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「地球規模で学んで生活に反映してほしい」

環境・国際理解教育に努める小学校教諭

 太田 美穂子 さん

 「世界で起きていることを子供に伝えたい」―。長年にわたり、環境や国際理解をテーマに授業を行い、政府機関とNGOが主催する日本最大の国際協力イベント・グローバルフェスタJAPAN2007で外務大臣賞(実践授業例部門)を受賞。海外視察も生かして授業を行い、児童に深く、広い視点を示している。
 
 教諭生活21年。環境学習への同僚の誘いに加え、近隣河川に流される生活廃水の現実、海外環境対策への日本技術の活用などを知ったことで、環境に興味をもつ。ニュージーランドのガーデニング、ドイツの環境先進性、オランダで出合ったマイバッグなどの海外見聞に「日本も頑張らなければいけない。知らない現実を知ることが大切」と学ぶ。
 
 授業を通じて児童が「僕がした募金はこうやって使われているんだと分かった」「将来の夢は世界の人々のために働くこと」と感じてくれたことに、うれしさを感じる。地球規模で学びながら、自分の生活に反映することを望む。「知って、自分ができることから何かやってみようと思い、少しでも実践してほしい。子供の力は大きいんです」。
 
 都会でも自然豊かで、さまざまな文化が混在する大好きな米国ニューヨーク。13回目の旅立ちが目下の楽しみ。
  (2008年12月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「経営感覚を取り入れ“頼られる”社協へ」

浦安市社会福祉協議会会長に就任

 宇田川 敬之助 さん

  「健康で、生きがいのある地域を、みなさんと一緒につくっていきたい」。地域で支えあう互助の組織の社協。社会保障制度の谷間にいる人に、地域でふれあいの場を提供し、手助けができるかが求められている。「ハートとハートが繋がれば、お互いを知り合え、助け合える」。
  
  浦安町(市)職員を経て、浦安市議、県議を勤めた72歳。町(市)時代は職員が少なく、あらゆる施策に携わった。出馬の際には“子供のための町会議員”“児童党”がキャッチフレーズ。以来、文教や社会福祉などは、政治家28年間の大きなテーマだった。
  
  社協副会長時代から、売り上げの一部を福祉に寄付し社協のPRにもなる福祉自販機の事業所への拡大や、市健康福祉部署との連携強化を進めている。これからの社協はいかにあるべきか。「社協を知らない人が多く、期待度が低いのではないか」。経営感覚を取り入れながら“求められる、頼られる”社協を目指す。
  
  「これからは、団塊の世代がいかに地域福祉の担い手になってくれるかにかかっている」と、活動拠点づくりも重視。「社会福祉は、みんなが幸せになることが目標。ボランティアは“人のために”だけでなく、“自分のために”行うことも大切」。その精神で重責を担う。
 (2008年12月13日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「頂いた命に感謝しながら生涯現役を貫く」

50周年を迎えた市川市菊華会会長

 大崎 太郎 さん

 菊華会に入って8年。そのうち4年間、会長として会を支え、何よりも「次世代に継承していくこと」に務めている。菊の世話に15か月かけて菊花展を毎年開催している。絵手紙講師としての顔ももち、地域の小学校で教室を開くなど日々活発に動き回る。「定年後のほうが忙しい」と微笑むが、その裏には、30年ほど前にかかった病の影響が隠されている。
 
 男として仕事盛りにあった40代半ば、突然舌がんの宣告を受け、約半年間の闘病生活を送った。当時“がん”といえば“不治の病”の印象が色濃く、あすが見えない絶望の日々が続いた。しかし「いま生きていること」の大切さに気づき、「何もすることがない」と悲観せず、「いまのいまを精一杯生きる」ようになった。
 
 菊との出合いもちょうどそのころ。もともと興味はあったが、初めて庭の隅に植えて「手をかければかけるほど応えてくれる」と、すっかり魅了された。
 
 菊花展の会期中は、来場者のどんな質問にも丁寧に応じ、「菊栽培はわが子を育てるようなもの」と解説しながら、誰よりもうれしそうに菊を語る。今後も「頂いている命」に感謝をしながら、「いまさらではなく、いまから」と、生涯現役を貫き続ける。
 (2008年12月6日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「家族や仲間の支えで目指す「20年の証」」

仏・パリのル・テタンジェ国際料理賞コンクールに挑む

 下村 康弘 さん

 「名前を呼ばれて、まず家族や仲間の顔が浮かんだ」。出場資格“39歳まで”の日本のル・テタンジェ国際料理賞コンクールに「最後の機会。20年やってきた証を残したい」と挑戦し優勝。世界各地の優勝者と料理の腕を競い合える切符を手にした。参加できる海外のフランス料理コンクールで最も権威がある。「すごくうれしかった。練習のための時間をつくり、精神的に支え、自身の経験を授けてくれた家族や職場の協力がなければ優勝できなかった」と感謝する。
 
 14年前からさまざまなコンクールに挑み、4度の受賞のなかで “古典料理の大切さ”に気づき、追求している。「古典は料理の原形。シンプルで、すべてが凝縮され、完成されている。食材のよさを生かす料理で“うまい”」。
 
 本選は来月2日。連絡をとった歴代挑戦者から細かなアドバイスと“勝ってほしい”との思いを受け、「日本人の優勝は過去に1人だけ。ここまで来たら自分1人のことではない」と優勝を目指す。
 
 東京ディズニーランド勤務。料理好きな母親の影響から中学生で料理の道を決めた。「自分の技量で最高のものに仕上げていく魅力に取り付かれた。今後もずっと料理に携わっていきたい」。フレンチの花形で、難しい“ソース”が自慢だ。
 (2008年11月22日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「“人と人をつなぐ扉”の思いを込めて」

音楽で障害をもつ児童を支援するBrand New音楽隊代表

 青山 卓矢 さん

 16歳から23歳までの若者14人で組織。平成18年からBrand New Entrance(ブラン・ニュー・エントランス)と銘打った、障害をもつ人とともにつくるチャリティーコンサートを毎年開いている。特別支援学校(元・養護学校)の卒業・在籍者で組織する音楽グループの演奏指導のほか、ミニライブでの啓発・寄付活動にも取り組む。例年、市川市社会福祉協議会を通じた寄付をしているが、「障害をもつ人が音楽を気軽に楽しめる環境づくりを」と、楽器の寄贈も新たな目標に据えた。
 
 「ただ演奏するだけでなく、音楽を通じてできることは…」と始まったコンサート。最初は誘われてステージに立ったただの出演者だったが、「素晴らしいコンサート。この機会を逃したら、このような活動と仲間には二度と出会えない。もっと活動を広めたい」とスタッフ入り。
 
 活動の趣旨は来場者や友人などを通じて広がりつつある。入口を意味する「エントランス」には“人と人とをつなぐ扉”の思いも込められている。ゲームやギター、作曲好きな22歳は、「仕事をしながらのいまは、この活動で手いっぱい。でも、結果は後からついてくる」と、新たな出会いの場づくりに励む。
 (2008年11月14日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「“家族の支え”を背に受けて走り続ける」

昭和学院中女子新体操部を全国優勝に導いた監督

 塩屋 恵美子 さん

 中学まではバスケに陸上、生徒会までこなすオールラウンダーだったが、高校進学時に出合った新体操に一目ぼれ。以来、「私の人生の半分は新体操」と、わき目も振らずに走ってきた。高校時代はインターハイ出場、大学では日本代表も経験。華々しい新体操人生を送ってきたが、その陰には「支えてくれた家族の存在」があった。
 
 大学一年の時、母が他界。地元群馬を離れ、東京で新体操に励んでいたため、母が病であることすら知らされていなかった。すべてが恨めしく思えた絶望の淵で、病室の隅にレオタードを着た自分の写真を見つけた。「母が秘密にしていたのは何のためか」。そう考えた時に「夢をあきらめてはいけない」と心に誓った。
 
