巣の観察や、家族とのアカガエルの飼育から、生徒は“生死”を感じ取る。「生き物を見ることは、最後は自分を見ることになる。鏡を見てもわからないことが、生き物との比較で見えてくる」。巣の観察を通じて家人からごちそうになる生徒もおり、地域や家庭の交流にもつながる。高校ではニワトリの解剖も実施。「自分が食べているものは何なのか。誰かが殺し、さばき、食品になる。一生に一度でも、命をいただいて生きていることを考えてほしい」。
 
 専門はムクドリやツバメなどの鳥類。「いつか、都市の鳥を題材に子供に読んでもらえる本を書きたい」。ムクドリは害鳥というイメージが強いが、「シャイな鳥、図太い鳥など個性はいろいろで人間と同じ。レッテルを張らず、人間と生き物がかかわり合って生きていくことの大切さを伝えたい」。
 
 (2007年3月23日)
 
  
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「いつかは骨太なストーリーの長編絵本を」

2010年千葉国体キャラクター“チーバくん”をデザイン

 坂崎 千春 さん

  知らない人はいないだろう。JR東日本のICカード、スイカのキャラクター“スイッピー”の生みの親でもある。イラストは、「これでいこう!」と構想を固めるまでは産みの苦しみを味わうが、あとはスイスイと描く。暇があればいつも描いているというタイプではなく、きちんと作品づくりをするプロフェッショナル派。「無理矢理だといい作品にはならないんです」。
 
  好きな動物をシンプルでユーモラスに描いているほか、絵本やエッセイも書く。読書が好きで、童話から名作、推理小説、SF、コミックと幅広い。市川市中央図書館にもよく通った。子供のころは、自分の本に図書カードをつけて貸し借りする図書館ごっこが大好きだった。そんな読書好きが作品づくりで大切にしているのは物語性。「チーバくんは犬じゃないんです。千葉に生息する架空の生き物で…」。キャラクターが生き生きとして見えてくる。絵本を書く時も物語から。「骨太なストーリーが好き。いつか、長編の絵本をつくりたい」。
 
  本八幡生まれの39歳。実家に帰り、葛飾八幡宮を詣でるほか、ふるさとの夏の花火も自慢。コミックを読むこと、フィギュアスケートを見るのが目下の楽しみ。「荒川静香さんや真央ちゃんも見ました。すごく演技がきれい」。仕事の合間をぬって世界選手権のリンクに出かけていく。
 
  (2007年3月16日)
 
  
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「喜んでもらえれば音楽にジャンルは不要」

市川あさひ荘でボランティアのコンサートを100回開催

 宮崎 滋 さん

   昭和50年、24歳で日本音楽コンクール作曲部門の第1位を獲得し、作曲家としてデビュー。その後もピアニストや指揮者、音楽評論家など、活躍の幅を広げている。
  
   母を亡くし、父が病気で倒れた平成6年、「若いころ親に教わったような曲を、せめて父に聴かせたい」と、クラシックから歌謡曲、民謡まで幅広く演奏する「おしゃべりコンサート」を船橋市で開催。皆が感動する姿を見て、「喜んでくれればいい。音楽にジャンルを設けるのがむなしく感じるようになった」と、クラシックへのこだわりがなくなった。
  
   父の入所を機に、あさひ荘で始めたコンサートは、「みんなが喜んでくれるのでやめられない」と父の死後も継続。「当初は泣いて喜ぶ人が多かったが、最近は笑い声が増えた。元気になったのかな」とやりがいを感じている。
  
   ボランティアを通じて得たものは、聞き手や歌い手との多くの出会い。日本の歌を演奏することで“日本語のきれいさ”に気付き、能、歌舞伎、文楽という趣味をもつようにもなった。今後も、「指が動く限りひき続けたい」という作曲やコンサートを通じ、「たくさんの出会いを重ね、深い感動の世界を探していきたい」。
  
   (2007年3月9日)
  
