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《119 最終回》
連載を終えるに当たり

 平成16年度から「折り折りのくらし いまにつながる風俗伝承」のタイトルで始まった連載も、今回で最後となる。執筆の機会を与えてくださった市川よみうり、萩原法子さんをはじめ、これまで、「いつも読んでいます」などと、お声をかけてくださった読者の皆さんに、お礼申し上げます。

 平成18年度からは、「折り折りのくらし いちかわ文芸歳時記」とタイトルを変え、23年度からはさらに、「いちかわ文芸歳時記 文化の息づくまちへ」とさせていただいた。これは、より市川の文芸的な記事をお届けしつつ、市川が「文化の息づくまちであってほしい」との思いからである。

 しかし、この年の3月、未曾有の東日本大震災が発生し、「語り継がれる『大正六年の大津波』」(4月)、震災と絡めての「荷風忌」(5月)、福島県いわき出身の川柳作家・吉田機司さん(7月)、岩手県久慈市と水木洋子さんの関わり(9月)などを扱った。10月以降は、井上ひさしさんと震災・東北・市川などの関わりを続けて取り上げた。

 これらの記事を書くなかで、震災などの状況下にあっても、衣食住だけが足りていればいいというわけではなく、改めて「文化」的なものが、力を持っているということも感じられた。

 そんななか、6月の「白秋の詠んだ小川と蛍―ガーデニングシティによせて」では、文学に描かれた市川の自然をひもとくことは、市川で進めている「ガーデニング・シティ」構想へのアプローチ方法であるだろうと触れた。この事業も、里見公園や大町自然公園などが充実していればいいというのではなく、自宅の庭先やまちなかの空間が、市民の力によって彩られていくこと、それがまちの魅力につながるという理念であり、この連載に込めた「文化の息づくまち」とも通じるものであると思っている。

 永井荷風、水木洋子、井上ひさしといった著名人が住んでいたから、市川が「文化都市」なのではないだろう。そうした文化人が住んでいたことを市民が自覚しつつ、市民が新たにまちの魅力を感じ、その想いが蓄積・表出されていくことが、重要なのではないだろうか。

 永井荷風といえば、『断腸亭日乗』『日和下駄』などが思い浮かぶが、荷風の眼差しは、市井の何気ない暮らしや、見落とされがちな街の風景などにあった。「まち歩きの達人」荷風の作品でたどる市川は、なんと魅惑的だろう。

 水木洋子も、庶民の暮らしを、庶民らしいセリフによって描くところが、作品の魅力になっている。八幡に遺された水木邸も、昭和の屋敷町の風情を体感できる貴重な建物である。

 井上ひさし作品も、何気ない日常を送る庶民が、戦争や国家といった大きな力と、どう抗っていくのかを描くところに本領があり、それは、庶民の手記などを含む膨大な資料調査を経て、誰にでも分かる「ことば」と「笑い」と「音楽」に変換されていく鮮やかさに満ちている。樋口一葉や小林多喜二など、著名人の評伝劇であっても、その描き方には共通するものがある。

 宗左近さんも、「縄文」や「夜の虹」といった、普段は表に表れないものに光を当てることに、創作の威力を発揮した詩人だった。『あなたにあいたくて生まれてきた詩』(平成12年)は、著名な詩人も、小学生などの投稿詩も、並列に紹介されている。

 演芸評論家としてユーモア精神にあふれた小島貞二さんも、「千葉笑い」という庶民文芸の再生に力を注いだ。

 写真家の北井一夫さん、星野道夫さんらの作品も、人や動物や自然への深い愛情が込められているからこそ、心を捉えるのであろう。

 今、市川市では、市民による多彩な文化活動はもとより、「文学ミュージアム」の準備、市史編さん事業、文化振興財団による様々な事業などが展開している。これらが、ともに響き合うまちであることを願って、井上ひさしさんが、平成18年に、市川市文化振興財団理事長再任のときのメッセージを、最後に紹介して、筆を擱きたい。