 初めて指導したのは、船橋市立船橋高校。誰もが知る名門の重圧に、当初は戸惑いを隠せなかった。そんな時も、「いまのお前がその監督のイスに見合う人間ではなくても、そのイスがお前を育ててくれる」という父の言葉で迷いは消えた。
 
 昭和学院に来て12年目の今年、念願の全国優勝を達成。その陰には2年前に結婚した夫の姿。「いまは特に大きい」と感じるその新たな家族の支えを背に受け、まだまだ30代の若さを武器に走り続ける。
 (2008年11月8日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「夢は「全国の飼育動物が幸せになれば」」

オランウータン救済プロジェクトに参加した市川市動植物園飼育員

 水品 繁和 さん

 飼育とは「動物を不幸にしないこと」。動物を支える裏方に徹している。
 
 大学で畜産を学んだが、「命」の未来を求めて同園に勤めた。転機は3年目。希少動物のオランウータンの担当を打診されたとき。「命を背負い込むことが怖い」という恐れが神経質なまでの責任感を生み、苦悩したが、職を賭して取り組むことに。その後10年間、覚悟をもってオランウータンを支えたことで、“飼育道”の「基礎を学んだ」と振り返る。
 
 動物に対する目線は真摯(しんし)そのもの。「動物がいた野生の環境や習性」と、「いま求めているものを考える」という視点で実践を重ねた。オランウータンの子供“ウータン”のために作ったオリジナル遊具もその一つ。丈夫な消防ホースをつかみやすいようにねじり、野生の木やツタを再現したところ、ウータンは大喜びで遊ぶようになった。その成果が今年4月、マレーシアでのプロジェクト参加のきっかけとなった。いまは現地の森林整備を進めるNPO「ボルネオ保全トラストジャパン」の理事に就任している。
 
 「仕事にのめり込んでますが、自然体でいられる家庭も大切ですね」と充実した41歳。「全国の飼育動物が幸せになったらいいなあ」と、これまでの経験を多くの動物園に生かす夢を抱いている。
 (2008年11月1日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「青春時代の“合唱の楽しさ”をもう一度」

ドイツと国際交流する国府台混声合唱団代表

 柴田 忠 さん

 「青春時代の合唱の楽しさをもう一度」と昭和36年、県立国府台高校音楽部の卒業生を中心に発足した。家族や友人などを含む約40人が、同部の“DNA”だった宗教音楽や日本の歌など伝統的な歌を音域の広い混声で紡ぎ出す。コンクールの緊張感と入賞の喜びの記憶が、全日本関東地区合唱コンクールで4年連続優勝という成績に結びつけた。JR市川駅コンコースや東京歯科大市川総合病院での歌を通じたボランティア活動も行っている。
 
 来月4日にはドイツの市民合唱団を招き、ジョイントコンサートを開く。「こんなに大きな手づくりのイベント。これまでの集大成です」という69歳。同団発起人の一人だが、転勤の多さが、小学校時代に楽しさに目覚めた合唱と地元・市川から長年離れさせた。定年を前に落ち着いたふるさと。「市川に恩返しがしたい。地域を知るには、お金にならない仕事に自ら乗り出すのが近道」と、地元の祭実行委員会や放置自転車対策協議会、福祉の運転ボランティアなどに個人で積極的に携わる。
 
 音楽の本場ドイツに同団で演奏旅行に行き、改めて感じた。合唱の楽しさと「日本を代表する大ホールで歌いたい」と。
 (2008年10月25日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「第2の人生を生き生き過ごすきっかけを」

第1回還暦式実行委員会副会長

 石井 かづこ さん

 還暦祝いと地域活動の情報提供を兼ねた「還暦式」を市に提案した市民の一人。毎年開いていた友人との会合で還暦を祝ったことが発端だった。「個人が何をするかは自由。だけど、第二の人生を生き生きと過ごすきっかけとなる情報をお土産にもって帰ってほしい」と参加を呼びかける。「将来は、成人式みたいに当たり前の式典になったらいい」と夢を広げる。
 
 会社勤めで都内に住んでいたころも、市川にある実家を毎週訪れてはいたが、多忙のあまり、地元のことを顧みる余裕はなかった。だが、退職と同時期に移り住んだ実家をレンタルスペースに改築したことが縁を呼び、市川の良さに触れようと活動する「市川大好き人の会」に参加。楽しみつつ市内を巡るようになった。
 
 「市川は文化都市っていうけど、まわりの人の顔が見えない」というのが、住んでみての実感。「文化とは、豊かな感受性をもっていることだと思う」と、人と文化がさりげないコミュニケーションをとれる街の実現を思い描いている。
 
 自身も人生経験豊富な団塊の世代。日常生活で「当たり前のことが当たり前にできることの大切さ」に最近気がついた。「つつがなく毎日を過ごせればいい」と、何とも自然体な希望をしみじみと口にした。
 (2008年10月18日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「身につけた技術を現場活動に役立てたい」

全国消防救助技術大会「応用登はんの部」で1位

 金村 洋志(登はん者=上)さん
 芹川 修一(補助者=下)さん

 上から垂れ下がったロープを登る4種類の技法の1つで、救助隊員なら誰もが訓練を受ける応用登はん。「登はん者」はロープを足にからめながら15㍍よじ登る。下にいる「補助者」は、登はん者が足で踏ん張りたい時にはロープをピンと引っ張り、足を持ち上げる時にはロープを離して反動を与える。好成績を収めるには、瞬発力や筋力はもちろん、2人のコンビネーションや信頼感、忍耐力、状況変化への対応力などさまざまな能力が求められる。
 
 今年は、昨年の優勝タイム8秒0を上回る7秒台を目標に猛練習。最高の技術を探し合い、大きなケンカをすることもあった。それでも、「毎回、相当つらいが弱音を聞いたことがない。大した男。『コイツを日本一にするのが仕事』くらいの気持ちだった」(芹川さん)、「弱音を見せようとすると『こんなんじゃいけない』と言い聞かされた。アドバイスもたくさんもらった」(金村さん)と互いに尊敬し合う2人。「ロープが伸びても同じ状況を整えるのが補助者の役割。俺が全部引き取れば鉄の棒のようになる」(芹川さん)、「私は大会では補助者がロープを作ってくれると信じるだけ」(金村さん)と信頼関係は揺るぎない。そして、7月の芹川さんの37歳の誕生日に念願の7秒台をマーク。「本当にうれしかった」。3歳下の後輩からの、大きな誕生日プレゼントだった。
 
 ただ、全国大会本番はロープが伸びやすい悪条件に悩まされ、自己ベスト7秒5を2秒近く上回る9秒4。だが、悪条件は他のチームも同じで、結果は驚きの1位。「今年ほど訓練の環境を整えてくれた年はない」「状況に応じた訓練の仕方を体に染み付けてくれたおかげ」と、支えてくれた周囲への感謝が口をつく。
 
 状況に応じた対処の必要性は、現場活動でも同じ。現場に着くまでには、限られた情報からさまざまな状況を想定し、選択肢を広げてから最高の手段に絞り込んでいる。「現場活動に役立てて市民に還元できなければ、日本一を取っても意味がない」。2人はキッパリと言い切る。
 
 ともに、危険な場所に真っ先に駆けつけるオレンジ色のユニホームにあこがれ、レスキュー隊に入った。「身に付けた技術を発揮して、1回でも多く市民の役に立ちたい」。応用登はんで日本一になった2人は、人命救助への思いでも誰にも負けない。
 (2008年10月11日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「ふるさとは人も街並みもほっとする場所」

