折り折りのくらし
「虎のいる風景ー千人針を語り継ぐ」
市川民話の会会員 根岸 英之
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京成国府台駅近くで千人針を女学生に頼む婦人(小島染雄氏撮影・小島愛一郎氏提供)=水野幸子『あの日あの時私達は』(2006年)より |
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市立歴史博物館所蔵の千人針(同館提供) |
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小島染雄氏の千人針(小島愛一郎氏提供) |
二〇一〇(平成二十二)年は、太平洋戦争終戦から、六十五年目を迎える。ひと世代が概ね三十年とすると、すでに三世代目に突入しているわけで、「千人針」といって、どれくらいの世代までが、思い浮かべることができるだろうか。
「千人針」は、戦時中、出征する兵隊の無事を祈って、白い晒(さら)しの布を腰に巻ける長さにし、そこに、赤い糸結びを千個縫い付けたものである。赤い糸は、女性が一人ひと針を縫いつけていくため、出征することが分かると、身内の者が、知り合いや街頭に呼びかけて、千人の人に縫ってもらった。
出来上がった千人針は、兵士が肌身離さず身に付け、それにより、無事に帰れるという願いを託したのである。万葉集などにも見られる「玉の緒」信仰にも通底する俗信で、その図柄として虎が選ばれた。また、寅年の女性は、自分の年齢の数だけ縫うことができた。
市川市国府台にお住まいだった市川民話の会の水野幸子さんは、戦争体験を記録し、次代に伝えていこうと、市川市周辺に住む昭和一桁生まれの人に呼びかけ、『あの日あの時私達は』という記録集を、二〇〇六(平成十八)年に刊行された。そこにも、千人針について、何人かの体験が記録されている。
〈大東亜戦争が勃発した時私は女学生でした。(中略)国防婦人会と書いた襷(たすき)をかけた女性達が、町に出て「千人針をお願いします」と道行く人々に呼びかけていました。「寅(とら)は千里行って千里帰る」と言われ寅年の人は、年の数だけ刺します。また死線(四銭)を越すとかで五銭玉を縫い付けていました。
相田敏江(当時新宿区)〉
〈三年の時に大東亜戦争が勃発しました。(中略)女学校では殆(ほとん)ど勉強する日はなく、勤労奉仕に出かけました。千人針はずい分やりました。私の学年は寅年と卯年でしたので寅年の人は沢山刺さなくてはならないので大変でした。晒に武運長久と書き赤の糸でこぶを作って刺します。この布を持って出征し、身につけて戦場で戦ったのです。
松永昭子(当時渋谷区)〉
〈私は市川市の菅野に在る寺、不動院で生れました。大東亜戦争勃発の時は五年生でした。(中略)昭和十八年に女学校(昭和学院)に入学しました。(中略)学校では千人針をさしたり慰問文や慰問袋を戦地に送りました。
小林智恵子(当時市川市)〉
この本にはまた、市川の写真をよく撮られていた小島染雄氏が撮影された、京成国府台駅近くの街頭で、千人針を頼んでいる女性の写真も掲載されている。ご子息の愛一郎氏によれば、昭和十八年か十九年ころの写真だろうとのこと。
愛一郎氏からは、「父が身に付けて行った千人針が残っており、市川市文化会館で開かれた市川市写真家協会の写真展でも、展示したことがありますよ」との思いがけぬ話をうかがい、展示写真まで提供していただいた。赤糸で虎が描かれ、五銭玉が縫い付けてあるのが分かる。
市立市川歴史博物館にも虎の図柄の千人針が所蔵されており、その左脇には、
「身体健全
清正公大奥義守護
武運長久
(氏名)
二十二才」
と墨書されている。清正公というのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、虎退治をしたとの逸話を持つ加藤清正のこと。二十二歳の若者は、どのような思いで戦地に赴いたのであろうか。
ちなみに『あの日あの時私達は』には、次のような記録も紹介されている。
〈昭和二十年(中略)私は市川市立中学校に入学した。一年の担任は虎渓(とらたに)先生で、お坊様だったので、昼食の時はいつも〽箸とらばーのお経を合唱させられた。
佐藤錦一(当時市川市)〉
こちらの虎は、また趣きを異にする。
市民ひとりひとりの体験もまた、次代に伝えていくべき、市川の貴重な文化資産といえよう。
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