  
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「好きなものを楽しみ集うことが街の文化」

市川よみっ子運動を提唱する

 井上 ひさし さん

  作家や画家、演出家など多くの文化人にゆかりのある市川。「芸術を日常生活に組み込んで楽しめる街の第一候補が市川。市民はこのことに気づくべきです」。
  
  子供のころ、節約して注文した本が届くまでの期待感、包みをほどいた時の感動はいまも続いている。「高校生の時、『映画監督かシナリオライターになりたい』と言うと、映画や芝居を観て単位をくれた先生がいた。勉強をあきらめたから、いまの僕がある」という文字・活字文化推進機構の世話人。だからこそ、「日本の、市川の未来を具体的に語ると子供に尽きる。いまの子供たちは受験やテレビ、ゲーム、稽古ごとなどで忙し過ぎる。もうちょっと子供らしく、地域で自由に過ごせる時間が必要。そのことを大人たちに気づいてほしい」と、読書と地域交流、療養中の子供への支援を結びつける、日本に他の例がない「市川よみっ子運動」構想を提唱する。
  
  「どんな人でも好きなものがあるはず。それを楽しめばいい。それが集って街の文化は深まり、互いに広がっていくんです」。昭和42年から20年間、市川市国分町(現在北国分)に住んだ72歳。「僕の土台は市川でつくった。やり残さないよう、恩返しをしなくちゃ」。
  
  (2008年3月2日)
  
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「社員や協力者に感謝しながら自ら雑用も」

幼稚園に“雪”をプレゼントし続けて15年

 今井 貞夫 さん

 新潟・佐渡出身の61歳。「雪、運んでくるか!」。雪を見たことがない外国人の子供が地域の幼稚園にいたことをきっかけに、自社のダンプカーで同・越後湯沢の除雪対策基地から毎回50トン以上を往復13時間かけて運ぶ。
  
  運搬はいつも日曜日。忙しい仕事の合間をぬって、慣れない雪道を走る。「『オヤジ、雪を取りにいかないと新年を迎えた気がしない』と言って社員が協力してくれるんだ」。子供や妻も連れて行かせるし、食事もさせる苦労はある。「10回目で終わりにしようとしたけど、子供たちの笑顔と、社員が楽しんでくれて、除雪隊員との交流もあるのがうれしくて、やめられなかったんだよね」。
  
  15年の年月は、「人間、いくらいいアイデアがあっても一人じゃできない。いろんな人に支えられてきたからだよ」と社員や協力者に感謝するが、「金だけじゃ人のつながりにはならない。自分も雑用をしてドロだらけになれなくちゃ」と、自分に厳しい姿勢も貫く。
  
  休日は草野球の審判か、好きなギャンブルで過ごす。「長く苦労させたから、かあちゃん連れて旅行しなきゃな」。園児や周囲の笑顔がまだまだ、“オヤジ”と慕われるひとみに映り続ける。
  
  (2007年2月23日)
  
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「話題を共有できる地域の関係づくりに…」

フットサルリーグ登録チーム「バルドラール浦安」代表

 浅野 清春 さん

   数あるフットサルチームのなか、運営組織の法人化や海外遠征など将来のリーグ化、プロ化を目指して先駆的な取り組みを続けてフットサルリーグ実現の一翼を担い、今期は国内初の外国人監督を招いた。「チャレンジングな年だったが、勝てば勝つほど選手は休養をとれず、ケガに泣かされた」と、今後の健康管理サポートを重視する。
   
   本業は商業施設とまちづくりのコンサルタント。野球少年もいつか、仕事中心の毎日となったが、前身のプレデター浦安にかかわったのが縁で、「多くの人が楽しめるすごいスポーツ。これから日本に根付くはず」とフットサルの運営にドップリとはまり込んだ。
   
   フットサルを通じた“まちづくり”が夢の一つ。「スペインでは夜遅くまで親子や地域の人たちが体育館でスポーツを楽しむ。みんなが同じ話題を共有すれば、地域の関係づくりがいっそう進む。3年、10年先を考えてチームや組織運営を強化したい」。学校や地域でのフットサル指導のほか、地域参加・貢献も検討している。
   
   38歳の父親。「子供って視点が大人とまったく違う。アイデアをもらいます」。6歳の子供と過ごすのが、仕事から離れる唯一の楽しみ。
   
   (2007年2月16日)
   