全国優勝した昭和学院女子中バスケ部監督

 一関 智子 さん

 「すべてはつながり」を強調する43歳。「全国優勝は一生の財産になるが、これを10年後につなげていくことが重要」と選手たちに説く。
 
 出身はバスケの盛んな秋田。「バスケをやるのが当たり前だった」。10歳の時に始めたきっかけをこう話す。指導者を志して大学に進学したが、「バスケがない自分はどうなるのだろう」という思いから、卒業前後の3年間は別の道に進んだ。しかし平成3年、昭和学院に教員として採用され、「いままで自分を育ててくれた人たちの思いをつなげていかなくては」とコートに戻った。
 
 それから18年目の今年、念願の全国制覇を達成。「先を見るより目の前の課題を一つずつこなして、つなげていければ目標には到達する」と改めて感じたという。今後については、「いつか育てた選手が自分の後継者になってくれたら」との思いを胸の内に秘める。
 
 昨年、バスケを通じての知人だった、ライバル校の監督と結婚。夫が率いる東京成徳中は、奇しくも今年の全国大会決勝の相手だった。自分が投げやりになった時も、常に背中を押し続けてくれた最愛のパートナー。「もう一度全国大会決勝で夫婦対決をしたいな」。照れくさそうに笑った。
  (2008年10月4日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「平和を夢見るからこそ楽しい絵を描く」

仏・ミレー友好協会本展最高賞「落ち穂拾い賞」受賞

 土井 日出子 さん

 約10年前、家族を介護し続けた疲れから両手がマヒ。「富士山くらい高い山から突き落とされたような気分」だった。そして今年6月、手術を経て変形した右手で書き上げた『銀河を駆ける』が「落ち穂拾い賞」を受賞。「人生の谷間を味わった」という71歳は、「ごほうびだと思っている」と、万感の思い。「『継続することが大事』という大学時代の恩師の言葉に感謝しています」。
 
 6歳のころから絵を描き始め、女子美大卒業後に結婚。「ゆっくり絵が描ける」と期待したが、同居していた義母が猛反対。「平和な家庭」を夢見ていたからこそ、「私は楽しい絵を描くんです」。自身の理想、「平和」を筆に託し、キャンバスに表現する。生活は家事や育児、義母の介護が優先だったが、睡眠時間を削っては制作に充て、「時間を大切に生きてきた」と振り返る。その後、自宅で絵画教室を主宰、人生の大半を絵とともに歩んできた。
 
 市川の自宅では娘や孫と同居。何よりも家庭が大事で、「子供を立派に育てられたことが誇り」。趣味は海外旅行。現地で描いた水彩画は、受賞作品とともに、市川市芳澤ガーデンギャラリーで28日まで展示している。
 
 日々、寸暇を惜しんでは絵の世界に思いをはせる。次回作も鋭意、構想中だ。
 (2008年9月27日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「元気なうちはコーラスをずっと続けたい」

86歳で合唱団コンサートに臨む

 木村 ひさ子 さん

 「いつか自分も参加したい」。テレビで大阪の「1万人の第九」を見てそう思っていた平成6年、「市川の第九」が行われることを知り参加した。当時は、楽譜もほとんど読めないほどの初心者。それでも、思い切り声を出せることなどが楽しく、「元気なうちは一生続けたい」と思うほど、合唱の魅力にはまっていった。
 
 その後、東京・両国の「5000人の第九コンサート」にも3回参加。メンバー希望者で豪州に行き、オペラハウスで現地の交響楽団と一緒に歌ったことは、「素晴しい一生の思い出になった」。
 
 「市川の第九」終了後に発足した市川市民合唱団では、結成当初からのメンバーの1人。合唱に真摯に取り組むその姿勢は、他の団員たちの目標になっている。
 
 毎朝20分ほどストレッチを行い、週2日、プールで約1㌔㍍泳ぐのが習慣。趣味の編み物で日々、指先を動かす。市川駅南公民館で合唱練習をするときに、市文化会館から歩くというその距離は、およそ1・5㌔㍍。おかげで、いままで大きな病気はしたことがないという。
 
 合唱に参加したことで友達の輪が広がった。正月には、子供、孫、ひ孫など、15、6人の家族たちが集まる。こうした大勢の仲間たちも、健康を支える大きな力になっている。
 (2008年9月20日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「就労という「出口」を示すことが私の責任」

不登校や引きこもりを支援するNPO法人セカンドスペース代表

 成瀬 榮子 さん

 心理学を学んでいた大学時代、不登校児童の家庭教師をしたことが評判を呼び、自然とカウンセリングの道へ。理由は「自慢じゃないけど責任感は強いです。人とかかわったら中途半端はイヤ。最後まで面倒を見たいという性格だから」とキッパリ。しかし「相手は迷惑かもしれないけど」とほほえむ。
 
 平成14年に設立したセカンドスペースでは「一時の『居場所』にするつもりはないんです。引きこもりの人たちが、いずれはここを卒業できるようにしたい」と、コミュニケーション訓練や体力作りなどの日常的なケアに加え、ビジネス訓練や就職支援も行う。就労という「出口」を示すことが「私なりの責任感の表れ」。
 
 日々、カウンセリングや家庭への訪問を行い、相談者一人ひとりに目を向けながらも、18日に市川市文化会館で開く「ニート・フリーター合同就職フェア」のために県内外を東奔西走。ニートやフリーターの就労に理解のある企業の参加を求めて飛び込み営業をしている。
 
 もうすぐ還暦。趣味の絵を描く時間もないほど仕事に捧げる毎日だが、「子供たちが結婚して家を離れる前に家族とゆっくり過ごしたい。家族が基本」。〝一人のお母さん〟の表情が垣間見えた。
 (2008年9月13日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「ふるさとは人も街並みもほっとする場所」

「回遊展in八幡」実行委員会事務局長

 宮川 美恵子 さん

 「歴史の街、文化の街」―。住民に浸透する八幡のイメージだが、「意外にも具体的な例を知らない人が多いんです。自分たちが住む街。何か変ですよね」。そんな住民の思いから、行政主導の「八幡街回遊展」を発展させ、「再発見、八幡のまち!」をテーマに地域住民で開き続けて、今回(九日―十五日)で六回目を迎える。葛飾八幡宮や薮(やぶ)知らず、マツの多い住宅地や水木陽子邸など、街の魅力は多い。「私にとっては八幡自体が薮知らず」と、迷路のように入り組んだ街並みや屋敷神などにも魅力を感じている。
 
 通過するだけの八幡から、地域の魅力を知るふるさとの街・八幡になってほしい―と、今回は街歩きがしやすいよう期間を延ばし、スタンプラリーも行う。ただ、引き継いできた街の歴史は伝えられるが、街の方向性は示せるものではない。「街の未来をつくるのは子供たちですから」。
 
 生まれ育った奈良から、「歴史のある街に住みたい」と、東京近辺のなかから八幡に移り住んで約三十年。自治会や消防団女性団員、体育指導委員などの地域活動にも携わる。子供からお年寄りまでとのあいさつやおしゃべりが好きな五十九歳にとって「ふるさと」は、人も街並みも「ほっとする場所」。
 (2008年9月6日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「みんなの思いをもち寄る地域の灯籠流し」

真間川水系境川灯籠流し実行委員会

 鈴木 良子 さん

 「ふるさとの川と地域の人の心のつながりを残したい」―。真間川の北方橋付近で開かれ、30日に25回目を迎える灯籠(とうろう)流し。昔、八幡からは境川、北方からは新川と呼ばれていた同地区の真間川は、サクラの咲くなだらかな土手で、盆には提灯(ちょうちん)を手にした迎え火、送り火の風習があった。やがて護岸がコンクリート化され、「水害は減ったが風習もなくなった」ことから、いまは亡き夫・恒男さんと「みんなの霊をまとめてお送りする地域のお盆行事を」と、地域で開催。「日本の風習を途切れさせてはいけない。地域で続けることで、子供にも引き継げる」と亡くなる直前まで病院から力を注いだ恒男さんから引き継いで10年になる。
 
