折り折りのくらし 87

 阪東妻三郎と早川雪洲~ 市川に住んだ往年の映画スター

市川民話の会会員 根岸 英之

市川市文学プラザ企画展「脚本家 水木洋子と日本映画の黄金時代」(20日まで)で紹介されている阪東妻三郎と早川雪洲の展示の様子
 市川は、東京に近い風光明媚(ふうこうめいび)な土地柄からか、活動写真と呼ばれていた時代から、「種とり」(ロケ)の場所となっていた。大正5(1916)年5月に、真間(まま)の亀井院(かめいいん)に仮寓(かぐう)した北原白秋(はくしゅう)は、同年の随筆「葛飾小品」にこう書き残している。

〈原っぱへ時たますると、活動写真の赤鬼や青鬼どもが、昼の日中にひょっこり出て来て、あくびなぞしながら、真間の小川の一本橋に寝ころんだり、虱(しらみ)取ったりしていたものだ〉

 大正時代から昭和初期には、亀井院の北側に朝日キネマの撮影所もあった。

 戦前の映画スター阪東妻三郎(ばんどう・つまさぶろう)による阪東プロ第1回作「異人娘と武士」(1925=大正14=年)は、国府台でロケが行われたとされる。

 その阪東が、京都から東京に活動の場を求めていたのをバックアップしたのが、京成電鉄社長の本多貞次郎(ほんだ・ていじろう)だった。

 阪東は本多の支援で、市川市菅野に住居を定め、津田沼町(当時)の谷津海岸に阪東妻三郎プロダクション関東撮影所を設立したのである。

 関東撮影所第2作「風雲長門城」(1931=昭和6=年)をはじめ、いくつかの撮影に市川が使われ、真間の桜土手や須和田の府中橋などがロケ地になったという。

 国府台の坂下にあったそば屋「平の家(や)」は、大都映画と契約を結び、ロケの際には2階を提供し、阪東も利用したことがあった。

 平成18年、真間に住んでいた方から、「風とともに去りぬ」などの翻訳家として知られる大久保康雄(おおくぼやすお)氏の家が、以前は阪東の別邸で、庭で立ち回りしていたのを見たことがあるとの電話をいただいたことがある。

 匿名(とくめい)の電話だったのが、今となっては悔やまれるが、この証言によれば、阪東の住まいは、国府台女子学院南側の菅野3丁目の一角だったということになる。昭和3年の「市川町鳥瞰(ちょうかん)」という地図では、この辺りは桃林だが、京成真間駅北側の本多邸のそばでもあり、信憑(しんぴょう)性は高いと思われる。

 阪東は昭和10年に京都へ戻っていくので、数年の市川暮らしではあったが、市川の文芸史を見る上で、大きな出来事である。もし、ご存知の読者がいたら、ぜひとも情報をお寄せいただきたい。

外環道路用地となった早川雪洲旧宅跡
 戦後になると、戦前のハリウッドで活躍した映画俳優の早川雪洲(はやかわせっしゅう)が、市川市須和田に暮らした時期があった。

 雪洲については、『産経新聞』論説委員で、市川市香取にお住まいの鳥海美朗氏から、雪洲の妻で女優の青木鶴子(つるこ)のインタビュー記事「ある国際女優の半生」(『婦人倶楽部』1960年7月号)のご教示を得た。そこには、

〈雪洲の帰国を迎えて、私たちは市川に新しい家を借りました。そこは、駅から三十分ほどのところでしたが、バスがなく、私たちはどこへでかけるのにも自転車を使わなければなりませんでした〉

とあった。その後、須和田の生き字引きともいえる田中隆三氏に尋ねたところ、

「雪洲さんは、須和田の東光寺の北東に、戦後の混乱期に10年ほど住んでいた。そこは、ある事業家が戦前に建てた別邸で、門も塀も木製で、広い庭のある平屋造りの、とても立派で目立つ家だった。その後、別の人が住んでいたが、外環道路工事のために数ヶ月前に取り壊されてしまった」

とのことだった。こんなところにも、外環工事の影響があるのかと惜しまれた。

 田中さんは、今のうちにできるだけ市川の歴史を記録してほしいという。6月13日には、市川公民館で、田中さんによる「市川で農業と環境を守って八十年」の話を聞く会が開催される。

 現在、市川市史編さん事業や文学館構想などが進められているが、昨今の事業仕分けで先行きが怪しい。地域の歴史や記録は、一度消滅したら二度と取り戻せないことを、肝に銘じたい。

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