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「“おばあちゃん”“無理しないで”が大嫌い」

93歳でボランティア活動に奔走する

 橋本 治子 さん

  大正2年生まれ。「この年になって、人のお世話をさせていただけるのはとても幸せなこと」。
  
  一昨年夏から始めた月に2~3回の高齢者慰問ボランティアに、休みなく参加している。
  
  きっかけは、近所の人が脳梗塞で倒れたこと。「私はまだ元気。自分にできる、人の役に立てることはないかしら」と、近くに住むボランティア活動家を頼った。
  
  きれいな通る声、足腰が丈夫な秘けつは、師範の資格をもつ日本舞踊や35年続けている謡(うたい)のほか、エレベーターは使わず、休みの日も約1時間の散歩に出かけること。そして“おばあちゃん”て呼ばれることと “無理しないで”と言われるのが大っ嫌い。「歩けるんだから歩く。何でも続けるのが元気のもと。休めばクセになる」。もっているものを大事に維持し続けてきたからこそ、いまがある。
  
  手製のスケジュール帳には、謡や童謡コーラス、慰問ボランティア、芸術鑑賞などの予定が入っている行動派。古典落語の「寿限無」も暗記中。得意な声の使い分けを生かした紙芝居なんてどうかしら? したいことが次々わいてくる。
  
  (2007年2月9日)
  
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「ふるさとの懐かしさ感じる 」

浦安市からガーナへ自転車の寄贈に貢献

 石田 玲子 さん

  4歳の女の子が、さびついた自転車をていねいに磨いている。『私の宝物なの』。2年前、ガーナを訪れた時に見た光景が忘れられない。
  
  ガーナとの関係は偶然。以前、ホームステイを受け入れた時から出会うのはガーナ人ばかり。経営する英会話教室で一緒に英語を教えている。その縁で降り立ったガーナは「懐かしい。ふるさと岩手のよう」。赤い土に深い緑の森、やさしく声をかけてくる人々…。「海外では心細くなるのに、安ど感を感じたんです」。
  
  日本では粗大ごみでも、ガーナでは宝物になる。引き取り手のない放置自転車を送ることを思いつき、市との交渉は2か月。当初の300台も、結局は470台にまで増やしてもらえた。英会話教室からも生徒父兄の協力を得て洋服や食器、靴、コンピュータを送る。40歳。将来は「ガーナに日本語教室をつくって、生活を半分移したいな」。
  
  (2007年2月2日)
  
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「地域互助は自分にもプラス」

高齢者に弁当を届けるポテトの会・代表

 加藤 京子 さん

  子育てがひと段落した14年ほど前、市の老人給食サービスに参加し、独居老人の自宅に弁当を届けた。活動を通じてわかったのは、さまざまな人がサービスを必要としている実態。市の事業が終了した平成7年、「解散はもったいない」と有志で会を結成し、いまも活動を続けている。
  
  「地域に知り合いがたくさんできたことは宝物。自分にとってプラスになることも多い」というボランティア活動。「体の続く限り、隣近所の助け合いのように細々と続けていきたい」。
  
  趣味はジョギングと登山。「百名山」を70歳までに制覇することが目標で、すでに72の山に登っている。目標達成まで残された時間はあと10年。毎週末、「あんなにいいコースはない」という江戸川沿いを約15キロメートル走っており、体力面でも不安はない。
  
  (2007年01月26日)
  
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「勝負だけではなく優しさも」

平成18年度エイジレス・ライフ実践者

 中野 安司 さん

 日本発祥のゲートボールに携わって約30年。「小さなエリアに10球がひしめき、作戦は1千通り以上―と、ほかにはないスポーツ。技術より精神力が求められる」と、日々ゲートボールに向かい合う71歳。
 
 現在、中国やロシアなど世界32か国以上に広まるゲートボールが海を越えたのはここ10年の話。「日本では高齢者のスポーツといわれているが、海外では子供たちが楽しんでいる。みんなとっても明るい。日本人ももっと明るく楽しんでほしい」と、国内外問わず指導に携わる。
 
 帰国した中国残留孤児との交流にも積極的。「言葉も通じず、家に閉じこもりがち。力になりたい」と交流大会を開いている。
 
 ゲームだから当然、勝負はつく。が、「ただ、一方的に勝つのはよくない。互いをいたわるやさしさが求められるんです」と“ゲートボール道”を行くスポーツマン。
 
 (2007年1月19日)
 
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