 同地区の真間川沿いに遊歩道やサクラ並木があり、葉が茂って気持ちのよい風が吹き、雨の日も風情のある川辺があるのは、恒夫さんや市民とともに真間川の桜並木を守る市民の会として、同河川の環境整備に携わってきた証でもある。
 
 書や短歌をたしなむ73歳は、灯篭流しでは煮しめでもてなし、書でもお世話係にいそしむ。「みんなの思いをもち寄って成り立っている」灯籠流しは、結婚して移り住んだ八幡とともに、すでにふるさとそのもの。
 (2008年8月23日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「子供たちが一丸となって歌う姿は感動的」

いちかわ市民ミュージカル実行委員長

 田中 愛子 さん

 行徳で生まれ育ち、これまで、イベントを企画する「行徳企画村」や、行徳を幅広く紹介する「行徳郷土文化懇話会」の代表などとして幅広く活動。主宰を務めるちりめん細工の会・古寄麗会(こぎれいかい)では、約30人の仲間たちと着物の生地を使って小さな巾着袋や四季の花を作っている。「人の輪が財産」と、共通の趣味をもつ仲間から元気をもらう69歳。「仲間と一緒に針と糸と布を持って、市川を出て交流しに行きたい」という目標を抱く。
 
 今年の市民ミュージカルは、行徳を舞台にした物語。実行委員長就任の依頼に、「こんな素敵な事をしている組織を少しでも皆に知らせられれば」と快諾した。
 
 練習時は記録をとる人、子供を世話する人など、出演者以外もそれぞれの役割をもつ。自身も、古寄麗会のメンバー20人以上と野菜や猫の耳など、舞台に数10秒しか登場しない小道具を制作。「歌わなくても踊らなくても一員。いろんな市民の参加が創り上げている」と実感した。
 
 「当日大勢の観客からエネルギーをもらえば、出演者が力を出し切れる」と、大勢の来場者を待ち望む。「子供たちが一丸となって歌う姿、踊る姿は感動的」。すでに本番を待ちきれない様子だ。
 (2008年8月16日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「「子供の未来に役立つ」という気持ちで」

市川よみっこ運動実行委員長

 河西 明子 さん

 夏休みに本を読んだ子供たちに、支援者となった地域の大人がご褒美のお金をあげる「よみっこ運動」。読書で子供に必要な思考力や想像力を培うだけでなく、「学校が協力的で、地域の人もサポーターとなっているので、いろいろな人と交流ができる」。また、ご褒美は全額、子供たちが考えた「何か役立つこと」に使われるので、「正しいお金の使い方」を勉強する貴重な機会にもなる。「私の役目は基礎づくりをして次の世代にバトンタッチすること」と、この運動が地域に根付くとともに、各地に広がることを夢見る。
 
 自身が子育てをしていた30年以上前、子供たちの育成団体や保護者向けの団体を結成。平成六年には、高齢者と子供たちの交流を図る「すがの会」も立ち上げた。「いろいろなことをしている」と思われがちだが、すべて「子供の未来に何か役に立つ」という同じ気持ちでやってきたこと。中でも、「よみっこ運動は私のボランティア活動の集大成」と言い切る。
 
 出産時に友人や近隣住民に支えられ、助け合うことの重要性を知る69歳。「共に生きている大事な人同士、互いにできることで応援することが大切」。地域と子供たちのために活動する、忙しい毎日が続く。
 (2008年8月1日号)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「思い入れの大きい場所に7年ぶりに復帰」

市川市副市長

 土屋 光博 さん

 京大在学中は土木工学を専攻。卒業後は建設省(現国土交通省)に入り、主に道路事業や街づくり事業に携わってきた。その間の平成10年4月には市川市の助役に就任。再び同省に戻る同13年7月まで、道路や街づくりだけでなく、消防や環境清掃など、幅広い問題に取り組んできた。
 
 この3年3か月は、自身にとっても自らのテリトリーが広がった貴重な時間。以来、市川市はすっかり“思い入れの大きい場所”になった。今月1日からは、7年振りに副市長の職に復帰。「駅前から本庁舎までの道のりに放置自転車やゴミなどがなくなった」と当時との違いに目を見張る。
 
 「市の仕事は複雑多岐にわたるようになり、各部が協力する事が増えてきた。副市長の果たす役割は一層重要になっている」と気を引き締める。しかも、これまで二人体制だった市川市の副市長職は、現在10年振りの一人体制。その役割はさらに大きくなっている。
 
 「誠実に、正直に」がモットーの56歳。「早く7年間の状況の変化を把握し、市長のやりたい事を職員に、職員のやりたい事を市長に伝える役割を果たしていきたい」。
 (2008年7月25日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年

「“足跡”を残して次につなげていきたい」

浦安市災害ボランティアネットワーク代表

 宮崎 勉 さん

 被災地に集まる災害ボランティアの支援をうまく活用できなかった阪神・淡路大震災の教訓から、浦安市社会福祉協議会の災害ボランティア養成講座に参加。「せっかく学んだのに、これで終わってはすっきりしない」と、修了者有志で意見交換会、勉強会を継続しながら、識者の講義受講、関連施設の視察、防災訓練への参加を繰り返してきた。「ただのなかよしクラブではない。有事に役に立たなければ意味がない。災害ボランティアの足跡を残し、次につなげていきたい」。
 
 地域では「自守・共助が大切だがあまり取り組まれてない。自主防災組織は自治会人事で担当が変わってしまう」と、自治会員約180人が特技を生かし継続的に取り組む自主防災隊を組織。防災マニュアルの作成、イベントでの啓発、相談受け付け、防災訓練の開催など、地域防災に臨む。
 
 73歳。「生きがいの一つ。相手にも時間を楽しんでもらえる」と、自治会や子供の育ちを支援するNPOなど地域活動に取り組んでいる。共助の基礎となる日々の地域のつながり。「ささやかだが、その積み重ねが大切」と、笑顔の交流に喜びを感じる。
  (2008年7月18日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「子供のころの原体験が人生を豊かにする」

市川市米っ人くらぶ新会長

 藤間 信夫 さん

 親子で泥だらけになって米作りを体験する米っ人くらぶは、市教委や農協、地元農家の協力会、中高生ボランティアによって、平成13年度にスタート。その前年度から、市教委学校教育部次長の立場で、荒地となっていた休耕田の借り上げや整備、組織づくり、法的手続きなど、設立の準備作業に携わった。
 
 「子供のころのキラキラした原体験は人生を豊かにする」と、米作りの大変さを含めて子供たちに熱心に指導。「子供の成長と稲の生長、仲間の輪の広がりという3つの体験ができるので楽しい」とやりがいを感じている。「こういう事業はいろいろな方面の人が結集しないとできない」と多くの協力に感謝。「たくさんの人に長い期間、体験の機会を与え続けたい。そのためにも後任の指導者を育てたい」とこれからも全力で取り組む。
 
 昭和45年に小学校の教諭になり、塩焼小や大柏小などの校長も歴任。そのときの「教育は地域、家庭、と一緒に」という考えが、米っ人くらぶでの精力的な活動にもつながっている。
 
 昨年からは、昭和学院幼稚園の園長を務める61歳。「人間は自分のことだけやるとダメ。『誰かのため』『何かのため』という気持ちを一生涯もち続けたい」。
 (2008年7月11日) TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「子供が誇りをもち夢を実現できる国に…」

