市川浦安よみうり online

行徳街道 連続する急カーブの謎
江戸の物流、庶民の成田詣の道
~戦国の世に思いをはせて~


行徳街道(旧道)の図❹のカーブをゆっくりと曲がっていく路線バス

板橋幹男さん作成。❶❷は行徳バイパスの東西線側で、❶は江戸川放水路付近。❻は福栄小、南行徳中方面に斜めに抜ける曲がり角の先

 八幡方面から江戸川にかかる行徳橋を渡ると、道沿いに旧家の建物が現れてくる。周囲には寺や神社が点在し、その街の中心を抜けるのが、行徳街道の旧道だ。1972(昭和47)年に行徳バイパスが開通したため、対して旧道と呼ばれるが、直角に近い急カーブが断続的にあり、路線バスが苦労して曲がっていく。以前から不思議だったこのカーブの「謎」。最近になって、その答えを知ることができた。

 行徳街道は、本八幡駅北側の国道14号交差点と、浦安駅前交差点を起終点にする県道6号市川浦安線で、旧道とバイパス部分がある。

 1955(昭和30)年に旧道が県道に、その後、旧道と並行する市川IC手前から浦安までのバイパス区間が整備され、旧道との接続道路とともに、県道に認定された。

 ■庶民の成田詣

 旧道と行徳バイパスの間には、徳川家康が鷹狩りに向かうために使ったという権現道(寺町通り―関ケ島間約1㌔)があり、歴史の重みを感じる。

 室町時代から塩づくりが盛んだった行徳の地は、江戸時代には幕府直轄領になり、塩田が広がった。

 水運に適した地の利もあって、塩をはじめとする物流拠点としても栄え、人が集まり、寺、神社ができ、「行徳千軒、寺百軒」と呼ばれるほどに繁栄した。

 庶民の娯楽として成田詣が人気になると、日本橋から行徳の常夜燈(灯)まで、定期船の行徳船で来て陸路、徳願寺山門前の寺町通りを抜けて、成田街道の起点である海神方面、もう一方は、行徳街道経由で八幡宿に出て、銚子、鹿島に向かう木下街道にもつながっていた。

 その頃にはすでに、行徳街道、また、成田街道に抜ける道は整備されていたことになる。

 ■何のために…

 行徳街道には、行徳ふれあい伝承館から源心寺の先にかけて、急カーブが3カ所(❹❺❻)ある。

 行徳街道から外れるが、徳願寺山門前を通る寺町通りの角(❸)から、妙典にかけても2カ所(❶❷)の曲がり角がある。

 しかしながら、物流や成田詣のために、急カーブをつくる必要はないだろう。

 では、何のためにできたのか―。

 現代では車の交通量も多く、住民が道を横断したり、狭い歩道を通行したりする際に危険がないよう、急カーブを設けてスピードを落とさせる工夫も必要だ…などと、漠然と考えていたこともあった。だが、江戸時代にはすでに、この形だったというから、それも当てはまらない。

 教えてくれたのは、行徳地域の郷土史研究家、狩野一廣さん(78)。行徳郷土文化懇話会(峰崎進会長)の勉強会をきっかけに、南行徳のご自宅を何度か訪ねた。

 狩野さんは、1620年に、田中内匠とともに、現在の鎌ケ谷市から大柏川、八幡、行徳、南行徳、浦安へと灌漑用水路(内匠堀・浄天堀)を完成させた狩野浄天の末裔だ。

 ■江戸の開幕前

 狩野さんによれば、行徳街道の工事が始まったのは、1590年8月1日、徳川家康の江戸城入城直後のことだという。

 家康の政治顧問になった増上寺(港区)の住職、観智国師は、落武者になって上総国を流浪していた狩野主膳を呼び寄せ、土木技術の武士団を結成、江戸城に塩を運ぶ河川とともに、街道整備に着手した。

 大切なのは、この当時の時代背景だ。

 まだ、1600年の関ケ原の戦い、1603年の江戸幕府の開幕前で、安房国を拠点とする里見氏が、全盛期に比べれば衰えたとはいえ、一定の勢力を保っていた。 このため、里見氏の来襲を想定し、大多喜城に徳川四天王の一人と言われた本多忠勝を送り込み、10万石を与えた。

 同時に、戦国時代の都市計画の手法として、敵がまっすぐ侵入できないように、江戸の防衛のために、「カギの手」の構造を設けた道路を整備したのが、行徳街道だったという。 里見氏は、関ケ原の戦いの際に家康に命じられて宇都宮に在陣し、上杉勢を牽制した戦功で、関東最大の外様大名になった。

 里見氏が家康の信任を得たこともあり、狩野さんによれば、防衛としてのカギの手は、「完成からわずか数年で、その役割を終えた」というから、戦乱の歴史の一ページに過ぎなかったのだろうか。

 ちなみに、この話を聞いて以来、行徳街道を走る時には、戦国の世に思いをはせ、ひそかに楽しんでいる。

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