 〈市川には文化の原石がたくさんある。磨くのは市民であり、市民一人ひとりが市川の文化をどう考えているのか文化的な市民意識の覚醒に向けて、市民と一緒に考えて行きたい〉。

 (2013年3月9日号)TOP PAGE「市川文芸歳時記~文化の息づくまちへ」リスト

《118》
連載を振り返って

 本連載も、平成16年に始まり、3月をもって9年、119回を迎えようとしている。当初は、「折り折りのくらし いまにつながる風俗伝承」と題して、市川に伝承されてきた民俗風習を中心に紹介する企画として始まった。1年目は月2回の掲載であった。

 メーンの執筆は、市川市北国分在住の民俗研究家・萩原法子さん。萩原さんは、各地の民俗調査研究に携わっており、私が交替で受け持てれば引き受けられる、ということで、お声をかけていただいた。萩原さんとは、私が不登校だった中学生時代に、市川博物館友の会の集まりに顔を出したころから面倒を見ていただいた、第二の母のような方である。ありがたくお引き受けさせていただいた。

 4月は、萩原さんによる「卯月八日の花祭」、根岸による「子育ての神様となった手児奈」、5月は、萩原さんの「端午の節供と五月のまつり」、根岸の「じゅえむ話と田んぼ仕事」で始まった。特に萩原さんは、市川のみならず、日本全国はもとより、広くアジアの民俗にも造詣が深く、また、民俗写真も多く撮られている方であり、全国的な視点に立って、「『七夕』は盆のはじまり」(7月)、「収穫を感謝するお月見」(9月)などの記事を、貴重な写真とともに書かれた。

 私自身は、大学で民俗学と日本文学を専攻し、一般に「民話」と呼ばれる「口承文芸」が主たる関心であったため、掲載月に合わせながら、「民話」に比重を置いた内容を取り上げることが多かった。7月には「子どもの遊びとわらべ唄」、11月には「お会式と泣き銀杏」、12月には「風呂にまつわるじゅえむ話」のように、季節感に合わせて素材を選び解析するのも、楽しい作業であった。

 2年目の平成17年から、萩原さんが多忙のため、根岸一人の執筆となり、連載も月1回となった。

 この年の連載で忘れられないのは、7月の「七夕とあじさい」で、市川市新田辺りで、七夕にあじさいを逆さに吊るすという風習が伝わっていたことを紹介した。残念ながら、同様の事例を知っているという情報をお寄せいただく反応はなかったが、もし、ご存知の方がいらしたら、情報をお寄せいただきたい。

 同年は、仕事上で、市川市生涯学習センター3階に開館した「市川市文学プラザ」に関わるようになった。そのため、市川の文芸に関する内容も取り上げるようになった。第33回の「戌年正月物語」(1月)は、戌年に因んで、市川ゆかりの犬にまつわる「南総里見八犬伝」や井上ひさし、水木洋子、中野孝次さんらの文学作品を紹介したりもした。

 3年目の平成18年からは、「折り折りのくらし」の主タイトルはそのままに、サブタイトルを「いちかわ文芸歳時記」と変更させていただいた。これにより、一層、市川の文芸的な内容を取り上げることとなった。タイトルを変えた最初の4月は「幸田露伴と文の見た桜」。11月は「一茶も一葉も見た弘法寺の紅葉」など、思わぬ切り口から、市川らしい文芸歳時記的な内容を紹介することができたと感じている。

 よく登場願った作家は、永井荷風、幸田露伴、水木洋子、井上ひさしさんら。

 「映画『濹東綺譚』と水木洋子」(第62回)、「戦後詩を切り拓いた市川の詩人―福田律郎と鳴海英吉」(第78回)、「坂東妻三郎と早川雪洲~市川に住んだ往年の映画スター」(第87回)など、これまであまり知られていなかった市川の文芸についても、取り上げることができたと思う。

 同時に、「市川で荷風忌を!~文化人の呼びかけで」(第73回)、「曽谷の『百合姫』伝承―回遊展から市史編さんへ」(第79回)、「水木洋子『オペラちゃんちき』が市川で初上演!」(第90回)、「白幡天神社の幸田露伴と永井荷風の文学碑」(第93回)など、市民が中心となって展開する文化活動についても、目を配るように心がけた。