第60代市川市議会議長

 金子 正 さん

 早大雄弁会に在籍するなど若いころから政治への関心は高く、学生時代から3年間、代議士秘書も務めた。市内の企業に入社後は、「子供の故郷をよい所にしたい」と地元で精力的に活動。PTAやこども会育成会の会長、自治会副会長などを務め、少年野球チームも結成した。
 
 平成3年、地域と会社から推されて市議選に出馬。以来、この両輪に支えられながら連続5期当選。主に市川駅南口再開発事業など地域の活性化や、環境問題、精神障害者の支援政策などで地域の声を提案してきた。市川市でWHO健康都市連合国際大会が開かれる今年、6月から議会を代表する立場となり、「責任の重さを痛感している」。“市民にわかりやすい議会”への改革にも意欲を見せる。
 
 毎朝、県内各地で開かれる倫理法人会のセミナーで、経営者たちに「日本をよくするため」の講演をするのが日課。「子供たちが自国に誇りをもち、夢を実現できる国になってほしい」と願う。
 
 3人の孫といるときは、65歳の“おじいちゃん”。節句や誕生日などで集まる幸せなひと時に、「当たり前のようだが、ありがたいこと」と感謝する。だが、「家内には迷惑をかけっぱなし」と苦笑い。「引退したら一緒に旅行したい」。
 (2008年7月4日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「表彰台目指し生涯で最高の泳ぎをしたい」

北京五輪競泳(女子100メートル・200メートル背泳ぎ)日本代表選手

 伊藤 華英 さん

 4月の日本選手権。「前日は眠れなかった。ダメなら水泳人生も終わり?と望んだ。自分を信じてきてよかった」。100メートルで59秒83の日本新記録を樹立して優勝し、200メートル(同選手権2位=2分09秒41)と合わせ、2種目で選ばれた。今月、スペイン・バルセロナでの欧州グランプリでは、話題の英国メーカー製の水着で、200メートル優勝(2分09秒17)。
 
 「4年間は長かった。報われた思い」。アテネ五輪で、代表権を取れる?と目されたが、枠外の3位。「普通はガックリするが、そこからはい上がって来た」(鈴木陽二日本代表ヘッドコーチ)と、失敗をバネに成長した姿勢も評価される。
 
 身長172センチメートル。外国人のような長い手足のストロークが特徴で、泳速は世界トップレベル。100メートルで1分を切り、世界でも話題だが、「世界は輪をかけて手足が長い。1かきの差が勝負を分ける。スタートとターンの改良が大切」(同氏)と期待がかかる。
 
 セントラルスポーツ研究所所属の23歳。ベビースイミングから同クラブで泳いできた。同クラブの子供には「私は水泳が好き。みんなも好き?」と語りかける。やっと勝ち取った五輪の切符。「生涯で最高の泳ぎをしたい」と、表彰台を目指す。
 (2008年6月27日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「出会いと子供の新鮮さや成長がうれしい」

地域で食育活動に携わり続けるホテル総料理長

 角谷 正明 さん

 浦安ブライトンホテルの和・洋・中・製菓のシェフ約九十人を束ねる総料理長。同ホテルが九年間取り組んでいる市立美浜南小の食育教育にすべて参加。「子供に接するたびに、伝えることの難しさを感じる。人との出会い、子供の新鮮さや成長がうれしい」。児童のお礼の歌声には「清々しさを感じ、鳥肌が立った」。
 
 子供に伝えているのは料理法だけではない。「知識はあっても本物は知らない。“食べる”ことを五感で感じてほしい」と、素材の本来の姿や、おいしくいただくことなどの大切さなどを伝える。「シェフの白い制服に、食の安全を守り続ける広告塔という責任」を背負う。
 
 農家に生まれ、下ごしらえを手伝っていた素地と先輩にあこがれて料理人の道に。「この職業が合っていたんですね。ほかは考えたことがない」。日本料理を身につけた後は、西洋料理に転身。成長が大事―という60歳は、修業、挑戦から継承の段階。「後輩が成長し、頑張っていることがうれしい」。浦安は料理人として最終の地。「地域に密着し貢献したい」と、ベイエリアの料理人の情報交換の場「浦安ベイ調和会」も主宰する。
 
 「全国の郷土料理を存分に味わいたい」と、料理に込める愛情「心の味」にさらに磨きをかける。
 (2008年6月20日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「自分から行動して音楽で若者の参加促す」

湾岸まるごとクリーン作戦を主宰

 ディージェイ コウサク さん

 「戦争のない世界も、環境問題も『ええ街作り ええ未来作り』のため。笑顔があふれる街にしたい」。ラジオのDJやバンドなど幅広い活動をしながら、環境活動団体U―PROJECT代表を務める。平成12年からは、音楽とアートで表現する環境活動イベント「ZEROKI‘N」を企画・開催している。
 
 地球の大切さを音楽でただ説くだけでなく、自身もゴミ拾いに参加。転機は最も身近な妻の死。「命や地球の尊さを訴えてきたが、いままで懸命に取り組んできたことは何だったんだろう」と自問せざるを得なかった。「子供のためにも訴えるだけでなく、自分から率先して動かなければ意味がない。中途半端じゃなく、思いっきりやろう」という不惑の40歳。
 
 音楽が果たす役割は、活動を楽しくすること、メッセージの発信、活動のお礼など…。「全国で多くの人が協力してくれているが、10代後半から20代の参加が極端に少ない」。音楽とのコラボレーションで「彼らがポイ捨てをせず、ゴミが散乱する街の現状に気づいて、動いてくれたら」と、若者の参加を望んでいる。
 
 小学生の時から浦安在住。「釣りが好きで、浦安の海でよく釣りをした。やっぱり浦安が好き、元町が好き」。
 (2008年6月13日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「一人ひとりの取り組みが安全につながる」

安全な富岡交差点へ!市民連絡会代表

 渡辺 伸子 さん

 「ついに起きてしまった」 ―。 昨年、 同市の富岡交番前交差点で起きた児童の死亡事故を機に、 交通量の多い同交差点をハード、 ソフトの両面から安全にするため、 地域住民で組織した、 全国的にも珍しい市民連絡会の代表。 日常では、 市や警察などは 「被害者にならないため」 の啓発が多いが、 同連絡会は 「加害者にならないため」 の訴えをメーンにする。
 
 事故が起きる5年前から、 市立見明川小PTA副会長として児童の母親とともに交差点の危険性を行政に訴えていたことと、 児童が事故に遭った2分前に同交差点を通っており、 「あの事故は防げたんじゃないか」 という思いから立ち上がった。 警察も市も協力的で、 連携して動けたことで改善も進んだ。 同会が独自に製作したステッカー 「ソフトドライブ 法定速度で走り隊」 も好評。 「交通ルールにうるさい、 厳しい街に、 一人ひとりが取り組んでいくことが、 安全な浦安市につながる」 と願う。
 
 子供が保育園児から現在の中学生に至るまで、 父母会やPTAに携わり続けてきた 「学校好き」 な48歳。 17年間、 子供や学校支援をするなかで知り合えた地域の人たちの協力を得られていることもうれしい。
 (2008年6月6日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「効き目のある“お守り”の存在のように」

市川市危機管理監

 本島 彰 さん

 昭和45年、県に奉職。平成11年に市川市へ出向。県では流域下水道やつくばエクスプレス沿線の整備、市では市川駅南口再開発や大洲防災公園整備など、多くの街づくり事業に従事した。出向中は、市民と直に接するため成果を肌で実感。そこに魅力を感じるうちに市川が大好きになり、平成15年に市の職員に転じた。
 
 今年3月に定年を迎え、4月から再任用で危機管理監に就任。災害時は市長を補佐して陣頭に立ち、平時は全庁的な情報収集・連携体制の確立などを指揮する。「一生懸命やっている姿をアピールし、気休めではなく、効き目のあるお守りのような存在になろう」。市民に安心安全を与えるため、職員にそう言い聞かせている。
 
 ただ、被害を軽減させるには、行政の対策だけでなく共助が大事。「みんなで助け合う地域のコミュニケーション力が生まれれば、普段から住みよい街になる」と、それを支援する大切さを説く。そこで生きてくるのは、市民と直に接したこれまでの経験。「市民の声を聞くことが、安心安全の街づくりや危機管理につながる」。
 
 趣味は読書で、主に経済誌が中心。「人材育成の参考になり、自己啓発にもなる」。
(2008年5月23日) TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「基本は辛く苦しい時ほど明るく元気よく」

市川市消防局長

 矢作 政雄 さん

 「ありがとう」。この市民からの一言が、隊員には何よりの励み。だが、長年続ければ辛く苦しい時もある。「そんな時ほど明るく元気よく」。そう部下に指導している。
 
 学生時代、肢体障害者施設で大好きな子供たちと遊ぶボランティアを続け、「人の役に立つ仕事をしたい」という夢を抱いた。消防は災害弱者を助ける仕事。「初心忘るべからず」と自分にも、同じ思いで入った後輩にも、常に言い聞かせている。
 
 「119番通報する人は絶対に困っている。家族や恋人だと思って対応しないといけない」といつも心がけてきた。「大丈夫。任せてください」。この一言が通報者には大切だと気づいたのは晩年のこと。だが、「自分に自信がないと言えない」ため、自信を身に付ける重要性を痛感している。
 
 小学生時代から40年ほど野球を続けたスポーツマン。いまも週末はテニスやゴルフで健康的な汗を流す。10月に、健康都市連合国際大会が開催される市川市。「市が目指す健康都市の基盤は、市民の安全と安心を守ること。災害を防ぐため、全職員が一致団結して取り組む」と使命を抱く。
 
 「同じ時間でも過ごし方で差が出てくる」と時間の大切さを説く60歳。「長生きして職員が成長していく姿を見ていたい」。退職後も後輩を見守り続ける。
(2008年5月16日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「真間川と桜並木を日本一と誇れる故郷に」

北方一丁目自治会の街づくり研究会代表

 阿部 久雄 さん

 自身の立ち上げた設計事務所が今年で創立40周年。「60歳からは地元のことを考えるべき」と思っていたが、それがかなったのは事務所の代表を退いた70歳のとき。20人以上いる社員の教育を続けながら自治会の理事を引き受け、「真間川と桜並木を日本一にしたい」と研究会を発足した。
 
 当初は一部に、「上流が汚いのにここだけやっても意味がない」との意見もあったが、「行動を起こすことで、『下流がやっているから上流もやらないと』という機運をつくることが大事」と活動を続けた。昨夏には、会員たちでボードを借りて自ら川の清掃を実施。その様子をパネルにしてさくら祭りで掲示したところ、住民たちの間に一体感が芽生えた。
 
 家や建物だけでなく、家族や地域のあり方にも理想を追い求める73歳の一級建築士。「真間川でボートレースや釣り大会ができれば高齢者と子供たちとの交流が生まれ、住民の一体化にも大きな役割を果たす」と川が浄化された先を夢見る。ただ、それまで時間はまだまだ必要。そのため、「『自分たちの街は自分たちでつくって守る』という考えを子々孫々に伝えなくてはいけない。『北方で育った』と誇れる故郷をつくってほしい」。
(2008年5月2日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「ボランティア意識より自分も得る気持ち」

自費でマンション内に高齢者サロンを開設

 堀江 弘孝 さん

 「ささやかであっても、みんなの生きがいになればいい」―。
 
 “地域のため”や“ボランティア”という意識はない。むしろ「お年寄りから教わることはたくさんある。みんなの笑顔もお金には換えられないうれしさ。私の生きがいです」。自分にも得るものがある―という純粋な気持ちが助け合いにつながっている。
 
 「どう楽しんでもらうか」とアイデアをめぐらせ、好きな料理を出すことも。「いつもあまり食べない人も、みんなと一緒だとよく食べる。無機質なテレビを見て一人で食べるのはつまらない。みんなで食べるって、とってもおいしいんです」。その姿に妻や娘も手を貸す。
 
 管理組合理事長を務める64歳。後継者問題には「まず身の回りのお年寄りが元気になってくれればいい」。各地で、そんな思いを抱く人が増えてくれることを期待する。若い人でいっぱいだったマンションもいずれは高齢化。「建設時から、一人で暮らすお年寄りが集えるような空間をつくるべき」と願う。
 
 民生委員・児童委員として、子供にかかわることが楽しみ。2年間、地元小学校特別学級で教諭の補助を担当。「これからを担う子供のために力を注ぎたい」。
(2008年4月25日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「地域の世話になり健康でいられる恩返し」

神社の境内を毎日清掃

 清水 ナカ さん

 約3年間、自宅近くの神社をほぼ毎日清掃し、昨年末に市川善行会から自身3度目の表彰を受けた。過去2回は、東西線行徳駅の開業以来、夫が体調を崩すまで約20年間続けた駅前清掃が評価されたもの。駅前清掃は、50年近く所属する「家庭倫理の会市川市」の活動で、いまも月に一度行っている。
 
 現住所に移り住んで間もない昭和20年代、夫が経営する隣の工場の火事で自宅や隣家数軒を全焼したが、隣人たちは「逃げずにここで頑張りなさい」と励ましてくれた。刑務所出所者の更生に努める更生保護女性会の役員や民生委員、母子推進員などを長年続けられたのも、先輩の指導があったから。「何不自由なく、健康でいられるのは周りの人のおかげ」。毎日の清掃は、日ごろから世話になっている地域への恩返しという意味も込められている。
 
 健康だからできる清掃活動。だが、清掃活動や畑での作業をしているからこその健康でもある。「これからも健康で明るく、毎日感謝しながら働いていきたい」という86歳。毎年、8月の誕生日と正月には11人の孫や人のひ孫など大勢いる家族たちが集まり、一緒に楽しい時間を過ごしている。
(2008年4月18日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「ぜんそく治療のつもりが自分試し24年に」

剣道の女性最高位7段を60歳で取得

 野田 初子 さん

 武蔵美大でグラフィックデザインを学び、卒業後はデザイナー専門学校の講師やグラフィックデザイナーとして活躍。出産を機に退職した後は、保育クラブの指導員や中学校の用務員を務めるなど、さまざまな仕事を経験した。
 
 剣道には学生時代からあこがれていたが、剣道部がなかったため始めたのは36歳のとき。前年に患ったぜんそくの治療が目的だが、「男の世界で自分を試したかった」ことも理由の一つ。その結果、テニスもできないほどだったぜんそくは一年半で完治。その後も一本を取るそうかい感で、すっかり病みつきに。
 
 そして、60歳で女子最高の7段を取得。「ケイコをいろいろな人に見てもらい、注意してもらったおかげ。大学に入れたのも、保育クラブで子供たちが無事に成長してくれたのも、すべて運が良かった」と謙虚に振り返る。
 
 「いい親孝行になったかな」と喜びを感じる一方、「周りの人は7段の取得者という目で見るので、それに恥じないよう練習しないといけない」という気持ちがプレッシャーにもなっている。「強いだけではなく、みんなから『あの人はいい剣道をする』と言われるようになりたい」。そのためには、ただ鍛錬あるのみ。
(2008年4月11日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「芸を通じ人に楽しんでもらうことが喜び」

なのはな奉仕会会長

 鈴江 和子 さん

   安来節の歌手だった母の血を受け継ぎ、10歳のときから約15年間、民謡・歌謡曲の歌手として舞台やラジオで活躍。70歳になった現在も民謡を教え続ける。浅草・木馬館では毎年、母の芸名を受け継いだ2代目・足本小糸として安来節を披露。平成2年、全国民謡大賞の県大会で木更津甚句を歌って優勝したことが、一番の思い出になっている。
   