 これは、私自身、市川の生活文化は、著名な作家らがいることによって創られているわけでなく、市民らによって担われていると考えているからにほかならない。

次回、その辺りについて、さらに触れることとしたい。

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《117》
ヘビにまつわるスポット~辻切り・千本公孫樹・妙正池

 民話や民俗の中では、ヘビはよく登場するキャラクターである。

 市川でもっとも知られたヘビとしては、国府台の「辻切り」が思い浮かぶ。

 毎年1月17日、国府台の鎮守である天満宮境内で、地元の保存会の人たちによって、4体のヘビが作られる。ヘビは、わらを編んだ2㍍あまりの大きさで、村境に当たる東西南北の4ヶ所の大木に、外を向くような形で括りつけられる。そして、1年間、国府台に悪い災厄が入らないように、にらみを利かせ守ってくれるのである。

 同様の作り物は、堀之内でも行なわれている。

 辻切りのヘビは、しめ縄と同じように、結界を作ることで、悪霊や災厄が入るのを防ぐ役割を果たしている。さらに、ヘビそのものに、霊力があると見なされて伝承されてきたものだろう。市の指定文化財にもなっており、一番のパワースポットといえる。
村の境の大木にくくりつけられにらみを利かせる「辻切り」のヘビ

 八幡の葛飾八幡宮境内にそびえる「千本公孫樹」(国天然記念物)もまた、ヘビにまつわる伝承が伝わっている。

 江戸時代に書かれた『江戸名所図会』という地誌には、

 〈この樹のうつろの中に小蛇棲めり。毎年八月十五日の祭礼の時、音楽を奏す。その時数万の小蛇、枝上に現れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす〉

 とある。公孫樹に白蛇が棲んでいるという話は、戦後になっても聞かれる。

 これは、木のウロに実際にヘビが棲息する生態や、公孫樹の絡まった幹の姿がヘビを連想させることなどによるのだろうが、ヘビ自身が、一種の神聖視される生物であるともいえる。

 昨12月7~9日には「煌kirameki2012」と銘打って、千本公孫樹をライトアップし、参道に小学生の手作り灯篭が点火されたが、ライトアップに合わせて、社殿から公孫樹に向かって、八幡囃子が奉納された。ヘビが聴きつけて出現しないかと思わせる、幻想的な空間であった。将来は、ヘビが登場するような創作舞などが行なわれたら面白いと感じたりもした。
千本公孫樹のライトアップの様子
 また、北方町の妙正寺にまつわる伝承も、ヘビにちなむものである。

 日蓮が、新しい教えを布教し始めた鎌倉時代のこと。若宮の法華堂で、日蓮が百日の説法を行なったところ、どこから来るのか分からないが、一人の女性が通い続けた。満願の日、女性は、日蓮に曼荼羅と法号を求めた。

 女性に異様な霊気を感じた日蓮が、そばにあった花瓶の水をかけると、女性は、八巻の経文を手にすると、白ヘビの姿に変じて逃げていった。

 途中、7巻の経文を落としながら、今の北方町にある千足池まで来ると、8巻目の経文を、池のほとりの桜の枝に残し、その姿は、忽然と消えた。

 女性が、池の主の白ヘビの姥神だったと分かると、日蓮は、「妙正」という法号を与え、池のほとりに「妙正寺」を建立したと語り伝える。

 若宮から妙正寺まで続くヘビの逃げた道を「蛇小路」と呼び、途中に経文を落とした跡には、「七経塚」という塚も築かれたが、七経塚は、宅地開発のため、今は石碑のみが、妙正池に移築されている。

 ヘビは水にまつわる神聖な生物とされることも多く、この伝承の基盤には、そうした土着的な水神信仰があるものと考えられる。やがて、日蓮宗が広まっていったとき、こうした民間信仰が、日蓮宗に取り込まれ、このような伝承を生み出していったものだろう。

 このような民話もまた、前回紹介した『改訂新版・市川のむかし話』で、じっくり知ることができる。

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