   25年ほど前、父の叔母が入所した老人ホームで歌を披露したところ、他の入所者も大喜び。毎月通うようになってから、「一人で歌うより、いろんな芸を見せてあげたい」と芸をもつ人を募り、5人で「なのはな奉仕会」を結成した。
   
   会の目的は、芸を見た人に楽しんでもらうこと。「訪問先の高齢者に涙を流して喜ばれたり、帰り際に手を握って『また来てね』と言われたりすることがうれしい」。課題は会の若返りで、「喜ばせたい気持ちがあれば、どんな芸でも下手でもいいので、たくさんの人に参加してほしい」と仲間を募っている。
   
   「ここまで続いたのは皆が熱心だから」と仲間にも感謝。「命の続く限り、お年寄りに喜んでもらうため皆と仲良くやっていきたい」。芸を通じ、人に楽しんでもらう喜びと素晴らしい仲間を手に入れた。
(2008年4月4日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「障害者就業機会拡大は情報浸透が不可欠」

障就ネット発起人の一人

 林 圭子 さん

 60―70年代の、いわゆる狭山事件裁判における被差別部落報道を機に、差別について関心をもち始めた。学生時代は「自分にできることを…」と、障害者施設や子供の養護施設で活動。卒業後は銀行に就職したが、「障害者とかかわっていたい」と一年で辞め、市川市の施設職員やケースワーカーとして勤務。
 
 その後、子育てのため退職したが、ひと段落して再び障害者施設の手伝いを開始。平成七年には、「かつてはレンコンの産地だった行徳で地域に根ざすように」との思いを込め、ノーマライゼーションを目指す「市川レンコンの会」を発足。同9年には地域作業所「レンコンの家」を設立した。その後は利用者が増えて、平成13年に「第二レンコンの家」もスタート。毎年、数人が就職先を見つけているが、就労状況はまだ厳しい。
 
 「障害者の就業機会拡大を求める市民ネットワーク」を発足させてからの活動では、市の対策の遅れだけでなく、「関係者が、行政の施策や考えなどの情報をあまり把握できていない」という新たな課題も見つかった。現在52歳。「今後は関係者だけでなく、さまざまな立場の人も巻き込んだネットワークを形成し、何らかの形で情報を浸透させていきたい」。
(2008年3月21日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「自分と周囲の人が同時によくなる喜びを」

浦安市民生委員児童委員協議会長

 彦田 一夫 さん

  「災害が起きた時に民生委員はどういう活動ができるのか。ごく当たり前のことをしただけ」―。それが、防災まちづくり大賞・消防科学総合センター理事長賞を受賞した。平成16年の新潟の集中豪雨、新潟中越地震、スマトラ地震などを契機に、地域の災害要援護者の把握に取り組んだ。「隣にどんな人が住んでいるのか分からない―ではよくない」と、常に地域社会の実情把握に努める。「さらに、普段のつきあい、結びつきも深めていきたい」。
 
  「やっててよかった」という民生委員児童委員は、自治会やPTAの役員など“人の面倒をみるのが好き”な人柄を買われて19年目。「世のなか、自分だけよくなってもダメ。自分とまわりの人が同時によくなるのが喜びです」。
 
  半農半漁の家に生まれ、中学まで勉強した記憶がないが、東大卒の市民病院医師にあこがれ、文科系ならいつでも学べるが理系の実験はできない―と大学は理工学部へ。「勉強すればものごとが分かる。実益に結びつく勉強を」と、営む不動産業では入居者の利便を思ったアイデアを住宅に盛り込む69歳。「80歳までは地域、他人のために、その後は好き勝手にできれば…」。1月に生まれた、孫も含めて初の男子の成長が楽しみだ。
(2008年3月14日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「浦安のよさを多くの人に体感してほしい」

うらやす観光キャンーン推進会議議長

 桑田 幸一 さん

   生粋の浦安市民は人口16万人のうち3万人で、13万人は転入者。「新しく越してきた市民に、浦安のよさを知ってほしい」―。昨年は、県のちばディスティネーション・キャンペーンや鉄道会社のハイキングなどで、市外から大勢がやってきたが、「今年はぜひ、地元の人の参加を増やしたい」。
  
   62歳。昨年まで、浦安魚市場でエビ・カニ・イカの専門店を経営。いまは行徳で魚屋を営む。東京に魚介類を売りに行く行商が800人はいた。隣の晩ごはんやケンカの内容がよく分かった。みんな浜で働いていたから銭湯が多く、宵越しの金を持たない気質もあってか寿司屋など食べ物屋も多かった時代、「町は貧乏だったけれど、人情豊かで、夢と希望をもって働いていたなぁ」。
  
   浦安は千葉の玄関口。テーマパークやホテル群、魚市場、食べ物屋などが豊富。「浦安で千葉のよさ、おもしろさを体感してほしい。それが、あしたの活力になってくれればうれしい」。親も自身も生活のために苦労してきた世代。「町の歴史を含めて、浦安のあるがままを、多くの人に知って、触れてほしい」。相手の喜ぶ顔が好きな商売人だから、そして町を愛しているからこそ言える。
(2008年3月7日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「生物を育てることから学ぶ命のやさしさ」

サケの一生を通じて命を伝える市川西高校教諭

 石島 秋彦 さん

  「『命』。重そうだが、中身のからっぽな言葉。教科書には書いていない。生き物を育てることから、命を伝えたい」。卵を持って帰る時は文句を言っていた生徒も家族と夢中になって、名前をつけて家族の一員に。「親子の間に生き物がいることで、会話や団らんが生まれている。命とはやさしさのようなもの」。解剖の授業も多い。「キレイではない、生臭みのあるものに触れたうえで、人間とは何かを考えてほしい」。
  
  和歌山・那智勝浦で、生き物に囲まれて過ごした昆虫採集少年。人前に出るのは苦手で「教諭をしているなんて信じられない」が、ボランティア活動で出会った入院中の生徒のために夜中、赤ヒトデを捕りに三浦半島へ。「理由のない、見返りを求めない行動をとった自分。先生っていいな」と感じた45歳。
  
  旅行に行くと、どこでも採取するカタツムリ博士でもあり、平成15年にアジアで初めて害虫のイスパニア・マイマイを浦安で見つけ、拡散を止めた。
  
  世の中を知りたい―と、疑問に感じたことをまとめたノートも20冊以上。生物教諭として、「どんな生き物がいて、いなくなっているのか、県北西部の生物の多様性の状況を記録したい」。
(2008年2月29日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「市民意識を取り入れ刺激高める仕組みを」

第5期市川市環境市民会議座長

 種村 勝平 さん

 昭和12年生まれの70歳。以前は勤務先のエネルギー関連会社で自然エネルギーについて研究したこともあったが、当時はオイルショックの教訓を踏まえた“代替エネルギーの確保”が目的。しかし、一九九二年にブラジルで開かれた地球サミットで、地球の平均気温をシミュレートした大学教授を手伝い、地球温暖化への関心を抱くようになった。
 
 自宅では、市内でもいち早く屋根に太陽光発電パネルを取り付けたのをはじめ、壁の断熱材は通常の1.5倍、窓は全て二重ガラス、家電製品もコンセントから電源を切るなど省エネ生活を徹底。「皆が、化石燃料をできるだけ後世に残す意識をもつ社会になってほしい」と願う。
 
 対外的な普及活動を始めたのは、退職が近くなった3年ほど前から。いまでは、NPOいちかわ地球市民会議やNGO自然エネルギー推進市民フォーラムなど4団体に所属するほか、省エネ普及指導員や、県地球温暖化防止推進員などとして活動に励んでいる。
 
 今月からは、「いちかわぐるみで取り組む地球温暖化対策」について市長に提言する市民会議の座長に就任。「市民の意識を取り入れた省エネや、市民のモチベーションを高める仕組みを提言したい」
(2008年2月22日) TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「子供たちに「ありがとう」と感謝の思い」

全国大会に出場する冨貴島ミニバスケットクラブ監督

 川野 和子 さん

   中学・高校時代はバスケ部に所属し、チームの仲間たちとともに、勝つ喜びや負ける悔しさを経験してきた。「このバスケの楽しさを子供たちに伝えるお手伝いができたら…」と、長男、長女のクラブ入会を機にコーチになり、翌年から監督を務めた。
   
   そして、わずか6年目で全国大会出場。「バスケの聖地・代々木体育館に連れて行ってくれた子供たちに『ありがとう』という思いでいっぱい」「一緒に頑張ってくれたコーチや保護者、周りの人たちの協力やフォロー、応援があったからこそ」と感謝の思いが次々と口をつく。
    
   ただ、「強くなっても勝つことばかり考えてはダメ。『バスケは楽しい』という原点を忘れてはいけない」と方向性は失っていない。「練習したことができて勝てたときの喜びは、強くても弱くても同じ」。逆に、やってきたことがキチンとできていなければ、たとえ大差で勝っている試合でも選手たちをしかるという。
     
   現在43歳。週末は試合、平日は週4日間練習で、毎週金曜日には市内のママさんチームでプレーする“バスケ漬け”の毎日。「いつか、教えてきた子と一緒にプレーや指導できたら…。それまで自分もバスケにかかわっていたい」。
(2008年2月15日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「楽しんで買い物と商売ができる商店街に」

商店街活性化モデル事業真間大門てこな協議会長

 陶山 修達 さん

  「日本文化の原点である源氏物語や万葉集がこの地区に息づいている」。市川市内で最も古い商店街の真間大門商店会と地元4自治会、行政などが協力して協議会を結成、「てこなの心ね」をテーマに、商店街をキーとした街づくりに取り組んでいる。
   
  源氏物語の講義や祭りすしづくり講座、市川で骨格が出土したクジラのオブジェ展示、無料休憩所、宅配などさまざま。すでに30十年以上続いている歩行者天国「ふれあい広場」も、「みんなが楽しんで買い物ができる、商売ができる商店街、まち」を目指してのこと。
    
  また、手児奈をテーマに作られた曲の収録CDも製作。「地域の人や子供たちに踊ってもらい、浴衣での納涼の夕べなど、みんなが『おもしろそうね。また行きたい』と集まってもらえる場をつくりたい」。
     
  「旬のもの、特売品を道行く人に紹介できるし、店に来てもらえばコミュニケーションも生まれる」と、あまり例のない商店会の掲示板も設置した。
    
  74歳。「売り出しだけでは人は来ない。地域や周辺商店街も含めて、にぎわいのある場づくり、まちづくりのドライブになれれば」と願う。
(2008年2月8日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「飲酒運転は犯罪―と真剣に考えなければ」

飲酒運転追放市川駅周辺地域協議会会長

 武井 清健 さん

  活動をPRするバッジをいつも身につけ、「飲酒運転は犯罪―だと、真剣に考えていかなければならない」と訴える72歳。「高度成長期のころから精神性が欠落し、ゆるみが出てきたのではないか。他人は責めるが、社会での責任からは逃げる人が目立つ。社会人として倫理を守ってもらいたい」。
  
  県内初のモデル地域に指定されたJR市川駅周辺地区。活動は地区内の飲食店約80店舗を中心に行われており、最近は、ジュース類を納入する企業も協力を申し出るなど、広がりを見せている。
   
  ゆうゆうロード商店会、市川南地区商店会連合会の会長のほか、民生委員・児童委員市川南・大洲地区会長、大洲中学校区青少年健全育成連絡会長、市川南ふるさと祭りなどを通じて、「ふるさとのよい原風景をつくり、『いいところで育ったなぁ』と子供たちがいつか思えるまちにしたい」と、子供や学校を支える活動にも力を入れている。
    
  活動は、住みよい地域づくりに通じる。「追放は当然だが、活動を通じて飲酒運転はいけないというルールをもってほしい」と、啓発に重要を置く。
     
  大のクラシック好き。忙しい仕事の合間をぬって生演奏を聞きに行くことが息抜き。
(2008年2月1日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「懸命に働く母親の姿を思い浮かべながら」

ふるさと「行徳」を歌う

 松丸 たかし さん

  ふるさとを歌うのは5月発売の『行徳慕情』。海や海苔、野良着、神輿など、時代とともに移ろいつつある、なつかしい行徳の姿を描く。「行徳で生まれ育った人に、行徳のために歌ってもらいたい」とつくられた曲を歌うのに、「けれんみのないいい声」と白羽の矢が立った。「子供のころ、野良着を着て休む間もなく懸命に働いていた母親の姿、苦労が思い浮かぶ」と、情感を込めて歌う。
 
  市川市立南行徳小、同南行徳中を卒業し、いまも行徳に住む60歳。2年前の3月に「津軽祝い民謡(うた)」でデビュー。20年歌っていてもカラオケにリストアップされない人もいるが、すでにカップリングともに配信されるほどの人気をもつ。
  
  民謡を15歳から始め、就職で中断したが、会社員をしながら歌のレッスンを続けた。プロデビューのチャンスもあったが、水商売が嫌いな父のために断念。父の死去と自身の定年を機に歌手の座を射止めた。「幸運とみんなの支援があってのこと。夢をもち続け、あきらめない気持ちがあればかなうことを知ってほしい」と、団塊の世代への応援歌の思いでマイクを握る。
   
  ふるさとを歌う演歌だから、そこで育った人が歌うほど、人の心に届く。「なぜ津軽の人ではないのに津軽の歌を歌うのかと言われてつらかった。やっと自分のふるさとを歌える。行徳のよさを全国に広めたい」。ふるさとを大事に思うからこそ、地域のお年寄りの前で歌い、母校の子供たちに歌の素晴らしさを伝えることを思い描く。
(2008年01月25日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年 「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年


「地域を良くするために率先して活動を…」

市川市婦人団体連絡協議会会長

 芝田 滋子 さん

 太平洋戦争の始まった昭和16年に国防婦人会に入り、隣組の組長として防空演習などに励んだ。その後、地域の婦人会へと変わっても、いまに至るまで66年間、活動を継続。うち38年間は地元婦人会の会長、7年間は連絡協議会の会長をそれぞれ務めている。
 
 「地域を良くするために活動するのが婦人会」。終戦直後の貧しい時代は、会員たちで売れ残り雑誌の解体作業をして会費を捻出しながら旧軍人を慰問。食べ物に苦労した時期は、ヨモギやタンポポなど野草の食べ方を紹介して「倹約すれば食べられる」とアピールした。
  
 その後は、道路、下水道、騒音など、身近で起こる公害問題に取り組み、「みんなが困ることだから必死だった」と、ときには泣きながら改善を訴えることも。行政の対応が改善した近年は、家庭の雑排水やゴミの分別、リサイクル、マイバッグ運動など幅広い環境問題に、連絡協議会として取り組むようになった。
   
 「社会を良くしようと思えば、誰かが率先してやらないといけない」と、一人ひとりが行動を起こす大切さを訴え、実践し続ける85歳。地球温暖化、悪質商法、子供たちの問題など、取り組むべきテーマはまだ多く残っている。
(2008年1月18日)TOP PAGE 「人」リスト~2011年 「人」リスト~2010年  「人」リスト~2009年 「人」リスト~2008年